鞍馬山・後編③


「雅斗くんだった」

 部屋に重く響いた麻沙美の声。

「え」

 思わず声をした。な、なにそれ。トンボ玉を先に取ったのはおれじゃなくて……かれなのか。

「ちょ、待って待って、どうして母さんはそんな嘘をついたの?そんなことを言ってもなんの意味もないじゃん」

 麻沙美は複雑な顔で視線をおれから逸した。

「それはね、母さんは最初から雅樹をここに残すつもりだったの。雅樹と雅斗くんは双子なんだけど、小さい頃からすでに個性がバラバラだったみたい。母さんが二人のことを呼んだ時、雅樹の方はいつも先に元気いっぱいに返事をしたけど、雅斗くんは割と内気でずっと自分の世界に浸っている。だから母さんは、二人を愛すると同時に自分のことを明るく返事してくれる雅樹の方に傾いていた。最初から母さんは雅樹を自分の側に残したかったの。あの日、どっちがトンボ玉を先に取っても、雅樹が日本に残す結果は変わらなかった。でも雅樹も知ってるね、母さんはちょっと神経質で、いつも繰り返し確認しないと安心できない。あの日も、恐らく母さんは雅樹が自分のことを選ぶことをもう一度確認しようとした。きっと、以前と同じく、先に元気に返事してくれる、トンボ玉を取ってくれるのは雅樹だと、母さんは期待していた。でも……」

「あの時のおれは……」

「うん。だから母さんはあの結果から逃げるため、ある事実を自分の中に曲げてしまった。そう、ある意味で別に大したことではない事実を」

 足元の自分の部屋の地面にいきなり茫洋とした景色が広がると気がする。

 体の中に深く眠る記憶を、おれはぼやけて見ている。


「ほら、これは「トンボ玉」というの。私の大好きなものですよ」

 懐かしい母さんの声の美しい響き。

 ただ母さんの顔はどうしてもピントのボケた写真のように映られるように、曖昧で表情さえ視界に伝わらない。

「このトンボ玉、誰が触ってみたい?さあ、こっちへ。こっち来て」

 トンボ玉の色は透明な青。近づいて見ようと思ったら、あの瞬間、暖かい日差しは窓から滲み始める。半分開けた紗のカーテンは滑り込むそよ風に吹かれて、緩やかに揺らいている。母さんの後ろの窓には雨上がり、あまりにも清々しい青空。瞬きをすると、真白な麗しい翼が空の青さから舞い降りた。

 蝶だ。

 軽い体の一羽の蝶は窓際に細い足で這っている。その姿はとても綺麗で、つい忘我して見ていた。急に、その体はまた空へ飛んでしまって、遠く、小さくなっていった。どこに行くの。あの青空の向こうに、何があるの。連れて、連れて行ってくれよ。行きたい。あの空の向こうに。

突然「あら」と、母さんの驚いた声が静止した空気に突き刺さった。

 蝶に惹かれた自分が忘れたあのトンボ玉の上に、小さな手が見える。

 澄んだ目であの透明な塊を見ているのは、自分の顔と同じように見えるあの人。

「そう、そうですか。あなたが……」

 母さんは驚いた顔で立ち上がり、慌てて部屋から抜け出した。二人を置いたまま。暫く隣の部屋から、薄い声が漂ってきた。

「ええ、選んだのは、お兄さんの方だったの」


「そう。お兄さんの、雅樹だった」


 目を閉じても、おれを抱きしめるかれの体温が感じられる。

 かれこそ、おれの兄。

 結局あれさえ、おれ自身で選んだものではなかった。大人に振り回され、子供って本当に哀れな生き物。それでも母さんを責めることがおれはできない。彼女もおれと同じく、自分の本心に従い、自分の望むことを選んだだけだから。誰でも悪くはなかった。誰でも自分の欲望に従い、自分勝手の人間だから。

 母さんの望んだ答えを与えず、おれは窓際の蝶に惹かれた。それでも母さんはこんなおれを選んだ。選ばれた自分は今でも、海の向こうの世界を夢見ている。

 誰のせいでもない。誰のせいでもないから、一番苦しい。

 かれも、あの時ちゃんと選んだのに。

 夢見るおれより、確実に手を伸ばしたのはかれの方だったのに。

 雪に濡れたおれの髪をかれが優しく撫でると気がする。

「そんなに近くいるのに、お互いの顔が見えないなんて、やはり寂しいね」

「今でも、お前のことをちゃんと見えない。どうしてこうなってしまったのか。お前のことを一番分かるのも、受け入れるのも、おれの方はずだったのに」

「ごめん。僕、言っただろう。告白が嫌いって。多分僕はずっと、今の雅樹の言葉を聞きたかったかもしれない。僕の一方的な告白より、雅樹が自分で本当の僕を見つけるのをずっと待っていた」

