渡月橋④
この後とりあえず亀山公園まで歩いたが、インドア派のおれはほぼ山道でくたばっている状態になってしまった。複雑な表情の麻沙美は軽い足で小走りにこっちに向かって、ポケットティッシュをおれの両手のひらに投げてくれた。
「あたしもちょっとここで休憩。雅斗くんには悪いけど、展望台、先に一人で行っていい?写真をゆっくり撮っても構わないから、後であたしたちはそこで合流」
雅斗は心配そうにこっちに移動しようとしたが、麻沙美の目線に隠れたメッセージを読み取ったように、少々躊躇しているが、「うん」と頷いて離れた。
道の傍の長いベンチに座り込んだ麻沙美は隣の空いているスペースを指二本で叩き、呆然としているおれを見ながら「ここに座って」と伝えようとした。おれは彼女の隣にお茶の蓋をひねって話を掛けた。
「どうしたんだお前。またあいつを一人にしてなんて」
「ちょっと雅樹と二人きりで話したいことがあるの」
麻沙美はそう言いながら、手に握るペットボトルをじっと見ている。
「今あたしたちと一緒にいる彼はほんまの雅斗くんではないのかもしれない」
唐突な麻沙美の発言だった。
「え、どういう意味……?」
麻沙美は顔を上げて、何秒くらい真剣におれの目と合って、また視線を手に握ったペットボトルに戻った。
「ごめん。こういう言い方はちょっとひどいかもしれないけど、あたしやっぱり違和感を覚えるの。夜はね、雅斗くんは偶にベランダで一人、沈黙で町並みを眺めていたのよ。月明かりの中、その瞳は静かに光り輝いて、とっても綺麗だったからつい夢中に見てしまった。でもその時彼の顔はすごく寂しくて、あたしはそれ見てなんだか自分さえ悲しくなってきたの。近くにいたのに、彼がまるでこの世の人間ではないような触れない存在に見えたよ。そんなに好きな京都にいるのに、どうしてそんな寂しい顔をしたのかな。やっぱり、強がっているのかな。雅斗くんにとって、この家は果たして彼の居場所なってるのかな」
無意識に力を注いで、半分空っぽのペットボトルを指で挟んだ。四条大橋の上のかれの横顔は記憶に映像として浮かべる。なんとなく、そういう闇の一面がある奴だと思えた。今かれと同じ部屋で生活しているのに、不思議な距離感が二人の間に一線を画した。二十五年の前に、おれは本当にかれと一緒に母さんのお腹にいるのか。こんなに近くて。今より、よほど近くて。本当、現実感はちっともないな。兄弟と呼ばれるけど、兄弟らしい親しさなんて無理しても生じなかった。そのせいか、かれは小学生みたいに兄さんっておれに兄弟の繋がりを常にアピールしている。その企みだけは極単純で、笑えるものだった。
「客として扱われるのを凄くいやそうだな。あいつ。仲間外れことも敏感だしね」
麻沙美は両足を楽に伸ばして、座り方を少し変えた。
「正直あたし最初も抵抗があったよ。いきなりよく知らない人は家に居候なんてね。やはり彼のことを客と意識したから、つい力を入れて優しくしなければならないと思って、本物じゃない優しさを雅斗くんに自分勝手に投げかけてた。ありのままの雅樹よりあたしの方がずっとずるくてひどいのかも。雅斗くんは観光客ではなく、ここで生きていこうと本気に思うなら、これから一人で経験しないといけないこときっと山程ある。楽しいことがあるけど、辛いこともきっといっぱい乗り越えないとね。これから、作られた優しさで彼を甘やかするのをやめた方がいいかな。まあでもあんた最初はあんな態度だから、あたしまた厳しい顔をしたら雅斗くんほんまに窮地に立つのよ。初日ほんまに最悪。どうなるかと思ったけど、夜は割と平静に居られるように見えた。やはりその後二人はなんかあった?」
「まあ、色々ちょっとね」
おれは詳しく言いたくない顔をした。
「そう。とりあえず今はあの時より仲良く出来そうに良かった。やはり双子しか共有できない秘密があるわね。あんたのこともよほど好きだし。いつもからかってるじゃない」
「あれは単純に性格が悪いだろう」
「それに、受け入れられるように一生懸命。意外に不器用だね。あの子は」
淡い笑顔の麻沙美は空に浮遊する大きな雲を仰ぎ見る。おれの話を聞かずに、独り言をする感じで口を動いた。
「あの子って、お前の兄だぞ」
「まあ、でも言葉はまだ幼い感じっていうか、日本デビューの新人としての初々しさがあるっていうか。あんたも、念願のアメリカデビューをしたら、今よりよほど可愛くなるね」
にこにこでおれの顔に指差した麻沙美は突然何かを思い付いて、深刻な眼差しをしている。
「ねえ、ほんまに、どうしてアメリカにそこまで執着しているの?」
どうしてって。急にこんな真面目な顔で聞かれて、即場で答えを出さずに、黙って爪でお茶のラベルを擦り落とそうとした。アメリカが好きなのは嘘じゃない。ずっと前から、叶わぬ片想いの存在。ジャズが好き。ハリウッド映画が好き。英語とアメリカ文学が好き。そこの世界最先端の流行文化が好き。おれの好きが詰まっている宝島。喉から手が出る程欲しくなる。
夢と希望を込めて、微笑んで思うはずなのに。アメリカという単語を聞いた途端、息継ぎをするさえ痛く感じられる。アメリカに行けないことは、失敗と劣等感を一生抱えること、自由になれない運命に従うしかないことを意味する。特に、アメリカで学位を取った雨宮とすでに日本に辿り着いたかれがいるから。自由になれない苦しみを知らず奴はこの世にいっぱいいるから。
