第21話

 微かな物音で目を覚ますと、田口はストーブに火を付けているところだった。

カチリとクリップの閉まる音がして、ツマミを調整しながら「俺もこのストーブを買おう」と言ったので、私は眠気を一瞬にしてベッドの上に落とし、目を丸くした。

「何その顔、流石にずっとここに住み着こうなんて思ってないよ」と呆れた様に言い「君は知らないかもしれないけど、こう見えてもちゃんと家族を養い家を建てるくらいの収入はあったんだよ」と、さも当たり前の様に続けた。「お世話になった分はちゃんと払うし、でも……、もう少しだけここに居てもいいかな」と田口は訊いた。

「まあそれは……、まったくもって構わないというか……、そもそも私も拾った男を慎ましく養うくらいの余裕はあるから、別にいらないわよ、そういうのは」そう言いながらベッドから這い出るとソファに掛けておいたカーディガンを羽織った。

「そういえば、君は絵描きとかそういう類のものなの?」

「まあ、そういう類のものよね」

「デザイナーとかそういう人は周りにいるけど、絵描きで食べている人ってあまり知らないから、生活が全く想像つかなかった」と言うので

「どう、そういうもので食べている人は、こういう時代遅れの生活をしてるのよ。そして時々見知らぬ男を拾う」

「時々? 道理で、慣れてると思った」

「そんな訳ないしょう、冗談よ。見知らぬ人を家にあげたのだって、あなたがはじめてだわ」今度は私が呆れた様に言った後、「そういうあなたは何をしてたのよ」と訊いた。

「音楽を……、してたのかな?」と語尾をあげるので

「そんなの私に訊いても知らないわよ」と首を傾げたあと「どんな音楽をしてたの?」と返しながら、田口の横に腰を下ろし、ストーブの前の空白に手を当てる。

「どんなって……、私情つらつらソング?」と、鼻で笑う様に言うので、私は「私情つらつらソング」と繰り返した。

「君を愛してる。だとか、君の小さな手が耳が鼻が。とか、あなたが何をしたから僕はこう思ったとか、どこでどんな風に手をつないだとか。別に大衆に向けて歌うべきことでもない、誰かと誰かの間の良くある生活をつらつらつらつら歌うんだよ。酷い時なんてスカートの柄まで褒めるんだ。そんなの直接本人に言えよって思う様な事を、それなりの音楽に乗せて、大衆に向けて歌う。私情つらつらソング」

「私情つらつらソング」と、私はまた繰り返し「そんなこと言ったら、殆どの人がそれになるんじゃないの? 多かれ少なかれ、私情を感じない歌なんてないじゃない。そうじゃない歌って、どんな歌? このご時世に新種の哲学でも説いているの? そしてファンは新譜を買ったらまず神棚に手を合わせて、歌詞カードを熟読して念仏の様に唱えた後、『ははあ! 今日も格言を有難う御座います!』みたいな事をしなきゃいけないの?」

「誰もそんなこと言ってないよ」

「ごめん、冗談よ。まあでも、仮にあなたの言いたい事を汲み取ったとして……、私情つらつらソングの方が私は好きよ。屋根があって、毎日しっかりご飯を食べて、自発的な募金やボランティアはおろか、有り金全てを募金に回すような事もしていないのに、世界平和を歌ったり、果てにはそれを強要したり。あとはあれね、不特定多数に向けて元気に生きて行こう! 頑張ろう! そう無責任に歌われるより、ずっと好感が持てるわよ。あなたの言う私情つらつらソングの方が。自分をさも特別ぶって、妄想や願望を歌われるより、ずっとね」

「確かにそういう物と比べたら、俺は凄く等身大で正しいことをしている様に聞こえるな」 

「でも……、なんか大変ね。今の世の中って、そんなことにも名前がついているのね。そうしないと、みんな迷子にでもなっちゃうのかしら? 物事や心の機微を推し量る……汲み取る努力をする事だって大切なのにね」

そう言うと私は、ハイスタンダードをコピーして熱狂する高校生の集団の脇で、ジミー・イート・ワールドをヘッドフォンで聞いていた高校生の田口に心から同情した。


「でもそういうのって、食べていけるほど売れるのね」私が不思議そうに言うと

「君が好きなマニアックな音楽よりは随分需要があるからね。この平和な日本に生まれ、良くある不幸と良くある幸福にまみれている人には、僕みたいなつまらない人間の作る歌は丁度良かったみたいだよ。とは言え、まあ、そういう音楽をしている人の母数は多いから、そこから食べて行ける様になるには運や何やが必要にはなるね。

そういう意味で俺は運に恵まれたし、周りが頑張ってくれた。それだけだと思うよ。俺自身はいつも何も持ってない、大した事なんて何もしてない。だから我に返るといつも身分不相応な気分になる」田口がそう言い終わると、ストーブが埃をまきこみ、パチパチと音を立てた。

「そんなことより、具合はどうなのよ。クラムチャウダー、飲める?」そう訊くと、田口は「調子が良いと言えないけど、もうすっかりいつも通りだよ。スープだけなら食べられそうだ。少しだけ貰ってもいい?」と言った。


