七 落陽

 翌日の朝。

 サツキと啓一は、さっそく仕事に取りかかることになった。

 修理が行われる反重力プールは、奇しくも同じ植月町にある市立体育館に設置されたものである。

 半分を地下に埋設する形式で高さは地上地下合わせても三メートルと小さなものだが、重力学研究所に設計依頼をする際にいろいろと注文をつけたため構造がかなり独特になっており、市だけでは修理が難航することが予想された。

 そこで図面を引いてもらったなら修理も手伝ってもらおう、ついでにとびきり優秀な人物に来てもらおうと話が投げられた結果、二人はこんなところまで引っ張られて来てしまったのである。

 だが、二人の立場はあくまで「立ち会い」だ。基本的に現場そばの天幕で待機しつつ、要請に応じて理論面からのアドバイスをすることしか出来ない。それだけで対応しきれない場合は現場に入って実見や検査をすることも可能だが、必要以上の手出し口出しは認められていなかった。

 こんな中途半端なありさまでは、とてもではないがまともな出番なぞ望めたものではないだろう。事実今のところ必要とされる場面はなく、二人はデータ整理などをしながら過ごしていた。

「まさに立ち会いって感じだな。何だか一生懸命やってる技師さんたちに悪い気がする」

「気持ちは分かるけど、権限がないんだから仕方ないわ。それに仮に手伝えたとしても、直接いじれるだけの伎倆うでがないんだから無理よ。技術の人ならともかく、こっちは理論だもの……」

 椅子に座って参考資料を見返しつつ、サツキが言う。

 これは設計に用いられた理論を記した論文類で、その道の者にしか理解出来ないものだ。当然のごとく啓一には意味不明でしかない。

 結果、いつも通りメモをまとめるくらいのことしか出来ない状態であった。

「でも君はアドバイス出来るだけまだましだろう、俺なんかまるで何の役にも立ちそうにないぞ。お偉いさんに、地蔵を連れて来たのかと文句言われなきゃいいが」

「そんなの言われないわよ、出来ることすればいいの。それに……」

「え?」

「……あ、いや、何でもないわ」

 サツキは、余計なことを言おうとしてしまったとあわてて口をつぐんだ。

(『こういう状況で助手に出来ることはほとんどない』なんて言えるわけないでしょうに。もっと落ち込むのがおちだわ……)

 だが、これを女々しいと責めることはサツキには出来ない。

 ここに普段事務仕事しかしていない者を連れて来た時点で、無理がありすぎるのだ。

 それでなくとも自分の知識が通用しなくなって自身の価値がなくなることを恐れているのだから、たといこうして精神状態を崩しても仕方のない話だと思うのである。

 「豆腐メンタル」と言わば言え、こうならない自信があるとおのれの首を賭して言える者だけが石を投げよ。

 サツキは正直そのような気持ちだった。

 その時、空中ディスプレイから手を離して水を飲んだ啓一が、息をつきながら言う。

「それにしても、仕事場がこの地区でよかったよ。中心部だったらとてもじゃないが……」

「同意。あんな話聞かされちゃね」

 あれから……。

 シェリルと警察官の機転によって桜通からうまく逃げ出すことを得た二人は、ほうほうの体で宿にたどり着いた。

 別の宿を取っているからと門前で別れたシェリルによると、この地区は高台の閑静な住宅地で中心部とは対照的に治安はかなりよい方であるという。少なくともここにいる限りは、厄介ごとに巻き込まれることはなさそうだ。

 それぞれに別の部屋で荷物を一通り整理し、陽が落ちたところで外へ夕飯を食べに出る。

 そこである店の入口をくぐったところ、何と百枝と再会したのだ。

「ああ、あんたらか!さっきはとんだ災難だったな……」

 仕事帰りのサラリーマンよろしく、定食を肴に麦酒ビールを呑む巫女。

 わさわさとした銀髪の外はねのショート・ヘアと特徴的な葡萄えびいろの眼が、豪快な絵面をさらに豪快にしてのけている。

 二人は眼が点になりつつも、他の客がいないのですぐ横に座った。

「いえ、助けていただこうとしてくだすったみたいで……ありがとうございます」

「あたしは何にもしてないさ。礼はがんばってくれた同僚の彼と、刑事殿に言いなよ」

「いやいや……俺も守りに徹してただけですし」

「向こう見ずに殴りに行って、変にけんかになるよかましだよ。あんな頭に泥つまってそうな破落戸相手にけがしたくないだろ?さらに同僚さん巻き込んだら、それこそ目も当てらんねえ」

「そうですけども……。さすがにあそこで追い払えないってのは、ちょっとどうかと」

「いいんだよ、そんなもん気にしなくって」

 そう言うと百枝は啓一の顔をちらと見て、麦酒のコップを置く。

「ああ、自己紹介が遅れたな。あたしは倉敷百くらしきもも、この地区の鎮守・植月神社の宮司兼巫女やってるんだ」

「これはどうも、俺はいな啓一けいいち、国立重力学研究所の助手です」

「私は真島サツキといいます。同じく重力学研究所の研究員です」

「ほー、そういや体育館の反重力プールが壊れたから研究員が来るって言ってたが、あんたらか」

「そうです」

「桜通が半端なくやばいところだって、上から聞かされてなかったのか?」

「聞かされていたんですけども……」

 啓一が桜通に迷い込んだ経緯いきさつを話すと、百枝は、

「ああ……ほぼ不可抗力ってやつだな、そりゃ。案内標識見てれば迷わなかったとか言っても、自動車用なんだからよっぽどじゃなけりゃ見ねえよ。もっともそれ以前に、住民も使う裏道がずたぼろでほっとかれてるってのが一番問題なんだけどさ」

