第18話

※※※


 そこから一週間、田口はびっくりするほど穏やかだった。

 スーパーマーケットどころか、八百屋や精肉店まで歩いていけるようになったし、三日前は一緒に銭湯にも出かけた。食事は未だごく少量しか食べられなかったが、吐く事も殆どなくなった。一度田口がカレーを作ってくれたが、隠し味に入れると言い張ったインスタントコーヒーが隠れないままに提供され、リベンジしたいと言われたが断った。アラジンのストーブを痛く気に入ったようで、火の着け方から手入れの仕方までを教えてやった。相も変わらず塗り絵には手を付けなかったが、「久し振りに見た」という鉛筆に興味を示し、「絵は全くだめだ」という言い訳を付けて描いた四足歩行の尖った耳のついた何か――トラだか狐だか、ニャロメに良くにた猫のようなそれ――は、私から見れば、その線の崩れ方が「いかにも」といった具合で、わざとそうしたのではないかと思えるような絶妙なバランスを保っていた。「あなた、天才かもしれないわよ」そう言って、私が描いた水彩画――玉ねぎを抽象的にしたもの――の横に、田口の描いたそれを貼ると「確かに並べて飾るとそれっぽく見える」といって笑った。

 私はその間、仕事が忙しい振りをしなければならなかったので、締め切りが設けられてはいるが、まったく急ぐ必要のない絵を描き始めたものの、気分が乗らず、四畳程の部屋を潰して作った物置の掃除をしているところだった。


「手伝おうか?」

「そのつもりで始めたんだけど、やっと声が掛かった」

「なるほど。で、何をしたらいいの?」

「確かこの辺に……」

 私は備え付けのクローゼットに体を半分突っ込んだまま、ほぼほぼ使われていない手回しのろくろと、粘土、ぼろぼろになったギターのハードケースを取り出し田口に渡す。

「あなたにどんな芸術的才能があるか端から試してみようと思って」

「なにそれ」

「これ? ろくろよ、ろくろ。これなんて特に似合うと思うけど。その髪もひげも全部伸びきって、世を捨てた感じに最高よ」

「世の陶芸家に失礼だよ」

「じゃあギターはどう?

私、ニルヴァーナのスメルズ・ライク・ティーン・スピリットのイントロのリフだけなら弾けるから、それを教えてあげるわ」そう、得意げに言うと

「なにそれ」と、田口は笑った。

「元彼の忘れ物とか?」

「まさか」

「じゃあ君の?」

「そうよ」

「うわあ、ふっるいなあ」

「しかもモーリス。

でも、モーリスも馬鹿に出来ないのよ。親戚のおじさんの家で煙にいぶされて三十年もしたら、随分いい音を出してくれるようになったのよ。そして中学生だった私がそれを救出したあと、しばらく一緒に冒険をして……、またここに保護してあげていたの」

「なるほど?」

「ストロークしてみなさいよ、今にも壊れそうな音を鳴らしてくれるわよ」

 そういうと、私は田口に、マーティンの緑色のパッケージの弦と、べっこう色をしたおにぎり型の、「Fender」と箔押しされたミディアムのピックを渡した。

「ニッパーと、何かクロスみたいなものはないの?」と言うので、私は大根役者のように

「あら、あなたもギターを弾けるの?」そう返した。

「少なくとも君よりは弾けると思うよ」と、田口がギターを軽々と左手で持ち上げたので、私はいつもの田口の真似をして「なるほど」と言い、思いついたように「じゃあ、あれを弾いてよ、ペイブメントのデイト・ウィズ・イケア。あれ好きなのよ」と続けた。

