渡月橋②
すべては冬色だった。
往来の人込みの中におれは見上げる。その瞬間にまるで自分ひとりだけが世界に忘却されるような孤独が身に迫って来る。動けない。前に進めない。輝く日差しの中、おれは少し涙を流した。
麻沙美から突然の「三人で嵐山に行こう」という提案により、今兄弟三人で渡月橋の上に歩くことになった。いつも思ったけど、嵐山観光というのに、結局嵐山を登らず、周囲の地域にぐるぐる回るって、なんだか変だな。嵐山は登るより見る方か。外見は美しいだけど、登らないとその真の姿は現すことをしないだろう。だから外からの人間は果たして真の京都の風景に触れることが可能なのか。おれも外からのかれらの本当の顔を見えるのだろうか。例えば、今おれの隣に共に渡月橋を歩き渡っているこの弟。おれの肩を掛け、桂川の流水の迫力を感心し、興奮でおれに言葉を送りつつある。側にいるのに、二人の距離は安定できず、どうしても浮木のように川に揺らいている。
渡月橋の下の桂川の流水をおれは眺めていた。鴨川より桂川が好きだなとおれは思い浮かべた。そこには人々の讃える美が存在するかもしれないが、おれの体が本能的にこの美を拒否している。京都の景色を見るたび、体のあっちこっちで痛みの種が芽生える。特にここ。嵐山。おれにとっての深い思い出の場所。
あの頃はいつも四人だった。おれがまだ京都が好きだった頃。京都が悲しい色に染められ、前に進めないおれの鳥籠のなる前に。そう、父さんと母さんがまだいた頃、家族四人は一緒に嵐山に散歩するのは毎年の恒例だった。どんな憂鬱なことがあっても、皆揃ってここに来れば、浄化されたような晴れた気持ちで帰れる。
おれは黒いキャップの麻沙美を後ろから見ている。あの日、嵐山に行きたいと言ったのも、ここで大事なことを伝えたいんだよな。二十年以上の家族だから、これくらいは特に言わなくても分かるんだ。そんな麻沙美もいよいよ、次の夏になったら家から出て、東京で彼氏と同棲することになった。来年から、出町柳におれ一人だけの家……
「どうしたの。今日はずっとぼーっとしてる」
びっくりして顔を上げると、そこに「はい、水」と言いながらペットボトルをおれに差し出す麻沙美がいた。
「悪い。おれ、なんだか落ちつかなくて、余計なことばかり考えているのさ」
「ほんまに、あたし東京にいったら一人でちゃんとやれるの?金髪ニートさん」
「なんとか、と気がする」
おれのダメ人間とふさわしい返事に対して、麻沙美はため息をした。
桂川に向かって佇むおれら二人は日差しを反射するさざなみを無言で見ていた。先程越えた渡月橋は冬の太陽の照射のゆえ、何処かが眩しく見えるようになった。
「懐かしいね、この光景」
麻沙美の声が柔らかくなり、その優しさはおれの心に伝わってくる。桂川の流水の音の中に、おれはようやく思わず微笑んだ。
「うん。懐かしいなあ」
「でも今日はそれを終わるためにここに来たの」
不意におれの心に重く打つ麻沙美の思わぬ言葉だった。怪訝な顔で麻沙美に目を向いたが、平然としている彼女は自然に話題を逸した。
「ねえ、ほら、雅斗くん、今ピンチかも」
麻沙美の指差しの方向に、観光客のように見えるおばさんに囲まれて、慌てるように見えるあの弟がいる。
「うわー、モテモテ」
「道を聞かれるのかな。さっきそこで一人写真を撮ろうと言ったけど、さすがにね、人受けがいいの」
やはり普通の日本人と思われたから、声にかけられたのだろう。でもそうしたら、色々厄介なこともあるかもしれない。かれは普段のような余裕を失い、慌てる顔のままで心の不安が露呈している。
おばさんたちの戸惑い表情から、驚いて感心する表情への変化を見ると、大体何が起こることを推測できる。かれが「普通の日本人」ではないことはバレていたか。
急に見知らず人に声をかけられて、かれの日本語だけではなく、かれの中の何処かが激しく動揺し、崩れるように見える。これはどういうことなのかな。
「ったく。大丈夫かよあいつ」
「雅樹が行っちゃうダメよ」
隣の珍しく真剣な表情をしていた麻沙美は手をのばしておれを止めた。雅斗のことに複雑な視線を注ぐ麻沙美はまた「行っちゃうダメ」と冷徹な声で繰り返し言った。いつものんきで、ヘラヘラする麻沙美とはまるで別人に見えた。
結局、麻沙美はあの弟のことを本当にどう思ったのか。
おれから見るとかれの日本語は外国人としてすでに優れたが、いくら言っても、かれが日本にいるのはたった十日だけ。教科書の知識を正確に学んでも、実戦の会話には予想されない状況があって、それを冷静に対処するのはハードル高いこと。特に、見知らぬ人を相手にする場合。
