第2話
男は用意したトレーナーを被り、今にも下がり落ちそうなズボンを履き、頭から水を滴らせたまま出てきたので、私は慌ててパソコンを閉じ、ストーブの前に座らせると、厚手のタオルでゴシゴシと頭を拭いた。腕から点滴の残骸が消えていたので、自分で引き抜いたようだった。スポーツドリンクの蓋を開けて手渡すと、少し力が戻ったのか、それを落とさずに受け取る。
ソファに座る様に言い、男と向かい合って座ると、最初見た時より随分と年若そうに見えた。 顔色は幾分マシになったように感じたが、それでも顔のどこにも生気は宿っていない様に感じる。
私は、一呼吸おいて、目の前にある二つの、ただの丸みを帯びた鏡のように私の姿を映すだけの男の目を見て話始めた。
「人には色々な事情があるし、言いたくない事があるのもわかる。ただ、例えばあなたがとてつもない重病を患っていて、今すぐ病院に戻る必要があるのだとすれば、何も知らないまま、私はあなたを此処に置いてはおけない。とはいえ、どうしても病院に戻りたくないというのはわかったから、あなたに関して私が気を付けることがあれば、それは事前に教えて欲しい」
私はそう言った後で、ぬるくなったチャイを口に含み、やはりビールにするべきだったと後悔しながら続ける。
「出来れば、簡単でいいから事情を知っておきたい。それはトラブルを事前に防ぐ。という意味合いでとって貰いたい。言いたくない事は言わないでいい。ただ、見ず知らずの人だからこそ話せる事があるのであれば、吐き出してもらって構わない。私はそれを他言しないと約束する」
そう伝えると、男は下を向いたまま、ペットボトルを握りしめ、何かを考えている様だった。
寝床とリビングが兼用になっている狭い部屋は、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いで満ち、窓を叩く雨の音とストーブの燃える音だけが時を刻み、この部屋だけが、世界から隔離されている様な気がした。
私は堪らない気持ちになり、棚からブランデーを取り出すと、たぷたぷと音を立てながら、二センチ程グラスに注ぎ、舐める様に口に含んだ。
いつの間にか男は顔を上げ、それをぼんやりと眺めていたので、飲むかと聞くと頷いた。新しいグラスにブランデーをそそぎ手渡すと、男はそれを一気に呑み干し、空になったグラスを静かにテーブルに置くと、震える唇を小さく開いた。
そこで語られたことは、俄には信じ難い事であり、だけど誰にも起こり得ないと言い切れる事ではなかった。なにより、男が調べればすぐにでも嘘だと分かることを、この場面で言うようには思えなかった。
私はそれを黙って聞き、しばらく考え込む振りをしてから、ここは私の家ではなく、仕事場であること。寝泊まりすることもあるので、一通りの生活用品は揃っていること。行先の目途が立つまでここにいて構わないということを伝えると、有難い申し出だが、そこまでの迷惑は掛けられないと言うので、じゃあ行く宛はあるのかと聞くと、男は口をつぐんだ。
私も以前、こころを酷く「おやした」事がある。殆どの人が見て見ぬ振りをしたし、距離を置いて行く中で、力を貸してくれる人が居なかったわけではない。
僅かながら、私がマトモになるための力をくれた人が、何人か、居た。そしてその中の一人に言われた事がある。 「してもらった事は有難うと言い、しっかりと受け取るだけでいい。その人に何かを返そうなんて事は考えなくていい。その人は持っているから与えることが出来ただけの事だし、その人は既に持っているものを返してもらいたい訳でもない。だからもし自分が何かを他人に与えられる人になったなら、その時に、その何かを持ってない人にあげれば良い。そうやっていけば、皆が少しずつハッピーになる。それをハッピー回路と呼ぶんだよ」と。
私はあの頃の不出来で未熟すぎた自分を、この歳になって払うことが出来たけれど、返す必要がないかどうか以前に、返したかった人はもう周りに誰もいない。そういう生き方をしてしまった。
そのことを思い返しながら、搔い摘んで話した後、 「その人たちへの感謝を込めて、私にできる事をあなたに返すというのはどうだろう?これは私の自己満足だから、迷惑でないのであれば受け取って貰えると助かるのだけど」 そういうと、男は再び俯いたので、
「ただのお節介だと思えばいい。気が済むまでここにいてくれて構わないし、気が済んだら出ていけば良い。それだけのことだから、重く考えないで」と付け加えた。
男は俯いたまま、空になったグラスをじっとみつめていたので、私は彼の分と、自分のグラスにブランデーを注ぎながら、今日はもう遅いから、これを飲んだら休むように。眠れないなら、もっと飲んでも構わないが、呑みすぎないように。と、注意を添えた。 明日には雨も止むだろうから、行く宛があるならそうしなさい。とも。
それらを伝え終わると、財布から一万円札を出してテーブルに置くき、自分は家に帰ると言うと、私はグラスに残っていたブランデーを呑み干してマンションを後にした。
環七まで歩いてタクシーを拾い、行き先を告げる。車の窓ガラスにしがみついた雨が信号機の光を散らしていく様をただただ目で追っていると、鞄の中で、午前四時を知らせる携帯のアラームが鳴った。
もし明日も男がいた場合と、居なかった場合も併せて、先ほど立てたスケジュールを逆算すると、私は携帯を取り出し、未だなり続けるアラームを止め、新たにアラームを午前八時にセットする。
タクシーを降り、家の鍵を開けた時、自分が適当な部屋着のまま仕事場を出たことに気がついた。少なくとも、私だって動揺しているのだ。
部屋の明かりを点けぬまま、家のソファに倒れこむと、呑み干したはずのブランデーの匂いが喉の入り口で踊っているような気がした。
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