渡月橋⑤

 頂上展望台とは言え、そこにあるのはたったのベンチ一つ。しょぼいけど、そこに立つと冬色の嵐山と亀山、そして真ん中に挟まれた桂川を一望できる。渡月橋のあたりより、ここから見下ろした桂川の流れが精彩のないまま落ち着いている。そのひっそりしている景色を見渡し、おれは切り出した。

「そういえば、あの時からずっと気になっててさ。お前、忘年会の日、雨宮にニューヨークのことを聞かれたら抵抗があるように見えたけど、やっぱりニューヨークでなんかあった?」

 かれの透き通る瞳に閃光が一瞬走った。意味深い微笑みを顔に浮かべ、何かの言葉をおれに発する途端急に後ろに身を向いて、一歩踏み出した。

「ここから、鞍馬のあたりが見えるのかな」

 鞍馬という単語は耳に入った途端、心臓は急に痛みに刺されて、両手も勝手に一回だけで震えた。鞍馬のゆきみち、おれのトラウマのような風景。

「なんだよ急に」

 片手を欄干に置きながらかれは白い吐息をした。

「突然だけど、鞍馬山の護法魔王尊の話、兄さんは知っている?六百五十万年の遠い過去、金星から地球に降りたってことさ。この魔王の正体について、色んな説があるよ。ヒンドゥー教の神話に登場した賢人のサナート・クマラだとか、堕天使ルシファーだとか。面白いだろう。この魔王って、実は京都の外から来たんだよ。京都らしくない印象なのに、清水寺や伏見稲荷大社などよりよほど前に京都にいたのさ。忘れられたね、ここの皆に」

「それ、おれの質問となんか関係ある?」

 眉を顰めるおれは少し戸惑っている。隣にかれは腕を組んで、冬空を仰ぎ見る。

「僕はね、一度この魔王様に会ったことがあるかもしれない。ここに来た途中、海で彼からの不思議の光が見た」

「は?……海?お前、飛行機でここに来たじゃないのか。どういうこと」

「奇跡、としか言えないだろう。でも僕はずっと、京都にいた頃にもらったある大切な物を持っているから、その宝物は僕と京都、そしてあの不思議な光と繋いてくれるきっかけになったかもしれない。「この願いをどうか叶えて」と、あの時僕は確かに一生懸命で祈ったんだ」

 かれの瞳の閃きのかけらは空気に流れ込み、おれの目に届いた。

「僕がニューヨークにいた時のこと、知りたいだろう?ちょうどいいから、少し教えるよ。実は僕、誰かに自分のことを話すのはいやだよ。幸福の人間は人生を満喫しながら生きるだけで十分なのに。不幸の人間こそ告白が必要だ。僕の中に告白することは自分の不幸を認めると同じだから。告白しなくても普通に生きるのならばよかったのに。でも僕は嬉しかったよ。兄さんは僕のことを知りたいこと。兄さんだったら、いいよ。それじゃ、あの方から譲ってくれた魔法を見せてあげようか」

 おれの左腕にかれは指差した。

「勝手に自分の腕につけたのね。このトンボ玉。それを外して、僕の目に当ててみて」

 かれはニコニコしてそういう風に言った。その意図を知らずに、先からずっとぼんやりの状態のおれは左腕からトンボ玉のブレスレットを取り外し、あの青の塊を自分の右目の前に置く。

 ガラスの透明の青色越し、その彼方はかれの左目の瞳。

 おれの瞳とかれの瞳、そしてトンボ玉は一つの直線に並ぶ、三つの惑星。

 かれは瞬きすると、この直線に貫通する光が閃き、トンボ玉の内部から何かが生まれる。これは海水だ、とおれはなんとなく分かるようになった。徐々にトンボ玉の三分の二の空間を満たす海水は月の引力に操られる潮になり、反復に揺らいている。

 トンボ玉にあてられるおれの右目の眼球はいつもより利くと感じると同時に、引力の存在を憶える。トンボ玉の海水は消し去り始める途端、おれは右目の眼球に湧いてくる水の潤いを受け取る。視界にある実在の嵐山の空間の投影はだんだん海水に侵蝕され、代わりに見慣れない風景の方が伸ばしていく。

 ごめん、少しだけ、夢を見て貰おうと、微かにかれの声が響いた。

 油絵を彷彿させる景色は自動的に変化始めた。また色づき始めた。あれはかれの人生の、物語の絵本だった。

 

 自分が孤独な人間を意識したあの日、手のひらが見えなくなった。

あの朝、弟のジョージくんと喧嘩した。何のために始めた喧嘩をもうすっかり覚えていない。大体細やかな出来事でどうでもいい喧嘩をした。ただ怒った理由ははっきり記憶している。ジョージくんは「どうせお前は僕らと違うから分からないよ」と叫んでいた。妹のエミリーちゃんは怯えた顔で何も言わなかったけど、ジョージくんの側に立っていることは誰の味方を表していた。そして隣の部屋から、白人のアメリカ人の母さんは僕ら兄弟二人の言葉の殴り合いを上からの力で止めた。窓からの日差しは彼女に包み込み、後ろにジョージくんとエミリーちゃんは共に陰にいた。

