鞍馬山・後編②

 あれ。

 かれは幸せになれるけど、おれはどうなるのか。

 あの三週間の修学旅行みたいなものでアメリカに行けるとしても、それで?そこで散々否定されたら、留学も就職もやめたほうがいいと言われたら、おれには本当に行き先がいないんだ。行けるのだとしても、そこで幻滅して、自分が別に思ったようにアメリカのことが好きではないと気づいたら、今までのもがきはなんなの。これからは何のために生き続けるの?高卒のおれはもうすぐ二十代の後半。有名大学新卒のあの意気揚々の連中と比べれば、自分はまさに社会のゴミ、受け入れる会社がいないだろう。もう何回クビされちゃったからな。

 そしてさ、もし、もし肯定と希望が与えられ、そこでますますアメリカのことが好きになったら、おれにはもっと先に進める保証がない。かれはアメリカの有名大学の修士で、日本で就職できる可能性は高い。それに対して高卒で金欠のおれはアメリカの大学で学位を取るって、寝言みたいな奇想。ビザが貰えるのか?お金の問題はどうすれば?あの父さんの浪川の前に土下座しかないじゃない?そこの大学に行けても、もし途中やはり上手く行かずに、戻るしかないなら、あまりにも情けない。かれと比べれば、おれは本当になにもないんだ。この先は極不明瞭で計画さえ立てない。なにもかも保証もない。確実なもの一つもない。おれの未来って、なんなの。おれの希望って、なんなの?

 何もないじゃないか。

 つい両手で頭を抱えた。歪んだ狂い表情で、崩壊寸前のロボットみたいに、ただ歩いている。

 周りの景色も一気に凶暴になっている。整えた石段は泥土の獣道に侵蝕された。夏の台風に折られた杉の大木の死体は何本周りに倒れ、おれのことを拒んでいる。空から、不気味な鳥の鳴き声が堕ちて、この杉の森に。すべては、おれのことを嘲笑っている。

 でもなんだか、もう、どうでもいいよ。

 自分の瞳は光りのない、濁った黒。

 は、はは、ははは。それって結局やはり、かれの方が幸せで、おれより恵まれるってこと?おれだけ不幸のまま人生の果てに行かないといけないってこと?

 そうだよね。かれは今、ここにちゃんといるよね。ずっとずっと夢見た京都に確かにいるよね。これからもずっとずっとここで思い通りに好きなように生き続けるよね。いいな、いいな。おれの方こそもうなんの救いもないんだ。根まで腐ったよおれの人生は。もうどうしようもない。どうにもならない。どうにもならないことだらけ、このクソ人生は。

 どうしてかれだけが幸せになれるのか?

 どうしてかれだけが呪縛から解放できるのか?

 どうして、どうしておれだけが自由になれないのか?

 二人で一緒に、不幸になれよ。

 二人で一緒に、地獄に堕ちようよ。

 雪に散乱で倒れた木々の前に、おれは顫える手で顔を覆った。

「負け、たくない……」

 ボロボロの心から漏れた微弱に響いたこの言葉こそ、おれの本音。

 でももう、遅かった。

 また雪に転んだ。その冷たさは体のあっちこっちを突き刺し、本殿前でかれと交わした会話を回想出来た。かれは今どこにいるの。あの漂った後ろ姿さえも綺麗に消えなくなった。おれをこの人気のない山において、自分は人世に戻るのか。

 木の杖でまたギリギリ立ち直した自分はとうとう魂を失くした。永遠に、このみちに徘徊する亡霊になる実感が攻めてきた。自分がもうこの世にはいないと思って、涙が頬を濡らした。

 どうしてこうなってしまったのか。すべてを終わりしようって、決意したからここに来たのに。あと少し前に進めるようになったのに。せっかく自由になっていくため頑張りたいと決めたのに。そうしたら、全部全部、無駄になったじゃないか……

 今はもうどのあたりにいるの?大杉権現社はもう過ぎた?不動堂と義経堂はあとどれくらい?荒く呼吸をするおれの先はただ雪道が無限に伸びていく。

 この道、果てはしない。

 真白。

 真白な。

 真白な、暗闇。


 光。

 すべてを呑み込む、眩しい光。

 すべての感覚も、溶けてしまった。

 なにも、なくなった。


「もういいんだ。雅樹」

 真白な世界に、一粒の雪の結晶は空から舞い降りる。

 降り注いだ雪の結晶は水溜りの漣に。

 静寂に立つ大杉は山の結界に。

 おれはかれの抱擁に。


 奥の院魔王殿は、清らか。


 積もった雪を負う石の灯籠の隣に、かれはおれを抱きしめていた。

 かれの顔が見えないが、魔王殿はおれの視界の中央。

 体は軽くなった。

 呼吸は楽になった。

 肺は新鮮な空気に満たされた。

 鞍馬山の世界は穏やかになった。

 耳元で、かれの囁く言葉が響いた。

「もうそんなことを二度と言わないで。地獄なんて、僕一人行けばいい」

 反射的に、意識が朦朧のままのおれはかれのことを呼んだ。


「……兄、さん」

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