 かれはおれの右手を自分の胸の前に置いた。その心臓の強い鼓動を、おれは手のひらで感じていた。

「ねえ、聞こえる?僕の心臓の音。僕は今雅樹の胸で鳴っている心臓の音が凄く綺麗に聞こえる」

 柔らかい微笑みがかれの顔に咲いた。

「同じように、響いているね」

「うん」と、おれは頷いた。今胸中に湧いたその言語で表現できない懐かしさはなんだろう。そうか。二十五年前に二人もきっとこうして、母さんのお腹に、お互いの心拍を共有しながら生きていたよ。でもなぜ今おれは涙を流しているのか。

「ここは、痛いよ」

 魔王殿の境界に溶けた、かれの言葉。

「ずっとずっと、痛くて痛くて。誰でも言えないこの痛み、今は雅樹の痛みと共鳴しているよ。太平洋を越えて、この京都にたどり着きたいのは、きっとこの瞬間ため。ここにいるあなたとこの痛みを共有するため。自分のことを誰かに確実に受け入れてもらうため。だからもう大丈夫だ。雅樹の痛み、僕もちゃんと感じているよ。すべて、すべての苦しみ僕も受け入れるから、もう一人で抱えなくてもいいよ。雅樹はこれから自分の思いのまま生きればいいよ。理不尽な世界だとしても、雅樹なら、きっと泣いても前に進むよ」

「でも、でもおれは先までお前のことを呪っていたのに……」

「ううん。僕の方こそごめん。雅樹の夢を奪ってしまったんだ」

 そう言って、悲しく微笑んだかれはおれを手離した。

 雪の白い屋根の魔王殿に、かれは身を向いた。

 粉雪に静寂に眠る、奥の院魔王殿。この鞍馬山のすべての霊力の中心。六百五十万年の遠い過去、金星から地球に降りた護法魔王尊はここで祀られている。

 六百五十万年の昔。人類の文明が生まれた前にすでにここにいたんだ。鞍馬山は二億六千万年。より想像のつかない遥かな昔。その時間の雄大さを思ったら、自分はやはり滄海の一粟のようなものだと実感した。この鞍馬山で感じた不思議な力の源はここからなのか。ここまで、二人を導いてくれたのか。

 雪の白さに染められた屋根の魔王殿の前に立つ、かれの背中。

「すごいね。金星から来たんだ。この京都はまだ京都ではない時からずっとここにいた。長く、永く。何もない土地から、今のような素敵な人間の都市まで。あなたはここで見守っていたね。そしてこれからの無限の未来を、あなたもここで注視していくのか。皆に忘れられても、一人でここに。寂しいのかな。金星に帰りたいとか、思っているかな。そうか、寂しいか。でもあなたの前だとなんだか、楽になれると気がする。この京都は僕の思ったより広くて、深くて、包容力のある町と思えるようになった。それはあなたがこの京都を日本から、世界を、そして宇宙を繋げてくれたのかもしれない。だからこの京都には無限の可能性があるんだ。そんな僕だって今、ここにいられる理由があるんだ。あの時あなたが光を見せてくれた。そして自由の翼を貸してくれた。母さんがくれた魔法の塊とあなたが見せてくれた光は、僕をあの冷たい海からここに導いてくれたんだ。この夢見た京都の土地に。雅樹と麻沙美ちゃんのあの暖かい家に。ありがとう」

 一人で囁いたかれの姿がだんだん風に攫われるような不確実な形になっていくと気がした。それでもかれの涙は確かに雪の地面に重く落ちた。あの輝いた目は、なんという綺麗だ。

「ごめん。最後まで嘘をついた。実は本当の僕はここにいない。ここにいないんだ」

 雪に顫えているかれの声。

「堕ちた。空から、高い空から堕ちてしまった。あと少し、少しだけ会えるのに。この夢見た京都に。雅樹に。そんなに近かったはずなのに、あと一歩だけ、一歩だけ触れるのに……結局、なにもしてあげなかったね。雅樹に。雅樹はそんなに苦しんでいるのに、兄さんは何もしれくれなかった。雅樹に、兄としての責任さえ強引に押し付けてしまった。父さんの言った通り、僕はただの一人の自分勝手の人間。雅樹の方は僕より、芯のある強い人間だよ。散々振り回されても、絶望することはしない。心の中いつも強い信念の炎が燃えているんだ。頑張って、生きてきたね」

 雪を軽く踏みながら、再びおれの目前に立つかれは頭をおれの肩に置いた。雪に静かに燃える純潔な炎のように見える、かれの揺らいでいた体。おれは涙を流す以外、なにもできなかった。

「もうこれ以上、言わないでよ。呪わなければよかった。あれは本音ではない。お前のことを憎みたくないのに、憎みしかなかった……」

「分かるよ。全部のこと。雅樹のせいじゃない。できればずっとここにいたいけど、兄さんに与えられた時間はもうすぐ切れてしまうから。だから、だからせめて、この道の最後、雅樹と一緒に歩きいきたい。大丈夫。雅樹をこの道から連れ出すのは兄さんの役目だから、その前に絶対消えはしない。約束だ」

