第7話

 男は平田と名乗ったあと、周りからはたいらさんと呼ばれていると言った。パチさんは?と訊くので、じんぱちという苗字が由来だと説明すると、漢字が浮かばなかったようなので、私は神初と書かれた名刺を渡した。その名刺を見ると、平田さんは私がテキスタイルを手掛けた生地を使ったクッションを昔持っていたと言い、その仕事を褒めてくれた。

 それは私の展示を訪れたスカウトが最初にくれた仕事で、私の名前と写真、“当ブランド初の日本人イラストレーターを起用”という文字の入ったキャプションと一緒に売り場に置かれた商品のひとつだった。


 平田さんはあまりにも柔らかく喋るので、それが明らかなお世辞に聞こえず、私は謙遜も忘れ、つられてお礼を言い、それを見ていた佐々木さんは少し安心した表情をする。ああ言っていても、どこかで心配していたのだろう。


 赤ワインの前に白ワインをグラスで貰っていいかと男は聞くでもなく言い、すぐに店員を呼んだ。苦手な食べ物はあるか私に訊く動作と、選んだ料理まで二人は似ていたので、私も少し気が緩んだ。




 早速本題になっちゃうけど。と、店員から白ワインを受け取りながら平田さんが言うので
私は昨日から今日にかけての出来事を説明し、二人はただ黙ってその話を聞いていた。信じてもらえるかはわからないけど。と、念のために持ってきていた、男の着ていた病衣を手渡すと、病院の名前も入っていなければ、番号が振られているわけでもない、まったく何の管理もされていなさそうな代物だったが、ないよりは。と、付け足した。




 平田さんは徐に口を開き、

「皮肉な話だけど、あの事件の影響で、動画の再生数や、ダウンロードも伸びたから、それが落ちる前に彼を復帰させたい気持ちは会社としてはあると思う。けれど、こういう状態の彼に、どういった無理を強いるかまでは、僕には分からない。ただ、この件に関しては、僕も田口と面識はあるし、彼のマネージャーとも割と親しい方なので、上手く伝えることは出来ると思う」と言った。




 念のため、さっきの名刺を渡してもいいかと訊くので、私は構わないと答えると、平田さんは、ふと、彼の歌は聴いたことはあるかと言った。

「ないです。存在すら今日知ったばかりですし」というと、

そうだったね。と、微かに笑いながら言うので、わざとそう言ったのか、うっかりと訊いてしまったのか、判断がつかなかった。


 そんな私の疑いをよそに、平田さんは続けた。
「彼の作る曲ってさ、若い頃のものは、自分の中の不幸を少しずつ切り売りするようなものが多くて。そうする事で自分を解放するっていうのかな……。勿論ファッションとしてそう言う曲を作る人もいるけど、恐らく彼は違うと思っていて。であれば、今の気持ちを吐露する様に曲を作れれば、少しは楽になりそうな気もするけど……、」と次の言葉を言いかけた時
「でも、自分の中の不幸を切り売りしながら物を作る人は、その行為自体が辛い場合もあるのよね」そう、佐々木さんが口を挟んだ。それに対して平田さんは頷くとも、否定することもなく、
「取り敢えず、悪いことにならないように協力はする」と言った。


 私はお礼を言い、元々二人で飲むところに割り込んでしまって申し訳ないと足した。伝票とコートを持って席を立とうとすると、気を遣わないで、折角だから三人で飲もうよ。と、佐々木さんが言い、そうだよ。と、平田さんは私のグラスに赤ワインを注いだ。
「そういえばパチさんはどんな音楽を聴くの?」と、佐々木さんが訊くので
私は古い洋楽ばかりだと言った。そのうちの幾つかを上げると、平田さんは

「いいね、そのあたりは僕も好きだな」と言う。


 二人はいつからの知り合いなのかと、白々しく質問をすると、佐々木さんもそれに合わせて、「私が高校三年生で、たいらさんが二十一歳くらいの頃からだから、もう十年くらいかな」と言うので、私は思わず笑ってしまった。



 そのまま私たちは、明日の昼になれば忘れてしまいそうな種類の会話を繰り返す。
それは私たちが大人になったことを証明する手段の一つだった。

「ねえパチさん、また今度二人で呑みましょうよ」と、佐々木さんが言い、私は「是非」と笑いながら答えた。

 すると佐々木さんはテーブルに置いたままの私の携帯電話を爪で軽く叩きながら、ちゃんとこれに登録して下さいね。と、意地悪く笑う横で、平田さんが領収書を切っていた。


 私が財布を取ろうとすると「経費だから」と遮る。
私はまたお礼を言い、三人で店を出る。一瞬にして酔いが醒める様な寒さに、見上げた空の星が滲む。私は目元に突如沸いた原因不明の涙をコートの袖でぬぐうと、佐々木さんが、どっち?と訊くので、環七かな。と答えた。



 そのまま世田谷通りまで一緒に歩き、二人はタクシーを拾ってくれた。
近々、伊藤という男から電話が入ると思う。と平田さんが言うと、タクシーのドアが閉まり、私は二人に手を振った。

 数メートル程進むとすぐに信号に引っかかったので、後ろを振り返ると、
二人は来た道を引き返している所だった。タクシーがまた進み出す頃、どちらともなく手を繋ぐのが見えた。



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