第25話
「ねえ、すごいよ、蛇口を捻ったらミネラルウォーターが出たよ」と、田口のいつもより少し高い声で目が覚めた。「ああ、山の麓だからね、ここの水はおいしいわよね」そう言うと私は頭を軽く振り携帯を見た。九時半だった。
「伊藤?」と、田口が訊くので
「気になる?」と言うと「別に」と答える。
私たちは顔を洗い歯を磨くと、新しい下着に着替え、昨日着てきた上着を羽織った。田口は居間と寝室、私が台所とトイレの掃除を済ませると「お茶をにしよう」と声を掛けた。
お茶請けの梅干しを食べ「うわ、しょっぱいな、これ」と言ってお茶をすする田口を見て「それ、私の父親が漬けたやつよ、神初家の梅干しは目が覚めるくらいしょっぱいの」と言った。
「神初? ああ、だからパチさん?」
「あら、言わなかったかしら」
「初めて聞いたよ。寧ろ名前を名乗らない主義なのかと思ってた」
「ふうん、どんな主義よ、それ。ところで、お腹は空いてる?」そう訊くと「うん、すごく」と言うので、私は田口に急須と湯飲みを洗う様にお願いし、その間にタクシー会社に電話をした。十一時に来てくれるというので、田口と二人でおばちゃんに手紙を書いた。黒いリュックサックから小包を出し、手紙と一緒にテーブルに置くと「ムーミンママ……」と、田口は呟いた。暫くするとクラクションが鳴ったので、私たちは靴を履いた。私は植木鉢の下から鍵を取り出すと玄関に鍵を掛け、元の位置に戻す。「田舎の人は鍵を掛けないんじゃなかったの?」と言うので、説明する事を少し面倒に感じた私は「こうする決まりなのよ」と適当に言った。
タクシーに乗り込み「美也樹までお願いします」と言うと「来るときに見たけど美也川の方が空いてたよ」と言われたので、そうするべきか悩んでいると「美也樹でお願いします」と田口が言った。私が不思議そうな顔をしていると「だって美也樹が食べたいんでしょ? 妥協しない方がいいよ、こういうのは」と言った。
タクシーを降りると店前には五人ほどの行列ができていた。
「さっきは有難う。美也川はね、ここの姉妹店で、こことはちがってコロッケがあるの。私の母はコロッケが好きで、いつもそっちに行くんだけどね。私はこっちのお店の方が、つゆがちょっとだけ美味しい気がするのよね」そう列の最後に並びながら説明した。
「それで何のメニューがおすすめなの? 君に従って同じやつを食べるよ」
「カレーうどんと肉うどんを食べるの」
「二杯も?」
「あら、ここのうどんは他のお店より安くて小さいの。お腹が空いてるなら、ちょっと無理をすれば食べきれるわよ」そう言うと田口が疑っている様子だったので「これも本当」と付け足した。
テーブル席に通されると、田口は目の前に並んだ調味料を確認しながら「この赤いのは何?」と訊いた。
「ああ、すりだね」
「すりだね?」
「唐辛子を油や醤油なんかで練ったり炒ったりするの。一味を使ったり、七味を使ったり……、胡麻油を使ったり、普通の油を使ったり……、あとは黒胡麻をいれたりするところもあるわね。店や家によって作り方が違うから、何が正解とも言えないけど」そう早口で説明すると狭いテーブルの上に四杯のうどんが並び「同時にくるのか…」と田口は呟いた。
「肉うどんから食べた方が良いわよ、味が分からなくなるから」と声を掛け、私は先につゆを啜った。昆布と煮干し、鰹でじっくり取られたであろう出汁に、醤油と味噌が溶かれたつゆ。上には甘辛く似た馬肉と軽く茹でられたきゃべつ、気持ち程度の葱が乗っている。固めの太いうどん(吉田うどんにしては、細くてやわらかい方ではあるが)を噛み締めると、麺に絡み付いて来たきゃべつが、じゃきりと音をたてた。私が「おいしい」と言うと「君が何かを食べておいしいというのを初めて聞いた」と言うので「そりゃあ、自分が作ったものを自分で美味しいなんて言わないでしょうよ」と返すと、二人とも喋るのを止め、もくもくと食べることに集中した。
「腹いっぱいでもう動けないな」つゆも全部飲み切った田口はそう言うと「ここにしてよかったよ、すごくおいしかった」と満足そうにするので「他を食べてないのに?」と笑うと「それくらい満足したってことだよ」と呆れた顔をした。
店前の灰皿の前で煙草を吸い、駅に向かって歩く。近くにある遊園地から聞こえる、ジェットコースターの音と悲鳴をよそに、交互に「くるしい」と口にしながら「すりだね良かったな、あれ売ってないの?」と訊くので「私がつくったやつが、マンションの冷蔵庫にあるわよ」と言うと「何で今まで出してくれなかったの?」というので「あのねえ、吐く息が明らかに胃をやられてる匂いの人に、そんなもの出せないわよ」と、今度は私が呆れて言った。
駅に着くと「これ、遊園地の入り口じゃないの?」と田口が言うので「まあカラフルよね、でもこれが駅で間違ってないわよ」と言い、事時刻表を探した。「残念、さっき出ちゃったばかりね。三十分程待つけど……、寒いしタクシーでも呼ぶ?」と訊くと「確かに寒いけど、平気だよ。北海道よりマシだと思う事にする」と言い「あなたって結構根に持つのね」というと「冗談だよ」と、ひと昔前のコメディアンのようなジェスチャーをした。
「結構タクシーに乗ったけど」というので「ああ、全部経費だから問題ないわよ」と答える。「ところでさ」ベンチに腰を下ろした田口が手招きをするので、私はその前に立つ。
「君はさ、俺より伊藤の方が好いって言ったけど……」
「それはちょっと語弊があるわね」
「ふむ。じゃあさ、親密さで言ったら、どう?」
「それはまた難しい質問ね」そう言ったけれど、心当たりはあった。田口の状態は決して気楽ではなかったが、自分の口調からしても、田口と喋る方が気楽だった。結局私は変わり者で、伊藤さんとは違う種類のそれなのだ。そして田口もその事を知っている。そうなれば、私はその質問に答える必要がない。その事に思い至ると、田口もそれに気付いた様で、
「ねえ、一緒に伊藤を驚かせるの、手伝ってくれない?」そう言うと、いたずらっ子のような顔をした。
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