第33話
私は伊藤さんに連絡をし「田口の様子が、もう私ではどうにもならないので、明日、車か何かで私の仕事場まで迎えに来て欲しい」と伝えた。それを聞いた伊藤さんは今すぐにでもやって来そうな勢いだったので、私の仕事の都合で申し訳ないが明日でお願いしたいと説明をした。
「最後に何か食べたいものはある?」そう訊くと「最後って……。そういう感じなの?」と田口が言うので「別にあなたが私に用があればこれからも電話でもなんでもしたら良いのよ。この家で過ごす隠居生活の最後に何が食べたいか訊いてるの」そう呆れて言った。
田口が最後に選んだのは、出汁巻玉子とぬか漬け、滑子の味噌汁に鮭と焼き鱈子のおにぎりだった。
「それじゃ朝ごはんよ」と言った後で「昨日までまともに食べてなかったのに、平気なの?」と訊くと「明日からまた戦だからね、それに莫迦みたいに泣いたせいかな、物凄くお腹が空いてる」と言うので、私は朝ごはんにそれを作り、夜はまた別のものを作る事にした。
「ああ、やっぱり旨いなあ。」そう言って、滑子の味噌汁を啜ると、ブロッコリーの芯の糠漬けを齧った。「あの人が作るのってさ、味噌汁だけじゃなくて、全部が奇跡的な味がしたんだよ。付き合い立ての頃は毎日未知との遭遇だったな。俺の作るコーヒーカレーの方が格段に旨いと言えたね。結婚してからは……、殆どしなくなったけど、あれはあれで悪くなかったんだ。上手く行かないもんだよね。」そう言う田口は、何かが吹っ切れた様に見えた。そしてふと「結婚してからって事は、あなた今までご飯どうしてたの?」その事に思い当たり訊いてみると
「なんかさ、レンジで温めるだけで、ちゃんとそれなりに定食っぽくなるやつがあるの、知ってる? それを、俺と子供の分だけ注文して、本人は良く分からない変な色の飲み物を飲んでたよ。だからこういうご飯って、君にとっては『高が』かもしれないけど、俺の中では理想なんだよ。理想的朝食。」そう言って笑った後で「ねえ、佐々木さんの名言集だっけ? それ届いたら俺にも見せてね」と付け足した。
「何? あなたの歌詞に使うつもり?」と言うと
「ああ、それもいいな」と笑った。
すっかり元の田口だ。と、思ったが、私はそもそも元々の田口がどんなものか知らなかった。知っているとすれば、両親を早くに亡くし、裏表のない性格の親友に気を使われ、影を纏う様になってしまった結果、ジミー・イート・ワールドとマーズボルタを聞くようになった高校生の田口――しかもそれだって、伊藤さんと田口から聞いたもの――を私が勝手に想像したもの位で、それは正直に「何も知らない」と言い切った方が正解そうな代物だった。
「長く居座ったお礼をしないと」と言い、田口はモーリスのギターと、アラジンのストーブのメンテナンスをした。「よくアラジンのストーブの分解方法知ってたわね」と感心して言うと「この日の為に動画を見てずっと勉強してたんだよ」と恥ずかしそうに言った。
ついさっきまで、身体中の水分が涙になって、田口がカラカラのミイラみたいになったらどうしようと思っていたが、カラカラになったのは、田口が抱え込み続けたうちの何かで、私はこのまま色々な事が、きちんと、なるようになる。そんな気がした。雨も上がり、気持ちよく晴れた十二月の空はここ数日のどうにもならないと思い込んでいた私の気持ちまでも軽くしてくれる様だった。
「ねえ、それよりあなた、自分のメンテナンスをしなさいよ。ここ数日お風呂にも入っていなかったし、髪も伸び放題で、シザーハンズのエドワードみたいな髪型になってるわ。明日伊藤さんに会うなら床屋にでも行ってきなさいよ」
「洗って結べばそんな気にならないよ。ゴムとかあったら貰えないかな。」
「じゃあ先にお風呂に入って来て、探しておくから」
「そういうのは物置にないの?」
「小さすぎる物はそう簡単に見つからないのよ」
そう言って田口をバスルームへ追い立て、久し振りにカレンダーというものに目を向けると、今日がクリスマスだという事に気付く。
