第四話 宇治川
宇治川①
今でも、忘れない。
十七歳の夏のあの日、ぱっと、空から落ちた大粒の雹の崩れた瞬間をおれは見た。その前におれは居間に一人で文章を書いていた。おれの英語で、自分しか知らない煌きの世界を創っていた。今、母語ではない言語で書いているんだと思って、自由の喜びを指先で感じた。目の前は白紙の上に浮かんだ黒いアルファベット。目の前はニューヨーク。おれの乗っているバスはカクテルの匂いの夜色に進んでゆく。車窓越し見たのは巨大なガラスのオフィスビル。ガラスの空間に沢山の動いた人影がいる。まるで舞台のように。人々はここで、役者として自分の人生という芝居を感情含めて演じている。そう、ニューヨークは巨大な舞台だ。もうすぐここでおれも自分の演目を始める。一人の旅人を始まりとして。これからはおれだけの、おれだけの彩る人生を。そしておれは光る舞台の上に飛びくんだ。しかし音楽が響き始まる前に、一瞬、なにかの爆鳴が神経に突き刺さった。見下ろすと、足元には割れた車窓のガラスのように見える雹だった。出町柳の家の小さな庭の縁側に立っていたおれは、濁った赤い液体がこの雹の白い直線の裂け目から滲み出す幻を見た。気づいたらおれは黒の森にいた。黒服の人の群れの真ん中に、おれは雹のように冷たく、重い父の肖像を持っていた。左に視線を向き、母の綺麗な微笑みが映す写真を抱えて大声で泣いた麻沙美を見た。そしておれは右手で頬を触れた。ああ、今、自分が涙を流していると思った。十歳のあの冬と同じく、声を出さずに。雹って、実は雪の結晶と同じものではないかと、黒の森の念仏の声に、おれは淡く思い浮かべた。
この出町柳の家も、これから寂しく、寂しくなる。
父さんと母さんが居なくても、ここは変わらずおれら家族四人の家だと信じて、おれが誓った。父さんと母さんの時間を過ごしたこの家を守ることを。麻沙美を守ることを。
親戚の叔父はおれと麻沙美をできるだけに援助すると言ってくれたが、叔父自身も三人の子供がいて、自分の生活の難しさがあり、これ以上負担をかけるのも無理なことになる。自分しか頼らない。両親の残した財産もそこまで多くない。これからの先がまだ長い。ちゃんと、ちゃんと計画しなきゃ。おれだけではなく、麻沙美も、美容師になる夢があるから。
二人分の未来を抱え、おれは図書委員をやめて、放課後のバイトを始めた。しばらく、雨宮の顔も見えなくなった。あの一緒に英語の文書を楽しく書く時間は、もう夢のようになっていた。狭いコンビニには大きな窓がない。夕日の美しい黄金色が見えない。棚にきれいに並んだボトルはおれに呪いを掛け続ける。神経を麻痺する呪い。感情を破壊する呪い。バイト帰りの道に夜空の星明りを見上げることを忘れる呪い。
早く、自立できるように。自由に、なれるように。
ある夜、突然英語の文章を見て、何も感じなくなった。
なにも、書けなくなった。
成績もどうしても上達できないようになってしまった。
おれは、薄く自分の限界を感じた。
そんなおれを待っていたのは模試の志望大学D判定だった。
あの夕方、D判定を記載された成績表をくしゃくしゃにして廊下のゴミ箱に捨てた。夕日の光が漂った廊下にはおれ一人しかいない。皆はもう帰ったのか。笑い声の喧騒も、校内放送の声も聞こえない。無音の校舎にあるのは廊下に佇む、自分ひとりの長い影だけ。帰るまで、どっかに寄っていこうかと思ったら、足は自分を図書室の前に運んだ。かつての自分の学校内の居場所だったのに、今更入る勇気さえもない。ここを裏切ったから、志望大学にいけなくなるようになったのか。でも今日だけ、少しここで何かを書かせてください。そして、あの人にも会いたい。そう、ドアを開けると、そこにあの人の姿がいた。彼女は机の上に突っ伏し、前方のなにかを見詰めている。
「何をやっている?」
雨宮は唇に指を当て、同時に左手で隣の机の上に指す。
そこには一冊の開けっ放しの本だが、一羽の白い翼の蝶がその紙の上に止まっている。緩やかに翼を動きながら止まっている。
「見て。蝶。かわいい」
おれはびっくりした顔で音を出さずに彼女の傍に足を運んで、一緒に蝶の姿を覗いている。
「不思議。なんでこの中に飛び込んでいるのかな」
彼女は蝶を観察しつつ、またおれに声をかけた。
「ねえ、とってくれる?」
「え、おれが?」
