第23話
頂上に着くと、田口はへたり込み息を整えていた。「展望台は人が居そうだから、ここで休んだら、少し下ったところでご飯を食べて帰ろうか」と言い、私は老夫婦からもらったチョコレートを手渡した。見た事もないチョコレートだったが、これがびっくりする程おいしかった。
私たちは来た道を下り、足場の良い所を見つけると、新聞紙を敷き、二人並んで腰を下ろした。
リュックサックからカップヌードルを取り出すと、シーフードと醤油味を並べ「どっちがいい?」と訊いた。
「シーフード?」
「なんでそこまで疑問文なのよ」
「いや、悩むよね、どっちも捨てがたい」と、本当に悩み始めたので
「じゃあ半分ずつ食べよう」そう提案すると
「賛成」と田口は真顔で言った。
ステンレスボトルのお湯をカップの線より少なめに注いで蓋を閉めると「線まで入れないの?」と訊くので「山ではお湯が捨てられないから、飲み干せる量を入れるの。それに汗を掻いているから、多少濃くてもおいしく食べられると思うよ」と答える。三分が経ち、もう良いよ。と箸を渡すと、二人とも無心で啜った。お湯がぬるかったのか、麺がすこしパリパリとしていて、お世辞にもおいしいとは言えなかったが、山頂付近で食べるそれには特別感があり、二人ともたまらないという顔をした。
「なんだか今日は驚いてばかりだよ」
「なぜ?」
「美大生っていったら、もっとこうインドアな人たちだと思っていたから」
「それは人に寄るでしょう……、それならあなたは私の想像するバンドマンそのものだわ」
「どういう意味? バンドマンは繊細だから言葉には気を付けた方がいいよ」
「逆よ、逆。繊細だったらどんどん傷つけていかないと。そうすれば丈夫になるんじゃないの」
「傷つけて丈夫になるのは筋肉だよ」
「そうじゃないわよ、強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。って、言うじゃあない」
「それはすごく理解できるな。だれ?」
「村上春樹」
「それも意外だ」
「なぜ?」
「だって友達……、伊藤っていうんだけどね、そいつが『村上春樹の作品の主人公は夜中に意味もないのに冷蔵庫を何度も開けたり閉めたりするし、ものすごく簡単にいろんな人とセックスしてるんだよ。田口には分かる?俺には良くわかんないよ』って、そのイメージしかなかったから」
「それはまた」
「変な奴なんだよ。悪いやつじゃないんだけどね。でも昔は苦手だったな」
「なんで?」
「透けて見えたからかな」
「ふむ」
「でもね、良い奴なんだよ、好きなんだよ。ある程度の信用もしてる、でも頼りにはしてない、当てにもしない」
「どうして?」
「透けてるからかな」そう言うと、田口は思い出し笑いをするようにして言った。
「俺が入院した時もさ、一番に駆けつけてくれて、暇さえあれば見舞いに来てくれたんだけど、もうさ、全部が顔に出て言葉に出るんだよ。良い奴だよ、悪い奴じゃない、好きか嫌いかと言われれば好きだ。でも……」
「でも?」
「俺はあいつに嫌われたくないんだよ」
田口はそういうと、醤油と交換してよ。といって、私の食べ掛けを啜った。田口はさっき言ったばかりの自分の言葉をかき消すように「筋肉は裏切らないっていうけどさ、速攻で見限って裏切られたよ。ちょっと飯が食えなくなって寝た切りになっただけで、見てよ、これ」そう言って洋服の袖をめくりあげた。
「可哀そうに、同情してあげる」そう言うと「じゃあキスしてよ」と私の腕を引っ張った。目の前の行儀よく並んだ二つの目玉が、長く伸びた前髪の隙間から私の姿をしっかりと捉え、つい三秒前まで私の下敷きになっていた新聞紙が、風を孕み、短く、乾いた音を立てる。
「やっぱり先週、強く頭を打ちすぎたんじゃない?」
「冗談だよ」そういうと、田口はひょい。と、腕を掴んでいた手を離した。
「ねえ、こういう時キスをしたらカップラーメンの味がするっていえばいいの?」
「そうだね、舌を絡めたら、かやくの味がしたとかで良いんじゃない?」
「あなたのバンド、絶対そんなに売れてないでしょう」
「なんで?」
「そんな私情つらつらソングが流行るとは思えないわ」
「そうかな、とても共感されると思うけど」
私は大げさにため息を吐くと「まずい」と言った。
「どうしたの?」
「急がないとタクシーが来ちゃうわよ」そう言って、カップラーメンを食べきると、ゴミをまとめて、ビニル袋の蓋をしっかりと結んだ。