「ねえ、大変よ、クリスマスが終わっちゃうわ」田口がお風呂から出るなりそう言うと、首根っこを掴んで物置へ向かった。
「こんな物まであったなんて……、この部屋の時空は歪んでいるの?」と田口は真顔で言った。
「馬鹿ねえ、歪んでなくても入るわよ、これくらい」そう言って私は、田口の背よりも高いクリスマスツリーをリビングへ運んだ。
「このオーナメントは君が作ったの?」
「そうよ、学校の卒業制作でね、死ぬかと思ったわよ。予備も含めて百二十個作ったの。お金もないから、木材屋さんで木の切れ端を貰い歩いて……、まあとにかく思い出すだけで疲れる位には大変だったわ。」そう言いながら、田口にツリーの飾りつけをさせていると
「ねえ、これ一個貰えないかな」そう言うので
「いいわよ、一個くらい」そう答えると、石膏で型を取り、シルバーで細工をつけたボール状のものを選んだ。
「ねえ、申し訳ないんだけど」
「何? やっぱり駄目?」
「今日の夕ご飯、あなたのリクエストには答えられないわ」
「なんだそんなこと」
「私、これから買い出しに行ってくるけど」
「俺も手伝うよ」そう言うのをしっかりと聞き届けると、私は田口を連れ、商店街には向かわず、環七でタクシーを拾った。田口はその時点になって漸く気づいた様で「家に居れば良かった」と言った。
何の予約や準備もしていなかった割に、新宿、荻窪、吉祥寺を回ってマンションに戻る頃には、一通りのものが手に入った。私はそれに対し、機嫌よく鼻歌をまき散らしていると「君さ、陸に寝てないからちょっと可笑しくなってるんじゃない」と言うので「折角忘れてたのに」と文句を言う頃には、疲労が両肩に手を置きかけていた。私はそれを勢いよく払うと「クリスマスソングの一つでもかけましょうかね」と声に出した。
「君のパソコンにそんなの入ってた?」と言うので「ワム!のラスト・クリスマスくらいならあったはずよ」と答えると「まさかそれをエンドレスリピートするつもりじゃないよね?」と言うので、私がじっとりと田口を見つめると「ノイローゼになっちゃうよ」と絶望的な顔をして言った。
「冗談よ、明るければなんでもいいのよ、こういうのは。古めかしいと尚良いけど」
「ラスト・クリスマスは失恋ソングだよ?」
「もうその話は終わったわよ、そもそも冗談よ。クリスマス関係なく明るい曲だったらなんでも良いわよって話」
「ジャクソン・ファイブとか?」
「そんなもの入ってないわよ、私のパソコン見たんでしょう?」
「YouTubeでいいじゃないか」
「何それ?」
「嘘だろ?」
結局私たちは、ビートルズのラバーソウルを流すことにした。「このツリー、ノルウェートウヒっていうヨーロッパ原産の常緑針葉高木を再現して作ったやつなの。ぴったりでしょう?」
「なのかどうかは判らないけど、やっと折り合いが付いて良かったよ」そう言う田口は既に疲れている様で、もう何でも良いとでも言いたげだった。
曲を決めるだけで三十分も言い合うとは思っていなかったと首を鳴らすので「それよりそろそろ魚が焼きあがるから、さっさとそっちも準備して」そう言うと、田口に買い込んだ食材をテーブルに並べて貰い、私は急いで焼いたローストビーフを薄くスライスし、焼きあがった鱸にオレンジワインとサフランで作ったソースを添えた。それらをテーブルに運び、テタンジェのシャンパーニュの栓を抜く。
「ローストビーフってなんかもっと大袈裟にやらないと出来ないと思ってた」
「思い込みって怖いわね」
「それも何、また高いやつなの?」私がシャンパングラスに注いでいるボトルを指差して訊くので「キャバクラで頼むヴーヴ・クリコよりは安いわよ」と教えてあげた。
「しかしまあ数時間で良くここまで揃うもんだね」と田口は驚いた様に言い、私もそれに同意する。
「ところで、君がこんなクリスマス信者だとは思わなかったな」