 ぼやくように言って大きなため息をついてみせた。

「まあ、確かに……」

 あれさえなければ何も起こらなかったのだから、啓一も思わずうなずいてしまう。

 百枝はそれを一瞥して再び麦酒を呑んだ後、

「しっかし、本当に恥ずかしいところ見せちまったもんだ。あの桜通周辺は、緑ヶ丘の恥部でさ」

 渋面を作っていまいましげに言った。

「恥部って……」

「いや、恥部じゃなくて何なんだよ。真っ昼間からすけべな店がやってて、破落戸がうろうろしてんだぜ?しかも空港からすぐ近くの道でよ。サツキさんなんかたまんなかったろ?」

「因縁つけられたのを抜いても、確かにきつかったです……」

「だろうよ。あれでいて店は違法営業はしてないし、破落戸どももああいう頭のおかしいやつ以外は、警察を警戒して表通りじゃおとなしくしてる。周りに恥と恐怖をばらまいてるのに、誰も取り締まれやしねえんだ」

 百枝はそう言って、唇を噛んでみせる。

「……それに、あの辺破落戸以上にやばいのがわんさかいるしな」

「え?そんな話、俺たちは全く聞いてませんが……」

「そうか、外部にゃ伝わってないんだな。まあ積極的に言うことじゃなし……仕方ねえか」

 何と桜通やその周辺には暴力団などの反社会的勢力が相当数ひそんでおり、独自の闇社会まで作っているというのだ。

 確かにこのような商売は暴力団のしのぎとして行われることも多いので、納得の行く話ではある。

 そもそも破落戸どももただぶらぶらしているだけの無宿者ばかりとは考えづらく、そのような組織の三下として日銭を稼いでいる可能性は充分にあった。

「こうなると、連邦警察の出番だよ。しかもうちはどうやら相当ひどいと見込まれてるらしくてさ、他と違って特殊捜査課が担当してるらしい。ぞっとしないぜ、結構何でもありの怖い部署だって話だぞ。そんな部署がお出ましになってるんだ、巻き込まれたら厄介だから近づかない方がいいよ」

 割り箸を割ろうとして、啓一は百枝が口にした「特殊捜査課」の名にふと手を止める。

「あれ、じゃあシェリルが言ってた別口の案件はそれかな……。所属が特殊捜査課だし」

「ん?刑事殿知り合いなのか。様子見ててそうじゃないかなとは思ったけど」

「知ってるどころか、私の幼なじみです。怖いかどうかはともかく、連邦警察の中でも結構きわどいことも普通にやる部署だとは聞いてますね……」

 これはサツキであった。さすがに昵懇の仲だけに詳しい。

「あれ、待てよ?倉敷さん、何でシェリルのこと知ってるんです?それもあだ名で呼んだりして」

 飯を食べていた箸を止め、啓一が問うた。

 あだ名を奉っているということは、相当深い知り合いのはずである。

「ああ、前から反社の洗い出しってんで、こっちへ何度も来てるからな。定宿この周辺だし、来てる時は部下も連れずによく一人でうろついてるし。今じゃすっかり顔見知りになっちまった」

「そうなんですか。……全く、出先でまで一人歩きの神出鬼没なのね。今さらだけど、自分が刑事だって自覚あるのかしら」

 サツキがむすっとした顔となり、耳をぐっと内に寄せた。

 もうお気づきの読者もいるかも知れないが、シェリルの捜査は刑事としては異色である。

 階級が警視なので捜査指揮に回ることが多いのだが、捜査期間のほとんどは同僚の警視に本部をまかせてしまい、自分で市中にすっ飛んで行くのがいつものパターンなのだ。

 今回のように部下がいても一緒に行動をしていることは余りなく、自分の足で聞き込みなどをして事件の骨子を洗い出して行く。

 どちらかというと、刑事というより探偵のようなところがあるというと分かりやすいはずだ。

 しかも、被害者や関係者には捜査の進展を結構教えてしまったりもする。

 小説やドラマのようであるが、それを地でやってのけるのだからいろいろ型破りだ。

「……でも、あれで大将首確実に取るってんだろ?恐ろしいちびっ子だよ」

「本来ならおとがめになりかねないのをそれで黙らせてる、とか本人言ってるんですよ。もういろんな意味で大丈夫かしらこの子、と」

 そう言って、サツキは肩をすくめる。

「でもそんなんでもな、さっきも言った通りあそこは普通のやり方じゃ手に負えないのさ。だから反社に強い連邦警察は最後の希望なんだよ」

「………」

「それにここの場合、内部だけで済まねえんだよ。あそこがあるせいで外部では『風俗の街』のイメージがしみついちまって、性欲持て余した男が毎日のように押し寄せて来る。余りの気色悪さに、まともな外来者は嫌がって来やしねえ。挙句の果てに住民が外に出入りする時でも必ずどこかにいて、船じゃみんな見ないふりして避けるのに一生懸命、しまいにゃロビーに逃げ出すのまでいる始末だ。ここまで踏んだり蹴ったりじゃ、そりゃあ怨み骨髄に徹してる。どかんと潰してくれる可能性があるなら、何でもすがろうってもんだ」

 啓一は、ようやくあの時見た三等客の異様なありさまを理解した。

 船室にいた気色の悪い男たちは、噂を聞きつけて女を買いに来た者たちだったのである。かたぎの人々にあんな連中と二時間も一緒の箱の中でくっついていろというのは、さすがに酷というものだ。

