第26話
大月駅で富士急行線を降ると「かいじ」に乗り、三鷹駅で中央線に乗り換え、マンションに着いたのは十五時過ぎだった。田口はアラジンのストーブに「ただいま」と声を掛け、私が洗濯機のスイッチを入れて戻ってくる頃には、もうそれに火をつけていた。
私は帰りの電車で田口に言われた通り、伊藤さんには「今日の田口さんは調子が悪い」と嘘を吐き、当の田口はギターを抱えて曲作りをはじめた。
「ねえ、伊藤さんはともかく、その、仕事仲間? バンドメンバーには言っておいた方が良いんじゃない? みんな心配してると思うけど」
「うんでも迷惑かけちゃった分、こっちで返さないと。それにあいつら十二月末まで忙しいんでしょ?」
「……、結構ちゃんとメールを読んだんじゃない。
それより、ねえ、私、自分の家に帰った方がいいかしら?」
「どうして?」
「だって、そういうのを作る時って、人が居るの、邪魔じゃないの? 気配とか」
「もう俺がここから逃げないって安心してるの?」
「確かに……。悪いけど、あなたが帰れと言ったって、私はもうしばらくここに泊まるわよ」そう言って溜息を吐くと、田口は満足そうに頷いた。
それから私たちは決まった時間に起き、田口は曲作りを、私はジェッソを塗り直したB全のキャンバスに絵を描き、朝と昼を一緒にしたご飯を作って食べ、一緒に買い物と散歩をし、またそれぞれ作業をすると夕飯を作って食べ、短い会話を重ね、決まった時間に眠った。
そんな風にして、相変わらず伊藤さんには嘘の報告を続けていた五日目の今日、佐々木さんから電話が来た。
「ねえ、パチさん今日って夜、ちょっと出てこれます?」私は田口の方をちらっと見ると、少し悩んだ後で「出れると思う」と言った。「そうしたら私、九時くらいに高円寺に行くんで、軽く呑みましょう」と言った。二十一時に高架下のバーを予約すると、店の名前をメールで送る。
田口が何かを諦めた様にギターを置くのを待ってから、今夜友達が来るので出かけることを説明すると、田口は思いついたように「俺も行っていい?」と訊いた。私は思わず驚いて「本気?」と聞き返すと「だって俺、もう二か月近く君と以外喋ってないからね、リハビリしないと」と言った。私は二人の関係を伏せて、佐々木さん経由で平田さんを紹介してもらった事を説明すると「ああ、あの人経由だったのか」と、何かを考える風にして呟いた。「君たちが嫌じゃなかったら付いて行きたいな、その佐々木さん? 俺も会ってみたい」
「どうしてまた」
「だって君と親しい女の子なんて、それはもう面白そうだもの」と言うので、私はため息交じりに「わかった」と言い、佐々木さんに田口も行っていいかと電話をすると、佐々木さんはそうなる事を知っていたように「まったく問題ないですよ」と言った。
二十一時少し前に、私と田口はマンションから歩いて三分程のバーに向かい、予約席に通されるとメニューを眺めた。私は先に灰皿を貰い、煙草に火を付けながら、田口に「決まった?」と訊くと、丁度そのタイミングで、踝丈のノーカラーコートにボリュームのあるヘンリボーンのマフラーをした佐々木さんが店の戸を開けたので、私は彼女に向かって手を振った。
彼女は、私と田口の前の席に座り「隣り合って座ってるから、付き合い立てのカップルかと思った」というので「そういえばあなた、電車のボックス席でも隣に座ってたわね」と言うと「女の子と二人でいるときはそうするのがマナーかと思ってた」と返され「ああ、この人駄目ですね、乙女の敵ですよ」とそれを聞いていた佐々木さんが呆れた顔をしていった。私が、佐々木さんにしては初対面の人に珍しいなと思っていると「デートが随分彼の所為で延期になったので、その分の意地悪です」と小声で私に耳打ちをした。佐々木さんの耳には、大きな金色のスクエア型のピアスが刺さっており、爪は鉄御納戸色に綺麗に塗られていた。
「もう頼んじゃいました?」
「ううん、今から頼むところ」
「何呑むんですか?」
「私はブランデーかな」
「じゃあ俺も同じので」