「やってみてよ」と、彼女はおれにいたずらの笑顔を浮かべる。小難しい顔のおれだったが、なぜか彼女を断れなかった。よし、蝶の姿今は静かに本の上に、そこを狙ったら……と考えたおれは蝶向かって両手を伸ばしたが、蝶はおれが思ったより敏感な神経と機敏な体を持ち、おれの手より早めに図書室の他の片隅に移ってゆく。これを何回繰り返し、今度こそ絶対取れると思ったら、蝶はまたおれの手先から逃げ出した。結局おれはこの近くにいるくせに取れない蝶にばかり振り回されていた。疲れて息を荒らしたおれの後から「ふふふ」の笑い声が聞こえた。楽しいそうだね。雨宮は。
「おい、人を阿呆にしてそんなに面白い?」
「ごめん。雅樹くんは不器用な猫みたいに見えたからつい」
「それはこいつが器用しすぎ、普通に捕まえないだろう」
おれは今本棚の側面に止まっている蝶を指した。彼女は机の後からゆっくりおれの隣まで行って、飄々と声をする。
「じゃ、私の出番だね」
彼女は息を吸いて、蝶に向かって右手を伸ばした。そして、何かを招くように、穏やかに腕を上下に振り始めた。この流れる空気を感じたように、蝶もこの図書室に飛び始めた。しかし彼女は目を閉じ、そのまま腕を振り続けた。徐々に、なにかの不思議な力に操られ、彼女の手の動きと飛ぶ蝶の翼の動きが同調になってきた。飛んでいる蝶は彼女の右手と少しずつ接近し、惹かれ合った。まるで彼女と蝶は一体になったみたい。この不思議な光景の最後、彼女は人差し指を上げ、蝶の軽い体を受け取った。白い翼は今彼女の指の上に振っている。彼女の後はあの巨大な窓。彼女と指の蝶はそこから流れ下るオレンジ色の光の瀧を浴びている。風に吹かれ、揺らぎ始めたカーテンはまるで彼女の麗しい翼のように見える。蝶の真白な翼と同調して緩やかに振っている。
天使のように、女神のように見える。彼女は今。
驚愕の氷はおれの体を包み込む。声を出せないおれは、ただ呆然と見ていた。これは一体なんだろうと、ぼんやりしながら思った。
おれは何を見ているのだろう。
この聖なる光景って、一体なんだろう。
先まで傍にいた、そんなに近かった彼女は、もう眺めてもよく見えない、遥かな存在になった。
嗚呼。これはきっと。自由になれない人と自由になれる人の差だ。
おれと彼女は最初から、同じ世界の人間ではないんだ。
なぜだろう。急に、何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。呼吸さえ、荒くなってしまった。おれの世界は真白のまま、果てのない雪道のように伸びていく。魂を抜けたおれはただ歩いている。雪の積った地面に何かが現れた。流れ始めた。あ。さっきの、D判定の成績表だ。続いて庭に落ちた雹の残骸。家族四人の食卓。鞍馬のゆきみちの上に感じた母さんの手の温かさ。
「最初にあのトンボ玉に手を伸ばしたのは、お兄さんの雅樹だよ」
母さんの声は雪が舞う空に響いている。おれの中の、空っぽになった世界に。
いつからなのだろう。いつから、おれはすべてを失ったのか。
「おれ、大学に行くこと、やめるつもりだ」
彼女はびっくりした顔でおれを目詰める。指の蝶はオレンジ色の光の源に向かって、軽く窓の外に飛んでいく。
「やめるんだ。おれは」
それはある制御できない感情に操られた、顫っている声だった。
その時のおれはどんな表情なのか。悲しいなのか。悔しいなのか。いや、おれは知っている。自分が笑っていることを。涙を流れながら「は、ははは」と、歪んだ笑い声をした。これ以上歪む表情が、ない。
おれにはもう、前に進む理由がないんだ。
もう、わがままで「好き」とか「ほしい」とかを叫んで騒ぐ子供ではないから。自分の願いより、ほかのやるべきことがあるんだ。
あの日どうやって図書室に離れたのは全然記憶がなかった。その後すぐ、おれの高校生活は惨憺たる有様で幕を閉じた。
そして十九歳の春。この町に訪れた桜は灰色だった。
町の片隅にアメリカの旅行宣伝ポスターが見える。ニューヨークはその貼り紙にある。まるでこの京都にいる誰でもいけるように誘っている。Welcomeって?嘘をつくなよ。学歴がない、お金をもってない人、歓迎されるもんか。
英語も気持ち悪くように思い始めた。なんであの金髪の観光客の連中は日本語をわざと勉強する必要がなく、日本で堂々と英語で道を訪ねるの?ここは日本なんだけど?おれたちは海外に行くのはわざと英語を学ばないといけないのに?
ああ。ひどいな。醜いな。こんな自分は。
もう、雨宮に会えない。
それでも叫んでいるよ。おれの全身の細胞が。「いや」の声を。
いや。その言葉が、まだおれの血とともに流れている。
置かれるのは、いや。
選ばれるのは、いや。
流されるのは、いや。
おれは。
おれは。
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