鞍馬山・前編③

 思いから脱出し、周りを見渡す。知らないうちに結構歩いた。道は賑やかになり、高齢者の団体観光客と若いカップルがおれの周りにいる。どうやら皆はケーブルを乗って多宝塔に経由しここに来たようだ。でも歩いて損したとは思わなかった。皆と一緒ならば心も穏やかになり、気楽に笑えた。この階段を登ったら、前方はようやく鞍馬寺の本殿。十五年ぶりに、おれはまたあの運命の場所に。

 とは言え、自分がインドア派の事実もあり、もうこれ以上歩けない。雪に倒れる前に直ぐ右手側の休憩所に突入。椅子に少々積もった塵を拭き、考えごとの重さを耐えないおれは積み重ねた思いを脳内から排出し、ゆったり座った。

 休憩所の格子引き戸越し見えたのは本殿前の雪色の広場、そして鞍馬寺本殿の赤い柱。赤色のせいか、やはりどこかが平等院鳳凰堂と似ていると気がする。格子の彼方の参拝客の足音と快い笑声が遮断され、時間と共に流れて溶ける雪の動きしか直感的に伝わらない。塵さえ眠る静止の休憩所に、一人で孤独にこの世の激しい移り変わりを見送る錯覚を覚えた。山の神様にとって、人世の十五年はきっとあっという間。

 急にぱっと、アイツは格子引き戸を開き、吐息をしながらおれを呼ぶ。相変わらず元気な笑顔で。

 運動する寒気と時間は外の空間からおれの顔にぶつかって来た。

「ねえ、聞いてよ。ネットで調べたけど、十二時かっきりに本殿前の地面にある六芒星の真ん中に立てば宇宙からの声が聞こえるだって。もうすぐ十二時になるから、そこに兄さんは立ってみてよ」

「は、はあ?」

 おれの服を掴んで休憩所の外に拉致しようとしたこの阿呆。

「ちょ、これだけは勘弁して。頼むから、好奇心を満たしたいのなら自分でやれ」

 騒いでいるおれらに、側の椅子に座っている老夫婦は「ほんまに仲ええ兄弟やなー」と、目を細めて温かい微笑みを送った。おれはつい顔真赤。

 だから本当に勘弁してくれよ。すげえ恥ずかしい。

 なんとか変なことをしないようとかれを説得したけど、休憩所から連れ出された自分は結局この世の営みを直面しないといけない。

本殿前の広場で見渡すと、京都の山々の薄ら寒い色が瞳に染めていく。おれの知っている京都の町並みは遠く離れた山の向こうに。十五年前手を繋いてくれた母はもう世の彼方に。真白の雪だけは綺麗だった。

 シャッターを切ることを止め、かれは無言で山を眺めるおれのことを側から密かに見ている。

「なんだか、今日はいつも複雑な表情だね。兄さんは鞍馬が嫌い?」

 おれは緩やかに首を振った。

「いや、嫌いっていうか、なんだろう、怖い、かな。初めてお前のことを知るのは、ここでな」

 驚いて顔で、かれは目を見開いた。

「あの日から、おれの人生が変わって、惨憺たる有様になってしまった。でもおれはもう逃げないと決意した。多分お前のおかげだよ。お前が京都に来なかったのなら、これからもダメ人間の金髪ニートのままで、また鞍馬に来る勇気多分もなかった。だから、その、ありがとう」

 かれに「ありがとう」って言うなんて、やはり想像以上恥ずかしいことだ。無意識に雪で濡れた髪の毛を触って、かれのことを見ないふりをした。

「兄さんは、僕をここに残して欲しい?残して、いいの?」

 元々口を結んだかれ突然は一歩近づき、俯いて立つおれの腕を力強く掴んで、おれの答えを求める気持ちが切羽詰まっている。

「今、もしもう一度選ぶことが出来たら、兄さんのこと、京都のこと、未来のこと。僕は選びたい。だからこの道を、兄さんと一緒に最後まで歩いていきたい。いい?本当にいい?僕のことを受け入れてくれるの?」

 おれの顔を凝視している、感情の波動で煌めいているかれの黒の瞳。連続の予想しなかった言葉に投げられ、まだ少々困惑しているけど、その透明な瞳に映されるおれもようやく胸に秘めた問い掛けを吐くと決めた。

「その前に、おれに嘘をついた理由、ちゃんと話してくれる?」

「う、嘘……」

 かれの不安な表情を淡く一瞥し、顔を横に背けたおれは嘆息した。

「初めて会った最初の言葉は嘘。これまでも嘘。十五年前のここの母さんの言葉にも嘘。あーあ、みんな嘘つくのが大好きで、嘘つかないおれだけが騙されたな。でももうどうでもいいよ。別に大したことではないし。ただ、そんな風に誰かに、何かに翻弄されるのはもう二度と勘弁だ」