 内部ではやくざ破落戸がのさばり、外部からは妙な評判を立てられ品性下劣の徒がやって来て、住民は大迷惑をこうむるばかり。とにかく殲滅を望むのも当然だ。

「まあそれはともかく、仕事で仕方ない時以外は中心部なんて興味本位で行くもんじゃないよ。ああ、中心部の北、特に東側辺りも余りよくないな……」

「北東部ですか?」

「うさんくさい連中が出入りしてる。しかも春には、そこの住民が反社をかくまってたってんで大騒ぎになった。何されるわけでもないが、行っても気味が悪いだけで何の得にもならないぜ」

「分かりました、ありがとうございます」

 そうしてそれからも時折「中心部へ行ったらいけない」と注意を受けながら二時間ほど話をして別れ、今に至るのである。

「中心部に行かなくても、用事は全部この高台の中で完結するようになってるらしいな。安全のため故意に生活圏を完全断絶させてるらしい。それでも中心部には普通の店や施設がほぼないから、そっちの住民もやむなくやって来るって話だが」

「互いに気の毒な話ねえ。安全確保のためとはいえ、同じ街の中で縁切りしなきゃいけないなんて」

「その安全も地区が封鎖されてるわけじゃないからやっとだよ。そもそも中心部から破落戸が来ないのだって、倉敷さんがぶちのめして警察が追い払うの繰り返しで怖がって来なくなっただけってんだからさ……普通じゃない」

 そこで啓一は再び水を飲むと、

「全く、何で出来て四年のコロニーがこんなことになってんだ。わけ分からんよ」

 既に二日目にして心底嫌になったという顔で頬杖をついた。

 その時、急に眼の前に影が落ちる。

「すみません。勝山宮かつやまみやと申しますが」

 見上げてみると、眼鏡をかけた黄色いボブカットの猫耳の女性が立っていた。

「ええと、市の職員さんにご用ですか?私たちは違うので」

「あッ、そうですか。……えと、いたいた。すみません、失礼しました」

 ぼさぼさした内はねの髪を揺らし一礼しててくてくと去るのを横目で見ていると、どうやら工事の指揮を取っている建設部の職員に用があったらしく、何やら動作確認のようなことをしている。

「プログラマーさんかしらね、あの勝山さんって人。さっきから検査用のソフトの話してるわ」

 聞き耳を自然に立てたのだろう、耳をぴこぴこと動かしながらサツキが言った。

「使ってる現場に直接来るプログラマーなんて初めて見たぞ。何かあるのかね」

「さあ……たださっきから聞いてると、近くに住んでるから直に来た方が早いって考えてるみたい」

「変わった人だな……。ま、俺たちには関係ないか」

「持ち込まれる話次第では検査が必要になるから、ソフトの方は関係あるかも知れないわね」

 そんなことを言っているうちに宮子は天幕を離れ、こちらに一礼して去って行く。

 何とはなしにその姿を見ていた啓一は、

(ん……?)

 ふと見慣れた顔を彼女の行く先に認めた気がした。

「どうしたの?」

「いや……シェリルの顔が今見えたような」

「別人でしょ。あの子の仕事にプログラマーさんは関係ないわよ」

「ううむ、結構変わった服装だし見間違えることないと思ったんだが」

 どうにも納得が行かず首をひねったが、そこで仕事を振られたためこの話はしまいになった。



 二日後、初めての週末がやって来た。

 今日は休工日とあって、啓一たちも休みである。

 朝食を食べて戻って来た二人は、ロビーに座って話していた。

「こういう時、どうしてるんだい?」

「そうね……少し報告書をまとめる準備をしてから、散歩や買い物に出かけたりするわ。仕事のために来てる身だけど、これくらいの息抜きは許されてるから。でも……」

「今回は事情が事情だからなあ……」

 いかんせん、本来なら休みを過ごすのに絶好の場所である中心部が、常識外れの危険地帯という街である。安全なこの地域で過ごすしかなかろう。

「まあ、この地域も自然豊かなところだし……散歩するのもいいんじゃないかな。どうせ昼も食べなけりゃいけないから」

「そうしましょうか……あら、新聞に載ってるわ、目撃情報の件」

「ほんとだ。連邦警察、正式に発表したのか」

 そもそも連続事件と目される失踪事件に、ここに来て初めて有力な目撃情報がもたらされたのである。積極的に発表しない理由はないはずだ。

「多分、もう目撃者と接触してるんだろうな。まあ他に中心部がらみで仕事があるみたいだから、そっちに回ってるかも知れないが」

「話を聞きたいけど、会えるかしらね」

「どうだろうなあ。でもどうせまた一人でうろうろしてんだろ、普通に会えたりしてな」

「まあ、それもそうね。絶対現れないわけないわ」

 サツキはそう答えると、耳を一つかいてみせる。

 どうも刑事らしからぬ信頼を得ているように思えてならないが、事実なのだから仕方ない話だ。

「それはともかく、どこ行く?あなたの好きなようでいいわよ」

「んー、俺はあそこの神社行きたいな。植月神社」

「倉敷さんのとこね」

「何を祀ってるのか気にかかってさ。ここ、いろいろ日本本体とは勝手違うみたいだし」

 啓一は大学や大学院での専攻の関係で、寺社仏閣をこよなく愛している。このため日本人の作った国と聞いて、さっそくそちらに興味を持ったのだ。

 そこで驚いたのが、新星で二番目に大きい新星神社が北極星と同一視されるあめ之御のみなかぬしのかみを祀っていたことである。星を祀る「妙見信仰」で登場する神であるが、日本では大社はそこそこあるものの全体数はそれほどでもないのが実情だ。

