モイモイ・キッピス・タイタン
韮崎半
第1話
それは十一月の刺すように冷たい雨が、上手く軒下に隠れた蟻の前足さえも見逃さずに降り荒ぶ様な日だった。
私は最終電車を降りると、駅前の二十四時間営業のスーパーマーケットで牛乳を買い、作業場であるマンションへ向かう。
履き慣れないレインブーツにくるまれた足と、コートの袖に収まり切らなかった指先は悴み、吐きだした息は形を失った生き物の様に勢いよく目の前で舞ってみせる。
コンクリートに打たれたままのマンションに着くと、ポスト横からドアまでのびる階段の前に男が一人落ちていた。
がりがりに痩せ細った身体は病衣を纏い、階段にもたれたままの上半身は、辛うじで雨を避けていたものの、放り出されたままの下半身はずぶ濡れで、足には何の意味もなさないような、スリッパともサンダルとも呼べないような粗末な履物が嵌っており、顔には血の気がなく、唇は今紫に染まり、指を当てたら切れそうなほどに乾いていた。
腕には点滴の針が刺さったままで、その先にはプラスチックのコネクターの様なものがぶら下がっている。
そう、男はどこからどうみても病院を脱走したような様子だった。
私は立ったまま男に声を掛けるも返事はなく、仕方がないのでしゃがみ込むと、男の腕を揺すりながら、大丈夫か、と尋ねた。
すると男は薄く目を開け、放って置けとでも言わんばかりに、目玉だけを面倒くさそうに動かす。
私はため息を吐きながら、鞄から携帯電話を取り出すと、男は素早く私の手を掴んだ。その手は、誤ってパーシャルに入れてしまったまま、三か月程放置した釘の様に冷たかったので、私は驚いて携帯電話を落としてしまった。慌ててそれを拾い上げようとすると、男は酷く掠れ、今にも消え入りそうな声で「なにも、呼ばないで、お願いします」と言った。
それを聞いた私は、男の腕を掴み、自分の肩に乗せると、顎で階段を登る様に促す。 「生きるも死ぬも、あなたの勝手だが、悪いけど、こんなところで死なれたら寝覚めも悪い。警察も救急車も呼ばないから、取り敢えず部屋に入って貰える?」
そう早口で言い終えると、男は力無く頷いたが、もう立ち上がる気力は残っていなかったようで、私の肩におおよそ全ての体重が掛かる。手の冷たさに気を取られ気づかなかったが、男の身体は酷く震えていた。
私は何度か自分の着ているワンピースの裾を踏んでは転びそうになりながら、殆ど引き摺るようにして男を部屋に放り込むと、息も切れたまま、アラジンのストーブに火を点け、男に厚手のタオルを投げるとバスタブにお湯を張り、クローゼットからオーバーサイズのトレーナーと、ゴムが伸びきったズボンを引っ張り出した。男はそれを受け取ることもなく、放り込まれたままの姿勢で、ぼうっと、ストーブの火を眺めている。
私は適当な服に着替えると台所に立ち、茶葉を煮立て、シナモンやクローブ、カルダモン等の何種類かのスパイスを適当に放り込むと、先ほど買ってきた牛乳を入れ、沸騰直前で止める。カップの縁に濾器を乗せ、それを二つのマグカップに交互に注いだ。
それらを持って、ストーブに近づき、「連絡されたくなかったら、取り敢えずこれを飲んでお風呂に入って」といったが、男には聞こえていない様だった。
私はもう半歩程男に近づき、「これ、チャイ、のめる? アレルギー、ない? ない、なら、のんで、のまない、なら、病院、連絡、する」と、ゆっくり言葉を切りながら、男の目をまっすぐ見つめて言うと、男は大義そうに目を閉じた後、起きあがろうと体を硬らせたが、それだけだった。
私はマグカップを床に置き、男の両脇を掴むと、そのままずり上げ、壁にもたせ掛ける。台所に戻り、片方のマグカップに冷たい牛乳を少し足し、スプーンでかき混ぜたもの――ぬるくなったチャイ――を、男の口元を運んだ。
