第19話

 物置の横に面していたのが台所だったので、私はしばらくそこで田口の様子を気に掛けることにした。折角なので、冷蔵庫と戸棚の中に挨拶をして回った後で、ハインツのホワイトソースの青い缶と、浅利の水煮の缶詰を戸棚から取り出した。冷蔵庫から取り出した人参、玉葱、セロリ、ベーコン、じゃがいもを順にそれぞれ1cm角に切る。心が落ち着かない時は、とにかく野菜を無心に切る。正しいサイズに、正しいリズムで、それらを無心に繰り返せば、いつだって多少気がまみれた。

 そんな風にして切り刻んだ人参とじゃがいもを水に晒し、ベーコンを炒める。この匂いだけで瓶のハイネケン三本は飲めそうだと思いながら、物置側についている耳を立てたが、特別何も聞こえなかった。ベーコンがカリカリになると鍋から取り出し、バターを少し加えセロリと玉葱を入れてじっくり炒める。しばらくしたら、じゃがいもと人参を入れ、軽く脂を絡めるように炒めてやる。全体に火がまわったら、浅利の缶詰の汁だけを入れ、炒めた野菜と一緒に煮込んだ。

 適当にブイヨンを投げ入れた後、足音を立てない様に物置に近付くと、ドアに耳を当て中の様子を伺ったが、変わらず何も聞こえなかった。

 あれが大丈夫だと言ったのだから、大丈夫なのだろうと言い聞かせ、ホワイトソースを別の鍋に入れて火に掛けると、牛乳を加えながら木のヘラでゆっくりと伸ばした。ソースがとろとろになると、野菜を煮込んでいる鍋に、取り出しておいた浅利とベーコンを入れ、なべ底が焦げ付かないように、ざらざらをこそげるようして混ぜる。赤ワインビネガーを隠し味に入れ、塩を振り、こしょうを捻る。それらで味を調えると、ひと煮立ちさせ、火を落とす。

 湯気の勢いが落ち着くと、鍋蓋をずらして乗せ、パンでも焼いて時間を潰そうかと思ったが、道具はすべて物置の中だった。仕方がないので残っていたベーコンを焼いて、ビールでも飲もうかと冷蔵庫に手を掛けると、物置からホラー映画等でしか聞いたことのない種類の、断末魔に面した人の叫び声のようなものが聞こえた。


 しまった。


 私は畳んで入れておいたタオルを取り出すと、それを自分の左手に巻きながら物置の戸を開けた。目に飛び込んできた田口は痙攣を起こしており、私は部屋の明かりを消すと、田口の口に、タオルで巻いた手を入れ、口を開かせる。左指に田口の歯が食い込み、私は思わず眉間にしわを寄せ、田口を抱きかかえるようにして右手で背中をさすった。

 口の隙間から泡のようなものが床にぽたぽたと落ちる。「大丈夫だよ、大丈夫」そういって私はきつく目を閉じた。

 数分程で、痙攣は収まり、私は、ゆっくりと田口の口から手を引き抜くと、両腕で緩く田口を抱き締め、ゆっくりと背中を叩いた。「息吸える?」そう訊くと、力なく頷き、額が私の肩に当たった。

 その間、私も田口も、一言も言葉を発さなかった。田口はぐったりとしており、私は全身でその重みを受け止めていた。しばらくすると、「さむい」と言うので、立てる?と訊くと、田口は私から体を離し、力を入れようとしたが上手く行かない様だった。「少し待ってて」そういって田口を床に横たわらせると、私は作業部屋からあらかたを運んだ。

 運び込んだクッションを頭の下に入れ、大判のブランケットを身体の下に入れると、足元から少し離れたところにヒーターを置き、リビングからもブランケットを運ぶと、田口の身体の上に掛けてやった。私はその横に腰を下ろしながら「寒くない?」と訊くと、田口は頷いた後で「なんか慣れてる」と、力なく言った。「昔働いていた会社にね、てんかん持ちの子が入ってきて、みんなで研修を受けたのよね。後はまあ、昔付き合っていた子が、精神的なものからくる発作を起こしたりしてたから……。なんにせよ、大事がなくてよかったよ」そう言って、田口の頭を掌で軽く叩いた。

「あれ? たんこぶが出来てる」

「最初に倒れた時のかな」

「痛い?」

「わからない。でも頭痛が酷い」

 思いのほか意識がしっかりしたようだと安心し「薬持ってくるよ」というと「なんの?」と訝しむので、私は笑いながら「ロキソニンくらいなら問題ないでしょ」そういうと、田口は目だけで頷いた。


 ロキソニンとヴォルビックを片手に物置に戻ると、田口は眠っていた。

 私は念のため近くに寄り、寝息を確認すると、扉を開けたまま、台所でクラムチャウダーの入った鍋を火に掛ける。

 温め直したそれをマグカップに注ぐと、立ったまま食べ、しばらく田口を眺めていた。

 そういえば。今日は一度も伊藤さんに連絡をしていない事に気づき、携帯電話を確認すると、佐々木さんから着信の履歴が表示されていた。予定を連絡すると言ったきりだったことを思い出し、私は外に出るとまず最初に佐々木さんに電話をして詫びを言った。簡単に経緯を説明すると、それなら仕方がないけど、すっぽり忘れられるのも寂しいですよ、と佐々木さんは言った。佐々木さんの、人懐こい、なのにさっぱりとしている声を聞いていると、私は彼女の耳元で切りそろえられた艶やかな黒髪と、紫檀色に塗られた綺麗な楕円の形をした、つるりとした爪を思い出した。つい最近の事なのに、それは酷く昔の事のような気がして胸が焦がれる様だった。

