第五話 鞍馬山・前編

鞍馬山・前篇①


 光が見えた。

 重苦しい海の中に、一筋の光が射し込む。

 何の光なのか。宵の明星の光なのか。

 

 あの光に向かって、本能的に手を伸ばした。

 そして思い出した。あの頃も、こんな感じだった。

 

 あの頃選んだこと。

 あの頃選ばれなかったこと。

 もし、もう一度できるのなら。

 もし、本当に会えるのなら。

 動かないこの体が沈んでゆく。心の炎は、消えてゆく。

 ただ、最後の最後まで強く願っている。


 手のひらから離れゆく透明な塊は光を浴びながら、明星のように眩しく輝いた。


                   ***


 夢から、おれは目覚める。


 混濁する意識はその外側から滲みこんだ声に沿って浮き上がり、ぼやける視界に灯りを照らす。二軒茶屋駅にそろそろ到着だと、響いた車内放送の声だった。今、叡山電車に乗っているとなんとなく気づいた。

 乗客の数が少ない、閑散とした電車内。

 窓の外には見慣れない、山の風景。

 なぜ今おれは叡山電車に乗っているのか。なぜ、ここまで来たのか。現在と過去の意識の間には真っ暗なトンネルが画面を遮断するようで、自分が叡山電車に乗っている現実味が薄く感じられる。唯一実感できるのは、左肩に寄りかかって寝ている雅斗の安定した呼吸。

 夢を、見ているのかな。

 そういや、かれ明日帰るのだっけ。

 元々今日はかれが京都にいる最後の日で、観光の予定がすべて終わったんで、おれもようやく静かに一日に寝込むと思ったのに、急にかれは生き生きと「せっかく一日空いたから、最後に鞍馬に行きたい」と暖かい布団からおれを強引に連れ出した。結局、一体どうやって自宅から出てきて、出町柳駅までに歩き、そして今、山の奥に運ばれたのか全く記憶にない。

 揺れる車内に、無名の恐怖がおれに少しずつ近づく。この先は、何かがおれを待っている。十歳のあの冬からずっと。

 おれはガラスの車窓に頭をもたれかかり、外の移り変わる風景を平静に見詰める。町の方はまだ綺麗だけど、北の山々にはすっかり雪国になった。外は薄暗い天幕だが、電気がつけてある車内には明るい。ガラス窓に映った自分の仄かな横顔は居場所のない亡霊のように白い山道に浮遊している。この景色と一体になったり、切り離されたり。受け入れられるようになったり、拒絶されるようになったり。

 淡い思考に沈むおれの隣に、何を見ていると、寝起き声で尋ねる雅斗は同じく車窓の外に目線を投げ出す。当たり前に、かれの顔もガラスに投影され、おれの横顔と少し重ねた。それでも、不確実な虚像だった。

 ガラスの平面に反射する二つの顔。二つの遊魂。重ねた、双子の幻。

 外側の水気が滲み込んで、ガラスに触れるおれの指先に。

 形のない哀愁に注視されたまま、二人は雪景色を見ている。

 もうすぐ、終点の鞍馬。十歳のあの冬以来一度も足を踏み入れていない、出町柳から北の果ての世界。

 一人だとやはり怖くて逃げたくなる。でも二人一緒なら。

 そろそろ、すべてを終わりにしようか。


 白い息をした。

 古風の鞍馬の駅舎内から抜け出すと、人気のない秘境。沈黙の建物と一本道以外何もない。観光地とは言え、いつも混雑する清水寺などと比べると、強烈な異世界の匂いがする。

 降りた乗客の数は少ない。お土産の店もやっていないように見えた。本当にここに来てよいのかと、不安になり始めた。おれら以外観光客はいなさそう。

 人が居ないのは、ここは神様の領域なのか。例えば、そこの赤い顔の天狗様。なんだか怒ってる。「ようこそ 天狗の町 鞍馬へ」と書いているけど、結局歓迎するのか。歓迎しないのか。

 かれが大きいカメラで天狗像に連射撮影をした。両手をコートのポケットに入れ、おれは漫然と口を開けた。

「鼻、長いだね」

「そうだね」

「きっといっぱい嘘をついた」

「天狗はピノッキオなの?」

「まあ、世界は連続しているから、魔法には国境がないのさ」

「出た。兄さんの暴言シリーズ」

 何も言わず、おれはただかれにドヤ顔で微笑んだ。

 整った石段を踏んで、両側の赤塗りの灯籠を一つずつ越え、二人は仁王門に向かってゆく。

 二億六千万年の土地の歴史持ち、京都一番のパワースポット。ただ山門の前に立ってる時すら、妙にパワーのようなものが感じられる。これは多分、この鞍馬山の尊天信仰と関係ある。宇宙の生命と繋がっているらしい。少し複雑でまだ上手く理解できない。

 入り口で愛山費二人分を払って、鞍馬山案内の地図を貰った。ここから山を登り、本殿に辿り、そしてぐっと回って、ゴールの貴船神社に向かう。登山初心者向けのコースとは言え、なんだか言葉にはならない難しさが伝わってくる。

 この山門を越えたら、結界の中。

 一瞬、時間さえ凍てつく錯覚がおれを襲う。全身の神経は冷水に浸透されたような不思議な痺れ。再び感覚が戻ると、視界の至るところに雪が積っている。静寂に立っている樹木。凍った山の小川。どこからか聞こえる、鳥の囀り。おれとかれ二人だけの世界。