 それが宇宙で「星」つながりということだろうか、首都で大社殿を営み崇敬されているというのは大変に面白い話である。

「ちょっと行ってみましょ。私も神社は好きだし」

「そんじゃ、さっそく」

 宿を出ると、そこはもう植月町の目抜き通りだ。

 家々のすき間から、中心部の街並みが見える。知らない者が見れば何のことはない街だが、事情を知っている身にはその姿はどこか灰色に濁って見えた。

 西は丘陵地帯となっており、いわゆる「里山」の雰囲気を見せている。

 植月神社はその一角、宿からすぐそばの丘の上にあるようだった。

「よっしゃ、ここから一上りだな」

 そう言って屈伸をすると、鳥居で一礼して参道の階段を真ん中を空けて上り始める。

 だがそれから五分後、二人は踊り場で横を見たまま呆然と立っていた。

「………」

「……何これ」

 眼の前には、休憩のために作られたとおぼしき石造りのベンチとテーブルがある。

 そこに、猫がたくさん寝ていた。三毛やら茶虎やら雉虎やら、地域で面倒を見ているのか二人が近づいても逃げない。

 が、問題はそこではなかった。

「何やってんだ、勝山さん……一緒に寝てるし」

「……見事な丸まり方ね」

 これである。

 何とそこには先日見かけたプログラマーの勝山宮子が、「猫」を主張せんばかりに丸まって寝ていたのだ。ついでのように、上には八割れの白黒が乗っかっている。

 余りにも斜め上の光景に二人が唖然としていると、

「あっ……勝山さん!やっぱりここでしたか」

 下からいきなりシェリルの声が響いて来た。

「お、おい、シェリル!?何でお前さんが?」

「何でも何も、訪ねて来たらいないんですから……近所の人に訊いて探しに来たんですよ」

 そういうことを訊きたいのではないが、本人がかなりあせっているので今は置く。

 シェリルの姿を見かけるや、八割れがぺしぺしと宮子をたたいた。

「『起きろ迎えだぞ』ですって」

 狐族など獣人は、ある程度まで動物の言葉が分かる。

「ああ、二人も一緒に起こしてください。全くもう……」

 そう言っている間に、既にぺしぺし、ちょいちょいと猫たちが宮子をたたいていた。

「……んー、この缶詰は食べらんないやつだよー」

 思い切り寝ぼけている宮子を、三人総出で起こす。

「えっ!?あっ……シェリル!?」

 ようやくしっかり眼を覚ました宮子は、シェリルを見るなりがばあっと起きた。

「こんなところでひるしてるとは思いませんでしたよ」

「余りに起きないんで、そこの茶虎ちゃんが『ええい猫パンチ食らわせたろか』言ってましたよ」

「ほのぼのしてる光景じゃあるけど、これは驚くな……」

「………」

 三者三様の言葉に宮子女史、言葉もない。

「……で、頼んでおいた仕事は、どうなってるんですか?」

 シェリルが珍しく怒った声で言うと、宮子は、

「あ、それは出来てる。しっかり釣果ありだよ」

 まじめな顔になって言った。

「なるほど。じゃあ行きますよ」

「ま、待った!そんながしっとつかまなくても!」

「はいはい。……失礼しました、二人とも」

 シェリルはほとんど何も説明しないまま、宮子を連れてどやどやと下りて行ってしまう。

「何があったんだ、あれ?」

「……さあ。仕事って言ってたわね」

「何だ?やかましいと思ったら、オタ猫が刑事殿に引っ張られて行ったのか」

 伝法な声にふと上を見ると、百枝がほうきを持って立っていた。

「あ……こんにちは、倉敷さん」

「こんにちは」

「ああ。……すまないな、びっくりしたろ。あいつ時々ここで猫と午睡しててさ」

「仕事頼まれといてあれですか」

「一瞬不安になっちまうけど、ああしてる時は完璧にやりきった証拠なんだってさ。刑事殿も言ってたから、多分今日もそうだろ」

「はあ……」

 頼んだ当のシェリルがそう言っているのなら問題ないのだろうが、不安はぬぐいきれない。

「それにしても『オタ猫』って……」

「ほんとのことだ。すさまじいコンピュータおたくだぜ、あいつ。ついでに言うとハッキングも出来るらしい。ふかしじゃなくて、国内でも有数だってさ」

 つまりは凄腕のハッカーだということだ。

 もっともなぜそんな人物にシェリルが仕事を頼んでいるのか、そもそも民間人なのに頼んでいいものなのかという疑問が湧くのだが……。

 話を元に戻そう。

「そういや、あんたらはもしかするとお参りか?」

 二人がうなずくと、百枝は先に立って歩き出した。

 しばらくすると、そこには大きな社殿ときれいに掃き清められた境内が現れる。

 鳥居が手前にあるので、むろん一礼して入った。

「ちょうど掃除が終わったばかりだから、ゆっくりして行きな」

 そう言って、百枝は社務所らしき建物へと引っ込んで行く。

 手水を済まし、二礼二拍手一礼で参拝を終えると、啓一は改めて社殿を見る。

「……うーん、結構しっかりした神社だな。まあ四年前に鎮守さんとして建てられたやつだから当たり前だが、これって倉敷さんが一人で管理してんのかね?」

 眼の前の社殿は、「鎮守」の名にふさわしく本殿も拝殿もそれなりの大きさのものだ。

 通常これくらいの神社なら管理は最低でも一家族がしているものなので、百枝が宮司を兼ねてまで一人ぼっちで回しているというのはいささか妙である。

 首をひねっていると百枝が、

「お茶持って来た。よかったら飲んでくれ、そこ座っていいから」

 ポットと紙コップを持ってやって来た。

 ありがたく二人で賽銭箱の横に座ってご相伴にあずかりつつ、啓一はさっきのことを訊ねてみる。

「いや、本当にあたしだけさ。本来なら他にも何人か来る予定だったんだけどな……」

 実は当初の計画では自分の他にも従姉妹たちが連れ立って来る予定だった、と百枝は語った。

「うちの一族、神社関係者ばっかりなんだよ。あたし自身が神社の娘だし、従姉妹も何やかやで神職やってたり巫女やってたりで、神社作るなら行きたいって言うやつも多かったんだ」