男はそれを一口飲むと酷くむせたが、二口、三口とゆっくりと口に含み、半分程飲ませたところで、備え付けのタイマーが鳴り響いた。
男の口元からマグカップを離しテーブルに置くと、男を再び引きずり、適当な位置までお湯の注がれたバスタブに病衣のまま放り込むと、先ほど投げたままの厚手のタオルとトレーナーを取りに、リビングへ戻った。
まったくどうしたものか。と、床に置いたままの自分のチャイを拾い上げ口に運ぶ。自分で思っていたよりも私の息はあがっており、チャイよりもビールを飲むべきだったと思いながら、さっきまであんなに悴んでいた手足が、すっかり元に戻っていたことに気付く。
意識のある人間は、ない人間よりも重くないと聞くがそんなの嘘だ。と思うも、私は死体なんて運んだことないじゃないかといらぬ事を呟くと同時、あの男が何者なのかを考える。あきらかに普通ではない様子の、今私のバスタブに浸かっている男の事だ。
もし仮に男が犯罪者の類だったなら、「殺人を犯した男が脱走して二時間ほどこのマンションの階段に横たわっていたが無事警察に回収された」という事の、どの部分も知らないまま私の一日は始まり終わっていた事だろう。と、思う。
何せここは東京のど真ん中で、数えきれない程の監視カメラが電柱に括り付けられている。ともなれば、男はただの病人で、ただ単に病院を脱走したとして……そこで私は早速に躓く。《ただ単に》だけで態々この凍てつくような寒い雨の日に、点滴を引きちぎって病衣のまま脱走するという事が上手く想像できなかったのだ。
代わりに私は、男が殺人を犯して精神をおやし、精神病院に放り込まれ、そこでのあらゆる治療に耐えられず脱走を図るも力尽き、このマンションの階段の下で休むまでの軌道を監視カメラが捉えており、脱走に気づいた警察がすぐに男を回収していくところを想像する。そうであれば、私は何も知らないままでいられたのに。何も知らなければ、何も始まらず、終える必要もなかったのに。そうと思うと、なんともいえない気持ちになった。
兎にも角にも、今日はもう仕事になりそうにないので、締め切りの近付いた作業のスケジュールを頭の中で調整すると、再び、男について考える。そう、始めてしまったからには、終わりを迎えるための過程を考える必要が生じていたのである。
そして私は途方に暮れる。当たり前の事だが、私が今この場でどれだけ頭を働かせようと、あの男が何者なのかも分からなければ、事情も何も、それらに於いては、もっと分からないのだ。
十五分程経っても男は出てくる様子がなかったのでバスルームに向かう。男はここでも私が放り込んだ時とほとんど変わらない体制のままを維持している。
これじゃあまるで……、そう思うと同時、男がいつかの自分と重なって見えた。
私はズボンの裾とトレーナーの袖をたくしあげると、男は首を横に振るので、「ひとりでできる?」と聞くと、力無く頷いた。
「あなた、酷い顔してるから、もし気力があれば顔ぐらい洗った方がいいわよ。シャンプーや石鹸はここにあるのを好きに使って。タオルと着られそうな服を出たところに置いておいたから……、病衣はそのままバスルームに脱ぎ捨てておいて」というと、男は消え入りそうな声で「すみません……、ごめんなさい……」と目を伏せたまま言った。
私はそれを聞くとバスルームを出て軽く足を拭き、男が出てくるまでの間、病衣から入院先の病院を特定できないかと思いパソコンの電源を入れたが、全国津々浦々の病院を巡り、病衣の写真を撮り、いちいちインターネット上で、紹介する趣味を持った人を見つける事は出来なかった。
その間、バスルームの方から、二、三度大きな物音がした。
おそらく男が転んだのであろう。
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