第30話

 外は雨が降り始めたようで、時折雨粒が窓を叩く音がした。部屋は、しん。と、静まり返り、田口の身体は、少しだけ震えていた。


「最初に子供たちが刺されて、次に奥さんが刺されたみたいなんだよ。火を点けられた時には未だ意識もあったんじゃないかって。怖かっただろうな、痛かったろうな、苦しかったろうな、そう言うのは俺にもあるんだよ。でも、そうじゃないんだ……」

 私が頷くと、短く、しゅっ。と、枕の擦れる音がした。

「普通さ、奥さんが先に刺されるんじゃないかって思うでしょ? でもね、あの人逃げたんだよ、子供を盾にしてさ。そういう人だったけど、本当にそうするなんて思わなかった。でもそういう事じゃないんだよ。傍からしたら、ただ俺だけの所為なんだよ。俺がそういう事をしてたから、こうなったんだろ、だから全てお前の所為だって言われたら、俺はその通りだとしか言えない。でもそうじゃないんだよ、本当は。でもこんな事、誰に言っても分かってもらえないし、非難されるだけだと思う。それを自分で解ってるから、誰に言った事もない」田口がそう言い終わると、また部屋の中に沈黙だけが残った。


 田口の震えは止まらず、息をするのも苦しそうだった。田口は私の背中にギュッと顔を押し付けると、少しくぐもった声で「つづき」を話し始めた。今までにない程、饒舌に、早口で。


「高校を卒業して、こっちに来て、色んなバイトしながらバンドやってさ、全然売れなくて、びっくりする程貧乏でさ。本当にいろんなバイトをしたよ、この世の中には信じられない程にくだらない仕事がいっぱいあるんだ。いつか君に一つずつ教えてあげたいくらいだよ。

 でさ、そういう梲も何も上がらない中で、俺も結構いい歳になって、周りのかつて仲間だった奴らも就職とかして、『何まだバンドやってんの?』なんて馬鹿にされたりしながらさ、ちょっとずつ、でも確実に草臥れて行って、そういう時に下北のバーで奥さんと知り合ったんだよ。

 奥さんは、こっちの世界ではちょっとした人の娘でさ……、後で、そういう事も知ったんだけど、まあ彼女、美人だし、お金も持ってるし、なんかもう俺も疲れててさ、この人と結婚して、のらりくらり生きれたら良いなとか思い始めてて。俺がそうやって駄目になってる時に、裏で色々やってくれてたんだ。頼んでもいない事まで。上手いこと伊藤を巻き込んでね。

 伊藤はその時、俺のバンドでカメラマンやってたんだよ、仕事しながら、ライブの時は早退してね。ツアーにも付いて来るんだ。有給取ったからって。

でさ、俺……、今まで通りだったんだよ、もう何年もそうしてたように、変わらずライブして、レコーディングして、バイトして。それしかしてなかったのに、気付いたらデビューが決まって、気付いたら人気バンドの一員っぽい具合になって、結婚して、そしたらさ、あいつ色々言ってくんだよね、こういう歌詞じゃ駄目だとか、そういう服装じゃ駄目だとか。いう通りにしないとスポンサーがいなくなるわよ。って。

私情つらつらソング? ねえ、俺の私情はそんな爽やかで可愛くなんかないの知ってるよね? 俺が歌ってるのは誰の私情なんだ? 服装? 古着とかで良いんだよ。阿呆みたいに高いヴィンテージとかじゃないよ? 下北とか高円寺で売ってるようなやつ。そういうので良いんだよ。飯もさ、奥さんのつくる不味い飯食って、外では安いハンバーガー齧ってさ、たまに贅沢する。そういう方が好きなんだ。けどさ、根が金持ちだからか、そういうの、伝わらないんだ。でもさ、そんなの只の個人的な我儘だって分ってさ。俺がそのあたりをちょっと我慢すれば、別に何も問題もないんだな。って。

 ずっと辛かったんだよね。俺の作る曲が好きだっていって何年も付いて来てくれてるメンバーの人生をさ、自分が駄目にしてるんだ、巻き込んでるんだっていうのがさ。そりゃあさ、演奏の技術だったり、プロモーションだったり客集めだったりは各々頑張らなきゃいけないところもあるけど、そういう事じゃなくてさ。曲をつくるも自分、歌うのも自分、センターに立つのも自分。つまり、ねえ、俺が悪いから売れない訳でしょ、そういうのって。だからさ、これであいつらの生活も楽になって、俺と一緒にやって来てくれた事、やっと報われるのかなって思ったら、俺個人の生活の理想なんて、高が知れてるじゃないか。

