二十四 天網
鳴り続ける呼出音の中、シェリルは固まっていた。
画面に出ている「真島サツキ」の文字を見せられ、一同も声を失っている。
「……これ、かけてるの本人なのかしら?」
清香がぽつりと言う。事件が事件だけに、疑って当然のことだ。
「とりあえず出ます」
シェリルは注意深く画面を押し電話に出た。
「はい、連邦警察特殊捜査課の大庭です。……サツキちゃん、ですよね?」
ゆっくりした声で、注意深く確認する。
「……そうですか。サツキちゃん、心配していました」
果たして、電話の相手は本当にサツキだった。
一瞬息を飲んで叫ぼうとしたが、油断してはならぬと必死で押さえる。
状況からして、密かにかけている可能性が考えられたからだ。
だがシェリルの配慮は、意外な形で不要のものとなる。
「……え?普通に話していい?隠れてかけてるわけじゃ……違うんですか?」
サツキにすぐに否定され、シェリルは当惑した。
あとあるとすれば松村かその手下に強要されてかけているか、脱出に成功して外からかけているかのどちらかということになるが、それにしては声がいやに落ち着いている。
だがそこでサツキから返って来た答えは、余りにも常識からかけ離れたものだった。
「え、監禁されてる部屋から普通にかけてる!?自由にかけていいって言われたから!?」
その場が、一気に困惑のどよめきに包まれたのは言うまでもない。
つまりこれを信じるならば、サツキは囚われの身でありながら、出先からごく普通の電話でもするようにシェリルにかけて来たことになるわけだ。
「お、おい、有り得ないだろ!?拉致した人物に外部と連絡自由に取らせるとか……!」
「言われても困りますよ、私もこんなのは初めてです!」
啓一が眼をむいて泡を食いながら言うのに、シェリルもあわてたように言う。
「え?……はい、じゃあスピーカーにしますね」
サツキからの指示を受け、シェリルがスピーカーにして卓上に置いた。
『みなさん、ごめんなさい。私のミスで迷惑かけちゃって……』
「サツキさん、そんなこと気にしないでくれ。俺たちが間違えたのも悪いんだ。その分だと特に危害とかは加えられてないんだよな?」
『それは一切ないわ。それに松村本人が「そっちがしかけない限り触るなと言ってあるから安心しろ」と言って来て。見張りに確認してみたら、同じことを』
「松村本人がか!?」
『ええ、これだけ言いにわざわざ来たの。さすがにここまでされたら信じるしかないわよ』
「理由は何か言ってたかい?」
『訊いたら意外にも答えたわ。「危害を加えたところで何の得にもならないし趣味でもない」って』
啓一の問いにそう答えるのを聞いて、ひとまず一同は安心する。
シェリルの予想通り松村はきちんと自分に利益があるか否かを考え、短絡的な暴力行為をしない、周りにもさせないという方針を取ったようだ。
「よかったわ、心配してたから……。よほどじゃないと何かする気もないようだし、とりあえず身の安全は保証されてるのね」
『一応、後ろ手に縛って椅子に座らされていますが……。便所や食事の時は外してくれますし、他にこうして電話したいと言えば外してもらえるので』
「それなんだけど、これって普段通り手許に呼び出してかけてるのよね?」
『そうです。特殊なことは何にもしてません』
「ええ……普通なら空間ネットワークを一部屋まるごと遮断して、電話自体呼び出せないようにするもんでしょうに」
この世界では空中ディスプレイや携帯電話などのネットワーク機器をいつでも簡単に空中から出すことが出来るが、これは空間通信ネットワークというものが津々浦々に整備されているためである。
ネットワークであるため当然のように通信制限が出来るようになっており、清香の言う通り一定空間だけ遮断してしまうことも可能だ。
当然ネットワークに依存している電話や空中ディスプレイといった機器も、呼び出し自体が出来なくなる。シャロンがアジトにいた頃、そういったものを一切使えなかったのもそのためだ。
「しかもその分だと、もしかすると電話も何回までとか何分までとか一切制限なしに、好きなだけ自由にかけていいってことなの……?」
『ええ、そうなんです。常識の範囲内なら自由にしていいと』
清香の問いに、サツキがはっきりと答える。
「何なのそれ……制限ないも同然じゃない。下手なところへかけられたら終わりでしょうに。あと知らないで誰かかけて来たら、これもまた相手によっちゃ終わりよ?」
『普通はそう思いますよね。ところがこれ、そうは行かないんです』
「……え?どういうこと?」
『どうやら、妙な通信制限がかけられているみたいなんですよ。かけられるのは電話帳に登録されている連絡先だけ、しかもこの街にいる人以外無理みたいなんです。あと他人からの電話を受信することは一切出来ません。見張りが実演までして証明したので、これはもう確かなことだと』
サツキの答えに、一同が顔を見合わせた。
通信制限自体は日常でも通話禁止の場所を中心によく行われているものだが、このように複雑怪奇な制限というのは聞いたことがない。
これを聞いて宮子がぐっと眉をしかめ、
「それ、違法な通信制限装置を使って電話本体に干渉をかけてるね。特定の操作や動作、または機能に対して制限がかかるようになってる。一種のハッキングをかけられてるようなものだよ」
いか耳となりながら簡単に説明した。
『ハッキング……!?』
「そうなんだ。でも発信先を電話帳への登録の有無、さらに相手の居住地で選別して制限するなんてのは相当珍しいなあ……。何をどうやったのかはおおよそ想像がつくけど、相当ややこしいことしてるから抜け道を作るのは難しいと思うよ」
『そんな……』
サツキが、落胆したような声を上げる。
ここでこっそりシェリルが動いた。コードを召喚し携帯電話と自分の手首とをつなぐ。
(何してんの?)