 ところが一族内では、移民に対して賛否が分かれていた。

 この際に反対派についた一部の親族が家族の移住すら禁止するという過激な行動に出たため、それに引っかかった従姉妹たちがことごとく来られなくなってしまったのだという。

「よりによって全員がそれだもんな……結局、あたし一人きりになっちまった。まあ神職の資格持ってたから、宮司も務められたのが不幸中の幸いだったけどな」

「人を雇ったりは……」

「それも考えた。だけど自分の生活と神社の維持整備だけで精一杯で、自由になる金なんて小づかい程度、給金なんて出せやしねえ。それ以前に、巫女だけじゃなくて神職も雇わないといけないってのがな。あれは資格がいるから人が限られるし……完全に手詰まりだよ」

 神社というと賽銭やらはつりょう(神社への謝礼金)やら寄附やらでそれなりの収入みいりがありそうなものだが、どうやらそれでもかなり苦しいようだ。

 しかもこれだけの神社だと、どう考えても一人で巫女と兼業しながらというのは無理のはずで、最低でももう一人二人は神職がいないと厳しいだろう。

 件の従姉妹たちの中に神職もいたというのだから、移住禁止さえなければ解決した問題のはずだ。何を思ったか知らないが、無理矢理束縛した親戚とやらにひとごとながら腹が立つ。

 もっとも百枝自身はもうしょうがないというような口ぶりなので、こちらは何も言えないのだが。

「神職さんってやっぱりいないと駄目なんですか?巫女さんだけでもよさそうですけど」

 これはサツキである。

「違う違う。知らない人によく勘違いされるんだが、巫女だけじゃ完全な祭祀は出来ない。大きいところだと神職の補助したり神楽や舞をしたりするが、多くのとこは実質ただの手伝いなんだ。だから何の資格もいらない。極端な話、作法を少し覚えればその辺の人だって出来る」

「そういうものなんですか……」

「そういうもんさ。祭祀の一番大切な部分、祝詞上げたり祈禱したりってとこは神職じゃないと出来ないから、いないと神社自体が成り立たない。当然専門知識が必要になるから、大学の専門の学部や養成所に通ってみっちり勉強する必要があるんだ。それで資格を取って、はじめて神職として祭祀の根本に関われるようになるのさ。巫女でこれ取って神職を兼務する人もいて、あたしもその口なんだが……なかなか分かってもらえないもんなんだよなあ」

 もっとも見かけ上巫女一人でやっているようにしか見えないような状態では、こういう誤解を招いてしまうのも仕方がない話だ。

「そこのところ、漫画やアニメの影響もあってか勘違いされてますよねえ。考えればすごいもんだ、巫女ってだけで妖怪と戦わせられたりするんだから」

「んで勝てば万々歳だが、負ければこっぴどい目に遭わされたりするんだもんな。あんなんだったらあたしこの仕事やってないよ」

 啓一の言葉にからからと笑うと、百枝は神社の説明を始める。

「境内はこのご本殿がど真ん中で、奥の方のご神木辺りからご本殿の裏へ回るようにして別個にいろんな神社をお祀りしてある。関係してるとこはもちろんのこと、主要なとこも大体な。敷地に限りがあるから全部とは行かねえが」

「ということは、摂末社が結構あるってことですか」

「そうだな、大きいのから小さいのまでいろいろだ」

「す、すいません。『せつまっしゃ』って何ですか?」

「『摂社』と『末社』のことで、神社にくっついた小さな神社だ。『摂社』は本体と何かの強い関わりがある神様とか、地主神といって鎮座地に縁のある神様とか祀ってる。『末社』はそれ以外、大抵有名神社をちょこんと祀ってるようなのだよ」

「そういえば、よく小さなお宮がありますね。あれって何だろうと思ってたんですよ」

 百枝はうなずくと、賽銭箱横の箱から神社案内の紙を取り、

「前置きはこれくらいにして。ご本殿の祭神は主神が鏡作かがみつくりのかみ相殿神あいどのしんあめのぬかどのかみ石凝いしこりどめのかみ。主神がメイン、相殿神がサブで、互いに非常に強い関係がある」

 二人に渡しながら説明してみせた。

「石凝姥神は知ってますよ。天の岩戸隠れの時にたのかがみを作った神様ですね」

「ああ。天糠戸神は親だってさ。……ただ、異伝にしか出て来ないみたいだが」

「あの辺は『古事記』と『日本書紀』本文と一書いっしょ(異伝)で違いが烈しくてぐっちゃぐちゃですから、あまり深く考えない方が」

「ん、詳しいのかい。そいや『日本書紀』読まされたけど、神代のとこはいちいち『一書あるふみに曰く』が入るんでうんざりしたな……何であそこだけああ律儀なんだ」

「素直に読み物にするなら、やっぱり『古事記』ですよ。俺もあっちが好きです」

 どうやらこう話をしてみると、この世界の神道や日本神話は元の世界と同一らしい。先述したように啓一にとっては自分の専門領域なので、これは実にありがたかった。

(こう共通点が多いとなると、他のとこでもある程度元の世界の知識で話しても大丈夫かね)

