出町柳③

 十歳のあの冬の日、鞍馬山でおれは双子の弟がいることを知った。

 おれが一歳の時、母さんと父さんは離婚した。そして協議の結果、おれと雅斗は両親それぞれに一人ずつ選ばれた。もともと一緒だったはずのおれら二人はこうして、バラバラになってしまった。

「ねえ、どうしてあの時、母さんはおれを選んだの?」

 ある日、まだ小学生のおれは母さんに聞いた。

「私が雅樹を選んだんじゃないのよ。雅樹自身が私を選んだから」

 キッチンで料理を作っていた母さんは淡くおれの疑問に答えた。

「おれが選んだの……」

「そうよ。あなたたちが一歳の時に、私は大事なガラス細工のトンボ玉を二人の前に出したよ。そして私が最初にこのトンボ玉に手を伸ばす子を、私の側に居たい子と見做したの」

 その時の母さんの表情を、おれはよく覚えなかった。

「最初にあのトンボ玉に手を伸ばしたのは、お兄さんの雅樹だよ」

「おれが、選んだ……」

 少し戸惑いながら、おれは母さんの言葉を受け入れた。

 自分がもしかしてずっと前から、母さんの側にいたかったと、おれはそう思えた。

 母さんと再婚した相手の父さんが事故で亡くなった後、遺品を整理した時、おれはあのトンボ玉のことを思い出した。母さんの大切なものだったら、家のどこかにあるはず。しかし不思議なことに、おれが家のどの片隅にも、このトンボ玉を見つからなかった。まるでこのトンボ玉は最初から存在しなかったように、何の手掛かりもなかった。

 そして今朝、川沿いの茂みにトンボ玉を見つけた時、おれはこれが母さんの言ったあのトンボ玉だと何の理由もなく、そう思うようになった。しかしなぜこのトンボ玉は出町柳の家にあるのではなく、そこにあったのか。まるで遥かなどこから出町柳までに漂流してきたようだ。なぜこのトンボ玉はこのタイミングで、あの弟と共におれの目の前に現したのか。

「結局、おれが自分で選んだんじゃなくて、母さんはトンボ玉に手を伸ばしたおれを選んだのかよ……」

 どこかの遠いところにいきたい。誰にも見つからないところに隠れたい。あの弟みたいに自由になりたい。そう呟きつつ、おれは足を止めて、頭を上げた。

 鴨川デルタ。

 結局、偉そうにさよならって言ったのに、出町柳から抜け出すことさえできなかった。そもそもおれには行ける所はないんだ。哀れな人間だな。おれは。

 後ろに誰かがおれのことを呼んでいた。まさかあの弟が走って、おれを追いかけて来ていた。

「なんでついて来たんだよ」

 おれの隣に手を膝に置きながら、かれは荒く息している。

「兄さんごめん、僕のせいだ。だからもうそんなことを言わないでください。僕はともかく、麻沙美ちゃんを悲しませないで」

「そんなこと、おれだって……」

 俯いたおれは不機嫌で拳を強く握った。おれの負の感情を無視したように、かれは急におれの後の川沿いに視線を投げ出し、声を上げた。

「あ、またここ!アニメやドラマなどよく出たところだ。ずっと自分の目でちゃんと見たかったよ」

 おれの返事を待たせず、かれは川にある石に思い切り飛び込んだ。そして軽い足で石と石の間を跳び越えながら川の真ん中へ渡っていく。

「ほら、兄さんも。この石、本当あるんだ。今僕、ちゃんとこの石の上に立っているんだ。見ている?」

 かれの小学生みたいなハイテンションと付き合うつもりがないが、やはりそんなかれをほっとけないから、おれも暗い顔のまま飛び石に足を踏まえた。

 何度ここに立ったことがあったけど、毎回毎回もそう思った。石と石の間は近くように見えるけど、実際に立っていると意外に遠い。水が流れている鴨川の真ん中ということに加えて、妙に強烈なストレスが感じる。三個目の石くらいから、おれはすでにちゃんと石をしっかり見ながら歩けない固まった状態になってしまった。しかし頭を上げて視界に入ったのは、余裕をもって飛び石を踏んで自由自在に鴨川を渡るかれの姿だ。結局心配されるべきなのはおれのほうか。

 複雑な気持ちを抱えながら、おれは足を止めた。顔を打っている冬の風の冷たさを感じようとした。今、賀茂大橋はおれの左手側にある。そして鴨川の水はおれの右手側から流してくる。おれの左手側から往来の車たちの騒音が届いてくる。右手側から流れる水の迫力が伝わってくる。このすべては降り注いだ粉雪の色に染められた。おれの先のある石に立っている弟、雅斗のことも。ここにいるけど、次の瞬間はすぐここから消えるという不思議な雰囲気が、かれは漂っている。

 一つの飛び石の距離を持て、おれはかれのことを見ている。

 この人は、おれの双子の弟。おれの家族。

 そんなことを自分に繰り返し言われても、なかなか実感が湧かない。

 かれと一緒にいた記憶はゼロだし。この二十数年も全然会ってないし。完全に見知らぬ人。こんな奴がいきなり家にやってきたなんて。しかも話全然合っていない。かれがただの、おれの顔と同じの赤の他人だ、とおれはそう思った。どうやらおれより身長高いし、体格も恵まれてるし、双子というのもどこかで微妙な感じがあった。