「じゃあ私はゴットファーザー」そう言うと佐々木さんは店員を呼び、自分の注文を終えると、私は「カミュのXO、ストレートで、チェイサーもつけてください」と言うと、田口は「俺も同じのを」と言い、私は「あと、生チョコも下さい。ウイスキー生チョコ」と付け足した。
「なんか、ブランデーのメニューってこれだけしかないのね」と残念そうに言うと
「今そう言うの、流行ってないんですよ。重めでちょっと値が張るものって。ワインもね、フルボディなんて飲まないらしいですよ、最近は」と佐々木さんが言った。
「そうなんだ。だからなのね。酒屋に行っても、ブランデーなんて、端っこの端に追いやられて二、三種類しか置いてないの」そう言うと、私は前回フルボディのワインを頼んでいた佐々木さんを思い出し、
「佐々木さんは普段は何呑むの?」と訊いた。
「私はあれですよ、重くて濃いやつが好きなんですけど、クラフトジンとかクラフトビールとか、頭にクラフトが付くやつばっかり飲んでますよ、場の空気を読んで」と言ったので、それを聞いていた田口が堪え切れずに噴き出し「今言うのもなんだけど、初めまして」と言った。
私と田口がブランデーを二杯ずつ、佐々木さんがゴッドファーザーの後に注文したジントニックを飲み終わる頃、佐々木さんが「そういえば」と切り出した。
「ねえ、知ってます、苗字に田のつく人は、陸でもない男が多いらしいですよ」
「なあにそれ」
「昔、むかあし、櫻田って男と付き合ってた時、その櫻田に言われたんですよ」と、 佐々木さんは空になったグラスを眺めながら言った。私は身近に田の付く人を思い浮かべ「なるほど」と唸る。
「気づくとね、私、付き合った人の五割に田が入ってて、セフレの九割に田が入ってたんですよ。信じられます?」と、佐々木さんが管を巻くように言うと「この世の中に、田のつく苗字なんてどれだけいると思ってるんですか、そんなの確立の問題ですよ」と田口が言うので私たちは可笑しくなって大笑いした。
「あなたが言ってもねえ」
「そうだとしても、世の中の田のつく苗字の人に謝った方がいい」と、田口は首を振った。
店が混み始めたので、私たちはマンションに移動して飲み直すことにし店を出た。私はダントンの紺色のコートを羽織り、田口はあれから気に入ったというカリマーのプルオーバーを被っている。すれ違う人はみな私たちに目もくれないので「あんなにニュースになってたのに、こうも気づかれないもんなんですね」と佐々木さんが言い「あんなに?」と、私と田口の声がかぶった。「あ、そうか、パチさんテレビ見ないんでしたね。凄かったですよ、一時期なんて。最近やっと下火になってきましたけどね……。あ、勿論私も平さんも誰にも言ってないから安心して下さい」それを聞くと田口が私の方を見ている気がしたので、私は目線を前に向けたまま「私は佐々木さんと平田さんと伊藤さん以外にはいってないわよ。会ってもないわよ」と言った後で「本当に」と付け足した。
私の部屋を見た佐々木さんは「パチさんっぽい」と言い、すっかり自分の役目だという様にストーブに火をつけている田口を見て「でも田口さん、倒れていたのがここでよかったですね」と言った。「ほんとに、俺もそう思います。勿論あなたにも、たいらさんにも、改めてお礼を言わないと」そう言うと「ただ、もう少しだけ時間を貰ってもいいですか?」そう付け加えた。佐々木さんが「みなまで言わなくても良いですよ、なんとなく分るので」と言うので
「佐々木さんは占い師なのよ」と私が茶々を入れると「違いますよ、デザイナーです、私たち、仕事で知り合ったんですよ」と、佐々木さんが訂正した。
「え、学生時代からの先輩、後輩とかじゃないの?」と驚くので、私と佐々木さんは顔を見合わせて笑ったあと
「私たち、二年くらい前に仕事で知り合ったんだけど、こうやって呑んだりするのは今日で二回目なの」
「一度目は田口さんの事で相談を受けた時ですよ」
それを聞くと田口は「女の人たちって不思議がいっぱいだな」と言い、まるで分からないという顔をした。
私が物置から「多分これフルボディだったと思うんだけど」と言って赤ワインとグラスを三つ持ってくると「これ、オーパスじゃないですか、駄目ですよこんな高級なの」と佐々木さんが言い「平田さんを紹介してくれたのと、魔法をかけてくれたお礼だから気にしないで。どうせ私ブランデーばっかりで、物置の肥やしになってたから」と言うより先にコルクを抜いた。