 彼女は英語教育の講師の仕事をしている。僕は彼女から母語としての英語を教わった。彼女の以前の夫が病気で亡くなって、ジョージくんとエミリーちゃんを連れて父と結婚した。そして僕の育ちの母になった。決して悪い母ではない。しかし良い母だと僕も認めない。無い物ねだりの自分の中に些細な恨みの種を、彼女は蒔いた。もし彼女の愛は総計百点で僕とあの二人に分けるのなら、それは決して0対100のような極の差ではなく、ほぼ同然の49対51だ。四捨五入したら半々になる。平等だと見えるけど、天秤はすでに傾いた。必ずどっちが選ばれるのなら、それはきっと僕の方ではない。愛されないことを責める事はできない。だからずるい。母も、ジョージくんとエミリーちゃんも、ずるい。僕の胸に小さくて、奥深い穴を掘ってしまった。

 中学までは普通に会話ができたが、二人は高校に入った直後急に「それ」とか「あれ」とかの指示代名詞で二人だけしか共有できない空気を築き上げた。時々言葉さえ発さなくても、ジョージくんとエミリーちゃんは暗黙の了解を得て、僕だけはこのコミュニケーションの大気圏から追放され、空気のない宙に漂う。

僕と二人の間の薄い紗は一体なんだろう。

 同じく英語だとしても、英語の中にもあの二人だけの言語が存在すると気付いた。言語がコミュニケーションを実現するためのものでありながら、コミュニケーションを拒否するものでもある。自分の普段他人と交わる言葉は生命の不在の蝉の殻と同然の物だと意識した途端、僕は言語と言葉そのものを疑い始めた。

夏の街頭に瞳の色が異なる友人達と気楽に喋りながら僕は道路を横断する。一瞬不意に振り返ると、遠い景色は水気の膜に被され、視界に虚しくぐらぐらしている。虚像だと知っているけど、僕は妙にこれこそ世界の元来の姿ではないかと思い始め、友人達の笑い声に心臓の寂しさの鼓動を味わっていた。

 いじめられること、孤立されることはなかった。それでも自分はやや異質な存在だと、少しずつ分かるようになった。皆と異なる顔と体。世界と僕の間は無限に広がる薄い紗。紗の向こう、他人には見えない傷痕が沢山ある。僕しか知らない痛みがいつまでもその体に寄生している。だからあの日のジョージくんの意図がせず言葉に打たれ、全身の欠けた所は一気に痛みの呪文を唱えた。僕の一番のほしいものは蝉の殻じゃなく、生きる蝉の翼の振動の音だと、痛みの豪雨に僕は気付いた。

 そうだね。ようやく本音を聞かせたのね。僕たちと違うって。

 鏡に映す自分の姿は現代芸術の油絵の構図で、色も輪郭も不安定に見える。それこそ自分の真実の形ではないかと意識したら、この身は寂しさの海の底に沈んでゆく。寂寞の空間に瀕死の五感は僕の魂を手放した。空っぽ。過去も現在も未来も、空白。僕の心臓の中央から空白の穴が拡張していく。この体のすべてを呑み込む。

 会いたい。あの愛する人に。

 この寂しさを埋めるため、あの人の存在が必要だ。

 今すぐあの人に会いたいと、胸が騒いでいた。その言葉を今この瞬間に電話の向こうのあの人に伝いたい。

「海、見に行きたいな。一緒に行こう。あなたと二人で見たい。そうしたらきっと二人の特別な景色になれる」

 二人は車をだし、高速道路でドライブに行った。ラジオの音量を最大にして、自分の中の何かの雑音を無視しようとし、声を上げ、ラジオの音楽とともに歌っていた。あの人と一緒に歌っていた。

 ハイウェイの出口を抜け、ニューヨーク州の一番東の海岸まで。

地の果てはライトハウスと無限の海。二人は靴を脱いて、裸足で砂浜に歩いていた。ただ二人並んで歩く形になれなかった。いつも僕はあの人を追い掛けていて、二人の間の踏み越えられない距離は砂の色。

 先までずっと側にいたのに。歌声が聞こえたのに。

 なぜこの砂浜で一緒にいられないのか。

 静寂に広がる、別れの予感。

 取り残された感じに刺されて、つい口にした。


「愛している」と。


 あの人は足を止めた。

 美しい顔の輪郭は悲しい色に染められた。

 何かを言おうとする表情だけど、ただ沈黙で首を振った。

 無音で分断された、二人の世界。

 ああ、この足を駆けて、あの人の顔にキスすればよかったなと、急に世界との遠近感を掴めなくなった僕はそう思うようになった。

 浪は砂浜に打ち寄せる。

 潮風に僕は途方に暮れる。

 浅瀬に立つ僕の足元に海浪の漣の感触がする。行ったり来たり、近づいたり遠ざかったり。砂浜の先に目を向いても、茫洋たる海の揺らぎの浪以外何もなかった。この世界も。僕の人生も。すべては幻覚に浸透され、具象でなくなり、色褪せつつ遠近運動をする弧の姿で僕を凝視している。彼らの目は僕がどれくらいこの世界と周りの人間に対する不信感を抱えることを容赦なく見抜いた。