 おれから身を離れ、かれは道の先に向いた。

「さあ。もうちょっと頑張ろう。これは最後の道だから」

 魔王殿の先は山から降りる道。昨年の夏の台風に潰れ、形を失った木の階段。転んだ小石と折られた木の枝は雑然として道に散らばっている。鉄の簡易手すりをしっかり掴まないとこの険しい山道から落ちる予感がする。今はすでに、この体も、この視界も気力のないまま不安定で揺らいている。短いはずの道なのに、終点がどうしても見えない。

「無理」

 また荒くなったおれの呼吸。

「無理だよそんなの」

 震えるこの体で、おれは蹲っている。

「もう、これ以上歩けない」

 ぎゅっと、その手でかれはおれの腕を強く掴んだ。柔らかくて、まだ暖かい。

「ほら、賭けはまだ終わらないよ。そのまま僕に負けるつもりかい?」

 いつものようなかれの意地悪い笑顔。

「さあ、立ち上がって。この道の果てに、二人で一緒に行くんだ」


 鞍馬の山道は、登るより降りる方が難しい。

 右手で一生懸命鉄の手すりを掴んで、左手の腕がかれに握られるまま、階段を一段ずつ恐る恐る降りていく。一人しか立てない極狭い階段で、かれはいつもおれの先の段で道を確かめて、おれを下へ導いている。左も右も倒れた大木と散乱の石がある気がしたが、おれはもう足元の階段以外何も見えない。

 階段の次も階段。海浪の姿で流れて来る、無限の階段。

 落ちそう。落ってしまいそう。

 体のバランスが崩れた途端、かれが力強く支える力がおれを安心させる。やはりかれが共にいると、心強い。

「ゆっくりしていいよ。大丈夫、焦らないで」

 山道の最中に二人は足を止まり、一息入れた。

「短い間だったけど、僕、楽しかったよ。雅樹は京都の沢山の所に、僕を連れてきたから」

 雪色に染められたかれはそう言った。

「そして今。この道。二人で一緒に歩いているんだ。人生の道の僅かな一部だけど、一緒に歩きできて良かった」

 かれは曇天を見上げつつ、何かを求めるように冷たい空気を吸い込み、そして白い息を吐いた。

「僕はちゃんとこの京都に辿り着いたのか。ちゃんと本物の京都に触れたと言えるのかな。きっとそうだよ。雅樹が大嫌いな京都の風景の中におれがいる。いつか、五年後、十年後。雪がまた降るたび、僕のことを思い出せるよ。きっと、いつか」

 おれの左腕を握り、かれはまたおれを道の先に連れ出した。左腕のトンボ玉は揺れながら、密かに青い光を輝いている。

「でもおれは、まだお前のことがはっきり見えない。どうしたら、どうしたら見えるの?お前のことを、すべて」

「ならばこれから探しに行こう。アメリカでもいい。ここでもいい。この世界に雅樹と同じく、二十五年の人生を、僕は確かに生きてきたから。僕は待っているから。いつかきっと、あなたは本当の僕を見つける」


 この最後の道、なんて長い。

 おれの腕を掴んでいるかれの手も、少しずつ幻影のような不確実なものになっていく。

 かれは目の前にこんなに近いくせに、届かないほど遠い。

 千年前も今も、この世には近いくせに遠いものばっかり。


――近くて遠きもの。宮のほとりのまつり。

――近くて遠きもの。十二月の晦日、正月の一日の程。

――近くて遠きもの。思はぬはらから、親族の仲。


――近くて遠きもの。


 おれの京都。

 悲しいこと、愛しいこと、すべてのこと。

 それでも。何度転んでも、この不確実な人生の道に、おれはやはり自分の手で何かを掴みたい、選びたい。

 だから書いている。自らの力で学んだ新しい言語で。

だから歩いている。雪色に染められたこのつづら折りの山道に。

だから、強く生きていきたい。この先の、自分のかけがえのない人生に、かれと一緒に生きていきたい。呪いなんかじゃなくて、おれとかれ、二人の幸せ、おれは祈りたいんだ。浪川雅斗。おれの双子の兄弟。闇に立ち止まるおれに光をくれる人。二十五年前、おれとかれは運命に選ばれ、共にこの世に生まれた。そして両親に選ばれ、京都とニューヨークの両地にバラバラになった。それでも、かれは海の向こうからおれのことを選んだ。今度はおれの番だ。その人のこと、おれは選びたいんだ。その人の暖かい手を、おれは掴みたいんだ。だから。


「行かないで」


 鉄の手すりを強く掴みながら、おれは荒い呼吸しつつ、言葉をよく通る声で雪に響かせる。

 視界の中央、その背中は静寂に粉雪を浴びている。そしてゆっくりと、おれに向かって振り返った。光っているそのトンボ玉のような綺麗に澄んだ瞳。その瞳におれは自分の姿を見つけた。

 雫を纏う花を彷彿させるかれの一番の笑顔は雪に咲いた。


「僕は誰よりも幸福な人間だ。ありがとう」


 思わず微笑んだ。あ、また、かれと笑い合ったんだ。

 その暖かい手を握り返した。

 そこは長く、長く。長く続いている。


――鞍馬のつづら折りといふ道。

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