「流石、売れっこ画家ですね」と佐々木さんが言い「え、君ってそういうのだったの? てっきり細々やってる人かと思った」と田口が言い「何言ってるんですか、有名ブランドとのコラボとかもやってるんですよ、田口さんだって街中なりなんなりで、パチさんの絵、見てますよ、絶対」そう佐々木さんが息巻くと、私の絵の中で最も有名なものを携帯の画面に表示させた。「知ってる、これ見た事ある」と言い、田口は携帯と私の顔を交互に見比べ、信じられないという顔をしていた。「なんでこんなところでこんな……」と、田口が言いかけた時「馬鹿ですか? 何気なく持ってきましたけど、このワイングラスだってリーデルですよ? 田口さんがさっき、雑に置いたグラスでさえ、イッタラのヴィンテージだし」と言うので、私は少し恥ずかしくなり「いい物を長く使うという事に憧れがあるだけなの、ミーハーなのよ。大概は友人から譲り受けたり、貧乏時代に、こつこつお金をためて買ったものだから愛着もあるしね。売れてから買った物の方が少ないかも……。それにほら、自分がずっと売れることなんて考えられないから、出来る限り慎ましく暮らしたい。というより、売れてない時代の方が長かったから、染みついちゃって変えられないのよ、生活の質や在り方をね。それにほら、中央線以外の、ちょっとした小洒落た街で打合せなんて入れられると緊張して眠れないの。そんなところに住めないわよ」そう言い訳すると、田口に冷蔵庫からチーズを持ってくるように言い、私は戸棚からローズマリーの練り込まれたクラッカーを出すとカッティングボードに広げる。
「そういえば私、佐々木さんに会ったら訊きたい事が沢山あったのに、駄目ね、全然思い出せない」と言うと「それより佐々木さん、今日私に何か話があったんじゃないの?」と訊くと
「それが私も忘れちゃったんですよね。大した事じゃなかったんです。と言うより、単純に会いたかっただけかも、パチさんに」と言った。
「そういえばさっき魔法だとか占い師だとか言ってたけど、あれ何なんですか?」
「ああ、そうそう、それ」そう言うと私は田口に簡単に佐々木さんとのやり取りを説明した後で「佐々木さん自分は見えないって言ってたけど、見えてるんじゃないの?」と訊いた。
「だから私は見えませんってば」と面倒臭そうに笑った後「ただね、私は昔友達がいなかったから、注意深く人を観察してたんですよ。小学校と中学校の九年間、あの退屈で膨大で、時間が今よりずっと違う長さをしてたあの頃に、ただただじっくり人を見てたんです。そうしたら、こう……、どう立ち振る舞えばどういう扱いをされるとか、それにはどういう技が必要だとか、其々の技はどういうタイプには有効で、どういうタイプには害になるのか。とか、そういう仕組みの様なものがちょっとずつ分ってきて。誰がどういう事を望んでいるだとか、それをどのタイミングでどういう風に差し出すかとか、そういうのがね、人よりちょっと早い段階で、ちょっとだけ多く分かるようになったっていうだけですよ。
でね、まずそこをクリアしたら、次はその中で本来の自分の居心地いいと思える部分と、他人にとってどうありたいっていう部分と、他人の欲望や願望のちょうどいい所を探すようになっちゃったんですよね。それを上手く擦り合わせるのには随分時間が掛かりましたけど。ほら、言うよりやるは難しいっていうやつです。頭では判ってても、行動がついてこない時や自分の感情に折り合いがつかないときが多かったって言うんですかね。分かって居ても、自分の欲望や願望の方が先行しちゃう時期ってあるじゃないですか。
あとは……、タイミングですかね。私が思うに、人って思っているよりずっと、タイミングに左右されるんですよ。同じ事を言っても場面が違うだけで、響いたり響かなかったりするでしょう? 都合の悪いときに連絡が来る人と、都合のいい時に連絡が来る人では、どっちも似たような程度の知人だったはずなのに、この人面倒臭いなってなっちゃったり、丁度いいなって思ったり、大分印象が変わっちゃうじゃないですか。一番辛い時に傍にいた人と、そうじゃなかった人ではその後の付き合い方も変わったり……、とかね。
