鞍馬のゆきみち
林柏和
プロローグ
雪が降るたび、おれは鞍馬のゆきみちを思い出す。
あれはおれの十歳の時のことだった。はじめて母さんと叡山電車に乗り、鞍馬山を登った。
十二月の鞍馬は寒かった。雪色に染められた山道は歩きにくかった。長い時間が経った今、記憶はだんだん曖昧になってしまう。ちゃんと覚えたのは、終点が見えない鞍馬の長いゆきみち、そしておれの手を繋がっていた母さんの手の暖かさ。
十歳のおれにとってのきつい鞍馬のゆきみちだったが、おれを支えた母さんがいたから、どうにか無事に鞍馬寺の本殿に辿り着いた。本殿の前の広場で空からぼたん雪は舞い降りた。沢山の雪の結晶はおれの服に落ちた。あれは素敵な六角形の結晶だった。おれははじめて知った。雪の結晶は、こんな綺麗な形なのだな、と。
「母さん、見て。雪、きれい」
新たな発見ができたおれは袖に落ちた雪の結晶たちを母さんに見せようとした。
「あら、本当。綺麗ね」
母さんの美しい声は雪の中に静かに響いた。
「雪の結晶はね、同じような六角形なのに、顕微鏡で見たら、どっちでも違う形のように映っているの。同じように見えたり、違うように見えたり。それはね」
寂しそうに、母さんは微笑んだ。何かのおれには解けない思いはこの微笑みに宿っていた。
「まるであなたと雅斗くんみたいだね」と、母さんは空を見ながら、ささやかな声でおれに言った。
「マサト、くん?」
「そう、雅樹の弟のことだよ」
「おとうと……?」
「雅樹の双子の弟ね。そっくりに見えたよ。でも今は、きっと……」
母さんはこれ以上何も言わなかった。しかし雪の中に、おれの中に、何かが密かに動揺した。この鞍馬寺本殿の前の広場で、おれは初めて、自分には一人の双子の弟がいることを知った。
あれから十五年の月日が流れた。時間はあの時の雪のように、音のないままでおれに降り注いだ。鞍馬のゆきみちに立った二十五歳のおれはあの時のように道の上に見上げる。終点が見えない鞍馬のゆきみち。あの時のおれはこの道の途中までしか歩けなかった。でも今は最後まで行けるのかな。かれと一緒ならば。
「兄さん!」
その声はいつものようにうるさかった。この道の先には、おれの双子の兄弟、雅斗がいた。手を大きく振りながらおれを呼んでいた。
「ああ、いまそっちに行くから、待ってて」
未だにおれは雅斗のことがちゃんと見えない。おれと同じように見えたり、全く違う存在に見えたり。すぐこの道の先にいるのに、おれはかれが遥かな届かない場所にいる存在だと思ってしまった。どうしたんだろう。きっと、この鞍馬の道のせいだ。
昔、清少納言はこういう風に書いた。
「近くて遠きもの。鞍馬のつづら折といふ道」と。
おれは今もまだちゃんと見えない。この鞍馬の道の終点が。
そしてこの鞍馬のゆきみちにいるおれの、かれとの微妙な距離が。
すべては、近いくせに遠いもの。
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