第4話

 私は所謂絵描きのようなもので生計を立てている。
五年程前までは、オブジェアーティストを目指し、食べることさえ困る毎日を過ごしていた。きっかけは六年ほど前に開いた、自身のオブジェの展示会だ。それは大それた展示会ではなく、吉祥寺の小さなアトリエを数日借りた程度のもので、作品の搬入を終えた時、オブジェの下に何か布を敷いた方が良いのでは。と、アトリエのオーナーから提案があり、駅前の生地屋で適当に買った安い布にアクリルガッシュで適当な絵を描いたものを使用した。すると、たまたま展示に来ていた海外の有名ブランドのスカウトの目にその適当な布に描いた適当な絵の方が留まってしまったのである。

 当時の私は「日銭が稼げるのであれば」と絵描きの仕事を始めたものの、気付けばそちらの方で手一杯になってしまい、オブジェと呼べるものは、今はもう作っていない。


 絵を描く事は自宅でも出来るが、私はあまり陸ではない人間なので、一度家の外に出て自分を切り替えないと、あまり物事を上手く進めることができない。


 顔を洗う、服を着替える、髪を束ねる、靴を履く、家のドアを開ける、外の空気を体に染み込ませる、歩く、目的のある場所に移動し、また別のドアを開ける。


 ここまでが一つの呪文になっていて、その呪文が一つでも欠けた日は、私はマトモな人間の振りが出来ない。


 家と職場の往復の中に、絵を描くことがあり、時々メールのやりとりがあり、二十四時間のスーパーマーケットがあり、商店街があり、パン屋があり、惣菜屋がある。人恋しくなる夜が無いわけではない、そんな時にテレビをつける。出来るだけ、無意味で、賑やかそうなものを選んで、観るともなくその音だけを雑音として聞き流す。それだけだった私に、やはり田口博之の存在を知る要素は何処にもなかった。



 マンションのある手前の駅で電車を降りて、一駅分歩く。日中に仕事場に行く日は必ずそうする様にしている。絵を描くには体力がいるし、何より、移ろい行く景色の中の何かを切り取らなければ、絵を描くためのモチーフさえも見つけられない程、私の中には描きたいものが存在していなかった。それでも一度「箔」がつくと、おかしなことに、それなりの仕事が、それなりに貰えた。適当な線と色を重ねただけの、情熱も技術も思想もないのにそれなりの値がついてしまった。そのせいで、(正確に言えば、その事と、元々の私の性格と言動も加わって、)かつて貧乏生活を共にしていた、数少ない友人と思っていたうちの一人は私を妬む様になり、一人は私自身に興味を失ったと面を向いて報告してくれた。もう一人は金蔓として私を扱うようになり、気づいた時、私の周りには、友達と呼べる人は誰もいなくなっていた。


 そしてその事に一々傷付ける程、私はもう若くはなく、老いすぎてもいなかった。



 昨日の雨で、幾許かの銀杏の葉が歩道にはりついている。私はそれを、頭の中で一度オブジェに変え、そこから色と形を崩して線に直していく。「色を線にしていくんです」と言ったところで、「(芸術家)ぶっている」と言われるが関の山なので、実際に声には出さないが、私にとって絵を描くというのはそういう事だった。


 今日描かなければならない枚数のうち、いくつかイメージした絵を頭の中から追い払う。これじゃあまるで、何処かの駅ビルに入った二十代後半の女性向けアパレルブランドのそれっぽいワンピースの、それっぽいテキスタイルじゃないか。と、ため息をついた。

 商店街のお店がちらほらとシャッターを上げ始めていたので、八百屋で大根と蕪、三つ葉を買い、精肉屋で鶏胸肉を挽いてもらう。ささみ等の脂分の少ないものを選び、追加で注文したあと、量販店で、男が着られそうなパジャマ等を買う。とはいえ、男がもうマンションにいない事も想像できたので、そうであれば、自分の作業着にでもしようと、袖がだぶつかず、なるべく動きやすいものを選んだ。



 仕事場のマンションに着く頃には、私の両手はビニル袋が七つもぶら下がっていた。
玄関の鍵を開けようとすると、逆に鍵がかかったので、もしかしたらもう男は出て行ったのかもしれない。と思ったが、どうやら昨日の気が動転したままの私が掛け忘れただけの様だった。


 押し開けたドアの先には、スリッパ科・サンダルもどきがあり、テーブルの上には一万円札がそのまま乗っている。部屋の中はストーブの焦げた匂いと、内臓が疲れている人から漂う、あの独特の臭い、そしてわずかにアルコールの匂いが入り混じり、視界が曇ってしまいそうな程に、もわりとしていた。



 部屋にあがり、ビニル袋を床に下ろすと、布の擦れる音が聞こえ、ベッドの掛け布団の膨らみが動くのが見えた。


 ベッドの近くに寄ると、微かな寝息が聞こえたので、足音を立てぬ様、その横を過ぎると
換気のために窓を開け、ストーブの上の琺瑯のタライに、なみなみと水を足した。

 バスルームに置きっぱなしだった病衣を洗濯機に入れ乾燥にかけると、私は台所に移動してお粥を炊きはじめる。


 野菜を刻み、挽肉を出汁で煮詰め、お粥にそれらを加える。最後に溶き卵と細かく切った三つ葉を乗せると蓋を閉じ、私は男を起こしに行った。



 起き上がる時だけ手を貸したが、男はよろけながらもひとりでテーブルまで歩き、ソファを背に、床に座ったので、私はお粥とそれを入れる様の茶碗、れんげを目の前に置くと、今日のノルマだから食べる様にと伝える。



 有難いが、食べれる気がしないというので、食べないと警察か病院に連絡するというと、男はしぶしぶ土鍋の蓋をあける。一口、一口、本当にゆっくりではあるが、お粥を口に運ぶのを見届け、
「奥の部屋で仕事をしているから、用が出来たら呼ぶように。辛かったら寝ても構わないが、出来るだけ起きておいた方が今日の夜寝付けると思うから」と言い、商店街で買ってきたばかりの、見慣れたアニメのキャラクターがプリントされたぬりえと、十二色の色鉛筆を「暇潰しに」と言ってソファの上に置き、煮出しておいた粗熱のとれた麦茶をマグカップに注ぎ、一つを男に渡すと、もう一つを手に持ったまま、私は奥の部屋の扉を開けた。



 私は足元のヒーターのスイッチを捻り、スタンドライトの灯りをつけると、板に水張りしたケント紙に、昨日見たタクシーの窓ガラスにしがみついていた雨に弾かれて行った色を、3Bの鉛筆で線に落とし換えていった。



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