鞍馬山・前編②


 由岐神社から離れ、二人はつづら折りの山道の上に向かって登ってゆく。足の速い雅斗は時々止まって写真を撮りながら後ろからのおれのことを待つ。

 杉に囲まれる道に突然ある不思議な彫刻が現れる。中心は一つの塔のように見えるが、外側に三つの円環が取り囲んでいる。

 愛と光と力の像、いのち。それはこの彫刻の名前。

 抽象芸術なのか。宇宙のエネルギーってこんな形で表現できるのは面白い。でも近現代美術館しか見られないような彫刻はまさかこの鞍馬山に、それが一番意外だった。ニューヨークのメトロポリタン美術館とかで似たような彫刻を見つけられるのかもしれない。あ、なんか、この鞍馬山は急にニューヨークっぽくなってきた。ここは京都のニューヨークだと思って、おれはついぷっと笑い出した。いのちか。おれは母さんの言葉を思い出し、トンボ玉のブレスレットを腕から取り、手のひらで見ている。おれにとっての命の像は、やはりこの透明な塊なのかな。炎から誕生したからね。そう考えたおれは不意に顔を隣に向けた。

 涙。

 かれのガラスのように澄んだ黒い瞳から、涙の雫が溢れた。

 まるで魂がこの像に吸い込まれるように、かれはただ呆然と像を見つめて立ち尽くした。

 なぜ、泣いたのだろう。

 この像を見て、かれは何を考えているのだろう。

 二人は原地に立っている。そんなに近いのに、見えない境界線は隔たっている。

 雅斗には少し近づいたが、今でも時々遠くから眺める感じで、ぼやけて見えない。いつもにこにこして、おれのことを意地悪く悪戯をして、それでも時々緊張と不安を隠すように見える。悪い奴じゃないとわかるけど、本心はやはりどうしてもはっきり見えない。この三週間、初めての京都の町に何を見て、何を感じたのだろう。喜びながら、挫折しながら、成長したのだろう。

ほんの三週間で、一人のことをどれくらい分かるのか。どれくらい分かると、家族と言えるのか。家族だとしても、皆はそれぞれ秘密を抱えてる。麻沙美だって、おれの知らないうちに彼氏ができたし。他人事も身内のことも、庭園の池の水面に映る、雲間の月。

 知られたくないから、皆は隠し事を抱えるのか。言っても理解を貰えないから、秘密にするのか。秘すれば花という綺麗な言葉があるけど、人間はこうして永遠に寂しい運命に囚われる。

 さらなる高い所へ、二人は歩いてゆく。中門を越え、高く立っている杉の間に、いつの間にか石段の道に戻った。左と右に、並んでいる赤塗りの灯籠は伸ばす道とともに。雪はまだ降っているものの、杉と杉の隙間から太陽の光が少し滲み始める。かれは不意に後ろを向き、偶然かれと目が合ったおれはその綺麗な黒の瞳に自分の姿を見つけた。もしその一瞬でおれとかれの繋がりのすべてを包摂できれば、それでいい。それがすべての意味ならば、それでいいんだ。

 雪と陽だまりを浴びながら、かれはまた鼻歌を始める。聴き馴染んだメロディーだった。いつも同じ歌を歌っていた。かれは。

「これ、何の歌?」

「あの季節、あの人との大事な想いがある歌だよ」

「あの人って、海辺でお前が告白した人のこと?」

 おれに曖昧な笑顔を示すかれは鼻歌を続いている。また身を振り向いて、階段を登った。戸惑いおれを残して。

 あの人はどんな人間なのか。大事な想いってどういうことなのか。

 もし知りたいとか言ったら、教えてくれるのかな。

 それでも理解できない他者。元々突拍子もない異なる文化環境で育った人間だし。もしおれはかれのような海外育ちの人間だったら、目に入れた京都の風景は今とどういう風に異なるのか。でもやはり同じく、距離を掴めず、寂しいと感じる時もあるかもね。これからどうやってこの京都、そして京都のある世界と付き合うのか。この近いくせに遠い鞍馬の道で、おれは今でも自分自身の答えを探している。

 高校の時の感じで脳内に小説を書こう。例えば別の世界に隣国出身の自分がいる。元々平安京は洛陽城と長安城を模倣して作られたものだから、海外旅行と言っても馴染んでいる感じがするだろう。金閣寺を観に行きたいと思ったけど、バスの乗り方が分からなくて、結局下鴨神社から北大路通りに沿って、金閣寺まで長距離で歩いた。そんな自分は京都の町並みをふらふらして、故郷に戻るような安心感と冒険の刺激とが共に閃く。でも周りの馴染んでいる漢字から時々に氷結の塊のような冷たさが伝わってくる。英語の方が割と暖かく感じられるのはなぜだろう。彼らより近いのはこっちなのに。似ているけど、どこかに幻影の不確実さが漂い、刺激と感傷が混ざり合う。その感情はまるで砂や落ち葉で埋もれた、濁っているけど淡く薫る土。

 おれの中でも、別の世界のおれの中でも、千年経っても今の京都はまだ浮世の風景。今でも、清少納言と同じく感じる、近いくせに遠い、鞍馬のつづら折りの道。

 いのちの像の前に泣いた雅斗の気持ちに少し近づいた気がする。かれのことを受け入れるのもきっと、自分の一部として受け入れるのと同然。

 父さんの浪川とのこと。言語教育学の先生母さんのこと。ジョージくんとエミリーちゃんのこと。本を買ってくれた祖父のこと。ニューヨークの大学でのこと。

 すべての、かれの人生のこと。

 そこまでかれのことを知りたいと思わなかった。憎んでも、羨んでも、かれはおれの憧れだ。

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