第三話 渡月橋
渡月橋①
「トンボ玉にはね、すごい魔法の力があるんだよ」
かつて、母さんはこういう風におれに言った。
記憶の中の母さんは、いつもトンボ玉のネックレスを付けていた。その透明な塊を見るたび、おれは思い出す。母さんの手のひらの暖かさ。母さんの声の響きの美しさ。そして十歳のあの冬、母さんと一緒に歩いた鞍馬のゆきみち。
「トンボ玉は燃える炎から生まれたから、強い命の魔力の結晶よ」
「けっしょうって、雪と同じ?」
「ううん。雪はいつか溶ける。でもトンボ玉は溶けない。炎に耐えた命のちからを秘めて、ずっと私たちを守っている。いつか空を越えて、海を越えて、奇跡を起こすの」
その言葉をおれの記憶に残して、母さんは溶ける雪のように、おれのもとからいなくなった。
十数年の月日が流れ過ぎた今、京都にいるおれはまた雪の季節と巡り合った。今度はおれが腕にあの日の拾ったトンボ玉で作ったブレスレットを付けることになった。そして今、おれは右手で花束を抱えて、長い石の階段を登りながら、母さんの面影を思い出す。
今日は、母さんと父さんに訪ねる日だ。
冬の真昼の青空の下、おれは道の先、冬の杉の木漏れ日を浴びる兄弟ふたりの姿を見た。その中の一人は墓参り用の水桶を持つまま、そこにおれのことを静かに見ていて、微笑んだ。
おれの双子の弟の雅斗。おれと同じ顔だけど、全く似ていない。
「そう言えば母さんは、どんな人だったのか。僕は全然思い出せないな」
「まあ、あたしから一言で言えば、夕食が何をしようかと台所で一時間以上かかって悩んでいた人」
いつものように、のんびりと雅斗に答えた麻沙美だった。
「へー、面白い母さんだね」
「それはね、母さんは何かをするにも、前からすでに決まったようなのに、わざと時間を無駄にして、いろんなことを繰り返し確認しないと安心できないの。だから誰かが背中を押さないといつまでも前に進めない」
おれは麻沙美の視線を感じている。
「ほんま、うちの金髪ニートとそっくりや」
ひだまりの中、おれら三人は両親の墓の前に目を閉じ、合掌した。
「お父さんお母さん、どうやらおれと麻沙美は、今年も無事に過ごした。なにかの素敵な出来事がなかったけど、とりあえず健康で生きているのは一番だ。守ってくれてありがとう」
心の中に両親に声をかけ、おれは流し目で左側の二人をこっそり見ている。
「そして、あいつが来たんだよ。あの弟が。アメリカからな。世間の辛さを知らず顔をしやがって、生意気な奴め。すまないけど、やっぱりかれとは仲良くできない」
そういう風に思ったら、自分のなかの封印された気持ちの箱からなにかの濁った言葉が連れ出されるような感じになってしまった。
「今更なんだけど、あの時、あのトンボ玉を取らなければよかったって言ったら、怒るのかな。でもおれは、やっぱり……」
おれのなかの躊躇の言葉を打ち切ったのは、側の麻沙美の雅斗への、まるで年下の男子向けるような甘い声だった。
「お父さんとお母さんに何を話したの」
淡い微笑みをしている雅斗は視線をおれと麻沙美から前の墓石に移した。
「ようやく会えて嬉しい。そして」
雅斗の目はひだまりのなかのトンボ玉のようにひらめいた。
「この京都にたどり着いた魔法の力を譲ってくれてありがとう」
また急に子供っぽい電波系の発言がしたな。こいつは。
「お前、小学生?」
と、つい嫌な顔でおれは突っ込んだ。そして当たり前に、側の麻沙美はおれに同じような嫌悪な顔をして、肘でおれをつついた。
「雅樹のアホ。これは言葉のロマンだよ、ロマン。魔法とか母さんだって昔いつも言ったじゃない。あんたより雅斗くんはよほど母さんの心が分かるね」
「いや、普通に突っ込むだと思うけど。母さんだって、昔からどこかが変な神経質なところがあったじゃん」
「せっかく墓参りに来たのに母さんの前にご本人の悪口を言うなんて、さすがあんたっていうべきか」
「おい」と麻沙美に反論しようとしたが、いきなり「ぷ、ははは」と大きい笑い声が聞こえた。こいつ、涙が出るほど笑っている。幸せそうな顔で。よそ者のくせに。
そんなかれの笑顔を少し驚いて、また柔らかい表情をした麻沙美は最初に立ち上がた。そして軽い足取りで後ろに一歩を運んだ。
「ねねね、明日、嵐山に行こうよ」
おれに向いた麻沙美は何かを伝うように、普段より穏やか、そして真剣な口調で、言葉の続きを送った。
「三人で一緒に」と。
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