もしおれだったら、アメリカでもっと上手くできるのか。何度もニューヨークでのアメリカ人との会話のシーンを想像したが、実際に人前だと絶対に緊張する。言葉は財布から落としたコインのよう、至るところに散らばって、慌てて拾う余裕もない。自分のそんな姿をイメージしながら、かれの黒い髪と澄んだ黒い瞳を妙に気にかかった。いや、そうではなくて、それはより複雑なことだ。
かれの日本語はイケメンの顔のように整っている。文法の誤りはほとんどない。偶にトラブルがあっても、おれらとの日常のコミュニケーションの意思疎通は特に問題はない。ただ、かれは声を出すたび、日本人ではないことはすぐバレる。顔が整っても、そのイケメンは金髪碧眼のイケメンで、どう見ても日本人らしくない。日本人らしくない日本語ってなんなの。日本語の枠に収めるのか。コミュニケーションはちゃんと出来たのに、それでも不完全な日本語。不完全な日本語は否定されるべきものなのか。完全にならなければならないのか。それって、まるで血の繋のない家族みたい……
問題児のかれのことを見るたびに、なぜかおれはそんな複雑な思考に誘われる。
どうやらお父の浪川はすでにアメリカの市民権を貰って、選挙権のあるアメリカ人になったようだけど、かれはそれが嫌で、まだグリーンカードの永住権の日本人のままらしい。
あんな微妙な日本語を喋ったかれは日本人と思われない。普通の日本人のように接することができない。
なら、かれは果たして外国人なのか。普通に外国人というと、人種は違う印象だ。西洋の金髪碧眼の人のイメージは自然に目の前に浮かび上がる。もし隣国の出身ならば、外見は特に変わってないけど、内在の構造は別々。しかも共通の部分もある。外国人でありながらそこまで外国人として認識されない印象だ。
かれの場合は似ているような感じだが、裏側でより激しい黒い海波が怒鳴っている。しいと定義すれば、同類と他者との間の感じかな。時々自分と同じような仲間、時々違和感を感じさせ、「ああ、やはり他人だ」って、こうして曖昧な距離でいつまでも揺れている。
もしあの時おれがあのトンボ玉を取らなかったら。そう考えてみるとかれの悩みはおれの悩みになった。そしておれは意識した。その悩みの本質は、一人の人間としてのあり方の問題だ。かれはいかなる複雑なアイデンティティを持っていても、あくまで一人の人間だ。人間は置物ではない。どこかの箱に置かれたくないなら、自分の意志をきちんと貫くしかない。これこそおれの生きる道と、かつての自分はそう決めたのに……
「また渋い顔になってる」
物思いに耽っていたおれの側に麻沙美の声が響いた。
「金髪イケメンの日本受容問題はいかなる深刻ってことを考え中」
「そんなあんたと関係ないことを考える暇があったら、次の就職先を探せよ」
「まったく関係ないじゃないよ。今のおれも一応、金髪」
向こうから、金髪の日本語を使っているかれが小走りにやってくる。
「二人ともごめん、さっき同じ観光客のおばさんたちに道に聞かれて、ちょっとうまく答えできなくて」
「へえ。こんなレベルなのに日本で就職志望?無理無理、面接すぐダメになる。日本社会はお前が思うより何百倍辛いのさ。さっさとやめちゃえ」
しっぽをようやく握ったおれはかれに皮肉の言葉を連発する。自分の失敗に少し情けないと思ったようで、「あははは」と誤魔化す顔で笑ったかれは、麻沙美に視線を移す途端、表情が固まった。
この話題を無視するような麻沙美は普段どおりかれを慰めることもなく、おれを叱る言葉も出さず、ただスマホを見ていて緩く口を開けた。
「じゃ竹林の小径に向かって、山を登りに行こうか。あたしはちょうど体を少し動きたい気分なの」
おれは度々「よそもの」とかれに悪口を言うばかりけど、かれはいつも耳に掠めた風で聞き流し、おれの望んだ通り怒ってくれない。この時こそ捨てられた子犬のような震えた目つきをする。気づかないように微笑んだけど、目は震えて止まらない。
そんなかれの有様でざまみろと思うはずなのに、急に何かの切なさに呑み込まれ、妙な感傷に触れた。かれのあまりにも純粋なキラキラの目を見るだけで、十歳のあの日の視界に現れた疎外感という薄い紗は再び浮かんでくる。
頑張らないと、よい家族としてしっかりしないと、捨てられる。
捨てられるようになったのは、きついもんね。
いつまでもこんな不安を抱えるのは、いやもんね。
わかるよ。
つい、憎んだかれの背中を軽く叩いた。
「ほら、行くぞ」
竹林の小径という緑の世界に、おれらは入った。
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