 その目と向き合うため、もう一度真剣な目でかれを見た。

「もう知ってた。麻沙美からすべての話を聞いた。最初の日の夜麻沙美はお前と確認したし、お前もすべてを認めた」

 腕から、その手は離れた。

「そう、だったのか。ごめんなさい。怒らないでね。別にからかうつもりではないよ。ただ、失くした二人の時間は取り戻せないなら、いっそ今、零から新しい時間を作ろうと思って。だから本当に悪気はないよ。僕も京都に来た直前父さんからこの話を聞いた。まさか本当にそういうことになったね。だから少しだけでもいいから、甘えたかったんだ」

 山の境の冷たい空気は二人の間に通り過ぎる。手をコートのポケットに入れ、雪降る空におれは見上げた。

「いいよ。別に責めるつもりはない。ただ一度打ち明けるべきだと思ってる。おれもこれからちゃんと話すから、おれのことを。だからお前も、いろいろ教えてくれよ。夏からここに本格的に就職して、生活を始めるつもりだろう。これからの長い間のためはな」

「長い間か……」

 かれの顔に揺蕩う、薄闇の色。

「急にどうした?お前な、まさか今更やめようと思ったのか?」

 淡く笑いながら、かれは頭を振った。

「そんなことないよ。僕は多分、この一つの答えが欲しいだけ。もしこれからここでの何十年の生活がありえるのなら、ちょっと想像がつかないな。本当に。もうすぐ、時間切れだから……」

 突然、そう言ったかれの寂しい笑顔がおれの視界にどんどん離れてゆく気がした。慌ててかれに手を伸ばした途端、届かないという絶望は神経を痺れさせる。せっかく築き上げた二人の絆なのに、この薄ら寒い広場でまた指先から崩れ、どこかの浪へと遠くに流れてゆく。

 どうしたら、いいのか。

 聖なる鞍馬寺。高く真っ直ぐに立つ山杉。真心を込めて祈っている参拝客。広場から聞こえる、穏やかな会話の声。美しい世界はおれら二人を忘却した。二人の些細な悲しみは形を作れないまま、孤独に漂浮する煙霧。

 雪だけは止まらずに、世界に、二人に降り注いでいる。

 

「なら、こっちに来ればいい」


 心臓はたった一瞬、突然襲ってくる恐怖のゆえ動きを忘れた。

 自分のすべてを見通した、神秘的な視線だった。

 誰かに、見られている。

 この鞍馬山に存在する、未知なる何者に凝視されることを気づいた自分は止まらずに慄えている。

 薄々察した。視線の源は来る道の参道の方向ではなく、参拝客が集まる広場でもなく、立派な鞍馬寺の本殿でもない。

 荒く呼吸しつつ、おれはあの人気のない片隅に身を少しずつ向いた。本殿の左側に、光明心殿と本坊の間の歩廊に小さな門がある。その中はさらに向こうに進む石段。僅かな光に照らされる、狭い一本の石段。

 広場から見上げたのはこんなに快闊な天幕なのに、あの門の彼方は山の体の内部、密閉の空間。ここで見ても分かる、あれは今までの山道と全く異なる別の世界。

 奥の院参道の門は、深さが測れない、闇の洞窟の入り口のように見える。たった一つの冴えない門なのに、この一番奥にある渦に吸い込まれるような気がする。頭が空っぽのまま、門の方へ足を運んだ。

 その奥に誰かが、何かがいる。

 無名の恐怖はこの身に迫ってくる。

 おれの終点はここではない。この奥、もっと深く。ここからこそ、おれの鞍馬のつづら折りのゆきみち。

「いきなりだけど、勝負しよう」

 いつも間におれの前方に現したかれは背中をこっちに向けたまま、澄んだ声を響かせた。

「え、勝負って……?」

 凪いた横顔だけを見せてくれた雅斗。

「もし、この道の果てにそっちの方は先に辿り着いたら、僕が残るか戻るか、全部そっちに従う。でももし、僕はこの道の果てに先に到着したら、アメリカに行くこと、ちゃんと決心をつけろうよ」

 寂しそうに、かれは笑った。

「いや、こんな勝負なんて……」

 何も言わず、かれは思い切って歩き始めた。

 この門の向こうに、かれの背中がだんだん溶けてゆく。

 不安で広場の人群を最後一回だけ振り返って、おれはようやく慄える体でこの門の前に立つ。 

 大丈夫。きっと、大丈夫だ。

 腕にある透明なトンボ玉を触りつつ、深呼吸して、おれは門の向こうに足を踏み出した。

 これはきっと、おれとかれの最後の試練だ。

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