 あなたみたいな人には二度と出逢えないような気がする。そういって泣きじゃくると、そんなことないよ、俺みたいなやつは結構いっぱいいるよ。と頭の上の方で声がした。


 クラムチャウダーの入った鍋が焦げないように木ベラで混ぜながら火に掛けていると、唐突にそんな会話を思い出した。

 私が初恋と呼ぶそれは、最も愚かで見見窄らしかった。そしてその初恋の人と、田口、そして平田さんは、少しずつ、とても、良く似ている。


「ねえ、人間って、恋に落ちるにはある程度の魔法が必要だと思わない?」

「突然なんの話?」

「ファンタジーの話」

「ファンタジー……」

 ファンタジーが田口を考えている間に、私はたっぷりとしたマグカップに入れたクラムチャウダーをテーブルの上に二つ置いた。

 ファンタジーには思想があって、浸れる人間を選べるのかもしれないと思っていると、田口は難なくその関門をクリアし、無事に立場を逆転させ、「田口がファンタジーについて」考え始めたようだった。

「何をファンタジーと呼ぶのかは分からないけど」そう言ってクラムチャウダーを一口啜り「例えば僕たちは恋に落ちることはないよねって事でいいのかな」

「正解。今の言い方でよく分かったわね。大概の人は私の所為にして会話にもならずに終わるわよ」

「なるほどね」

「今更だけど、君って変わってるよね」

「私からしたらあなたの方が変わってるわよ」

「まあそういうものだよね」

「そうよ、そんな当たり前の事を態々言えるんだから、流石よね」

「嫌味?」

「褒めてるのよ、心から。私にはどう頑張っても出来ないのよ、そういった丁度良い発言が」そう、出来ない。手に靴を嵌めて、腕を足より太くしても、逆立ちが上手く 出来ないように、私にはどんなに頑張ってみても、そういう真似すら出来ない。

「美大生の頃、適度におしゃれで適度に活発な子が何人かいたのよね。そういう子たちって、『変わっている。は、誉め言葉』って言えちゃうのよ。私はね、変わってるなんて言われたら、お前は社会不適合だ、常に浮いている、周りに合わせることの出来ないやつだと烙印を押された気分になるのよ。おでこにでっかく、そういうマークの描かれたシールを貼られるの。そのシールを一度でも貼られたら、もうどんなに頑張っても剥がせないの。自分の力では無理だという事を毎日毎日一つずつ知っていくの。そういう感じ、伝わる?」そうと言うと「なんとなく」と、田口は答えた。「それでも私は血の滲む努力をして、少しつ少しずつ社会性を身に着けて行ったの。短冊にも、神社に居るのかいないのか分からない神様にも『私をどうか普通にしてください』ってお願いしながらね。だから変わってると言われると、まだ努力が足りないのかと思ってがっかりするの」そうやって田口を恨めそうに見ると、「悪かったよ、でもあんまり普通じゃないんだよ、そういうの」と、田口は私の視線からげるように背を向けて言った。


「ところで、魔法ってどうやったら掛かるの?」

「各部門にそれ専用の魔法が使える魔法使いが居るのよ、彼らが各々勝手にやるんじゃない?」

「そりゃあ……」

「何でもない朝に目が覚めて、いつものように支度をして、ドアを開けた瞬間、見慣れた街がとんでもなく美しく見えたりするでしょう? ああいうのって、それを専門とした魔法使いが夜なべをして、せっせとそういう魔法を撒いてくれてるのよ」そう付け加えると

「そりゃあ、確かにファンタジーだ」と、田口は何度か小さく頷いた。

「だからそういう歌があるんでしょ、天使がどうたらこうたらみたいな」

「ちょっと待って、天使も魔法を使えるの?」

「似たようなもんでしょ、良く知らないけど」

「雑だなあ」そういうと、田口は軽く笑った。

「だって、私の前には滅多に現れないというか、そんな記憶がないのよね。見たこともないのに図鑑なんてあったって無意味でしょう、そしたら区別だってつかないわよ」私は私の精一杯の冗談を並べたあとで「それにしても、あなたって思いのほか良く笑うのね」と、じっと田口を見て言った。

「もう癖だよ。人間を前にしたときは目か口元のどちらかに微かに笑みを含めましょうって教わって生きてきたんだよ」

「なるほど?」

「ああ、でも君と話すのは好きだよ、割と面白いとも思う。C級映画を見てるみたいで良いよ」

「それって褒めてるの?」

「勿論?」そう言って田口はクラムチャウダーがかつて入っていた、たっぷりとしたマグカップを台所に運んで洗った。

「ご馳走様、おいしかった」

「足りた?」

「充分だよ」

 私はふと思い出したように物置へ行くと、片付けようと思っていたブランケットは畳まれ、その上にクッションが置かれ、ヒーターのコンセントが抜けていた。

「あなたってA型?」

「良く言われるけどABだよ」

「なるほどね」

「君は?」私が答えるより先に「O型?」と田口は言った。


 ハツコイノヒト科ヒラタサン目タグチ。と呟くと、記憶の中の誰かが「そういうの、好きだね」と言った。もう顔も思い出せない、だけど狡い人だった。とてもとても、狡い人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る