そういうタイミングがね、上手い人っていうのがいるんですよ。それを自分のものに出来る人と、出来ない人、特定の誰かにだけ発動する人。そういうのがあって……、まあタイミングに関しては私は後者で特定の人にだけ有効。後はあまり上手く扱えてませんけどね」そこまで言うと佐々木さんはグラスに残っていたワインを口に含み、転がしてから飲み込むと「多分ですけど、パチさんも何らかの出来事……、人を良く見る様になるきっかけがあったんじゃないですかね。で、人によって態度を変える人っていますけど、パチさんはそういうのとは違って、一緒にいる人によって、ちょっとずつ自分を変えるようにしてると思うんですよ。他の人にはあまり分らない位の差で、ちょっと相手に自分を寄せてるような気がする」と言った。
「だから私はパチさんといると楽しいし、だからと言って、こっちに合わせてもらってる感じがしないから変な気を使わなくて済むし。田口さんも楽なんじゃないですか?」それを聞いた田口は「楽っていうと語弊があるけど、居心地はいいですね、たしかに」と言った。
「上手く言えないけれど……、私、それを意図的にしてるわけではないのよ。人ってそれぞれ似てる部分と似てない部分が少しずつ在って。その時関わる相手と自分の似てる部分を前面に出そうとした瞬間に勝手に引き摺られちゃうの。感情の起伏の激しい人といると、私の感情も激しくなるし、文句ばかり言う人といると、文句ばかり言うようになる。だから穏やかな人と付き合うと、びっくりする程穏やかで、喧嘩の一つも出来ないの」
「あれは? マウントばっかりとるような女の人は? どうしてるんですか? マウントとるパチさんなんて想像できない」と、可笑しそうに佐々木さんが言うので
「あ、それだけはね、どうも寄らなくて。自分の中にそういう発想がないからだと思うのだけど……。だから代わりに、自分の中の自分の滑稽な部分を全面に出してる。嫌な言い方だけど、ちょっと自分を落として接してる気がする。それは相手を卑下しているとかではなくて……、だって私より優位に立てれば良いんでしょう? そして自分の気分を良くしたい訳でしょう? それなら「私なんか、私なんて」って言って、相手を立てなくちゃ。って、そう思うのよ、満足して貰いたくて」
「そうするとどうなります?」
「目の敵にされる……」
「まあそうなりますよ」と、佐々木さんは当たり前の様に言い、
「確かに、それは……、俺にも駄目だって分るよ……」そう言って田口は同情の眼差しを私に向けた。それに対して私がブツブツ文句を言っていると「あ。私も思い出しました」と、佐々木さんが言った。
「なあに?」
「パチさんに言おうと思ってたこと」そう言うと、佐々木さんはクラッカーを、ぱりんと齧り「私、もう平さんとそういう関係やめようと思って」と言うので、私は慌てて田口の方を見た。
「田口さんはそういった事、言わない人だから大丈夫ですよ、仮に私の読みが外れて周りに知れ渡ったとしても私はもう『どうでも良い』んです」
「どうしてまたそんな突然」
「うーん、突然なのかなあ。突然でもないんですけどね。
なんかね、魔法が溶けちゃったんです。溶けちゃったっていうか、もうとっくにそんなの効果なんて無かったんですよ。一番弱ってた時に一番欲しかったっていう記憶だけが残ってただけなんです。私ね、関係してた時期は長いですけど、あの人が結婚したとき、一度縁を切ったんです。けどね、結婚してしばらくしたら、また向こうから連絡が着て……、ちょっとずつ元々の冷静な自分が、ああ、やっぱりこの人、只の駄目な人だ。って、言うんです。あの頃の私があの頃のあの人を追っているだけで、今のこの人は違う人だ。って。そもそもあの頃だって駄目な人だったよ。って。でね、この間会った時に、ふっと聞いてみたんですよ」
「なんて?」
「なんで私とまだこうやって、こういう関係を続けてるの? って」
「そしたら?」
