第3話

 午前八時を告げるアラームを止め、白い天井をしばらく眺めていた。ふと今日の予定を思い出し、あわててベッドから這い出る。

  シャワーを浴び、歯を磨き、アイロンをかけておいた白いシャツに、アイボリーのセーターをかぶり、何年も前に古着屋で買った、何柄なのか未だに解らない、様々な種類の落ち葉を寄せ集めたような色合いのアコーディオンスカートを履くと、髪を適当に束ねる。



 テーブルの上に置いたままの、三日前に買った記憶のあるレーズンパンを口に詰め込みながら、冷蔵庫から水出しコーヒーのジャーを取り出す。それをグラスに注ぎながら一年ぶりにテレビを点けると、見たこともないアナウンサーが三年前にも聴いたようなニュースを端から読み上げていた。

 そのうちのひとつは、半年前、とある人気ロックバンドのヴォーカルが、自身のツアーで家を空けていた際、妻と二人の子供を刺殺され、その犯人は家に火を放ち逃走……といったもので「その犯人が昨日自殺した状態で見つかりました」と言う。


 ごく稀にしかテレビをつけない割に、テレビを点ければ、いつも知らない誰かが殺されているような気がした。

 私はその殺された家族や、取り残された男、そういう事件を起こし、その果てに自殺した女とその家族について想像しようとしたが、想像の手前で胸に何かが痞える。会ったこともない話したこともない他人の人生を勝手に想像して勝手に気を滅入らせるので、私はテレビの他にも、新聞も雑誌もインターネットのニュースサイトも全く見なくなってしまった。その上、人とも陸に関わらずに生きているので、世間の事は殆ど知らない。

 悪意を持った宇宙人が攻めてきたところで、その事を誰にも教えて貰えず、三日前のレーズンパンを口に咥え自分がどういった理由で死ぬことになったのかも分からぬまま死ぬようなタイプだ。

 だから、テレビを消そうとリモコンを持つまで、それがあの男の事だと気づかなかった。


 そう、男がある程度名の知れたミュージシャンで、名前が田口博之と言うこと、犯人が自殺したという事を除けば、アナウンサーが言っている事と、昨日男が言っていた事は殆ど同じだったのだ。


 私は消し損ねたテレビ画面に釘付けになったまま、昨日見た男をアイロンで丁寧に伸ばし、皮膚の裏に注意深く一センチの厚さの綿を詰め直し、ところどころの染みを抜いたあと、ガムテープで埃やゴミを取り除けば、テレビ画面が映している、田口という男になるのだろうかと、そんなことを考えていた。

そして、テレビの中の知らない女はその間も一人で喋り続けている。

 犯人は田口の熱狂的なファンであったこと、田口は事件後体調を崩し今も入院したままであること、バンドの活動再開の見込みがたっていないこと、ファンたちの声。などなど。

 ただ、今まで親切に色々と教えてくれた彼女も、流石にそれ以上の事は教えてはくれなかったので、田口が病院を脱走し、行方不明になっていることは、まだ表には出さない情報として取り扱われているようだ。と、思う。


 何分待ってもそれ以上の事は分かりそうもなかったので、持ったままのリモコンでテレビを消し、噛んだまま飲み込めずにいたパンをコーヒーで胃の中に押し込み、空になったグラスを流しへ置くと、玄関へ向かう。何年も前に買ったピーコートを羽織ると、右袖のボタンが失くなっていた。


 家の鍵を掛け、急ぎ足で大通りへ向かう。もし宇宙人に襲われて死ぬまでに何かできることがあるとするならば、口にした三日前のレーズンパンを咥えたままにせず、飲み込むぐらいは出来るようにしておかなければいけない。と、思う。私は名前も知らないような、けれど親切なアナウンサーに、そんな事を《宇宙人に襲われた女性が三日前のレーズンパンを咥えたままの状態で発見されました》という様に、おせっかいにも不特定多数の人たちに向けて読み上げられたくはなかった。


 そしてふと、彼があの時俯いていたのは、本当に私が彼を知らないのか疑いによる物もあったのかもしれないと思い当たる。


 彼の言っていた事が真実かどうかはさして問題ではなかったが、彼に関係する人に辿り着けはしないか図書館で過去の(男の言う、半年前にそういった事件があったのであれば)新聞を閲覧しようと思っていた。

けれど、その必要がなくなった今、特に急ぐ必要もない。


私はタクシーを拾うのをやめ、来た道を引き返し、駅へ向かった。


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