河原町②

 結局来てしまった。かれと一緒に。

 河原町、四条大橋のあたりのある懐石料理の店に。

 個室に入ったすぐ、おれはひと目で片隅に座っていた雨宮を気づいた。視線が交わる一瞬、即座に目を逸した。心臓のバクバクの音は止まらない。

 自分のためのお祝い会なのに、空気の中に居ても立っても居られない。友人の優しい声を掛けられても、はははってお茶を濁した。早く終わってほしい。でも幸い、おれよりかれのほうが会の中心になったようだ。そうりゃそうだな、アメリカから来たエリート青年は、おれみたいなニートよりよほど好かれる、よな。

 途中おれは手洗いに行くと言って、席を外した。頭は少し重くなった。顔を洗って、急に煙草を吸いたくなってきた。誰にも知らせないまま、店の外に来て、道路の向こうの喫煙所へ歩き出した。そのうち、付近の商店に流れた音楽と飾り物を気づいた。今日はクリスマスイブ。そしておれとかれの誕生日。それは普通に喜ぶべきことなのかな。

 やはり、笑いたいけど笑えない。


「主役なのになんでここにサボるの」

 喫煙所から出たすぐ、木の下に立っている雨宮の姿を見た。偶然なのか、それともわざとおれを待っているのか。どっちにせよ、彼女の前にいる自分はなんとなく、気まずくなってしまった。

「悪かった。ちょっと煙草を吸っててさ」

「へえ」と、彼女はおれの顔をじっと見ていた。「吸ってるんだ。全然知らなかった。いつからのこと?」

 真剣な顔をしていた彼女から、おれは視線を外した。

「さあ。よく覚えていない」

「本当に、変わったのね」

 その声は少し寂しそうで、おれはついまた自分の顔を彼女に向けた。街灯に照らされた彼女の星のように輝いた瞳がおれの視界に入り込む途端、おれはただ言葉にできない悲しみと自分の無力さを感じた。

「そりゃ、お互い様だろう。お前だって、もう立派なレイディになったじゃないか」

「ちょっと、なにその言い方」

 彼女は少し笑い出した。嬉しそうに。

 またこのように元気に笑っている彼女と再会できるなんて良かったと、おれはようやくほんの少しそう思えた。今のおれもやはりこっそり笑っているのかな。二人の間の街の灯りに染められた距離さえ、おれは温かく感じた。

「あ、月は綺麗ね」

 突然、彼女は言った。

 びっくりしながら、おれは同じように見上げた。

 十二月の月は冬の夜空に京都のすべてを静寂に見守っている。

 冬の中に時間とともに流れてゆく鴨川の水を。四条大橋の上に往来の車両と行人たちを。沈黙の古き町並みを。街灯と柳の木々を。空気の中に浮かんでいる柔らかい歌声を。

 そして。

 距離を置いて、おれは空に見上げる彼女のことを見ている。彼女と同じ柔らかい月光の銀色に染められたことを気づいた。何か哀れな錯覚を覚えた。おれと彼女の間、今も見えない細い糸がちゃんと二人を繋いでくれるのか。彼女がおれと少し近くなったと思ったのに、おれの指先は彼女に触れられなかった。

「京都の月って、やはり一番だね」

 彼女の囁きにおれは何の答えもできなかった。この月は、おれの目にはもう昔のように綺麗に映れない。自分は今まだ京都にいることを意識しながら、心の中の世界に、一葉の小舟は嵐の海波の中に激しく揺らいている。少しずつ暗い海の渦に吸い込まれる。自分を失っているところに、暖かさが腕から湧き上がった。そして現実の世界におれは連れ戻された。

 いつも間にか、彼女はおれの腕を握っていた。

「ねえ、少しでもいいから、四条大橋の上に行かない?私、そこからの鴨川の夜景を見たいの」

 街灯に照らされた、彼女の笑顔。まるで初めて出会った時のように。

 記憶の片隅に、九年前の高校生の頃のように。


 学校図書室の巨大な窓の下、必死に何かを書いていたおれに、彼女は不意に声をかけた。

「ねえ、さっきからずっと何を書いているの?」

 おれは条件反射的にノートを隠そうとした。

「別に。日記のようなものだ」

 それでも彼女の興味津津におれの指の間に漏らした文字を追い詰める。

「あ、英語だ。英語を書いているんだ。すごい。いつもこうやって英語の勉強をするんだ」

本当に苦手な奴だ。おれはため息をして、ノートを閉めた。

「ちょっと違う。これは自由になるためだ」

「自由になる……ため?」

 困惑した表情の彼女に対して、おれは質問を投げかけた。

「なあ、君、なぜ今日本語を話しているの」

「え、急になぜって……そうだね。考えたことがなかった。何かを言おうとしたら日本語。むしろほかのペラペラ話せる言語はない」

「そうだ。この言語を話すのは、君自身の意思で決めたことではない。君はここの生まれ育ちだから。他のどこかではなく、ここだけだから。君はこの土地に選ばれた。この言語に選ばれた。窮屈だと思わない?自分自身の選択ではないのに、一生この言語を自分の唯一のうまく使えるコミュニケーションの方法として背負わなければならないのは」

「いや別に……私は結構好きなんだけど。この言語」

「でも、世界は広いんだよ。このままじゃこの言語に閉じ込められまま一生が終わっちゃうよ。ほかの選択肢まだ見ていないのに。ほら、この図書室のなかさえ、ほかの言語で書かれた本がこんなに沢山あるんだ。あれは新たな世界の入り口。そう、この土地の外、この言語の外、きっとおれたちの知らない、素晴らしい世界があるんだ。だからおれは選ばれるのではなく、自分で選びたい。自分のいきたい場所を、自分の理想の世界を、そして自分の生き方を、自分の意思で選ぶ。この世界は優しくない。国境や言語などの高い壁がある。でも、それらを越える気持ちがあるのなら、せめて言語は自由に学ぶできるものだ。新しい言語を使うのなら、今まで見たことのない未知なる世界に一歩を踏み出せるはず。もちろん今はまだうまく使えない、まだはっきり見えないけど」

 おれは彼女の目を見ながら、待たずに話を続けた。

「けど、おれはこの不自由の中にとんでもない自由を感じたよ。おれ自分の意志で選んだ言語、おれ自分の意思で選んだ世界。このような選ばればっかりの人生だとしても、おれにはまだ自分で選ぶことがあるんだ。おれはまだ自由になれるんだ。だからおれは書かないといけない。ちゃんと自由になるため、おれは書くんだ」

 彼女は驚いて、しばらく沈黙した。そしておれはようやくこの冷えた空気を察した。一人で盛り上がった自分はすでに席から立っていた。

「悪い……おれ、つい」

 恥ずかしくて顔を下げて、彼女の視線から逃げ出そうとした。何かを思い付いたように、彼女は机の向こうのおれに近づいた。悪戯を考えているような微笑みで。

「じゃ、私もやってみようか。英語の文章を書くこと。君も、書き終わったら私に見せてね。雅樹くん」

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