 愛とはなんだろう。

 言葉とはなんだろう。

 自由とはなんだろう。

 人との繋がりとはなんだろう。


 僕は、なんだろう。


 この手のひらさえ、何かの抽象な概念と同じく形を失っている。この世には信じられる物は一つもない。何もかも、近くにいるという嘘をつき、ひっそり遠ざかる。

 どうしても受け入れられない、愛されない人間って、僕のことだ。

それはやはり悲しい。孤独な人間になりたくない。自分のことを孤独な人間と思いたくない。僕は、独りぼっちでこの世に生まれたわけじゃない。双子の兄弟がいる。この人なら、僕のことを確実に受け入れてくれるだろう。この人のいる、僕の生まれの京都に、僕は少しずつ近づきたいと、僕はそう思った。

この虚像で構築された世界に、僕には最後一つの希望がある。確実な繋がりがある可能性がある、最後の一人。秋山雅樹。僕の双子の兄弟。この人のもとに、僕は向かっていきたい。

 生き続けるため、それを信じるしかない。これは僕の最後の賭けだから。

二十歳になったあの年、僕はようやく本気で僕の生まれた土地の言語に触れ始めた。

 日本語。アルファベットのない言語。

 もしあの時父さんに連れられなかったのなら、この言語は自分の血と共に流れるのだろう。そもそも母語って、どうやって体の感覚と一体化するのか。英語を喋った時普通に真剣に考えなくても、自然に言葉が流れる川の水のように、体から湧き出す。日本語の方はどうやら体の感覚と相性が悪くて、自分の体にどうしても書き込めない。

 挫けた自分は日本語のクラスにこの頑固な体と戦うように、一生懸命単語の泉を口から流す。指先から紙の上に流す。この言語を自分の中に、幻から形のある真実にするため、僕は一人で戦っていた。

上手く意思を伝えられない自分なのに、いつも日本人の先生から丁寧な返事をもらった。細やかな挨拶だとしも、淡い雑談だとしても、先生はいつも真剣な顔で言葉を僕の中に響かせる。学習のための会話とは言え、僕は自分の生きる実感を取り戻したと気がする。

 人と話すことが再びに好きになった。

 不器用だけど、温度のある、重さがある真実の言葉で。

 ああ。聞こえた。生きる蝉の翼の振動の音が。

知らないうちに、生まれた日本という国、そして京都という町の山も川も、町並みも、人々の声も、僕の中に少しずつ感覚を掴んだ気がした。近くて遠くて、触れる度にまた消える。でもやはり、近くなってきたんだ。

 僕の生まれた故郷は遥かな海の向こう幻の世界にある。かつての僕はこの土地に選ばれ、そこに生まれた。好きかどうかと関係なく、一生この土地からもらった体と共に。運命のいたずらで、そこから離れた自分はもう一度そこに戻ろうとする。選ばれるなんて、結局幻の人生しか作れない。ならば、今度は僕の自分の意志であの土地を選ぼう。幻だとしても、僕が自分の意志で選ぶのなら、きっと確実な意味が誕生する。その伸ばす手で、僕は幻の世界を真実の色を塗りつける。

 好きになる理由は本当に純粋ではない。でも、そもそも人間の選択ってそんな単純なものではない。孤独の人生から抜け出すという僕の賭けからの憧れ。それでもこの憧れは自分自身の真実の意志になれると、僕は思うのだ。

日本に出発する朝、父は車を出して、空港まで送ってくれた。父は僕のことに関してはいつも放任主義というか、無関心というか、とりあえずお金と自由をくれた。冷たい手で自由をくれた。

「結局、君はどうしてもそっちに戻るのか」と、隣の運転席から、いつも通りの感情が薄い父さんの声が響いた。僕は外の変わりゆく景色を見送り、沈黙のまま少しだけ頷いた。

「いいよ。君の自由だから。君の人生だから。私の言うべきものではない。ただ、この先の孤独も、悲しみも君自分のもの。私はこれから、君のために涙を流さない」

 その相変わらず感情のない声の響きはなぜか心を鬱陶しい色に塗り潰される。僕はようやく運転席の父さんの顔を直視しようとした。

「父さんはあの時はアメリカに行くから、日本にいる母さんと別れた?」

 僕の質問に打たれ、父の平静な横顔から表情の動きの漣が見えた。少しの沈黙の後、父は淡々と言い出した。


「自分勝手は人間の本性だ。私も君もね」

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