 こんな本当に日常では触れないところまで一緒となると、知識が通じないのではないかという懸念はそろそろしなくてもいいのではないかという気がして来る。

 だがそうして啓一が気をよくする一方で、サツキは困惑したような顔をしていた。

 そして二人の話が途切れたところで、

「何というか……神道や神話って、ややこしいんですね。私は理系なので分からなくて」

 いかにも言いづらそうにおずおずと訊ねて来たのである。

「あッ……」

 ここで啓一はしまったという顔になった。

(話が勢いでマニアックに振れすぎた)

 このことである。

 今の話は、啓一のように日本上代文学、すなわち『古事記』『日本書紀』『風土記』辺りが専門で日本神話に触れていたり、日本古代史に詳しかったりすればまだ話が分かったはずだ。

 だが理系一筋、恐らくこういった知識がほぼないであろうサツキに対してそれについて来いというのは、控えめに考えても無理がある。

(普段仕事が分からないとぼやいているくせに、得意な分野になると置いてけぼりかよ)

 最悪だ、と啓一は唇を噛んだ。

「い、いや、気にしないでいいんですよ。私が余りにも知らなさすぎるだけなんで」

「だけど……」

 気まずい空気になりかけたところで、それを破るように百枝がぱん、と手をたたく。

「まあ、ともかく。これは岡山県津山市にある中山神社って神社の分祀だ」

「ちょっと待ってください、津山の中山神社ですか!?津山、俺の母親の故郷くにですよ」

「そりゃあ奇遇だ。この地区の住民は、津山周辺からの移民が中心なんだよ。それもあって、せっかく祀るなら中山神社を……ってなったらしくてな」

 中山神社は「みまさかのくにいちのみや」と呼ばれ、美作国内で最も格の高い神社として扱われて来た、創建は八世紀初頭と伝える古社だ。

 本殿が妻入り、すなわち狭い側に入口のある形式で、そこに横向きに拝殿が配されるという逆丁字型の形状をした「中山造」という独特の建築様式で有名でもある。

 ここもそれにならっている辺り、どうやらこの辺は我々の世界と同じようだ。

「意外な出会いもあるものね。地域で移民団を組んでコロニーを造る例って多いから」

「まあな。ただ中心部の破落戸連中は違うぞ。あいつらはどこから入って来たとも、どこの馬の骨とも分からない連中だ。美作の者……というより、ここに移住して来た各地の人たちに、あんな糞ったれはいないからな」

「分かってますよ。あんな人たち、同じ人とも思いたくありませんし」

 一生懸命に言う百枝に、サツキが力強く答える。

「……そうだ、あと一つだけ紹介したいのがある。サツキさんもよけりゃ」

「いいですよ」

 百枝は本殿横のご神木を通り過ぎ、境内の右奥にあるやや大きめの社に二人を連れて行った。

「摂社の『さく神社じんじゃ』だ。『作る』に『楽』で『さくら』さ」

「ああ……祭神は後醍醐帝と島高徳じまたかのりですか?」

「大当り。やっぱり知ってるんだな」

「そうです。『船坂山ふなさかやまや杉坂と、御あと慕いていんのしょう』ですね」

 啓一が一発で当てたのに驚いているサツキに、百枝は、

「古典文学に『太平記』っていう軍記物があってな、その中に出て来るエピソードの舞台が津山郊外の院庄ってとこにあった館なんだ。その跡地に建ってる神社を分祀してもらったって寸法」

 ささっと軽く説明する。

 本当は長たらしい説明がいるのだが、これ以上彼女に負担をかけるのはいかにも気が引けた。

 その時である。啓一は、摂末社群の並ぶ中に小さな道を見出した。

「あの道、どこに通じてるんですか」

「ん?ああ、ありゃ奥宮だ」

「奥宮があるんですか」

 百枝はうなずくとサツキの方を向き、

「ああ……奥宮ってのは本殿のさらに奥にある特別なお宮だよ。神社にとって特別な場所に特別な意味を込めて祀ったもんだ。うちの場合、元になった中山神社が『吉備の中山』からかんじょうされたって伝説があるから、それにちなんで作ったらどうかって話になってのことだけど」

 なるべく噛み砕いて説明する。

「結構林が深そうですね……行けますか?」

「ああ、大丈夫大丈夫。中入ると意外とすっきりしてるから。それにそこ以外は木もまばら、『奥宮町おくみやまち』って住所ついて人住んでるくらいだぜ」

「なるほど」

 そう言うと、啓一は屈伸をし始めた。

「ちょっと行って来るよ」

「あ、じゃあ私も……」

「いいよ、これ以上俺の趣味につき合うことはないさ」

「そんな」

 サツキがそう言うのもいい加減に、啓一は細道を入って行く。

「あッ、いけね!注意するの忘れた……」

 百枝があわてて言うが、当の啓一はまるで聞いていなかった。

 言われた通り、中に入ると比較的歩きやすい雑木林である。道も一本道、さして勾配もなかった。

(はあ……おたくの悪い癖なんだよなあ。しかも自分の知識が役に立たなくて鬱憤たまってたから余計にああなったなんて、情けなくてしょうがないわ)

 サツキが自分のことを気にかけてくれているのをうすうす感じていただけに、話が通じてうれしくなった程度で彼女を置き去りにしたことを改めて悔いていた。

 その直後である。いきなり深い藪が周囲から迫って来た。

「やべ、間違えたか?」

 そう思って急に立ち止まったところ、足許の枝にけつまずいて体勢を崩してしまう。

「とッ、ととととッ!」

 危ういところで持ち直したが、藪に思い切り突っ込んでしまった。

「くっそう……」

 特大のため息をついて頭を抱え、前を向いた瞬間である。

 いきなり、藪をこいてぬっと何かが現れた。

「えッ!?」

 驚いてのけぞったが、よく見てみると人である。

(メイドさん……?何で藪の中から)

