宇治川②

 雨宮と宇治駅で待ち合わせるのは、年明けのある日の真昼のこと。

 忘年会のあの夜以来の再会だ。宇治の平等院に一緒に行きたいと、元日に電話してくれた。

 昨日は友達と楽しく飲んだのに、雨宮の前に、妙に心はまた曇り空模様に移り変わった。それは決して彼女のことを嫌ではない。ただ、彼女を見るたび、自分の中の決意みたいなのものは勝手に動揺始める。そんなに彼女と会うのを期待、期待していたはずなのに。期待していただからかも。

 はじめにの「明けましておめでとう」の挨拶のあと、おれの方からどうしても言葉が詰まった。二人は宇治川に向かって歩いていたが、妙に肩を並んで歩くことになれなくて、おれの足取りはいつも彼女より一歩遅れように見える。その感じで、いつも彼女はなにかの話題にして、おれは「うん」「うん」と上の空で返事の声をした。

「前回言わなかったけど、私、四月から先生になることが決まったの。宇治の高校で英語を教える」

 宇治大橋に登った途端、彼女からお知らせをした。

「へえ。すごいじゃん。まあお前だから、当たり前よ」

「そう?私は雅樹くんの方がより素質があると思うよ」

「いや、そんなの……」

気まずい。普通に、話せない。

 結局、おれは拗ねている子供のように橋の上で宇治川を越えた。向こうは今日の目的地の、地上の極楽浄土と言われる平等院鳳凰堂だ。その屋根の赤い色は今おれの目に鮮明に映るが、本当の鳳凰堂があの下の池の漣で揺れる水面にある投影ではないかと、おれは考えている。この世はなんという儚いもの、おれの人生も、虚しく……

「どうした?」

 彼女はおれに目を向けたから、おれは視線を石の地面に落とした。

「別に。ただ「平等院」という名前がいいねって、そう思った」

「そう」

 彼女からの淡い返事だった。

 あれからおれと彼女二人の会話は途切れた。二人は沈黙のまま、赤い屋根の鳳凰堂をまわり、ミュージアムの鳳翔館の仏像を巡った。呆然として仏像を眺めるおれは彼女からのささやかな目線を気づいた。そして感情もまた渦巻はじめた。こんな心が乱れる自分が鳳凰堂という聖なる場所にいるのは本当に良いのか。漠然として、雨宮の後ろ姿を追いかけ、いつの間にかすでにおれは表参道の鳥居を抜け出した。そこに宇治大橋は再び視界に入るが、一番注目されたのは隣の紫式部像だった。「夢浮橋之古蹟」って、石の柱で書いていた。この文学やら歴史やらの証の前、おれは「ふーん」と見ながら足を止めた。

「浮橋は存在しないのに、古蹟って書いてなんかおかしい」

「『源氏物語』自体も架空の物語だしね。それでも京都のある象徴になったの。京都には現実のものに限らず、幻想の世界もここにあるかもしれない。紫式部の時代から、いいえ、もっと遥かな昔から、そして未来へ」

 そうなのかな。だったら京都の思い出を抱いて消えた彼らも、ちゃんと本物の京都に触れたのかな。そしてかれがうちに来たその時点から、ささやかな非日常に迷い込んだおれも誰かが創った幻の京都に突入したのかも。

 その奇想に身を浸すまま、雨宮の後ろに、おれは宇治大橋に足を踏んだ。

「宇治十帖、もしかしてなんか感想ある?」

 前方で歩いている雨宮は飄々と声をかけた。

 おれは腕を組んだ。

「なんか、薫って、なんという哀れな男だな。源氏の子ではないから、生まれたからすでに人生の失敗に選ばれた。幸せを運命に取られた。匂宮の方はよほど悪質。何もしなくてもいろいろ恵まれる。薫の代わりに、ぶん殴りてえわ」

 なにかを察したように、雨宮は綺麗に笑った。

「そう?私は浮舟の方が一番可哀想だと思ったのよ。浮舟だから、二人の男を川浪に流され、悲劇の方へ。悲劇の結末とされたのね。彼女は。彼女以外の誰かの欲望のためではなく、結局彼女自身は、本当にどこに向かって行きたかったのかしら」

