最終話 鞍馬山・後編

鞍馬山・後編①


 狭い石段の道は遠い場所から流れて来る。

 雪を踏んだ足音が鮮明に聞こえるくらいの静寂さが浮かぶ。

 恐怖と寒さが重なり、強く両手で体を抱え込んだ。

 なぜだろう。奥の院の参道はちゃんと入山の時に配った地図に書かれていたのに、あの門に入った以来おれら以外の人の気配が全然感じない。しかも空間が一気に狭くなり、強烈な圧迫感が神経を押さえる。皆は全員鞍馬寺本殿で参拝したら折り返したのか。実は奥の院の参道は危険で入ってはいけないとこなのか。やはり、戻った方が。

「おいー」

 前方のかれに向かって呼び声を全力で投げた。でも向こうは聞こえないように変わらず移動し続けている。

「おい、ちょっとくらい止まってよ。勝負なんてもうどうでもいいから、お前の勝ちにしていいから。待っててよ」

 弱さを見せても、返事の言葉も貰えなかった。

 かれは本当に今自分の意志でこの道を歩いているのか。それとも、なにかの力に導かれて進んでいるだけなのか。かれの言葉も表情も知らず、より不安の浪が湧き上がる。それでも、ゆきみちの先に向かうこと以外おれには選択肢がない。

 心臓のバクバクの音が猛烈に響いたまま、鞍馬寺博物館の霊宝殿まで歩き至った。職員の誰かがいるかと期待したが、まさか霊宝殿さえ冬期休業の最中で、閉ざされたまま、蕭条としている。

 霊宝殿の看板も、この隣の与謝野晶子の書斎の冬柏亭も、この白の流れる背景に安らかに冬眠中。おれは彼らの夢の隣に通り過ぎた一人のさまよう旅人。

 積雪に一本丈夫そうな木の枝を拾い、杖としてつきつつ前進する。

 それでも息苦しい。雪の群れと逆行しているのせいで、呼吸も視界も混沌。それに、急な登り坂で体力は大量に消耗してしまった。勝つことは言うまでもなく、この身でちゃんと家に戻れるかどうかさえ懸念のこと。何回かれを呼んでも、その背中はずっとおれの前方の数メートル先に漂っている。情けないおれを憐憫する一息くらいの短い時間さえくれなかった。

 ああ。これはまた置いて行かれたっていうことだな。

 だからそんな意味不明な勝負は何の意味もない。どうしてそこまで聞く耳を持たないんだよ、あの頑固者。

 木の杖を握りながら苦笑した。

 やはりかなわないな。かれならばきっと大丈夫だ。元々日本国籍だから、日本にいつまでも居られるし、こっちの方はアメリカより気楽にやれるかも。アメリカの有名大学院のファイナンス専門のエリートだし、日本でもよい仕事を見つけるのだろう。それに、かれは一人ではない。少なくともおれと麻沙美が支えてあげる。この二十数年ぶりの国にも、出町柳のあの家という帰る場所がある。そう、かれならばきっと大丈夫だ。今はまだ周りの人と上手く噛み合わないけど、時間と経験を積み重ねたらきっと馴染むようになる。だって、かれは人の気持ちに敏感だし、きっと他人への配慮もできるし、信頼も貰えるのだろう。いつかきっと、誰かと出会い、誰かに愛されるだろう。

 良かった。それで良かった。かれはちゃんと自分の居たい場所に辿り着いた。いくら振り返たくない過去があっても、これからは新しい人生。いつまでも、心から素直に笑うだろう。これからはきっと、幸せになるだろう。

 そう、おれたちは血の繋がった双子の兄弟。かれの幸せはおれの幸せ。かれが笑えばおれもきっと笑える。この鞍馬の旅が終わったら、目前は希望の未来。

 そして、おれも……


「……あれ?」


 凍てついた。

 笑顔も、杖を持つ両手も、踏み出す足も。全部、凍てついた。


 えっ、あれ、あれ。

 おれが。

 おれの方が……?


 足が何かを踏んだと気づいた。石段の道ではない。積雪でもない。

 木の根だ。

 土の地表から生み出し、狂気で伸びて交わる、無数の木の粗い根。

 ここは、木の根道。

 静止しているはずの木の根は、おれの目には勝手にうようよと蠢いている。凶悪な蛇の群れのよう。何かの生き物の大きな血管のよう。おれはまるで洞窟の奥に、何かの生き物の胎内にいる。この不気味に動いている景色は乱暴におれの目に刺し込んで、心臓を占拠しようとしている。

 木の根道は一気におれの中に凶暴の動きで伸びている。破壊の宴を開ける。

 心の一番奥の呪いという箱の蓋が、開けられちゃった。

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