私は先に立つと、余計な事を考えないように無心で歩いた。途中、無心で歩き過ぎた事に気づき、振り返って田口が付いて来ているか確認すると、私より少し離れた場所で富士山を眺めている様子が見えた。
「たぐ」と声を張りかけて、「ねえ!」と言い直す。聞こえなかったようなので、もう一度声を張り上げると突風が吹いた。その風が僅かな時間差で田口のところに届く頃、やっとこっちを見て手を振った。
自殺のようなものに失敗し、数メートルを歩いただけで息が切れ、突然断った薬の所為で、完全なる不眠に陥った頃、何とか少しでも現状を打破するべし。と、私は毎日狂ったように歩き続けた。最初は百メートルから始め、息が切れなくなると、その距離を伸ばした。何日も、何日も、一日何時間でも歩いた。真剣に歩けば歩くほど、余計な事は考えなくなり、くたくたに疲れたら、それなりには眠れるようになった。そんな生活を続けたある日、自分を試そうと一人で来た山がここだった。小さい頃は親に連れられ、達磨石まで良く登ったが、その先がどうなっているかは知らなかった。ただ、試そうと思った割に、いざ電車に乗れば不安になり、結局一番楽だと言われる裏山のコースから登ったのだが、それでも山を下りる頃には、私は充実感でいっぱいだった。
田口は「ごめん」と言って、こちらに駆け寄り「そんなに良かった?」と訊くと「とても」と言った。私たちは歩幅を合わせて山を下り、股のぞきまで戻ると、手を繋ぎ並んで歩いた。達磨石に近づくと、私は田口に棒を捨てるように言った。「そうすれば次に誰かが拾って使うから」と。
達磨石まで戻ると、運転手が外で煙草を吸っていた。私たちの姿を見つけると「三つ峠駅でいいけ?」というので「近くて申し訳ないのだけれど、グリーンセンターまでお願いできますか」と言った。「あんたらそっからどうするでえ」というので、近くに知り合いの家があるから泊めてもらうのだと説明した。運転手はその後も何かぶつぶつ言っていたが、あまり良く聞き取れなかった。グリーンセンターで降ろして貰い、館内に入ろうとすると「今度は何をするの?」と田口は不安そうに訊いた。「温泉に入るのよ」と答えると「よかった」と、心から安心するように言うので、私は思わず笑いそうになった。
十七時から食堂の営業が始まるというので、一時間後に食堂で待ち合わせをし、それぞれ浴場へ向かった。私は髪と身体を洗い、さっと露天風呂に入る。ああ言ってはいたけれど、私も久しぶりの登山だったので、足がぱんぱんになっていた。
温泉を出ると、髪を乾かし、私は食堂で瓶ビールを注文した。グラスにそれを注いでいると田口がやってきて「ずるいよ」というので、私はグラスをもう一つ貰った。たぷたぷと音を立てて注いでいると「普通逆じゃない?」というので「何が?」と目線をビールから外さずに訊く。
「こういうのは先に男が出て、女を待つんだよ」
「それは神田川でしょ、今は令和よ?」
「時代の問題じゃないんだよ」
「変な所だけ古臭いのね」
「ところで、この後はどうするの?」
「親戚のおばさんの家に行くのよ、ここから歩いて十五分、二十分くらいかな……、もう少し頑張れる?」
「そこは頑張るよ」
私は田口に渡しそびれていた新しい下着や靴下の入った袋を手渡すと「そのリュック、なんでも出てくるね」と言い「女の子はみんな、ムーミンママの黒いバッグに憧れてるのよ」と答えた。
「なんだいそりゃ?」
「彼女のバッグの中身はいつだって的確で無駄がないの。その時一番で本当に必要な物が出てくるのよ。あの谷で何かが起こったとき、唯一生き残れるだけの能力と知恵があるのよ、ムーミンママには。それでもママには頓珍漢なパパが必要なのよ。不思議よね。でもあの作品を見てると、なんとなく分かる気がするの」
「よく分からないな」
「ムーミンのDVDも小説も、村上春樹のそれも、全部あの物置にあるから、暇なときに見てみればいいわ」そう言うと、私たちを探していたらしいスタッフが「タクシーが来ましたよ」と声を掛けてくれた。
「え?歩かないの?」
「駄目よ。湯冷めしちゃうじゃない、ここの夜は酷く冷えるのよ、一刻も早く家に帰るべきだわ」そう言って私たちはタクシーに向かった。
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