「パチさん?」と、佐々木さんの心配そうな声が耳元で揺れる。

「ごめん、なんか、自分でも思っていた以上に滅入っていたみたい」

「持ってかれたら駄目ですよ」

「どうだろう」

「困りましたね」

「困ってる……、の、かもしれない」

「仕方ない、私がとびきりの魔法をかけてあげます」

「魔法?」

「パチさんは、何があっても大丈夫」

「何それ」

「だって、誰も大丈夫なんて言ってくれないでしょう」そう言って佐々木さんは笑った。「大丈夫っていう言葉はね、他人から掛けて貰う言葉であって、自分で言うべき言葉じゃないんですよ。そして、私から見て、パチさんは大丈夫だから、大丈夫って言いました。嘘じゃないですよ」普段よりずっとゆっくりとしたペースで佐々木さんがそう言うので、私は電話越しに頷くと「ありがとう、本当にそんな気がしてきた」そうお礼を言って電話を切った。

さっきまであんなに明るかったのに、空にはもう星が浮かんでいた。田舎のそれより数はずっと少ないが、オリオン座だけはしっかりと確認できる。

 私はしばらく悩んだ後、伊藤さんに電話をかけて、今日の発作の事を報告した。

「最近は調子が良かっただけに……、なんか……、くらいますね……」そう彼は素直に言った。「すみません、それに未だ何も聞き出せてなくて……」そう謝ると「それはこっちも同じですよ。というより、預かって貰って、面倒まで見てもらっているのにパチさんが謝る事、何もないです。本当によくしてもらって……、有難う御座います」そう返された。

 伊藤さんの計らいで、田口は今、伊藤さんの家で面倒を見ている事になっていた。伊藤さんの言っていた通り、会社と多少揉めはしたが、なんとか“そういう方向で”という事になり「なんとかって何なんですかね」と伊藤さんは皮肉そうに言っていた。


 そういえば。

「あの、田口さんって、ビートルズが好きだったんですか?」

「へ? ビートルズ?」

「今日、家で古いギターを見つけて、田口さん、ノルウェーの森を弾いてたんですよね」

「え? あいつがギターを?」

「そうです、そのあとすぐに倒れてしまったんですけど……」

 伊藤さんは、ギターを弾いたことと倒れた事に何か関係があるのではないかと暫く悩んだ後で「ああ、そうだ、あいつがビートルズを好きかどうかですけど、そんな話は聞いたことないです。とはいえ、最近あいつが何を聞いてたかも知らないので言い切れはしないんですけど……、学生の頃は、ジミー・イート・ワールドとか聴いてましたよ、マーズボルタとか。田舎のバンドが好きな高校生らしく」と私の質問に答えてくれた。「田舎のバンドが好きな高校生って、ハイスタンダードあたりを聴くんだと思ってました」と私が真剣な声色で言うと、伊藤さんは笑いながら「それは偏見だけど、ほら、あいつ昔からちょっと影があったから、そういうはつらつとした感じではなかったですよ」と言った。ちょっと影がある男子高校生がジミー・イート・ワールドを好むのかどうかは、さっぱり見当もつかなかったが、田舎の高校生のちょっとした影の心当たりを探してみると、腑には落ちる気がした。

 私は「面倒を見てくれそうな家族はおらず、ちょっとした影があり、足の裏に土星のタトゥーを入れる様な高校生」を想像し、身近に似たような人がいないか記憶を遡ったが、心当たりもなければ、見当たりもしなかった。そう思った瞬間、チカリと何かに障った気がしたが、それが何かは分からなかった。

「ギターは田口さんの傍に置いておかない方がいいですかね?」

「悩むところですよね。復帰に繋がるなら……、とも思うんですが、今日の発作の引き金がギターかもしれないという可能性を考えると……」

 沈黙の間に私は煙草に火をつけ、煙を吐く。それが勝色の空にばら蒔かれると、それが煙なのか、自分の吐息なのか区別がつかなかった。


 取り合えず様子を見よう。という事でしか話が落ち着かず、私もそれに同意すると、伊藤さんは、担当しているアーティストのレコーディングに入るので、二、三日、電話が思う様に取れないかもしれない事。急を要する事が起こった場合は、三回着信を残して欲しい。といった事を言い電話を切った。

 私は部屋に戻り、田口が変わらず寝ているのを確認するとバスタブにお湯を張った。私の身体は思っていたより冷え切っており、四十二度のお湯が、馬鹿みたいに熱く感じた。

 透き通った白藍のようなお湯を無意味に指で掬いながら、私はまたいつかの記憶を引っ張り出す。

 手袋みたいだな。そう思っていた。入口がぽっかりと大きく空いているのに、来た道を何度引き返しては、また前に進もうとやり直しても、結局全部行き止まってしまう。自分の人生は、まるで手袋みたいだな。と、今よりずっと昔の私はそう思っていた。その事を思い出すと、私は酷く心細くなった。

「持ってかれたら駄目ですよ」

「どうだろう」

 思い切り息を吐き切ると、その分をしっかり吸い込む。私はそこで息を止めるとバスタブに頭ごと沈む。


「パチさんは、何があっても大丈夫」


佐々木さんの声を、繰り返し、繰り返し、思い出していた。


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