第10話

 ストッパーを足で外し素早く扉を閉めると、私はイーゼルから携帯電話を外し、イヤフォンを付け、撮ったばかりの動画を再生する。音量を最大にすると、ノイズと共に田口らしき声を聞き取ることは出来たが、動画の中の男は田口かどうか判断できる程鮮明ではなく、その代わり、私たちの関係を説明するには充分すぎる距離感を与える代物にはなっていた。

 半年ほど前から制作に掛かっていた油絵に塗っていたワニスが渇いたので、私は急いで梱包を済ませると「宅配便の営業所へ寄った後、打合せがあるので家を出るが、仕事の残りがあるので夜までには戻ってくる」と伝え、念のため何か食べた物はあるかと訊くと、男は相変わらず、ない。と答えた。

 今日は私が長くリビングに居たので、食べた物を吐かないよう気を使ったのか、終始具合が悪そうで、頻繁に嘔吐くような咳をしていた。その事を思い出し、

「ヨーグルトやゼリーとかならどう?」と訊くと、そういう方が嬉しいかもしれないと言った。


 予定よりも十五分程早く、私は市ヶ谷の駅に降りた。日本テレビ通りを進み、裏路地と呼ぶには少し開けた通りに入ると指定された喫茶店があった。

 到着した旨を携帯のメッセージで送り、店の中に入ると、私はメニューも見ないままアイスコーヒーを注文する。このご時世に、もはや絶滅危惧種と化した保護すべき喫煙の出来る喫茶店らしく、ランチタイムを過ぎたこの時間にしては人が入っているように思えた。

 席に着きしばらくすると、アイスコーヒーと一緒に灰皿が運ばれてきたので、朝買っておいたラッキーストライクの封を切る。ソフトケースの銀紙が「入る」という字に折られている方のビニル部分を火であぶり溶かすと、その部分の銀紙だけをきれいに切り取った。

 貧乏だった学生時代

「ソフトケースの煙草は『入』という字の方を必ず開けること。『人』という字の方を開けると貧乏になる」と、学校の喫煙所に居た誰かが教えてくれた。

 この方法を私は何年も続けたが、実際に貧乏から脱出する頃にはとうに煙草をやめていた。これが習慣なのか迷信に対する信仰心なのかは分からないが、未だ何も考えずにこの方法で煙草の封を切る自分に少し呆れる。

 封を切った反対側を右手でトントンと叩き煙草一本抜き取ると、フィルターを少し潰すように咥えて火を付ける。最初の一口目を思い切り吸い込むと、煙が喉にひっかかり少しだけ咽る。久しぶりの「やにくら」にうっとりしながら、アイスコーヒーのグラスにストローをさすと、携帯電話が鳴ったが、私がそれに応じるより先に「パチさんですか?」と声がして、横を見ると知らない男が立っていた。

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