「そう? こういう生活をしているとね、本当にメリとハリがなくなっちゃうの。だから季節の行事は、絶対に遂行しなきゃいけないの。そしてその完璧さを年々追求していくのね。そういうのって、凄く大事な事なのよ。……、ねえ、そういえば、どうしてあの時『Norwegian Wood』を新曲と言って弾いたの?」私が思い出したようにそう訊くと、田口は少し驚いた顔をして、すぐに口元を上げる。
「あなたお得意の表情管理? なあに、どんな秘密でも隠れてるって言うのよ。」
「当ててみてよ。そうしたら君の願い事、なんでも一つ叶えてあげる。」
「それは私が想像して分かり得る事なの?」
「八十パーセントの理解力とニ十パーセントの想像力があれば?」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
「願い事なんて叶えて貰わなくて良いから答えを言って貰いたいもんだわね」
「どうして? これだって、君の好きな『人の心を汲む』事の一つじゃないか」
「好きとは言ってないわ、大切って言ったのよ。」
寝不足という爆弾とここ数日の慢性的と化し掛けていた疲労を抱えた私たちはシャンパーニュ一本で立派に酔っ払い「片付けは明日、伊藤さんが来る前にまとめてやろう」という事で手を打ち、歯だけを磨くとベッドへ飛び込んだ。
「ねえ、もし俺が無人島で一緒に暮らそうって言ったら付いてきてくれる?」
「あなたはまた……」
「そう、俺はありきたりな発想に長けてるからね、それから派生する質問もありきたりになる」
「良く分かってるじゃない」
「そうでしょう。それで、君の返事は?」
「即答するわよ。『絶対嫌』よ、あなたそういう場所での生活力無さそうだもの」
「じゃあ誰だったらいいの?」
「そうね、学生時代の友達なら理想的ね」
「誰それ、男?」
「そうよ、関口くんって言ってね、鉄の板の切れ端とかを見つけると、それを叩いてナイフとか作っちゃうの。茨城に住んでてね、海に潜って、手作りのモリを使ってあっという間に魚を採って来たり。料理も上手いのよ。こう、エスニックっていうのかしらね、そういうのが得意だったわ。学校で作ってたのは、革や布を使った衣装や仮面……、ね、彼だったら衣食住が成立するのよ。無人島に一緒に行くなら彼しかいないわね」
「それは……、敵いそうもないな。ところでその関口くんは今何してるの?」
「池袋のSMクラブ嬢と出会い系サイトで知り合って、五年間の交際を経て結婚したみたいよ。夫婦生活は至って良好。仕事を終えて家に帰ると彼女がディルアングレイの曲をピアノで弾いて、彼が歌うんですって。」
「みたい?」
「彼女が出来てから疎遠になっちゃって、人伝に聴いた話よ。」
「昔は親しかったの?」
「そうね、自殺しようとした私を見つけて、口に手を突っ込んであらかた吐かせてくれた後、救急車を呼んでくれた位には親しかったわよ」
「付き合ってたの?」
「まさか。たまたまみたいよ。あまりに私が学校を休むもんだから、単位がやばいって言うんで、家まで叩き起こしに来たって言ってたわ」
「凄いタイミングだな」
「そうなの。それで床に散らかってる空になった薬のシートを見つけて、これはまずいって思ったんだって」
「判断能力まで長けてるのか……」
「そう、だからあなたとは無人島に行きたくないし、でも関口くんとは物理的に行けないわね。無理なのよ、あの子はびっくりする程誠実で一途だから、そういう事絶対にしないの。」
「なるほど」そう言うと田口は「ねえ、ここを出て行ったあとも、また君に会いに来て良い?」と訊いた。
「構わないわよ。ただし仕事の時以外はここに居ないし、ここは都会だから玄関の鍵も掛けなきゃいけない。」
「それは遠巻きに断られてるのかな」
「最初に『構わない』って言ったじゃない。付け足したのは注意事項よ、あくまでも」
そこまで言うと、私も田口もどちらともなく眠りに落ちた。
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