 だけどさ、そう言う事って表には出ない割に、ちゃんと都合の良い様に切り取られて真実みたいな形にパッケージされて、人から人に手渡されていくんだよ。で、それを手にした奴らはさ、俺の気持ちや事情なんて何一つ知らないんだよ。知りようもないし、興味もないから不要なんだ。だからぐだぐだと言うんだよ。『所詮田口ってさ』、『あのバンドってさ』、って。俺だけなら分かるよ? でもそうじゃない、バンド自体を悪く言うんだ。最初はそういうのに結構やられたな。でも慣れって怖いよね。慣れなのかな? 自己肯定力? 良く分かんないな。でも、それらに似た何かがさ、俺を守ってくれる代わりに、どんどん嫌な奴になって行くんだ、自分自身が。

 しかもさ、びっくりなのは伊藤だよ。知らないんだよ、あいつ。

信じられる? 俺の奥さんがどれだけ裏で動いてたとか、奥さんに唆されて、今の会社に転職して、マネージャーの仕事だってしてるくせに、そういう事に本当に疎いんだ。面と向かって言われないと……、言われただけじゃ駄目かもな、ちゃんと一から百まで全部説明されないと分からないんだよ。しかもさ『それでよく仕事できるよな』って伊藤の事まで馬鹿にしてた奴らも、最終的にはあいつの馬鹿みたいな直向きさに心を打たれたとかなんとかで、あいつ結果的に評価されてくんだよ。それなりに仕事も持ってくるんだよ。俺はずっと評価が変わらない、それどころか酷くなる一方なのにね。ああ、話がそれたな。ええと、なんだっけ、そうだ、そう。

奥さんとは丁度離婚調停中だったんだ。お互い宜しくやってたよ、外にそれぞれ恋人もいた。犯人のファンって言われてる子はさ……なんかすごいな、犯人のファンの子ってなんだ?

 もっと正確に言おうよ、俺のファンだと思われてるけど、本当はそうじゃない、只の俺の古い付き合いで一方的にセフレ扱いしていたのに離婚調停中の奥さんとその間に出来た子供を殺して犯人になってしまった挙句に自殺した女の人っていえばいいの?

 よくわからないな。よくわからないけど……、ねえ、彼女にも名前があったんだよ、ちゃんと。たいらさんで言うところの佐々木さんみたいな人だったんだよ。十二年くらいの付き合いでさ、彼女はずっと俺の事が好きで、俺はずっと利用してたんだと思う。違う、そうじゃないんだ。彼女の事は彼女の事として大事には思ってたんだけど、そうじゃなくて……、そう、こういう事をするタイプの人でもなかったんだよ。僕は彼女をコントロール出来てると思ってた、違うな、そうじゃない、これじゃあまりに酷すぎる。駄目だ、上手く言えない」


 そう言い終わると、田口の力がすっと抜けた。私のパジャマは田口の涙で湿り、ペタリと肌に張り付いていた。目の前の生き物の悲しみが、それを通り越して、私の皮膚にまで染み込み、身体中すっかりそれに染まってしまいそうだと思った。


 私は、すん。と、鼻を啜ると、「上手く言えない事は、上手く言う必要のない事だから……。でも、話そうとしてくれて有難う」と言い「いっぱい喋って疲れたでしょう? それに、今日はもう遅いから、眠ろう?」そう付け加えると、起き上がり田口の肩を叩いた。

 田口の悲しみや、不安、恐怖、それ以外の、名前のついていない様々な感情が染み込んだパジャマを着替えるためにベッドに背を向けると、田口は不安そうに「どこにいくの?」と訊き、私の腕を強く引いた。

 再びベッドの上に倒れ込むと同時、古いベッドが大げさに軋んだ音を立た。田口はそのまま私のわき腹から背中に腕を絡めると、勢いよく身体を引き寄せる。

「彼女も言ったんだ、自分は絶対にいなくならないって」

「どうしたの? 何の話?」

 田口の身体はさっきよりも酷く震え、私のパジャマに新たな染みを作った。鳩尾のあたり、田口の吐く息が熱い。私は恐る恐る田口の頭に腕を伸ばすと、そっと覆うようにして抱き締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る