「置かれたくない、かな。どいつもこいつも自分の思い通りに望む場所に行けたのに。行けない自分だけは惨めな負け犬。そのまま負けることを考え始めると、ここ、心臓が凄え痛くて、痛くてさ。本当、いつからこんな負けず嫌い人間になったか。それさえ実現できないと、自分は何のために生きているって、意味がわからなくなる」
感情の川の流れに従い、服の端を力込めて掴んだ。麻沙美は悲しい顔で横から視線をおれに注いだ。
「そのこと、あたしじゃなくて、一度ちゃんと雅斗くんと話し合ったらどう?雅斗くんはアメリカで長い間生活したから、詳しいアドバイスとかくれるし、英語の練習も付き合えるし。もし向こうのお父さんの助けが必要なら、雅斗くんもこの架け橋として協力できるし。本気でアメリカに行きたいなら、雅斗くんこそ力になれるんじゃない」
「そうね。普通にそう思うよね」
麻沙美の言葉は正論で、おれは否定できない。ただし、人間として生きる苦しみは、理屈では納得できるけど、感情では安易に受け取れないこと。かれ自身なんの悪いこともなく、ただおれと同様に選ばれるだけ。自分の憧れの都会生活、輝く青春時代を叶えないのも誰にも責めない、どうにもならないこと。かれとのコミュニケーションを回避するのは、苦しみから自分を守るため。かれの協力を求めたくないのも、二人の間の不平等を意識させないため。
流れ過ぎた時間はもう戻らない。京都にいるこの二十五年の孤独も、不安も、後悔も、おれを作った、おれの人生そのもの。あの日怒りに囲まれ、父さんの浪川がただのATMだとつい言ってしまったけど、今更あの人におれはもう何も求めない。母さんが死んで、他の親戚が代わりに連絡してくれたけど、あの人から関心の言葉さえ一つも貰わなかった。だからもういいんだ。今、あの人に頼らず、自分の力でアメリカに行くのは、おれの雅斗に勝つ唯一の手段であり、おれのこの世界の理不尽と戦う、唯一の方法だ。
冷たい風に、山の広場にいる二人の髪はバサバサになった。冬風という季節の嘆きはおれの体を貫通した。
「あたしたち結局どっちでもあの子のことを心から家族として迎え入れなかった。やはり知らないのね、雅斗くんのこと。ほんまの家族になったら、ちゃんと遠慮なくすべてのことを話してくれるのかな。強がらなくてもいい、ほんまの笑顔を見せてくれるのなら。その時きっと、この出町柳の家は彼の居場所になれる。あたしたち三人の家になれる。だから雅樹にお願い。雅斗くんと双子の雅樹しかできないこと。この嵐山からありのままの雅斗くんをうちに連れてきて」
冬の太陽の光に妥協せず燦めいた麻沙美の眼差しだった。
「はいはい、仕方ない。お前らの兄貴だからな」
おれは立ち上がるつもりだけど、麻沙美はおれの袖を急に掴んだ。
「それは雅斗くんのためだけではなく、むしろ一番なのはあんたのためよ。あたし、あんたのために家に出るの」
焦るように聞こえた麻沙美の声。
「あたしのせい。雅樹がダメ人間の金髪ニートになったのは、あたしの」
その手の震えは届いてくる。
「わかってるの。あたしのためなら、雅樹は何でもしてくれるって。だから雅樹は大学受験に再挑戦するのをやめて、あたしのため仕事を始めた。あたしはほんまに自分勝手だから、どうしても美容学校に行きたくて、雅樹のことを利用した。雅樹の夢を犠牲した。雅樹だって、大学に行きたい、アメリカに行きたい気持ちはずっと変わらないのに、自分の人生ちゃんとあるのに。あたしはあの時何も言ってくれなかった。ただ黙って、自分の本心を殺そうとする雅樹を見ていただけ」
「違う、それはおれが諦めたから。お前と関係ない」
取り乱すおれの言葉に対して、麻沙美は頭を横に重く振った。
「だからあたしがずっと言うの。このままの雅樹はダメだって。あたしが一番怒るの。毎日、叱るの。あの日雅樹を殴ったのも、そんな自分のことを諦める雅樹を見ることにこれ以上耐えられなかったから。だからあたしは家に出るの。これ以上雅樹の荷物にならないように。あたしはもう大丈夫だから。雅樹も、自分の本当のやりたいことをやってよ。好きなように生きてよお願い」
麻沙美の涙顔を見るのは心苦しいから、足元に目を下ろした。
「結局今日嵐山に来たのはこれを話すため?お前はそこまで気にしなくてもいいのに。おれの自業自得。もう言わないでくれ」
自分の泣き声を聞いた途端、涙の潤さを感じた。袖で涙を拭こうと思ったが、頭を上げると、目前に迫ったのは困惑と驚愕の顔で立つ雅斗。
「どうした?二人とも、泣いて」
「ああもう。雅樹のせい。変なこと言われた」
座ったままの麻沙美は慌てて手の裏で涙を拭く。
「いや、お前が」
二人のぴんとこない会話の中に、雅斗は茫然と首を垂れて、大きなカメラを指で擦っていた。そして淡い哀愁の顔つきで微笑んだ。
「本当に。二人は仲良しだね」
その表情に不機嫌を感じ、おれはかれに向かって声を上げた。
「なあ。ちょっといい?仲良しのため双子兄弟の二人きりの話をしようぜ」
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