「メリットがあるから。俺はメリットのある人しか関わらないよ。って言うんですよ。もうあの人いい歳ですよ? その歳でそんな阿呆な事言う人います? あんなつまらない男に私、もう何も払ってあげたくないですよ、気持ちも、時間も、そういうもの全部」佐々木さんがそこまで言い終えると、田口は声を出して笑い「あの人、そういうところあるよね」と言った。
「ほんとに」と佐々木さんは力強く頷き「私ね、あの人が一度すごく落ち込んだ時につい言っちゃたんですよ。『私だけは絶対いなくならないから大丈夫だよ。あなたがもういらないって言っても、私だけは絶対に居なくなってあげないから、大丈夫』って。どこの少女漫画のわき役だって感じですけど、私は十八歳のあの夜から今日までその約束を律儀に守ってきたんです。ずうっと。けど、もうそんな義理もないですよ。私は随分あの人に都合よく居てあげたと思うんです。何年も、何年も。ねえ、もう充分だと思いませんか?」と言った。
それに対して田口が「俺は二人の事は全くよく知らないけど、あの人はきっと一生変わらないですよ。それだけは分かる気がする」と言い、「わかんないわよ。宇宙人の落とし物が後頭部に直撃して、それを拾いに来た宇宙人に脳味噌をこねくり回されたら変わるかもしれない」と私も言った。
「でも全部あげちゃったんですよ、私。私のなけなしの、他人に対するそういう、愛とか恋とか良く分からない、だけど特別な感情全部、あの人につぎ込んじゃったんです。だから、縁を切るからって、これから先、誰かを愛おしいと思ったり、その人に対して、あげれる何かが残ってると思えないんですよね」そう佐々木さんが零すと、
「占い師って自分の事は分からないって言いますもんね」そう田口がちょっかいを出すように言った。
「そういうところだよ、田口」と、佐々木さんも冗談交じりに言って笑い
「大丈夫ですよ、みんな長かれ短かれ、恋が終わるとそう言うんです、もうこんな人には二度と出逢えない! とかなんとか。でもね、みんなケロっと忘れた様にまた誰かと付き合うんです。夏風邪に犯されたみたいに。そうやってまた恋に落ちて、それをこじらせて。っていうのを繰り返してる。じゃなかったら僕を含め、大方の人がつくる、安っぽい良くあるような気がする歌がこの世から消えちゃいますよ。特殊すぎて誰も共感できなくなる」
「すごい、珍しく説得力のある事言うのね」そう言ってみんなで笑い合うと、私は二本目のワインを取りに席を立った。佐々木さんが小声で田口に何かを言うのが聞こえたので、私はじっと耳を澄ました。「パチさんを巻き込んだら駄目ですよ、連れて行ったら許さないんだから」と佐々木さんの声がしたが、私にはそれが何の話かさっぱり分からず、思いのほか彼女は酔いが回っているのかと心配したが、二本目のワインを飲み干しても、彼女は普段と変わらなかった。
「明日は早い時間に打合せがあるから、そろそろ帰らないと」そう、佐々木さんが言うので、私と田口はそろって彼女を環七まで送ることにした。途中、車に轢かれた鳩の死体が落ちていた。それを見て、「寿命」と、佐々木さんが言うので「事故じゃないの?」と田口が言った。佐々木さんは首を振りながら「寿命があるんですよ。何に対しても。でもそれがいつなのかは誰も知らなくて、寿命が来ないと、人はどんなことをしても死ねないんです。車に轢かれても、ナイフで刺されても、首を吊っても、たくさん薬を飲んでも、病気になっても、致命的な程に自分を損なっても、自分の身体の半分みたいな存在を失っても。寿命が来ないと死ねないんですよね」そう淡々と、ゆっくり、声に出して読み上げる様に言うと「だからあの鳩は事故じゃなくて、寿命が来たから死んだんです。まっとうしたのだから悲しいことなんてないんです、むしろよく頑張って褒めてあげないと」と、田口に説明していた。
タクシーに乗り込むと、佐々木さんは私に「ありがとうございました。今日は久しぶりに、こころから楽しかったです」と言い、田口には「約束ちゃんと守ってくださいね」と言った。
佐々木さんを乗せたタクシーが見えなくなると、私たちはどちらともなく手を繋ぎ、来た時とは別の道を選んで帰った。肉の塊になり、アスファルトに血や羽がこびりついた鳩の死体が頭の中に蘇り、私は田口の手をぎゅっと握る。
