渡月橋③
昔かれと似ている人と出会ったことがある。何年前烏丸あたりのコンビニでバイトした時のこと。店には確か一人の東南アジア系の男子がいて、一緒に夜勤したことが何回あった。日本の大学に進学するため、勉強しながら貯金もしていたらしい。日本語はそこまで上達しなかったけど、交流の熱意が伝わる。自分の夢に向かって頑張っている奴、誰だとしてもおれは尊敬する。だから彼のことをちょっと気になった。仕事の隙間に偶に彼と会話を交わった。
「秋山さんを羨ましいです。生まれてこのようなキラキラの世界にいて、目まぐるしい文化に浴びて、世界一番の日本パスポートを持って、他の誰かの厳しい目線にいなくても、世界のどこでも行けます」
羨ましいと言われて、複雑な気持ちになってしまったおれは手を止めて、商品棚の一番上を眺める。
「別に。ここがそんなに良いところおれは思わんし。お前だって、今もちゃんとここにいるじゃない?」
「いますけど、いないような気がします。僕の在留カードには今も期限がカウントダウンしていますよ。僕にしか聞こえない音で、ダダダって。期限切りまでに頑張らないと、消えてしまいますよ。今秋山さんと同じ空間にいても、秋山さんは実在ですが、僕は体が持っていません。この手さえ時々見えないような気がします。僕は幻です。突然に雪の結晶と一緒に消えるのかもしれません。この京都から」
その言葉を送りつつ、彼は淡い表情では緑の箱の中の弁当を棚に置く。そしてまた、「いつか」と囁いた。
当時のおれは自分のことさえ精一杯で、他人のことを関心に寄せる暇はなかった。彼の意味深い言葉を気になったけど、次と次の出勤の日に彼とまた会えたから、彼の細やかな感傷をすっかり忘却した。
あれから何ヶ月経って、おれが病気で二週間休みをして、復帰したら、シフト表にはその人の名前はなくなった。
帰国したって、店長から淡く伝った。
大学に合格できなかったのか。自国の実家にはなにかあったのか。なにかの事情があったのか。「さよなら」を言う機会もなく、二度と会わなくなった。あの日彼最後囁いた「いつか」は記憶に急に鮮明になった。常にアメリカの世界に目を向けるおれと同じ、彼は日本、京都の世界を望んでいたではないか。
そして次から次に、モンゴルのお姉さんが店からいなくなって、韓国のお兄さんも急にバイトをやめた。ロシアからの女の子はバイトに入り、またすぐ名前がシフトからいなくなった。
皆が消えた。
痕跡を残さず、綺麗に消えた。
いつか彼らに関する記憶も時間の流れと共に曖昧になったら、その存在は完全に抹消されるのだろう。そもそも、友達さえも言えないし。ささやかな縁があり、人生の庭の隣の小径に通り過ぎただけだった。京都にいる人皆、彼らのことを忘却するだろう。そうしたら、京都に居たあの時間は、何なのか。京都に辿り着いた意味は、何なのか。
京都から離れると、京都は幻になる。
でも京都に居たら、自分自身が幻になる。
必ずどっちが幻だったら、結局、彼らは本当に京都に辿り着いたのか。彼らにとって、京都は近くて遠くて、見えるけど永遠に届かない存在なのか。
もしアメリカに行けるのなら、おれも幻になる覚悟をしなくてはならないな。自分は形のある自分ではなく、ビザやパスポートの特典になったから。あの薄い紙こそ自分の体。
そう思って、足を止めたおれは竹林に立ち尽くし、自分の手のひらをじっと見詰める。確かに触れる。幻ではない。この二十五年の人生は幻ではない。おれは今も、ここにいる。
それでも、途方もない寂しさは耳元で囁く。周りに観光客の群れは通り過ぎ、鴨川の流れ水と同じ。おれは川床に沈み、動かず一粒の小石。
いつまで、自分の中の真白な雪道に立ち竦むのだろう。
風に舞う細雪が背中を叩いた感覚がする。この世界の緑が次第に蘇る。緑の竹林の背景に立つ雅斗はおれの後ろにいる。お前も幻なのかって、おれの中に問いかけの声が生まれる。
「はい、ちゃんと前を見て進んでくださいね」
「おい押すな」
「先程のお返し」と、爽やかな笑顔でかれはおれの背中を押して道を進んだ。どうやら竹林にかれの先程の鬱はもう散った煙。いつも思ったけど、かれの気分転換が早い。
「元々、三週間、僕の観光に付き合ってくれるって兄さんが言ったじゃないか。いつもそんな曇った表情じゃ楽しくないよ」
「でもお前はいつも楽しそうだね」
「一人だけで楽しむより、皆で一緒に楽しみを共有した方がいいよ。兄さんと麻沙美ちゃんとの素晴らしい思い出を創りたいから。はい、チーズ」
カメラをおれに向かって、かれはシャッターをきった。撮られたくないおれは手で顔を隠そうとした。
「あのさ、竹林はそんなに面白いの?」
「竹は北米でほとんど見えないから、それにそこまでの数、迫力満点で半端ないのさ」
「どこで覚えた言葉かよ」
おれの不機嫌を見通し、かれは拗ねる子供を慰める口調で、「また怒った?」と微笑んで訊ねた。
「別に。でもお前のせい。あと竹林大嫌い」
「じゃ、兄さんにとっての普通の竹林じゃなくて、初めて僕と一緒に見た竹林として見直したらどう?同じ景色だとしても、新しいものとして初めて出会った一瞬の感動はやはりかけがえのないものだ」
「その通りだよ。素晴らしい。だから学んでって言ったじゃない。金髪ニートさん」
雅斗の後ろから自撮り棒を伸ばした、神出鬼没な麻沙美はまたおれをディスっている。彼女はまた、少し驚いた顔の雅斗と目があった。
「自然風景はいいけど、人のある風景も大事だよ。雅斗くん。写真、一緒に一枚撮ろう。ほら、そこの金髪ニートもおいて」
非本意だけど、嵐山の竹林で初の三人写真ができた。もちろん、映ったおれは暗い顔に間違いない。
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