 そこにいたのは、黒いセミロングの髪に藍色の地味なメイド服を着たメイドであった。

「どうされましたか」

 啓一の驚きをよそに、メイドは表情一つ変えず問う。

「すみません、奥宮に行こうと思って道に迷ってしまって」

「奥宮は戻ったところを右です。ここから先は、私有地となりますのでご遠慮を」

 相変わらず淡々と案内すると、用は済んだとばかりに背を向けた。

「全く、マスターも柵を設けるなりすればよろしいのに……面倒くさがるからいけないのです」

 せりふは完全なぼやきだが、声はあくまで冷淡である。

 察するに仕えている家の敷地の境目に柵がないため巡回をしているのだろうが、やはり藪から棒ならぬ藪からメイドというのは異様の感がぬぐえなかった。

 何とか彼女の案内通り奥宮にたどり着いた啓一は、参拝を終えて境内へと戻る。

 行きに暗いことを考えていたところに、件のメイドの冷淡な態度はやはり精神的に効いていた。

「ああ、おかえり。迷っただろ?」

「え、どうしてそれを?」

「だって『途中左折だよ』ってあたしが注意しようとしたのに、どんどん行っちまうんだもの」

「すみません……。まっすぐ行って藪に突っ込んで、私有地だとメイドさんに叱られました」

「メイドさん……?どうしてそんなところに」

 これはサツキである。さもありなん、言葉だけ聞けば面妖極まることだ。

「ああ、それ……お隣のヤシロさんとこのメイドさんだ。時折巡回してるんだよな」

「ん?そういや、敷地に柵を作らないんで……みたいなこと言ってました」

「あたしもそれは聞いた。柵の一つくらいすぐに作れるだろに」

 百枝によると、件のメイドは昼夜を問わず定期的に巡回をしているらしい。

「回るのはいいんだが、真夜中に回ってたのにはさすがにびっくりしたぜ。しかも夜回りの人と出食わしてちょっとした騒ぎになるし……」

 植月町の町内会では夜回りを出しているのだが、ある時植月神社の横から奥宮町へと向かう宮の坂という坂を巡回していた際、突き当たりのヤシロ家の門先にあのメイドが急に現れたのだ。

 時刻が夜中の二時とあって、不審者扱いされたのは言うまでもない。

 百枝を含む近隣住民が集まり騒然とする中、本人が事情を説明して話し合いをした末、以後なるたけ控える旨を約束してその場は収まった。

「控えるとは言ってたが、やらないとは言ってないからな。今も夜回りの人とぶつからない範囲でやってるらしい。そこまで根性でやることかと思うぞ、主人もよく止めないもんだ」

「というより、騒ぎの時に主人は出て来なかったんですか」

「何か知らんが、風邪で熱出してたらしい。でも、治った後にちょいとあいさつくらいあってもよかろうに、何にもなかったんだからな」

「何とも面妖な話ですねえ」

 この話だけを聞いても、そのヤシロ家なる隣人はどうにも普通ではない。

「その分だと、ここに最初から住んでた人じゃないですよね?」

「ああ、後から引っ越して来た。研究室つきなんて変わった家に越して来たもんだから、町内でちょっと話題になったな」

 ヤシロ家が住んでいる家は、元はさるアンドロイド技術者が別宅として建てた家だった。

 これが事情があって手放されたものの、特殊な物件ゆえに買い手がつかず近所でも有名な空家となっていたのを、いきなり三年前に買って入居したのだという。

「となると、ご主人か誰かがアンドロイド関連の技術者なんですかね?」

「多分な。そうでもなけりゃ買わねえんじゃね」

 啓一が首をひねるのに、気のないような声で答えてみせた。

「そんなことよりおかしいのは、誰が住んでるのか全然分からないことなんだよな」

 ヤシロ家は、先ほどのメイドを含めると一応三人暮らしらしい。

 「一応」という表現になってしまうのは、本当にそうなのか分かっていないからだ。

「普通さ、庭くらいには出るだろ。ところがあそこ、あのメイドさん以外それすらもないんだよ。とりあえずメイドさんと主人は確定。窓越しにサツキさんより少し小さいくらいの女の子がいるのを何度か見たことがあるから、これも確定でとりあえず三人と。それ以外は知らねえ」

「名前だけでも分からないんですか?」

「分からねえ。件の騒動の時もメイドさん名乗らなかったしな」

「ええ……それはさすがにないでしょう」

 メイドの有り得ない行動に、啓一は開いた口がふさがらないとばかりに言う。

 何もないのならそれでも問題ないが、一悶着起こして名乗らぬとはどういうことなのだ。

「だろ?騒動起こしてなお名乗らないんだから、他が名乗るなんて期待出来ねえ。こっちも失礼だと遠慮して訊かねえから、永遠に分かんねえだろな」

「そんなに姿も名も隠すなんて、何かわけあって隠れ住んでるんですかね?」

「さあ……それはこっちが訊きたいさ」

 百枝はそう言って肩をすくめてみせる。

「ま、別に何か害があるわけじゃなし、どうでもいいんだけどさ……。それより、昼だよ。戻ったりしなくていいのかい」

 言われるまま時計を見ると、確かに正午を回っていた。

「じゃあ、帰るか。いいかな、サツキさん」

「え、ええ。いいわよ」

 サツキがうなずくのを確認した啓一は、

「じゃあ、失礼します。またいつか」

「では……」

 そうあいさつして境内を辞去する。

 石段をてくてくと下りて行く二人の後ろ姿を見ながら、百枝が、

「……面倒なことになんなけりゃいいが」

 そうつぶやいたのを聞く者は誰もいなかった。



「それじゃ、後で声かけるわ」

 夕暮れ時のホテルの廊下でそう言うと、サツキは自室に戻る。

 植月神社を出てから昼を食べた二人は、団地に附属するショッピングセンターを回るなどして一通りこの地区をうろつき宿へ戻った。

 シェリルの言う通り、この高台はあの中心部のやくざぶりとは比べものにならないくらいに治安がいい。地元だけでは暮らせないというのを差っ引いても、中心部の住民が押し寄せて来るのもむべなるかなというところであった。