 やはり、違う。

「おい」

「どうした?兄さん」

「さっき、悪かった。おれ言い過ぎた」

「いいよ。急に来た僕も責任があるから」

「そう?でもさ、誤解しないでよ。おれが謝ったのは言い方だけ。話の内容じゃない。お前のことまだ認めていないぞ」

 粉雪の中に、石の上に立っているかれはおれと目が合って、また何かを考えているように、静かに微笑んでいる。

「兄さんは僕のことをいろいろ断言したけど、実際、僕のことをどれくらい分かっているのだろう。僕がどのような人、この兄さんと別れた二十数年にどのように生きてきたこと、それ一つも分からないんだろう。僕が兄さん自分よりよほど幸せって、よくそう言ってくれたね」

 おれは何も言えなかった。自分の方が悪かったことをすでに心に認めたけど、どうしても大人しく謝罪したくない。

「そうだよ。わかんねえんだよ。お前みたいな変な奴。二十数年に一度会ってないのにどうして突然にこの家に訪ねるなんて。今日は初対面とも言えるのに、どうしてお前がこんなに親しくおれのことを兄さん兄さんって呼べるのか。おかしい」

 おれの視線の中、かれは変わらず淡い表情をしている。おれの怒りをそのまま受け入れ、何の反発もしないかれは目に入ると、余計にむかつく。鴨川の水音も騒がしく聞こえる。

「お前さ、京都が好きって言ったっけ。なにそれ、まじかよ。おれが教えてあげようか。お前が憧れたのは京都じゃない、お前の想像の中の京都っぽいの幻想郷だよ。全世界のポスターで書かれた古き良きって、すべては消費主義の罠でさ。美化されてるのさ。ほれ、観光客はこないと、お金は作らないと、長い歴史とかなんとか誰が気にするんだよ。お寺とか神社とか全部資本になったじゃん。どいつもこいつうるさく「京都好き」ってギャアギャア騒いたけど、おれは京都大嫌い。お前、おれを見ればすぐ分かるのだろう。こんな腐ったダメ人間のおれでさ。そしてダメ人間のおれをお見事に作った腐った京都、もうダメだわ」

「だから、覚悟をしていたよ」

「え」

 視界の中にかれの淡い微笑みは変わらぬままだった。

「沢山の国に行ったのに、日本、そして京都はいつも後回し。旅行に行きたいならばずっと前から行けるのに。京都は僕のメインディッシュのような存在なのかな。いや、僕は多分、怖がっていた。兄さんの言った通り、僕はずっと自分の想像の中のあの京都を信仰のような目で見ているから、本当に京都に来たら、幻滅するかもしれないね。それでも僕は信じたい。ここに辿り着いた意味を。ここに確かに存在の美を。ないなら僕は自分で定義していく」

 おれの暴言に振るわれても、尻込みしなかった。かれの心をぶっ潰す自信を持っていた自分こそ、返す言葉はなかなか出てこない。想像以上に苦手な奴。

「なんだよ。綺麗な言葉の方は割と上手だな」

 生活の苦しみを知らないアメリカ育ちのお坊ちゃんはよくこうやって「好き好き」って言うんだな。この三週間の観光が終わったらすぐ日本への興味を全部投げ捨て、未練なく帰るのだろう。こんな奴が日本で就職、長期生活なんてありえない。すぐ会社に追い出されるに間違いない。おれは本当に考えすぎた。たった三週間くらいの遊びだったら、付き合ってあげても構わないけど。

 ため息を吐いて、ようやくかれに再び顔を向けた。

「お前、観光旅行だっけ。この三週間は」

 軽く石と石を飛び越えて、かれはおれの側に来た。

「そうだよ。とりあえず京都のあっちこっちにいきたくてさ。僕の生まれた土地だから」

 機嫌悪いおれは髪を触りながら再びため息をした。

「はいはい。お前がこの家に暫くいることおれは認めるよ。偶にお前みたいな不肖の弟に兄貴の寛大な心を見せないとな」

 かれは大きな目でおれのことを三秒くらいじっと見て、「ははは」と笑った。

「そうか。それはどうもありがとうね。これからの三週間よろしく、兄さん」

 こいつ、おれに「兄さん」を呼ぶ時なんだかいつも微妙な上からの目線つき。むかつく。

 ここは出町柳の鴨川デルタ。高野川と賀茂川はここでようやく合流して、一つの鴨川になる。

おれとかれは今、この京都のある意味の真ん中にいる。 

 人生の行方を知らないまま、おれはただ、立っているだけ。

 かれは空を見上げて、何かを求めるように、この京都の真ん中の空気を吸い込む。

「僕はやっぱりここが好きだ。ここ、暖かい。太平洋の海水よりよほど」

「なにそれ。帰るぞ」

「はいはい、でも帰ったら兄さんも麻沙美ちゃんにきちんと謝らないとね」

 夕日の中におれは不機嫌な表情で帰り道へ踏み出す。後ろのかれは軽い足でおれを追いかけていく。不思議なことに、おれは一瞬、この光景をほんの少し、ありふれた二人兄弟の日常のように思えた。

 それは多分、二人とも京都の雪色に染められたせいだ。

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