河原町③

 九年前の彼女の声は時間の川に渡って、今の二十五歳のおれの心の中に響いていた。二人の間に通り過ぎていく夜の風を、おれは感じていた。

 四条大橋の上は想像以上に明るくて、賑やかだった。

 往来の車の隙間に、名前の知らないバンドの音楽が好奇心旺盛な妖精のように遊戯をしている。

 しかし街灯の明かりの下、明快な音楽の中のおれたち二人は何故か沈黙。何かを言おうとしても、おれは言葉が出ない。この重い空気を察したように、彼女は先に口を開けた。

「あのね、実は私、先日うちの高校に戻ったの。そして久々に英語の小澤先生に会った。雅樹くんのこと、ちゃんと覚えていたのよ。才能と根性があるのに、こんな結果になってしまったのは非常に惜しいって言ってたよ」

 おれは何も言わなかった。

「そして先生はこれを私に渡したの。もし雅樹くんにあったらこれを渡してほしいって」

 彼女は鞄の中から一冊のパンフレットを持ち出した。

「これはね、来年夏のあるアメリカの大学の短期英語修学プロジェクトの資料。ニューヨークの大学ではないけど、世界ランキングもかなり高いよ。まあ、ただ三週間の旅行っぽいものだけど、せめて一つのチャレンジとして参加する価値があると思う。そしてこのプロジェクトは政府の承認があって、お金の方はそこまで厳しくないと思うの。だからこれをちゃんと雅樹くんに渡したい」

 思いを抱えたまま、おれはパンフレットを受け取った。

「わかった。とりあえず考えておく。ありがとう」

 それでも、やはり彼女に聞きたいことがある。

 ちゃんとあるはずなのに、どうしても声を出せない。

 いつから、彼女の側に立っていることさえ、そこまで劣等感が湧き出ることになってしまったのか。

「……なあ」

「うん?」

「ニューヨーク、どうだった」

 おれに聞かれて、何かを思い付いたように、彼女は月下の鴨川を眺め始めた。

「うん……そうね。私の見たニューヨークの景色って、きっと雅樹くんの想像したニューヨークの景色とはまったく違うわよ。まあいいところはあるけど、ユートピアとか全然言えないのね。私はいろいろ不自由なことを感じたけど」

「不自由って……?」

 彼女はささやかなため息をした。

「実は大変だったわよ。家賃も食費も、何もかも高かったし、住むところも狭かったし、料理も全然美味しくなかったし。一人のアジア出身の若い女性として毎日周りのいろいろを警戒しなくてはならなかったし。まあそれは多分人によるね。好きだけど、私にとっての居場所じゃないよ、ニューヨーク。もちろん楽しんで毎日過ごしたけど、あのキラキラの世界に居ても、私の中には鴨川の水音が響いていた。京都の景色はニューヨークに居た自分の心にそこまで恋しい存在だなんて、知らなかった。だから私は戻ったの。京都に。私は選んだよ。私の居たい場所を。雅樹くんは?ちゃんと選んだの?今でも、あの時のようにちゃんと書いているの?」

 街灯の明かりの中、彼女は輝いた目でおれに問いかける。

「お、おれは……」

 無数の思いは海の荒波のように、再びおれを呑み込む。言葉を選べない。ただ心のどこかで、微弱の声が聞こえる。いやって。そして声はだんだん大きくなる。騒がしくなる。いや、いやだと、この思いの荒波のすべては同じような声をした。おれはまた頭を抱えて、口から「いや、だよ」と、弱音を漏らした。

「いやって……何が」

「全部。全部のこと」

 この京都という結界。

 このどうにもならないクソ人生。

 でも一番いやなのはやはり、ここにいるダメ人間の自分のこと。

 情けないおれに対して、彼女は慰めの微笑みを返した。

「京都が嫌いって、弟くんの前で言っちゃダメだよ。あんなに憧れの京都のお兄さんにこんなことを言われたらがっかりするじゃない。ほら、そこからちらほらこっちに見てるよ」