「大丈夫?」
「何が?」
「なんとなく?」
「あなたこそ、大丈夫だった?」
「うん、あの人、良い人だね。それにすごく魅力的だと思う」
「駄目よ、あげないわよ、あなた、苗字に田が入ってるんだから。彼女には次こそ幸せになって貰わないと。……、でも、伊藤さんじゃ、合わないわよねえ」
「伊藤もそう思うだろうね。伊藤はああいう会話が始まるといつも分った振りをして頷いた後、帰り道で俺に言うんだ「あれってどういう意味だったの?」って」私がそれに笑うと「それに」と言うので、「それに?」と聞き返すと
「君は伊藤を気に入ってるみたいだけど、伊藤は伊藤で陸でもないよ」と真面目な顔で言った。
「あらどうして?」
「付き合ってみたらわかるよ」
「じゃあ一生分からないわね」
「どうして?」
「確かに私は相手に寄っちゃう癖があるけど……、そもそもが、こういう人間よ」
「確かに、伊藤には君たち二人はちょっと難しいな。あの性格だからね。どうにか向き合おうと頑張りすぎて、知恵熱を出し続けた挙句、髪の毛が全部抜け落ちちゃいそうだ」
「その例え、随分センスないわね」私は、軽く身震いした後、繋いでいた田口の手を私の上着のポケットに突っ込み「というより、私は人と付き合う事自体が向いてないのよ。深く、じっくり、誰かと付き合う事がね」と言った。
「そうかな?」
「そうよ。あなたはまだ私のおかしい部分を見てないもの」
「充分見てる気がするけど……」
「これよりもっと別次元のやつがあるのよ、根本からおかしいやつが。私はそれを必死に隠して生きてるのよ」
「そんなの君だけじゃないさ」「ところでさ」
「何?」
「だからこういうのは男からするんだよ」そう言うと田口はポケットの中で繋いでいる手を軽く振った。
「私も大概だけど、あなたも生きるのが大変そうね」
「どういう意味?」
「そういう、自分しか知らない、自分がつくったルールみたいなものが沢山あると、大変じゃない?」
「どうだろう? そうでもないよ、だって俺は俺以外も皆が知ってるルールをある程度守っているけど、自分しか知らないルールみたいなものは、そんなに持ってない。それに……」
「それに?」
「どっちかと言えば、俺は世渡り上手だよ」
私がそれについて考えていると「少なくともマウントを取るタイプの人に目の敵にはされない」と言うので「それはあなたが男だからよ」そう言うと「最近はね、男でも色々あるよ。君の言う「女の子同士のそれ」より、もっと酷いようなものだってね。世の中自体が陰険で、それに性別なんて無いんだよ。遠隔という距離感さえがあれば人差し指だけで身体の大きさ関係なしに攻撃できるからね」と、高円寺のマンションというタイムカプセルの中で暮らしている私に教えてくれた。
「それより、今日の報告、伊藤にしなくていいの?」
「ちゃんと送ったわよ、今日も田口さんは寝込んでいますって」
そんな会話をしているうちに、私たちはマンションに着いた。ドアの鍵を開け、田口にお風呂に先に入る様に言いうと、その間に洗い物を済ませ、クラッカーをジップロックに入れ、残っていたチーズを冷蔵庫にしまい、テーブルを固く絞ったクロスで拭いた。
軽く濯いだ空き瓶をゴミ捨て場に運んでいると、アルコールで蒸気した身体に、夜の匂いや温度が、しんと染みこむ。たった二か月前まで、名前も、顔も、存在さえも知らなかった男と、仕事で数度顔を突き合わせただけの彼女と。まるで何年来の親友の様に親密で特別だった、ついさっきまでの自分が居た空間を思い返しドアを開けると、そこにはいつもの日常が広がっていた。
部屋に所狭しに置かれた、私のそれなりの拘りの詰まった物々が皆顔を揃え、さっきまでここで開かれていた宴なんて何一つ覚えていないという様に、それぞれの定位置に鎮座している。そう、まるで私が夢でも見ていたみたいに。
それから三日後の昼、佐々木さんを引き合わせてくれた出版社の編集長から電話があった。それは佐々木さんの死を知らせるものだった。
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