 宇治橋の真ん中に、彼女は足を止めた。

「だから私は浮舟にならないよ。蝶々になれば良かったね」

 彼女はおれに振り向かなかった。

 橋の上、おれと彼女の間に風が吹いている。

 おれはトンボ玉を目の前に置き、向こうの彼女がいる淡い青色の世界を覗いている。そして見えた。ふわり飛んでいる、一羽の雪の結晶の姿で舞う蝶を。そこにいる彼女は蝶に向かって手を伸ばして、何かを招くように、穏やかに腕を上下に振っている。徐々に、惹かれ合った。

 あの日のように。

 あの忘れられない光景のように。

 おれと彼女の決定的な差を意識した瞬間のように。

 突然また、泣きそうになってしまった。

「ほらね」と、彼女は笑顔でおれに振り返り、指先に止まった蝶を見せた。

「どうして」

 そこには呆れるおれだったが、口だけが動いた。

「うん?」

「どうして、触れるの?」

 向こうからは沈黙の声だった。風の音が聞こえた。そして彼女は腕を上げた。指先から、蝶は宇治川の上の空に向かって舞い上がってゆく。トンボ玉の向こうの青い世界に、その飛ぶ姿が雪の結晶のように消えるまで、おれは無言で見ていた。

「あのね」

 彼女は泣きそうな顔のおれに、一歩踏み出した。

「もし言いたいことがあれば、最後までちゃんと言えば?」

 いつもの優しい声だったが、どこかがおれを責めるように聞こえる。

「昔の雅樹くんはこんな感じじゃなかったよ。いつも自分の感じること、自分の信じることを素直に言うのに」

「だから以前とは違うって」

 そういう風に言うつもりはなかったのに、乱暴な言葉が勝手に口から飛び出した。

「心が折れたってこと?」

 その質問、おれには返す言葉がなかった。

「それで、おとなしく一生京都でなんとなくやってると決めた?」

「そんなわけ」

 思わず声を上げた。

 おれのなかに今も、まだ、まだ響いている。こんな人生、いや。負けるもんかと、どの時より一番大きい声で叫びたい。

 でも今のおれにはなにもない。なにもできない。才能もない。根性もない。自分自身を信じる勇気さえもない。あるのはただの、嫉妬という歪んだ感情の炎だけ。その炎はかつてのおれを燃え尽くした。残されたのは、人間の形に見える、無力の灰だった。自分いままでのもがきはそこまで負け犬らしくないように見えるためだけだった。そう思ったら、自分のことはさらに惨めになる。

 それでも。

 それでも。

 地面に落ちたおれの視界には雨宮の姿がいない。でも声が届いた。飄々としたが温度のある声が。

「ねえ、この世の中、完璧なものって本当にあるの?どんなものだって、どこの国だって、それぞれの欠点がある。こんな世界だったけど、人間としての私たちは自らの選択をした。私達は完璧なもの、絶対的な正しさを追いかけるのではなく、自分のそれぞれの意志を貫くんだ。自分の誇りのある人生のため」

 一滴の涙を手の裏で擢き、再び上に向いたおれは、彼女の目と合った。

「だから、もし今の雅樹くんには行きたい場所があるなら、私応援するよ。応援というより、むしろ恩返しの感じ。私、雅樹くんのことをずっと心から感謝しているの。いつも周りの空気に流され、自分の本心を感じなかった私は、あの図書室から、自由の世界へ旅に立つんだ。最初はただ、変な人だなと、噂を聞いてちょっと興味があるけど、少しずつ、憧れる相手になった。雅樹くんの自分の意志を貫いて生きる姿勢、すごく憧れていた。あの狭い図書室なのに、雅樹くんの心はいつまでも、私の想像も掴めない広い世界に自由に飛んでいる。どうしてこんなに遠く見えるの?それを知りたくて、知りたくて、私も自分のなかの声を探し始めた。あの時から、一緒に書いて、書いて、書いて。どこでも行ける自由を手に入れるように、楽しく、時々寂しく書いていた。そして突然雅樹くんがいなくなった。気づいたら私はもうニューヨークにいたのに、雅樹くんはまだ、あの図書室の中……」