 二人が話している間、かれも橋の上に来た。また面倒なことになるだろう。かれの前、おれはいつも不機嫌だった。

「ああ、あれ。もう手遅れよ。すでに幻滅させたのさ」

「ひどい」

 おれと雨宮の会話の途中、雅斗は少し照れるように、こっちに歩いてきた。

「えっと、お邪魔したのかな」

かれは微笑んで、雨宮にどうも、と挨拶した。三人で一緒なら、ますます気まずくなってしまった。おれは目線を川の向こうの八坂神社の方へ投げ出した。そのうち、雨宮は雅斗に話をかけた。

「そういえば、雅斗くんはニューヨークに住んでいた?私も秋までニューヨークの大学院に通ってたのよ」

「へえ、そうなん、ですか」

 かれは変わらず愛想のいい笑顔をしているけど、言葉の動きは妙に乱れはじめた。

「あの、すみません。おれの話より、皆のことを聞きたいなあ。せっかく京都にいたんで」

 何かを拒否しているように、かれは微笑んで口を結んだ。どうしたんだろう。おれはつい戸惑い顔でかれのことを見ていた。雨宮もかれのこの予想外の反応に驚いて、この気まずい空気を解こうとする。

「あ、そう……だね。ごめん。いつもこんなことを聞かれて流石に嫌だね。雅斗くんにとってのせっかくの京都にての年越しだもんね。ははは」

「ははは。こちらこそ、失礼しました」

 何かを隠そうとした、かれの笑顔だった。

 街灯の光の中、おれら三人の間にまた変な沈黙が訪ねてきた。そしておれは雨宮の密かな視線を感じた。おそらく彼女は何かに気づいた。

「どうやら兄弟二人はまた話があるようね。私は先に店に帰るわ。さっきの件、ちゃんと考えてね」

「ああ」

 変わらぬ彼女の柔らかい微笑みだった。本当に最後まで、ちゃんと優しくしてくれた。そんな彼女の後ろ姿をおれは見送る。その姿は街の鮮やかの明かりに溶けるまで。おれはその姿を見えなくなるまで。

