第二話 河原町

河原町①

 あのオレンジ色の夕日が滲む巨大な窓の下に、彼女がいた。

 九年前の高校生の姿のままで、おれに声をかけた。


「まだ、書いている?」

「まだ、私に会いたくない?」

「まだ、自由になれないのか?」


 その声を聞いて、おれは彼女のいるはず方向に目を向けた。

 しかしそこに彼女はいない。

 オレンジ色に染められた静かな図書室には、おれ一人しかいない。

 彼女はもうここに戻ってこない。

 残されたおれだけが、あの自由になれない人だ。


 この寂しさを感じた途端、おれは目覚めた。

 ひだまりはおれの部屋に浮かんでいる。長い睡眠だった。

 本当に罪深いニートだな。おれは。


              ***


 冬空の下は灰色の京都。街に冬の寒波の暴力に襲われたおれはくしゃみをした。

 あの日から成り行きで、この招かれざる客の弟と付き合い、電車に乗り巡って京都の名勝を回す日々が始まった。大きなカメラを抱えて高いテンションで写真を撮るかれの隣にいるのは、いつも暗い顔でスマホを見るおれ。

 結局この京都の町並みはほぼ外来の観光客に占領されたのではないか。巨大な観光地として、皆の望んだ京都イメージをどんどんサービスして、キャラクター維持の虜になって。それは京都自身の望んだことなのか。京都だって、ニューヨークみたいにおしゃれなことを選択しようではないか。

 京都育ちとは言え、おれは自分の意志で京都弁を話さない人間だ。いつも京都弁だからこそ京都に閉じ込められ、世界が狭くなる。おれはこんな狭い地域主義に拘らない、広い地球全体を目指す男だ。なんやなんやって絶対言わない。UFOとか怪獣とか来て貰えないのかな。古くさい町並みとかを無茶苦茶にして。

 京都御所のガイドツアーに参加したのに、おれは悶々とどうでもいいことを思っていた。清涼殿の前にスマホを見ながら大あくびをした。この京都人のおれは。真剣に解説のお姉さんの言葉を聞いていて、キラキラの目で建物と庭を観察するかれと真逆。

 こんなつまらない日の帰り道に、まるでおれの気持ちを読み取ったように、気分転換で映画を観ようかと、かれは提案した。

 結局出町桝形商店街に新しくできた映画館で、どうでもいい内容のB級青春映画を、二人で観ることになった。

 主人公たちはバンドをやっている。全力で歌ったり、走ったり。時々喧嘩したり、決意をつけたり。とりあえず思いっきり今に生きでいる。結末はきっと笑顔満載のハッピーエンド。

 映画の定番になったキラキラ眩しい青春って、こういうものか。観客の皆が好きそうだけど、この青春はいくら綺麗なものだとしても、おれの心に傷をつけるだけ。

 楽しくなれない。憧れなんかじゃない。主人公の感情を理解したくない。おれの胸に静かに燃えているのは、嫉妬の炎。

 暗然たる劇場におれは不意に隣席のかれに一瞥した。スクリーンの画面に集中し、かれは物語に浸っているようだ。澄んだ瞳に燃える炎のような青い光が無音で漂っている。

 感動、しているのか。

 かれならば、きっと共感できるのだろう。アメリカ育ちのエリート青年って、映画の主人公みたい。かれの見た世界はいつまでも色鮮やかに、美しいだろう。育ちのニューヨークも。初めての京都も。

 ここにいるおれも、かれにとっての京都の風景の一部になったのかな。かれの瞳におれはどう映ったのか。この人は、おれのことを見て、理解しようとしているのか。

 そんなこと。

 勝ち組のかれはおれのことを理解しても、どうせ憐憫が入り込むのだろう。

椅子の肘掛けを、おれは右手で力込めて握りしめた。

 おれは阿呆みたいにベッドで横になって涙を流した時、かれは何をしていたのだろう。あの海の向こうのキラキラの世界に、悩みもないまま笑っていたのかな。よい大学に行ったのかな。面白い本とか映画とかコンサートとかを満喫していたのかな。海外旅行とかも行ったのかな。大きな夢を叶えたのかな。いいな。いいな。向こうの世界にいるだけで、何もしなくても発達な社会と彩る文化に恵まれる。どうしてかれはこんな悲しみを背負わなくてもいいのか。どうして、おれだけが屈辱な人生を送らないといけないのか。

 あれはおれのものだったはずなのに。そう、もしあの時トンボ玉を取らなかったのなら、おれはかれになれるんだ。

 頭を上げると、エンドロールが流れている。物語はすでに終わり、青春の終焉が訪れる。何もなかった。

 ただ右手に誰かの温度を流れ込んだ。顔を向けると、かれは自分の左手をおれの右手の上に置いた。何も言わずに、かれはポストクレジットシーンを優しい表情で観ていた。


 帰り道にまさか高校時代の同級生たちと遭遇した。予想通りに、おれの金髪が笑われたり、この弟についていろいろ聞かれたり。そして今年もあいつら主催の忘年会、ついでにおれの誕生日祝い会をやることを知らせた。「双子やさかい誕生日一緒やん、弟くんを連れてお祝いしよう」と誘っても、不機嫌な表情をするおれは全力この提案を拒否した。しかし「雨宮さんも来るんや」と言われた瞬間、体が震えるほど動揺した。

 もう、帰ってきたんだ。ニューヨークから。これは一体何年ぶりなのかな。変わったのかな。おれのこと、ちゃんと覚えているのかな。

 本当におれは、雨宮に会いたいのに、どこかで怖がっている。色褪せた青春の一ページをまた開ける日が来るなんて。今のおれにとって、残酷だ。

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