 彼女の瞳に映ったおれは悲しい顔でおれを見ている。

「先に行ってごめん。今度は私から雅樹くんを支える番だから」

「でもおれはもう分からなくなったよ。行ってもなにができるって。書いても何を変えるって。ただ自分の中で終わっちゃって、どうにもならない……」

「まあ、変えるのは最善の結果だけど、ただの自己満足として、外側の世界を無理矢理変えなくてもいいよ。私は、一番大事なのが問題そのものを完璧に解決することではなく、自分がどのように制御できない理不尽な現実からそれと共存する自分らしい生き方を見つけ出すことだと思う」

 夕日の光が、いつから静寂におれと彼女を包んでいる。

「私だって、雅樹くんの思った感じでなにも完璧にできるわけではないよ。ニューヨークにいた時、今まで味わっていない楽しさはあるけど、思わぬ挫折と不安もいつも私を動揺していた。その揺らぎの中に、毎日、考えていた。自分のあり方とか。自分とここで出会った皆との違いとか。自分のこれからの歩むべき道とか。私より才能があり、視野がより広い、家庭により恵まれる同級生が沢山いる。皆は生まれたからすでにニューヨークにいて、何もしなくても私のかつて想像さえ掴めない情報や知識などを得た。他のどこかに頑張って行かなくてもいい、一番高いところで見下ろして楽しく生きるは日常。悩みの内容さえも贅沢に見える。物事を共有できない自分はまるで幻影のように彼らの隙間に浮かんでいた。頑張っても幻。そうしたら私のここにいる意味は何でしょう。ある雨の夜に一人で傘を持ってタイムズスクエアまでに歩いてきた。薄暗がりの私の心にいきなり大きいスクリーンの広告の明りと騒いた音楽が届いて来た。びっくりして見上げると、世界は爆発。光は虹色に。音はメロディーに。心拍は花火に。あれは私の小さな世界の蕾は大きな一輪の花に咲いた、煌めいた一瞬。この一瞬の爆発だけで、私の憂鬱はすべて消し去れた。ほかのニューヨーク生まれ育ちの皆が知らない、私の小さな世界がどんどん広がる時に迸り出る煌き。タイムズスクエアの真ん中に、私はようやく確信した。自分の人生は誰かに選択された結果ではなく、ちゃんと自分の手のひらにあるもの。ここに見た景色も、出会った人々も、私自分の意志で選んだ結果。今ここにいる自分は幻ではない。むしろ自分は今までのどの瞬間より、真実の人生を握っている。この喜びは本物。私の人生は確実で、美しい。自分自身の力での心の世界を咲かせるこの一瞬に、私は自分の色で美しく生きている。ニューヨークは最後に私の居場所になれなかったけど、私はそこにいたことを後悔しない。あの時手を伸ばしたから、今ニューヨークはもう、私の美しい人生のかけがえのない一部になった。だから雅樹くんにも、その確かな生きる喜びを感じて貰えたい。君が私に教えてくれたよ、不自由の中の自由、自分で選ぶ広い世界。とても、綺麗よ」

 おれに手を伸ばした彼女は、夕日の光のなか。

 宇治川の水音は、遠ざかってゆく。


「あの時より、うまく蝶々を取れるようになった?」

「さあ。まだ、まだちゃんと見えないけど」

「見えなくても、感じられるよ。今はここに、確かにいる」


 夕日の光を浴びている、金色の輪郭の宇治駅の鉄道。

 京都駅ゆきの電車はまだ来ない。このまま、永遠に来ないのかもしれない。時間がまるで止まるようなホームで、おれと彼女はただ肩を並んで立っているだけ。電車以外の見えない何かを、待っているだけ。

 おれは顔を上げ、目を閉じた。そこには九年前のままの図書室。おれは席から立ち上がって、あの巨大な窓を開けた。

「雨宮さん」

「はい」

「おれ、書いているよ」

「うん」

 どこかで響いている。蝶の翼の空気を流せる音が。

 とても柔らかく、麗しく感じられるように。

「書いている。おれ、誰にも言わないけど、今でもちゃんと書いているよ。英語で、小説を」

「うん」

「馴染んでない言語で、自分と少し違う主人公だけど。もし、ちゃんと書き終えるのなら、自分が少し、せめて今より、少し自由になれると気がする。ちゃんと前に進めると気がする。だから、その時、読んでもらえますか。おれの書いたものを」

 遠くから、電車の音が聞こえる。その近づく喧騒の中に彼女は口を動いた。「はい、喜んで」と、彼女はきっとささやかな声で、そう答えた。

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