 冬風はおれの頬を打った。側にいるかれは寒いと言いながら、腕を組んだ。

「だからわざわざ橋の上に来なくてもいいのに」

「はは。でも兄さんが平気なら僕も全然大丈夫だよ」

「なんなのその妙な対抗意識」

 おれは不機嫌な口調で言い続けた。かれは一歩おれの近くに踏み出して、橋の上から北の方へ眺めた。

「ちゃんと愛されているのね。兄さんは」

「え」

「麻沙美ちゃんだけではなく、友達皆、雨宮さんも、ちゃんと兄さんのことを思っているのね」

 おれは頭を下げた。

「別に。愛されてるだなんて。大げさだよ。ただ、おれみたいな無職のダメ人間を憐憫するだけさ」

 そう、いつも慰められるんだ。情けないおれは。そんなのは嫌なのに。だから来たくなかったんだ。重いよ。

「いいな。僕もこのように愛されたいな」

 唐突に、かれはそう嘆いた。ついかれに向かって怪訝そうな眼差しを投げかけた。

「え、お前だって、結構人気ものじゃないか。皆がお前のこと大好きだよ。おれより、皆がずっとお前に声かけただろう」

 かれは寂しそうな表情で頭を横に振った。

「違うよ。皆がただ、僕のことを遠くから来た客として興味を持っているだけだ。僕は客だから。客に敬語を喋るのは、尊敬のためより、敬遠のほうはふさわしいだろう」

「皆がそういう風に思っていないよ。なんでそこまでネガティブなんだよ。お前だって、もっと自信を持ったらいいのに。おれよりはな」

 最後の言葉は、自分にしか聞こえない音量で囁いた。

 かれは笑った。透き通った笑い声だった。

「でも兄さんは皆と違い、建前のことを言わず、いつも本気で僕のことを怒って、叱っているね。やはり兄さんは一番いいよ。僕の家族なんだ」

 おれはつい小難しい顔をしてしまった。

 結局今でも、おれはかれの人物像をうまく捉えられなかった。おそらくおれはかれのことをわざと理解しないようとした。かれは麻沙美に他の国を旅していた時の写真を見せる時、おれはいつも「興味ない」と言って無視した。おれは怖いんだ。どれほど広い世界を見たか、どういう風に大学に過ごしたか、どんな理想を実現できたか、どれくらいおれよりの幸せな人生を過ごしたかを知ったら、同じ顔のおれはきっと耐えないんだ。おれはかれの幸せを心から喜ぶことができない。おれはかれのことをちゃんと理解しないように、ただの客として三週間をかれと過ごすつもりだった。かれのことを一番受け入りたくないのは、おれの方だった。

 でもかれが雨宮に聞かれた時、あの反応を見て、おれは少し安心したかもしれない。かれだって、聞かれたくない過去があるのか。その時初めて、かれを少し知りたいと思った。最後までおれは醜い。かれの傷にしか興味がない。

 もし二十四年前おれらが離れ離れにならなかったら、今も笑い合って何かを話しているのかな。ありふれた、互いを支える双子の兄弟のように。そう思って、目の前のかれは遥かな彼方にいるような存在になってしまった。

「僕、ここが好き。なんだか暖かいね」

 風が吹いて、かれの黒い髪はささやかに揺らいている。この夜の色に溶けて、見えなくなるように。

「まあ、ここは京都の一番の繁華街だから。おれも、好きだった」

「そうか。良かったね。兄さんと僕の同じの好きな場所。そして今僕たちはちゃんとここにいる。ここにいるんだ」

 かれの笑顔の前のおれは、たった一秒だけ、思わず微笑んだ。初めて、かれと笑い合った。おれは。

 もしかれのことをもう少し分かれるのなら、何かが変わるのかな。今、この口からかれに聞いたほうがいいのかな。でもまたさっきのようにごまかされるのかも。そして今のおれには、かれの本心を聞き出そうとする資格がない。

 その後のことを、おれはあまり覚えていなかった。店に帰って、友人たちと騒ぎながら酒を飲んでいたようだ。そして走馬灯のような思い出の場面が意識に入り込んだ。どのシーンも、あの弟がいなかった。ただ一つの名前として、おれの手の届かない遥かな世界にいた。かれに会いたかったのか。かれのことを憎んでいたのか。それとも、かれを理解しようけどどうしてもできないのか。

 

「……なあ、なんでお前がおれよりこないに幸せできたんかいな。なんでお前がこないな涙を流さへんでもええんか。えげつない、えげつないで。お前はえげつない」

「……」

「そやけど運命様はもっとえげつない」

「……」

「ほんでさ、おれは、おれは一番えげつないや。そんなん、なりとうはなかったのに」

「うん。大丈夫だ。雅樹のせいではないんだ。だから大丈夫だ。きっと、これから、幸せになれるのさ。ちゃんと、雅樹のことを支えてあげるんだ」


 夢を見ているのか。おれは。誰かの背中に乗って、京都の空を飛んでいるような、不思議な感じ。耳元で大きな翼の音が聞こえる。 見下ろした京都の夜景って、こんなに美しいのか。町の明かりが揺らいでいる。ああ、この手を伸ばしても届かないんだ。一番近くいるのに、悲しくなってくるほど遥か遠くに。いつか、おれも京都のことを心から好きになるのかな。いつか。

 あの夜、雅斗は酔っ払って歩けなかったおれを出町柳の家まで背負って運んできたこと、そしておれがかれの肩の上で泣いたことを、翌日麻沙美から聞いた。

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