「ちょっとまって、もうちょっとメジャーなものを言ってくれる?」

「割とメジャーじゃないの? じゃあ、レディオヘッドの……」

「アコースティックで弾けそうなやつでお願い」

「何よそれ、クリープだったら弾けるでしょう?」

「イデオテックとか言いそうなんだよ、君は」

「ああ、あの曲好きだわ。声が特に好き」

「ほらね」

「仕方ない、スマッシングパンプキンズのトゥナイト・トゥナイトで手を打つわ」

「なんだかな」

「じゃあ、あなたの弾きたい曲を弾けばいいじゃない」

「ところでニッパーは?」

「そんなものないわよ」

「こんなに物があるのに? ろくろなんかよりニッパーの方が普及率は高いと思うよ」

「ギターの弦なんてペグのところでくるくる巻いておけばいいのよ」

「そうじゃなくて、こっちの弦が錆付いてて取れないから」

「やだ、お坊ちゃま、そんなの素手でとれるわよ」

そういうと、私はクローゼットから顔を出し、田口からギターを受け取ると、ブリッジピンの隙間にギターの弦を巻き付け、引き上げるようにして抜けそうなピンを抜いた。一弦と四、五弦のピンが外れずにいる様子を見ていた田口が「買ってこようか?」と言うので、私はサウンドホールに手を突っ込むと、裏からピンを押し外した。

「初めて知った」

「まさか」

そう言いながら、私は田口に弦をすべて外したギターを渡すと、脱衣所から黄色の「サッサ」を持ってきて渡した。

「これで拭くの?」

「そう」

「え、なにこれ、ネックにつやが出てきたんだけど……」

「どうやら私の方が楽器に詳しいみたいね」というと、田口は「信じられない」という顔をした。


 田口がチューニングをしている間、私は物置にあった、B全のキャンバスを作業部屋に運ぶ。左右に置かれた同じ高さのコンクリートブロックの上に乗せ、壁に立てかけるようにして置くと、注文しておいたジェッソをトレーに広げペイントローラに絡めると、色の落ちた古い絵を塗りつぶしていった。二度塗りする必要がありそうだったので、乾かしている間に昼ご飯にしようとクローゼットに戻ると、田口がギターを弾いていた。私に気づくとギターを軽く持ち上げ「新曲」と言った。

「嘘よ、ビートルズじゃない」

「そう、Norwegian Wood」

「なんだっけ、バンジョーじゃなくて」

「シタール?」

「そう、シタール。あれいい音よね。買っちゃおうかな」

「ギターでさえスメルズ・ライク・ティーン・スピリットのイントロのリフしか弾けないのに?」

「バイオリンもあるわよ」

「それは弾けるの?」

「まさか。Gも弾けないわよ」

「なんで買ったの?」

「バイオリンなら弾けるかもと思って」そういうと田口は呆れ返った顔をした。

 そう、学生の頃に買った沢山のいらないものが、この物置には詰まっていた。莫大に思えた時間と、もはや逃れることが出来ないと思った孤独のふたつと仲良くするために。彼らは私が暇という餌を持て余す度、直ぐに食らい付いて来た。それらと闘う為に、随分と色々なものに手を出してみたが、続かない集中力と、言う事を利かない身体のお陰で、殆どが役を立ててあげる前に埃を被っていった。

「六角ある? だめだ、ネックが歪んでてオクターブが合わないよ」

「ああ、それならたしか……」そう言って私が作業部屋に向かおうとすると、ゴツっという鈍い音を立てて、床がほんの少しだけ揺れた。

 驚いて振り返ると、田口が胸元の服を引きちぎりそうなほどに絞り上げながら倒れていた。

「どうしたの」そういって駆け寄ると、田口は何かを言おうとしたが、声にはなっていなかった。携帯電話を取りに立ち上がろうとすると、それを察知したのか「違う、大丈夫、ここに来る前によくあったやつ、しばらくすれば治まる」と、私の腕を引っ張った。

「どうしたらいい?」そう訊くと

「ごめん、しばらく、一人にしてもらっても……」田口が息を切らしながらそう答えたので、私は、田口の頭を軽く撫でると「分った」といい物置部屋を出てドアを閉めた。

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