「でも『ディケ』のプレゼンテーションがあるから、その時は中心部へ行かないといけないのよねえ。先方からもらった要請だと市民会館でやりたいって話だし……」

 市民会館は、目抜き通りである「本通」の沿道にある。

 この辺まで来ると突き当りの市庁はじめ警察本部や消防本部といった役所が立ち並ぶため、妙な連中もそう大っぴらに表に出歩いてはいないようだが、裏にいるかも知れないと思うとぞっとしないのは変わらなかった。

「送迎の車を回してくれるっていうから、心配しなくてもいいんでしょうけど」

 そうぼやきつつ、サツキは携帯電話を呼び出してハルカにかけ始める。

 いつもなら定時連絡だが、今日は土曜日で互いに休みなのでその必要はないはずだ。

 だが、サツキはどうしてもハルカに連絡を取りたかったのである。

「もしもし、お母さん?今、いいかしら?」

『え?ちょっと待ってちょうだい、今所長室にいるのよ』

「ごめんなさい、急な出勤だったの?」

『そう。今帰るところだったんだけど……どうしたの?』

「うん、ちょっと相談があるの」

『相談?……ごめんなさい、佐良山さん、先に帰っていいわよ』

 電話の向こうで、ソファーに座る音がした。

 それを確かめると、サツキは息を吸い、

「啓一さんを、総務部辺りに異動出来ないかしら?」

 そう提案したものである。

『え、ええ!?唐突に何よ?』

「驚かれると思ったわ。でも、必要な気がして」

『……どういうこと?』

 いぶかしげな声を上げるハルカに、サツキは今日植月神社であったことを話した。

『なるほどね。仕事と打って変わってそんな生き生きと』

「元の世界と共通点が見つかった上に、自分の専門分野で知識が存分に使えたからうれしかったんだと思うんだけど、落差が烈しくて。で、謝るのよ……『分からない話ばかりしてごめん』って。いたたまれないわ」

『………』

 今までの言動やたびたび知識を惜しむことからも分かるが、啓一は知識を蓄えるのが好きな男であり、広義の「おたく」に相当する。

 おたくというと知らない者を置き去りにしてやたらうんちくを垂れるイメージがあるが、彼はそこをかなり押さえようとしており、やりすぎたと思えば謝る。

 そういう不器用な心づかいがあるだけに、サツキとしては少々置いてけぼりにされたところで嫌な顔をする気は一切ないのだが、啓一は気が済まないらしいのだ。

「正直、改めてやらかしたかなあ……って思うの。所内報関係の仕事が見つかって一時安心したけど、結局姑息だったんだなって」

『……確かにね。事務手伝いみたいなものだから学歴関係ないって思ってたけど、よく考えたら極端に文系の人が極端に理系の職場で働いて、何か問題が起こらないわけないのよね。そこを忘れてたのは確かだもの。総責任者として、私にも問題があるわ』

「もっと早く相談してればよかったわね。シェリルからかなり早くに警告もらってたのに、直後に元気出してくれたから気が緩んじゃった……」

 はあ、と二人のため息が響く。

『……でもね、一般の職員人事に所長は基本口を出せないのよ』

「ええ……?」

『そりゃそうでしょ。私が直接的に決められる、口を出せるのは事実上部長クラスの人くらいまでよ。あとは人事部にまかせるしかないわ。そりゃそっちの人たちに意見を求められればアドバイスくらいはするけど、能動的に動いて介入はしないし出来ないわ』

「………」

『それを抜きにしたって啓一さんは採用の経緯いきさつが特殊だっただけで、組織的には普通の助手なのよ?はたから見れば特別に便宜を図るようなこと、出来るわけないじゃない』

「うッ……」

 もっともなハルカの言葉に、サツキはつまった。

 そもそもサツキ自身も特殊例として多少の考慮はあったものの、他の研究員と同じように試験や面接を経て採用されており、地位もただの平研究員なのである。

『大体、それ本人の意思確認しての話じゃないでしょう。採用の時だって啓一さんは自分の意思で来たわけだし。いくら立場的には上司でも、こういう先走ったご注進はいけないわ。それが分からないあなたじゃないでしょ。それに一歩間違えれば公私混同じゃないの』

 サツキは、もはや言葉もなかった。

『気持ちはよく分かるわ。でもとりあえず彼と話して、意思を確認した上でまず人事に言ってちょうだい。そうすれば私のところに話が来るから、それなら何とか出来なくもないわ。直訴は駄目』

「ごめんなさい……迷惑をかけて」

『いいえ。あなたが啓一さんのこと本気で考えてるのは、素直に偉いと思う。だからこそやり方を間違えてほしくない、そう思ったの』

「うん」

『……ほんとに、ままならないわね。お務め、がんばって来てちょうだい。待ってるわ』

「ありがとう。じゃあ、また」

 そう言ってサツキは電話を切ると、呆然と消しもせず眺めている。

 いつもは何となく見ている空間に浮かんだ銀色の塊が、今は妙に冷たく見えてならなかった。

「せまじきものは……」

 途中まで言ったサツキの言葉は、そのまま消え失せて行く。

 窓の外では、夕陽が丘の向こうへと静かに沈もうとしていた。

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