出町柳②

 この冬の昼から、おれと麻沙美二人の食卓には三人目の席が増えた。会話が盛り上がる麻沙美とあの弟を見て、自分はまだ夢にいるのではないかと、ついそう思った。

 かれのこと、おれは名前くらいしか知らないんだ。一歳の時におれとすれ違って、アメリカに生活することになって、それから一度会うこともなかった。かれの到来はあまりにも唐突で、どのようにこの現実を受け止めるのかも、漠然として手がかりがなかった。思わぬ来客に対する本能の抵抗と不信もあって、でもこの世においてそこまでおれと似ている人他には居ないだろうし、一応パスポートとあの父さんの浪川の書いた手紙を見たら確信した。そんなかれはなぜこうしておれの目の前に現れたのか……

「そうそう。雅斗くんは、あたしのもう一人のお兄さんだよ。あたしは雅斗くんとお父さんが違うけれど、お母さん側の血はちゃんと繋がっているよ」

「ようやく麻沙美ちゃんと会えて、僕は嬉しいよ」

「あたしも、雅斗くんみたいなお兄さんができて嬉しい。そっちのは全然ダメだよ。なあ雅樹、ちゃんと学んでよ!雅斗くん、ダメ人間のあんたと全然違う」

 麻沙美は途中からおれに鋭い言葉を投げかけた。隣に座っているあの弟は大人しそうに見えるが、やはり何かを考えているような顔でおれに静かに微笑でいる。

「兄さんが金髪なんかも意外だな」

「そうだよ。この人のおかげで、うちはここ最近、物凄い波乱な展開を迎えたんだよ。この人、会社をクビになって、ある日いきなり金髪になって帰ってきて、それから家でゴロゴロするニートになってしまった。ほんまに正真正銘のダメ人間なんだよ」

 耳が痛いけど、おれのことを強くディスる麻沙美を無視し、おれは雅斗に話をかけた。

「なあ、なんでいきなりこっちに来るの」

 雅斗はあの澄んだ目でおれに向けた。

「いきなりなんかじゃないよ。前からずっと、京都に戻りたかった」

「ずっとって、この十年くらいなんの連絡もなかったのに」

「それはいろいろあってさ。ちょっと長い話になるよ。でも僕、本気にここに戻りたいんだ。兄さんと会うために。僕の生まれた土地、京都をちゃんと自分の目で見るために」

 どうやらかれは真心でおれに向き合うようだ。でもおれはどうしても、心のどこかがモヤモヤする。

「アメリカからここに来て、いろいろ大変ね。最近国際情勢はすごく不安定だし、前に太平洋に墜ちる飛行機事故もあったし、入国審査も厳しいし、きっと疲れたよね」

 麻沙美のその優しい言葉に対して、雅斗は少し照れるように笑った。

「実は日本に来る前の夏休みにいろんな国に行ったよ。僕、今年大学院を卒業して、仕事する前に世界のあっちこっちに行く夢を叶えようと思ったんだよ。そして最後の旅は、僕の故郷の京都にしようと決めてたんだ」

「アメリカの大学院生なんだ!日本育ちじゃないのに日本語も上手。うちにそんな立派な人材がいるなんて」

 ずっと雅斗を褒めている高いテンションの麻沙美と真逆、おれの体が妙に震えて止まらない。

「で、でもさ。これ、結構お金とかかるじゃない。就職は?早めに考えないと間に合わないかもよ」

おれは頑張って笑顔をつくりながら、なるべく平気で話そうとした。

「あ、それは心配いらないよ。お金だったら僕の貯金もあるし、父さんも結構くれたから。あと就職はアメリカの方はなんとかなるけど、僕、日本で仕事したいと思って」

「日本で……」

「そう。僕はこれから日本で、兄さん、そして麻沙美ちゃんと一緒に暮らすつもりだ」

 その言葉を吐き出した時、かれはまっすぐな目でおれを見ていた。かれの眼差しにぶつかられ、おれのモヤモヤは限界に達した。かれの言葉はおれの心の中の地雷を容赦なく踏んでしまった。勝手に、おれの口は動き始めた。


「何を言ってんの。そんなことになるわけないだろう」


 一瞬、空気は寒くなってきた。向こうの二人の驚く目線を感じた。

 おれの世界が、歪んでいる。

「いいな。アメリカの大学を通って。いいな。世界のあっちこっちにも行けるって。就職もなんとかなるって。お父さんに選ばれてよかったじゃん。一生向こうで幸せに暮らせばいいのに。なんでうちの何もないところにくるんだよ。よそ者のくせに兄さん兄さんって呼ぶな。気持ち悪い」

 おれは自分の手のひらを見ている。向こうの麻沙美とあの弟はどんな表情なのか。きっと、怒っているよね。

「ちょ、ちょっと雅樹!」

先に席を立ったのは麻沙美だった。

「ごめんね雅斗くん。この人会社をクビになっちゃって以来、かなり精神不安定なの。かわりにあたしが雅樹をいっぱい殴るから、許してあげてね。ほら雅樹も謝って」

「いやだ。おれは悪くない」

「何を言ってんの」

「だって、事実だろう。こいつ、何も知らないくせに。何も知らないくせに幸せそうな顔をしている」

 おれは雅斗に向かっている。

「いいか。おれは秋山雅樹。お前は浪川雅斗。お前はよそ者。おれと同じ家の人間ではない。なあ、なんで死んだのはあの「お父さん」の浪川じゃないのかよ。悪いのはそっちの方だろう。母さんとおれを見捨てて、他の女とくっついて、どうしてそんな無責任な人間がアメリカで幸せになる?どうして事故で死んだのは母さんとこっちの父さんなんだ?どうして悪いことをしない人間が不幸に遭わなければならないんだ?どうして裏切った奴が生き残るんだ。お前は、そっちの人間だから、おれは許さない。認めない。話は以上だ。出て行け」

 爆発のおれだったが、この弟は意外に何の表情もなく、冷静におれを見ていた。

「兄さんは口でそう言ったけど、ただの嫉妬じゃないのか。実は兄さんこそ、自分がお父さんに選ばれたかったんじゃないのか」

 どうしたんだろう。かれの想像以上の強引な言葉に打たれ、おれは壊れたロボットのように、口から「は、はは、ははは」と、歪んだ笑い声が流れ出した。

「ああ、そうだよ。あの人はただのATMだ。利用価値がないのならば縁を切る。それでいい。向こうで自由に、幸せになれば、お前みたいに、どこでも行けるようにならば、はは、はははははは」

 突然ぱっと、おれの顔が痛くなってきた。

 麻沙美がおれの顔を強く殴っていた。

「あんた、そろそろいい加減にしてよ」

 目前にいるのは泣き顔で体が震える麻沙美、そして食卓の向こうで驚いた顔の雅斗。

「ちっ。なんでお前が泣くんだよ。どいつもこいつも、面倒くせえ。あいつが出て行かないならおれが出る。それじゃ、さよなら」

 謝る気のないまま、おれは二人を残して、逃げるように家から出た。

 モノクロの世界に、また自分を閉じ込めた。

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