宇治川③
出町柳の家に帰ると、居間にはメガネバージョンの弟がいる。
「兄さん、おかえり」
「お前、何をやってんの?」
かれはタブレットのスクリーンを指した。
「アメリカに帰る前に、少し参加できる企業の説明会に行ってみようと思う」
「ふーん」と、おれはどうでもいい顔で二階への階段に足を踏み出したが、何かを急に思い出したから、また居間に戻った。
「あ、そういえばさ、お前、大学の専門はなんだっけ?」
「言ってなかった?ファイナンスだよ、ファイナンス。お金の仕事でさ。就職有利の専門とよく言われるよ」
ソファで座るかれはにやにやの顔で、手で日本のお金マークをした。
「ちっ、やっぱりおれはお前のことが嫌い」
「はは。それはどうも」
向きを変えて部屋に戻るつもりだけど、かれは机の下から何かを持ち出して、おれを呼び止めた。
「兄さん待って。勝手に持ち出したのはすみませんが、これを偶然見つけたから、凄く気になるけど」
まさか、おれの中学生の頃買った特撮ドラマのDVD。すでに失くしたと思った。
「ああこれ、懐かしい!昔よく父さんと一緒に見たやつじゃん!よく見つけたな」
こいつのなにかを期待しているキラキラ目をしたから、もう選択肢がないと、おれはため息をした。
「一緒に見る?」
「ぜひ」
笑顔を咲いた雅斗だった。
テレビの画面にビルが倒れ、町が無茶苦茶とされた。激しい戦闘を傍観しながら、おれはコーヒーを一口飲んだ。
「お前みたいだな」
無表情で声を出した。
「お前は、怪獣。京都にやってきた怪獣」
隣から少々驚いた目線を感じた。
「まあでも、整った古き良き町並より、どこから怪獣連中にめちゃくちゃされる京都のほうが面白そう」
暫くの沈黙のあと、「はい」と、嬉しそうな返事が響いた。
「あのさ、楽しそうだけど、晩御飯、今日は雅樹の番でしょう」
おれはソファから首を居間の入り口に立っている麻沙美に向いて仰け反った。
「悪いが、今日は特別だから、代わりにやってくれる?食材もう買ってきたし、あとの片付けおれらがやるから、そっちの方はお願い」
「そう。まあいいや、今日だけね」
今日の麻沙美は珍しく話しやすい。
「兄さん」
かれはおれに声を掛けた。
「なに」
「ありがとう」
夜は、ここ最近慣れた三人の食卓。
「よかった。今年から雅斗くんがいたら、誰かさんが一人で部屋に寂しくて泣くことになれないね」
「兄さんはさみしがり屋だからな」
この面倒くさい二人のご飯を盛り、おれは文句を言う。
「余計なお世話をしないで」
明りが灯す、三人の穏やかな食事の時間。懐かしい。あの頃の光景と同じ。平凡な幸せは、こんな感じなのかな。
夏になったら、どうなるだろう。
麻沙美はこの家から出る、そして雅斗は本格的にうちに住み始めるかもしれない。
雨宮もこの京都で高校の英語の先生になる。
皆はそれぞれの人生の道に旅立つ。おれだけが現地に立ち止まっている。このまま置かれたくない。今更なんだけど、おれも皆のように、どこかに歩き始めたい。
今より、強く生きていきたい。
***
黒い数字が映っている。
おれはあの小冊子を両手で握って、長い時間で沈黙に見ていた。急に「また通帳を見てぼーっとしてる」と、後ろからのんびりした声が届いた。そこにはタピオカのカップを持っている淡い表情の麻沙美だった。
「こっそり貯金しているでしょう。あたし知っているよ。毎日英語の勉強をやっていることも」
「あっそう。お前なんも知ってるからね」
「あんたの妹だから仕方ないーの」と、麻沙美は言いながら、自然に隣にあるおれの椅子に座った。
「いいわよ。あの短期英語修学のやつ、行きたいならばあたしの方もちょっとお金を貸してあげる」
「……どうも」
おれの言い淀みを気づいたように、麻沙美は「ふーん」と、タピオカのカップを卓上に置いた。
「もしかしてまだ何かを悩んでいるの?別にそこまで考えなくてもいいよ、今の一番やりたいことを思い切りやればいいんじゃない。今までのこと、いろいろ後悔しているでしょう」
「まあ、そんなに単純になれればいいけど。迷わなく真っ直ぐ前向くって、想像以上に難しいよ」
「口から暴言ばっかりだけど、心が意外に繊細ね」
微笑んだ麻沙美は、ささやかな寂しい口調で言葉を返した。でもまた真剣の表情になり、何もない地面に注視始めた。
「だからあたし、ずっと雅樹に内緒にしたことがあるんだ。今ならば、ようやく言えるのかもしれない。ある意味、大したことではないけど、雅樹は妙に気にかかるかも。また変なことを考え始めるのかもしれない。でも今やはり、打ち明けるべきだ。あたし、聞いちゃったの。ある夜、母さんと父さんの会話。二十四年前の、雅樹と雅斗くんに関する本当のこと」
心が何かに打たれた。つい顔を上げ、麻沙美をじっと見ていた。
「雅樹は自分が一歳の時にトンボ玉を取ったからこっちに残されたと思っているけど、それはおそらく母さんが雅樹に嘘をついた。実はあの時、トンボ玉を取ったのは雅樹じゃなくて」
小さなおれの部屋に、おれと麻沙美の間に不穏な空気が流れはじめる。そして麻沙美の声は重く響いた。
「雅斗くんだった」
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