鞍馬山・後編④
光が見えた。
真白の雪の道の果てに、儚い光は照らしている。
これは何の光なのか。浮世を灯す、救済の光なのか。
遠くから、次から次へ、赤塗りの灯籠は身の両側に流れてくる。
その幻の光は雪色に染められた石段を照らしている。
儚く揺らいている、貴船神社の門。
雪に足を止めた。風の冷たさを感じようとした。
鞍馬山はすでに後ろ、貴船川の向こう、奥ノ院橋の向こうに。
ようやくあの長い道の果てに辿り着いた。おれは。
水占みくじの紙を水に浸けて、その結果を楽しむ観光客達の姿が目に入った。皆の元気の笑顔を見て、ようやく人世に戻ることを実感できた。ここは想像より賑やかで、いいな。
家の近くの下鴨神社にもこういう水占みくじがあるよな。そういや、少し前の初詣は三人一緒でそこにいったね。大吉なんて、以前一回も当たらなかった。いつも運が良い麻沙美に笑われた。でも今年のおみくじは三人で一緒に神社のそこに結ばれた。三つの大吉は、そこで一緒に結ばれた方がいいと、かれはそう言ってた。
貴船神社の境で焚火が燃えている。その変幻の炎の前に、おれはただ無言で立っている。目に揺らいでいる、火の形。耳元に囁いている、火の音。長い間にその焚火の温度を感じながら、おれは立ち竦む。傷ついた心はこうして楽になる。
無意識に手を顔に触れた途端、今自分が涙を流していることを気づいた。
ごめん。今でも泣き虫の臆病者。強く生きるなんて、やはりまだまだ上手く行けないよな。まったく。
貴船神社の焚火の前、風に舞う細雪が背中を叩いた感覚がする。
懐かしい誰かが背中を支えてくれるような、優しい力。
振り向かないおれはただ耳を澄ました。
暖かい声だった。
「前に進め。雅樹」
***
貴船神社の入り口の最初の階段に、おれは座っていた。
細雪のなかに長い間、ぼんやりしていた。
まるで先ほど長い夢から覚めたばかりように、今日の自分はなぜ鞍馬に来たのかを、わかっているような、覚え出せないような。
スマホに映っている年末嵐山の時の写真には、明るい表情の麻沙美と隣の暗い顔のおれだけ。なぜあの人がいないのか、そもそもあの時本当に一緒だったのか。どこに、行ってしまったのか。
曖昧な記憶は、舞い落ちる雪と共に形が消えてゆく。そして何かの現実感のない事実も自分の中に芽生える。アプリの国際ニュースが結論を訴えても、正しいのはどっちなのかを、もう分からなくなった。一番近くにある真白な雪と寂しさは唯一の真実。
スマホは着信画面に切り替えた。麻沙美からの電話だった。
「はい」
「あたしよ」
「うん」
「今、まだ鞍馬にいる?もう帰るところだった?」
「これから帰るつもりだ」
「そう。じゃ、まだ家に一番遠いところにいるんだ」
「どうしたの。なんかあった?」
「雅樹のお父さん、今日うちに電話をかかった。国際電話でね」
「そうか。料金が高いから、そんなに長い話ではなかったようだね」
「葬式が終わったと、あっさり伝わったの」
真白な細雪が無言のまま降り注いでいる。静寂の世界に。
「そうか。そっか」
「まだ見つからないのに、葬式をするなんて、ひどいと思わない?」
「だな。葬式はいやだよな。お前は一番いやだから。父さんと母さんの葬式のあの時。めちゃくちゃ泣いたからさ」
「そうだね。でもあたし、あの子の葬式の場にいてもちゃんと泣けるのかな。やっぱりあたしにとって、これは他人事か。そんな悲しくなれない自分はひどいの」
「ううん。お前はきっと泣くよ。おれより、大きい声で泣くよ。お前を悲しい思いをさせないのは、きっとかれなりの優しさだ」
「はは。そうならばよかった」
おれは雪の空を見上げる。
「夏になったら、お前はやっぱり家から出るか」
「うん、出るよ」
「そうか。おれも出る。アメリカに、おれは行くから。おれは、これから頑張って自由に生きていくから」
「ようやく決めたのね」
「まあな。この世界の理不尽をまだ許せないけど、自分のことを少し許そうと思う。だからもう、大丈夫だ」
スマホの向こうは暫くの沈黙。
「そうか。良かったね。ただ、この家も、しばらく寂しくなるよ。寂しく……」
「大丈夫さ。おれら二人だけの家ではないから。いつでも戻れるし、それに、きっと父さんも母さんも、そして誰かがそこでこの家を見守っているよ。だから麻沙美も、これから自由になって」
懐かしい泣き声は電波の向こうからおれの胸に響いてくる。
「ああもう、誰かさんのせいで涙が出ちゃうそう。そちらはきっと寒いよね。だから早く、帰ってき来て」
「わかったよ。すぐ、帰るから」
通話を切り、鞍馬の雪に、おれは緩く立ち上がる。
目前今でも長く、果てが見えない道。叡山電車の駅は遠く見えない場所に。歩く道はまだ続いている。手のひらにはまだ、暖かい感じがする。
青く光る、透明な塊。雪の結晶と異なり、消えない存在。
お前はこうして、おれのこと、京都のことを選んだね。
だったら、おれも奇跡の存在を信じることを選ぶよ。
「なあ。一緒に帰ろう。叡山電車に乗って、出町柳に」
「おれたちの家に」
「お前の家に」
「お前が自ら選んだ、あの特別な場所に」
がらんとしている上黒田貴船線の道路に、降り注ぐ雪の群れと正反対で、おれは一人で歩いている。曇天は頭の上に無限に広がっている。道は足元から渺渺たる彼方へ続いてゆく。この世界はなんという広大無辺。ああ、久しぶりだな。この胸中のドキドキ、心臓の高鳴り。薄暗い道におれは自分の熱い呼吸を感じる。そのリズムに合わせて、足も速くなる。そしてようやく全力で走り出す。今は雪の混沌の視界だとしても、トンボ玉を手のひらに握りながら、おれはもう一度一生懸命見上げる。あれは空に舞う雪の群れが海浪のように、世界を覆すところだった。
【参考資料】
清少納言『枕草子』(講談社文庫、校注・現代語訳 川瀬一馬、1987年4月)
鞍馬のゆきみち 林柏和 @kashiwarin
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