第一話 出町柳
出町柳①
指先から、一粒の透明な結晶は溶けてゆく。
柔らかくて。冷たくて。懐かしくて。少しだけ、愛しくて。
出町橋のすぐ隣にあるコンビニの前、そこの灰皿の側から、白い煙を吐いたおれは緩く空に見上げる。
また降ってきたな。雪。
コンビニの窓ガラスをもたれかかり、そこに淡く映ったのは自分の横顔。相変わらず暗い表情と目の下の濃いクマ。どう見ても希望のある若者ではない。「なんなんだよこの人」って、つい自分のことを苦笑いながら突っ込んだ。
「ニューヨークに行けばよかったな。今更だけど」
会社をクビになってから一ヶ月。そして金髪デビューから二週間。お金なし。やる気なし。夢なし。今はダメ人間を絶賛やってる。
この京都の出町柳はおれの生まれ育った町。とは言え、まさかこのコンビニの前の狭いスペースはおれの数少ない安心できる場所だなんて。可笑しいな。
「腐った町京都おれは大嫌い」と、綺麗な窓ガラスに指で書いても、痕跡は残らない。京都を呪おうとするおれの濁った感情も、誰にも知らずに、灰皿に捨てられる吸い殻になる。
いつだって京都は愛される町。
歴史があり、称揚される京都。
文化があり、賛美される京都。
風情があり、詠嘆される京都。
でもそれらはすべておれの京都ではない。おれの京都は近いのに、どこよりも遠い場所に。風に吹かれて、行ったり来たり。薄い紗のカーテンの向こうに。
京都を美しく語れないおれの目に、すべての風景は狂った遠近感で映り、歪んだモノクロの塊の形で踊っている。情けないおれのことを嘲笑うように。
本当に、どうしてこんな惨憺たる人生になってしまったのだろう。
降り注ぐ雪の群れと正反対で、川の方へおれは一人で歩き始めた。風に吹かれる自分はパーカーのフードをかぶって、頭を下げた。周りからの雑音のように乱暴に響いた京都弁を排除するため、イヤフォンをつけた。
人と人の思いはいつもすれ違い。この京都にいる人だって皆が全員京都を愛するわけではない。向こうから歩いてきた外国人観光客の連中は「I LOVE 京都」のTシャツを着ているのに、京都人のおれのイヤフォンの中には「C’mon,baby アメリカ」のJ-POP熱唱。よく分からないけど、なんだか笑える。
少しだけ歩くと、出町橋、そして冬色の賀茂川が見える。帰るつもりもないまま、おれは川沿いの土手でしゃがみ込んで、自分の世界との距離感を無言で味わっている。すべてはこんなに近くにあるのに、おれの視線は朦朧になっていて、まるで異次元の光景を見ているようだ。灰色の天幕。舞い降りる粉雪。時間はそのままこの景色の中に溶けてゆく。周りは自転車を押して歩いている少年少女たちの笑顔とご機嫌で走っている犬どもの揺れるしっぽ。ここは優しい空気が溢れる川沿い。おれはここにいるたった一人、笑えない奴。
今でも雪が降っている。現実の世界とともに、おれの閉ざされた心の中に、雪が鞍馬のあの冬と同じく、無音で降っている。積もっている。すべては長く続く雪道になってゆく。
十歳のあの冬の、長く続いた鞍馬のゆきみちになってゆく。
鞍馬寺本殿の前の広場で、母さんがおれにある真実を打ち明けた。父さんはおれの生まれの父さんではない。実際の血の繋がりの父さんは母さんと別れた以降、双子の弟の雅斗を連れてアメリカに行った。それ以来一度おれの前に現すことはなかった。
帰りに、空に舞う雪は海浪のようにおれの世界を覆した。おれは母さんの手を繋いで、声を出せずに、ただ涙を流していた。何かの悲しむべきことがあったのか。それさえわからなかったのに、何かの大事なものを失った空虚を抱えて出町柳ゆきの叡山電車に乗って家に帰った。
それはきっとおれのすべての不幸の始まりだった。あの日から、おれの信じた世界は少しずつ、雪の結晶のように溶けてしまった。おれと生まれ育った京都の間に薄い紗で隔てると気がした。
