第14話
あらかたの買い物を済ませ帰り道を急ごうとした時、商店街に嗅ぎ慣れない匂いが漂っている事に気付いた。それは新しくできたお店のもので、鼻先を鳴らすと、どうやら焦げたソースの匂いの様だった。
軟らかく煮た鍋焼きうどんを食べた以来何も食べていなかった事を思い出すと同時、私は酷い空腹に襲われ、殆ど吸い込まれるように店に並ぶと、たこ焼きととん平焼きを買った。
引っ越しをして、作業場を南口に設けてからは、駅前のスーパーマーケットで買い物を済ませるようになってしまい、学生時代に住んでいた北口の商店街には殆ど足を運ばなくなっていた。折角だし、あの頃の好物だった焼き鳥も買って帰ろうか。そう思ったが、ずしりと腕に重くのしかかったビニル袋が、私の足を引き留めた。
私は、伊藤さんとの会話で、自分が言った事を振り返りながら、
そういえば、どういった理由で私はあの子に振られたのかと引っかかり、正確度七十パーセント程の記憶をぺらぺらと捲った。そうして「あなたはひとりでも大丈夫だよ」たしかそんなような事を言われたのだ、と思い当たる。一人では大丈夫じゃない生き方が出来ない程、私は自尊心が強かったし、自分がしっかりしなければ、共倒れしてしまうと思い踏ん張っていたのに、そんな理由で振られるなんてあんまりだ。と、あの頃は落ち込んだ、その事もセットで。芋づる式に。
おそらく。私や、あの子のような種類の人間は、自分がしっかりしないといけない。そう思う相手と居る事で、しっかりしている振りが出来るのだと思うと、田口の場合を考える。もし、田口もそういう種類の人間だとしたならば?
おかしなことに、考えれば考える程、伊藤さんが田口を預かる事はあまり正解ではないような気がしてくる。
小雨が降り始めたので、私は駆け足で作業場に戻ると、その気配に気付いたのか田口は少し怠そうに目を覚ました。仕事のスケジュールが詰まってしまったので、しばらく自分もここに泊まる事になるが平気か訊ねながら買ったものを床に下ろすと、むしろ自分が邪魔なのではないかと言うので、私はまさか。と、答えた。
そして私は、部屋の窓が閉まっている事に気づく。
「窓、閉めてくれたの?」と訊くと
「寒かったから……、まずかった?」と言う。
私は、たかがそれだけでとても嬉しい気持ちになり、思わず笑顔をこぼしそうになったが、すぐに、表情を元に戻し「いや、閉め忘れていたから、有難う」と礼を言った。
こういうものは、一進一退する。小さな変化に浮かれると、自分も相手も辛くなる。期待が籠ってしまった言葉や態度は知らず知らずに人を確実に追い込むことが多いのだ。こういう場合は特に。
そんな私の一人相撲をよそに、「なんだか、良い匂いがする」と田口が言う。
「ああ、たこ焼きととん平焼き。食べれる?」そう訊くと
「食べたいな」と言った。
私が市ヶ谷に行って戻ってくる間に、田口の中身が誰かと入れ替わったのではないか。と思ったが、やはり目の前に居る男は田口だった。
とん平焼きとたこ焼きを半分ずつ、そして缶ビールを飲んだ。その三十分後、全部戻してしまったからだ。
「せっかく買ってきてくれたのに、ごめん」と、ベッドに横たわったまま田口は言った。
「やっぱり重かったかな」と訊くと
わからない。という風に首を振った。リビングには、ソースの匂いが未だ残っていて、その所為か、田口は終始鳩尾のあたりを抑えながら、厭な咳をしていた。
「喚起するから、寒かったら教えて」そう声を掛け、ベッドに横たわっていた田口に布団をかぶせると換気の為に窓を開けた。田口はその様を目で追いながら
「俺、良くなるんですかね」そう口を開いた。
「そりゃあ……、なるでしょうよ」私はベッドに腰かけて、田口を見下ろしながら答えた。
「適当だなあ」
「そうでもないよ」
「そういえば、あなたはどうやって良くなったの?」
私が、何の話かと首をかしげていると
「最初の日、そう言ってたから」と、田口は言った。
「なんだ、あの時の話、聞こえていたの? 驚いた」私がそういうと、田口が微かに笑うような息を吐いたので、私は少し考え込んでから「気づいたらよね」と答えた。
「私の場合は……、特別な不幸があったとかじゃなくて、良くある、それなりで、そこそこな不幸がいっぱいあったのよね。そういうものが蓄積して行って、何か引き金の様な物を引いたのよ。それである日突然、可笑しくなっちゃったの。
その後は、正直もうあまり覚えていないのだけど、何年も何年もずっと苦しかった事だけは覚えてるわ。でも、毎日ずっとそうという訳でもなくて、今日は穏やかだなっていう日もあれば、とてもじゃないけど耐えられないと思う日が何日も続いたりね。そういうのを、何度も何度も繰り返して……、気付いたら少しずつ良くなっていたんだと思う。特別な事は何もしていないけれど、小さな何かを積み重ねていた気はする」
「小さな何か」と、田口が繰り返したので
「例えば、お酒を呑み過ぎないでも眠れるようになるとか」
「ごめん」
「え?」
「いや、その、お酒……」
「ああ、好きに呑んでは良いといったけれど、呑みすぎないようにとも言った気はするのよね。でもそれはあなたの身体を思って言った事だから、謝って欲しい訳じゃないの」そう言いながら、私は棚にあったはずの、今では空になった酒瓶たちを眺めると、田口は少し決まりが悪そうな顔をした。
私は、こんなに表情の動く田口を見るのは初めてだった。たった数日居合わせただけだというのに、伊藤さんの話を聞いたばかりだったからか、そんな事で私の薄っぺらい胸が苦しい程に詰まった。
「まあ、お酒の力でもなんでも借りて眠れるなら私は良いと思う。けど、そういうのは日常にしない方がいいわね」
「できるかな?」
「できるよ」
「どうやって?」
「ただ疲れ果てるまで動くのよ。シンプルに」
「そんな風にして眠った先で見るのが悪夢でも?」と言った田口の顔は、私の良く知る、いつもの田口の顔だった。
「それならひとつ方法がある」私がそう言うと、嘘だと決め込む様に、田口は眉間に皺を寄せたので、「下手な夢も良い夢も見られない程に疲れるといい」そう教えてあげたのに
「ループ」そう田口は溜息交じりに吐き捨てた。
「身体も心も頭もね、良いバランスで使った日って、そういう変な夢は見ない気がするのよね。まあ言うのは簡単だけど、するのは難しいのも分かる。
ああ、駄目だ、私の仕事が落ち着いたらね。色々試してみよう」そう言って、布団越しに田口の肩を叩くと、リビングの明かりを消し、私は作業部屋のドアを開いた。
ドアの前には、いつもと違う位置にイーゼルが置かれていた。
それは、今日の私の一日をしっかりと表した作品のように見えた。
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