 さっきまでは石段なのに、ここからは土の地面で、ベタベタして歩きにくい。しかも積った雪とか氷とかも結構あって、気をつけないとすぐ滑る。しかしかれは何も気にしなく、普段通り鼻歌をしながら、軽やかな足捌きで道の先に向かってゆく。

「なんでいつまでもこんなに元気になれるのかよ」

 おれの気のせいかもしれないが、こいつ、この鞍馬という秘境に入ってから普段より元気いっぱいに見える。

 このまま置かれるのはまずいと思って、おれは慌てて足を動かそうとしたが、突然世界が覆された。

「うわー!」

 クッソー、やられた。結局鞍馬の道の最初で滑っちゃった。雪の山道に横になる自分は灰色の曇天を呆然と見ている。

 雪、冷たいけど、柔らかいな。暫くこのままで居ても悪くない。そして自分でも理由が分からないけど、笑った。転んだのに、嬉しく笑った。

「大丈夫?ちゃんと立てる?」

 隣まで走ってきた雅斗はおれに手を伸ばした。なぜか思わずこの手を握った。雅斗の手のひらの暖かさがおれの手から体に流れ込む。

「サンキュー」

 その時、視界には白の群れが緩やかに降りて来る。二人は一緒に見上げる。

 雪。

 雪の結晶。

 雅斗の喜びの声とともに、舞い降りる。

「見て、雪、降ってきたよ。兄さん」

 袖に落ちた雪の結晶は六角形。こんなにはっきり六角形に見えるのは、おれにとって鞍馬の雪くらいだけ。

 同じように見えたり、違う存在に見えたり。

 これはまるで。


「まるであなたと雅斗くんみたいだね」


 自分の中の母さんの声は血と共に流れてくる。十五年の月日の喜悦と悲哀を越えて、この瞬間手のひらに舞い落ちる雪の結晶の温度と交わっていく。

 とうとう、またここに来たな。出町柳から遥かな北、鞍馬に。

 鞍馬のゆきみちに立った二十五歳のおれは道の上に見上げる。終点が見えない鞍馬のゆきみち。あの時のおれはこの山道の途中までしか歩けなかった。でも今は最後まで行けるのかな。かれと一緒ならば。


「兄さん!」


 その声はいつものようにうるさかった。この道の先には、おれの双子の兄弟、雅斗がいた。手を大きく振りながらおれを呼んでいた。

「ああ、いまそっちに行くから、待ってて」

 ここからは清少納言が書いた、近くて遠きもの、つづら折りの鞍馬の道。

 進みながら、左も右も、小さな神社がぽつりぽつりと見える。名を知らず神様、雪に沢山おります。おれも雅斗も少し恭しい気持ちになり、歩調を緩めた。

真ん前は由岐神社の拝殿。流石大神社というのか、荘厳な雰囲気は漂っている。日本三大火祭りの一つはここに。京都育ちなのに、一度見たことがなかった。

曇天の下で真っ直ぐ立つのは御神木大杉。八百年の長生き。そんな御神木に言葉があるのなら、この世の理不尽をどのように語るのか。

 隣に白い吐息が浮かぶ。神木を仰ぎ見るかれは、「由岐神社のことを知ってる」と言った。

「ここ、毎年十月に火祭りが行うみたい」

「へえ。意外に物知り」

「まあね。京都が好きって口で言うだけじゃないから」

 おれに向かって顔を綻ばせるかれ。

「アメリカ人の祖父はよく本を買ってくれた。祖父は遠い町に住んでいたから、一年に二、三回くらいしか会えなかった。僕が京都に興味あるのを知っていたから、いつも代わりに京都に関する本を探してくれた。いつも、祖父から京都、日本に関する本を貰ってた。それが原因で京都にいると時々祖父のことを思い出すんだ。変だろう。京都にいるのに、京都一度行ったことのない人のことを回想するなんて」 

「その祖父さん、今でも会ったりする?」

「いや。祖父はもう亡くなった。僕の大学院での初の学術発表会の前夜に。突然亡くなった。でも僕には悲しむ暇はなかった。涙さえ出なかった。半時間だけ一人で記憶に沈んで、そして発表資料に戻る。やるべきことがまだ僕を待っていたから」

 話の途中で頭を下げたかれは暫く沈黙した。そして楽そうに肩の雪を拭いた。

「まあ。そんな感じ。あの時は辛かったけど、いつか忘れるのだろう」

「ダメだ」

 怪訝な表情をするかれの澄んだ瞳には強引に見えるおれの姿。

「そういう考え方はダメだっつーの」

 人差し指でかれの胸に指しながら、おれは声を張り上げた。

「いい?自分の痛みでさ、いくら小さな痛みだって、立派に自分を傷ついてるの!どうでも良いことじゃねえ。お前の人生のとてもとっても大事な一部だから、大事に抱えないといけないんだ。伝わらなくても、理解されなくても、その気持ちから逃げちゃダメだ。おれの人生経験よればな」

 おれの言葉の渦中に呆気にとられたかれは突然口から大笑いを流した。

「ははは、今日の兄さんは暴言連発、絶好調ね」

 何らかの恥ずかしさを覚えたおれは指を戻し、再び御神木に視線を置いた。

「あの時、寂しかった?」

「うん。とても、寂しかった」

 大杉を見上げるかれは感傷な微笑みで、由岐神社の神秘な空気に嘆きを送った。肩を並んだおれはかれを向かず、ただ小声で約束の言葉をした。

「じゃ、秋。一緒にここで火祭りを見ようか」

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