おれが居なくても、父さんと母さん、そして二人の実娘、おれの妹の麻沙美三人はすでに立派な家族だ。自分が余計に入れた不純物だと思うようになってしまった。相変わらず四人の食卓に、おれだけが遥かな宙で浮かんでいるような感じだった。父さんはおれのことを強く抱きしめても、心には傷跡が残っている。痛くて、痒くて、眠れない夜にモヤモヤさせる。家族とは何だと、あの日から分からなくなった。
運命の悪戯のように、中学に入ったおれはアメリカのことをどうしようもなく好きになった。父さんからもらった万年筆を使って英語の勉強を始めた。せめて英語の読み書きによってアメリカに近づけると思ったのに、突然に訪れたのは十七歳のあの夏の日、両親との突然の死別。家庭と経済の厳しい状況だったが、おれは夢を諦めたくなかった。それでもおれは運命様に祝福されなかった。志望大学の英文学専攻の入学試験の結果は不合格だった。まさしく、理想の幻滅。
やむを得ないというべきなのかな。なんとなくというべきなのかな。高校卒業した以来、京都で職場を転々としていた。会社をクビになったり、自分でやめたり。仕事を真剣にやっていないということ、おれが一番わかっている。自分の体が職場にいたのに、心はいつまでもあの遥かな海の彼方に向かって飛ぼうとした。この惨めなおれの人生を見届ける京都の呪縛から離れて、より広い世界に自由に生きたかった。
電車でぼんやり外の景色を眺めながら感傷が揺らぐ。思いのままに、アメリカに行けばよかったなって。誰かが、このだんだんダメになった自分を救ってくればよかったなって。誰かに言っても、きっと「そうなんだ、大変でしたね」とか淡く返事して、一瞬慰めたと思えるけど、結局何も変わらない。その痛みはおれの専有、いくら訴えても、彼らの世界とは無縁。痛みは届かないもの。巡る春夏秋冬を重ねて、いつか自分も忘れるだろう。そのだんだん痺れた痛みを抱えて、人生の果てに運ばれるだろう。果てのない雪道のように伸びていく。おれの世界は。
真白。
真白な。
真白な、暗闇。
光っている。
何かが、川に近いあの茂みに光っている。
その神秘的な光に惹かれ、おれは思わず立ち上がり、光の源へ身を運ぶ。そこで拾い上げたのは一つの透明な青色の塊。
トンボ玉。
川水の潤いを帯びて、幽かな光を放っている。
指でこのトンボ玉を触った途端、不思議な懐かしさが胸に湧き上がる。かつてどこかで、このトンボ玉と出会ったことがあると、おれはそう思うようになった。
トンボ玉を目の前に置き、おれは向こうの淡い青色の世界を覗いている。そして一瞬見えた。色鮮やかな京都の風景。まるで初めて京都に辿り着いた旅人の喜悦を浴びて、幸せな色に染められたようだ。
京都は最初から綺麗だった。汚れていたのはおれの心だけ。そんなこと、最初からわかったのに。
一滴の涙を手の裏で擢き、再び上に向いたおれは、石段に立っている誰かの瞳と合った。
「兄さん」
優しい声で、この人はおれのことをこう呼んだ。
トンボ玉越し、初めて見たのはこの人の瞳だった。まるで手に握ったトンボ玉のような、一つの汚れもなく、極める綺麗な瞳だった。おれはこの人を見たのか、それともただこのトンボ玉のような透明な瞳を見たのか、その瞬間にはわからなかった。気づいたらおれはすでにこの人に強く抱きしめられた。
突然過ぎた展開だから、どう反応するべきなのか、全然わからなかった。ただこの人の抱擁に、かれの体温がおれに流れ込んだ。
「ようやく、会えた」と、耳元でかれはそう囁いた。
これは、おれの双子の兄弟の雅斗との、二十四年ぶりの思わぬ再会だった。
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