渡月橋⑥

 溶暗の画面からおれは自分を取り戻した。それでも心に漣の触感が残っている。変な夢を見たような、スッキリしない目覚め。かれの物語はおれ自身の一部としてこの体に吸収され、それでも反復運動を続ける。まるで血管に泳ぐクリオネ。体内のその奇妙な鼓動を味わいながら、おれはつい口から唾を飲み込んだ。

 そう、これはきっと夢なんだ。

 でも、何処かが悲しい夢。

「お前、西洋催眠術とかもできるのかよ。恐ろしい」

「そうだよ。兄さんは僕のことちゃんと見るため、するよ。これくらい。今、まだちゃんと見えない?僕のこと」

 おれの戸惑いに答えるような、淡い表情のかれの問い掛け。

 ああ。この人は本当にずるい。ずるくて、可哀想だ。確実に誰かに受け入れられるために一生懸命。

 でも分かる。おれだって、あの電車で遠い空を眺める日々に誰かからの理解を求めていた。まさかこの気持はかれと共感できなんて、皮肉だな。

 分かる。気づかないふりをしたけど、この言葉が確かに繰り返して心に響いた。おれはかれの気持ちが分かる。かれの気持ちはおれの気持ちとよく似ている。この結論を意識したが、抵抗とある種の不思議さの皮膚の下での鼓動が神経を刺激する。人の心は複雑なものだと知って、その心が誰かに受け入れられないのなら、なんと寂しいことかも、おれは実感した。

 少々ぎこちないおれは髪の毛を揉んだ。何を言えばいいのだろうと、ただ逡巡している。

「お前は結局、何者」

「さあ。一人の人間としか言えないだろう」

「それでもお前はおれの知らない、遥かな別の世界から来た」

「そうだね。兄さんの知らないどこから」

「これから、お前はどうするつもり」

 隣に、おれと肩を並んだかれは空に向かって、目を瞑った。

「分かるけど、今更はやはり動揺している。まあ、兄さんにいろいろ語らせてもらったから、僕もちょっと話しようか」

 歪んでいたおれの視界にはかれの風に乱された黒髪だった。

「京都の風景は近くに見えるのに、意外に遠くて触れない。日本語も、把握できる自信があったのに、いつも口から形を変えて、その体で掴めないものになる」

 その言葉を吐いた時かれの顔にある明暗を、おれは見ている。

「兄さんと麻沙美ちゃんも、近いくせに遠い人。この京都の町に三人で一緒に歩いていたのに、いつも二人は僕の先に言葉を交じりながら遠く離れる。話を上手く入れ込まない自分が二人から離れ離れになる。いつも、僕だけが周りから遠くなるんだ」

 冬風にかれの手は軽く震えた。そしてかれはこの手を引っ込めて、

自分の顔を覆った。通り過ぎた風の音を、おれはかれの嘆きと勘違いした。

「もう、諦めたんだよ。誰かになることを。結局、アメリカの国籍を取ってもアメリカ籍の日本人。日本籍があってもアメリカ人のように見られる。こうしていつも他人の視線で定義されてたね。そもそも僕自身が決めることではない。でも一つだけ、どうしても言いたいことがある」

 再び開いたかれの澄んだ黒い目に、茫然としたおれの影がいる。

「ここにいたい」

 やはり寂しいんだな、今のかれは真剣な顔をしていても。

「この近いくせに遠い場所。美しくて残酷な京都に、僕は生きていきたい。これは僕の二十五年の人生の中の一番の強い意思だ。僕は受け入れられない可哀想な人間ではない。より広い世界が見える人間、より可能性のある人間だ。僕は証明したい。兄さんは僕を拒絶しても、ここにいたい。これは僕自分自身の意思からの選択だから。寂しい運命だとしも、僕は抗いながら生きていきたい。僕は、掴みたい、選びたいよ」

 選びたい。

 この懐かしい響きはおれを包み込む。

 おれは自由になりたかった。自分の人生を選びたかった。そう、おれに欠けたのは才能とかじゃなくて、夢に向かって手を伸ばす勇気だ。拒絶されることを怯えて、自ら前へ進む道を壊した。

 かれのように戦いたかった。この不確実な世界と理不尽な運命の海浪に、自分の力で何かを掴もうとした。

 おれだって、必死に書いていたのに。

 自分の中の母語は桂川のようにすらすらと流れるけど、英語から始めの外国語はどうしても濁った土や泥などに堰き止められ、綺麗に外側に注ぐことができない。それでも自分の体の中に泉が絶えずに湧き上がる。その体を苦しむほどの水が絶えずに波打つ。与えられたあの母語の川だけじゃ物足りないんだ。もしその川から生まれその川で死ぬのは運命様の期待ならば、おれはその期待を裏切りたい。自分の意思で沢山の川を掘り続けたい、綺麗に流させたい。高野川と賀茂川から鴨川。鴨川から桂川。桂川から淀川。淀川から無限の海。すべては繋がっている。すべての川は合流するんだ。流れる水の向かい先の世界、おれは見たい。すべての川の綺麗な流れる方、おれは見たい。自分の手で新しい世界に触れる瞬間の煌き、おれは見たい。そんなダメな自分だって、掴める物もある、広い世界に触れる資格があると証明したい。

 同じだ。おれとかれの本質は。

「綺麗事を言ったのに、そんな顔をしないでよ。自分の意思を貫くなんて、格好いい風に聞こえるけど、ちゃんと見られてないとやはり寂しいね。おれはさ、自分の夢に向かって頑張っている奴を、誰だとしても尊敬するよ。お前のことも。努力している人間は寂しい顔をするなんて、やはり見ていられないわ。だからいいよ」

 おれは拳を握り、かれの胸に軽く打った。

「まだお前のことを許していないけど、いいよ。お前のことを受け入れること、今すぐできないけど、おれもこれから頑張るから」

 顔を上げ、かれの目に一生懸命注視している自分は唇から本音の浪を空気に打つそうとした。

「だから、おれの苦しみも、悔しさも分担してくれよ。おれと会うため向こうから来たのだろう。お前の大嫌いなアメリカ、おれは行きたいよ。綺麗な言葉を言っても、自分一人だけじゃやっぱり足りないんだ。おれの実現出来ない夢を、お前も手伝ってくれよ」

 冬空に浮かぶ白雲。亀山に立つ木々。桂川に渡る小舟。声を出さずに、二人は暫くこの景色に佇む。舞い降りた日差しに、かれの顔で何かの表情が湛える。桂川の漣に踊る光りのかけらと同じように。

「いつも真っ直ぐに本音で人と向き合う兄さんに、僕はやはりかなわないよ」

 おれの拳に、かれは自分の手のひらを優しく置いた。

 嵐山に一緒に来てよかったと、この一瞬おれはようやく微笑んでこの心の波を受け取った。

「一緒に、うちに帰ろう」

 ようやく、かれにそう言うようになった。


 帰り道の電車で、あの二人はおれの肩に寄りかかって寝込んだ。起きた自分だけはゆきのみちの時と同様に、愛想のない顔でスマホをずっと見ている。

 麻沙美から送った、竹林に三人が一緒に撮った写真。

 画面中央は黒いキャップの麻沙美。そして麻沙美の左手側の爽やかに笑っていたかれ。右手側は相変わらず、暗い表情のおれ。

 でも突然なんだか、どこかがすごく、似ていると気がするんだ。

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