宮子が小声で訊くのに、
(逆探知です。行けるところまで行ってみようかと)
シェリルは片眼を閉じて答えた。
(じゃあ私もお手伝いを。やったことありますし)
エリナがシェリルに申し出て、自分も同じようにコードをつなぐ。
宮子は正直成功するか怪しいと思ったが、やってみる価値はあった。
「ともかく、その分だと他の機能もかなりひどいことになってそうだね」
『そうですね……。全部使ってみたんですが、まずメールやインターネットが使えません。いや、使う以前に起動すらしないんですよ』
宮子の確認に、サツキは困ったように答える。
「やっぱりと言うべきか、しっかり駄目にしてるね」
電話をあれだけ制限しておいて、より通信手段として機能の多いメールやインターネットを全面制限しない道理なぞなかった。
『他はどうなのかと全部試してみたら、使えない機能がたくさんあります。カメラ、録音、地図……。他にも方位磁針や天気予報とか、関係がよく分からないものまで駄目でして』
「記録させない気だ。あと位置がばれないようにもしてる。どれも自動で位置情報取得するからばれちゃうもんね。えげつないくらい徹底的に潰してるなあ……」
我々の世界の携帯電話やスマートフォンもそうであるが、とかく何かやると位置情報が取得されるのが常である。単に写真を撮るだけでも位置が記録され、地図を見るだけでも位置が表示され、天気予報を見てもその場所の地名が出るありさまなのだ。
この世界のものだとその精度は比べものにならず、建物はおろかどの部屋のどの位置にいるかまで詳細に記録されてしまうほどなので、犯人にとって命取りとなる。
それを考えると、これらの機能を制限しにかかったのも当たり前であった。
『ああ、なるほど……』
「その分だと、空中ディスプレイとかも使えないよね?」
『ええ。そもそも出もしなくて……』
「だろうね」
宮子がため息をつくようにして言う。
だがそこで、サツキが奇妙なことを言い出した。
『もっとも、記録出来たとしても無理ですけども。何も記録するものがないんですよ、この部屋。正確には、記録に値するだけの目立った特徴がないというか……』
「え!?さすがに何かあるでしょ!?」
『先輩もそう思いますよね?ところがそうは問屋が卸してくれないんですよ』
例として、部屋の様子を述べ始める。
部屋はコンクリート打ちっぱなし、窓がなく明かりは螢光燈、入口は極めて平凡な鉄扉だ。
壁が厚いのか、空調以外に周囲の音は一切しない。
衛生状態は極めてよく、汚れや悪臭などもなく不気味なほどきれいだ。
置かれているものは、小さな机と椅子と簡易ベッドだけという状態である。
「うわ、確かにきれいさっぱり何もないわね。ただのコンクリートの箱じゃないの。しかも窓ないから、地下か地上かもまるで分からないでしょ?」
『そうです。窓がないから即地下ってわけじゃないと思って、空気の流れやにおい、湿気や温度とかを五感でとらえて推測しようと思ったんですけど、空調を使って徹底的に手がかりを消し去っているらしく、まるで当てになりません』
「そうしようとするのは、最初からまるっと予測済みってわけね。……そうだ、便所ないのよね?それで外に出ることはあるでしょ?」
『ええ、目隠しでしばらく歩かされて外のを使います。でも数分の間ですしね……。便所そのものも、コンクリ打ちっぱなしで窓なしの個室便所で。共同便所なら個人の家じゃないとまだ分かったんですが、個室じゃ普通のビルでもないではないのでどっちだか分かりません。しかも扉を開いてから目隠しを取られるので、周囲を見る暇もなく……』
「隠れて携帯電話は……」
『この中も、同じ制限かかってるらしくて無理です』
「あっちゃあ……そうは甘くないか」
清香が頭を抱えて言った時だ。
考え込むようにして話を聞いていた啓一がやおら顔を上げ、
「……話聞いてて思ったんだけどさ。知り合いとの電話だけ自由にさせてるの、もしかするとそうやって何やってもろくな情報を得られないようにしてあるからじゃないか?何の情報も持てないんだから、ちょっと電話させたところで何にも漏れようがないからって」
渋面を作りながらいまいましげに言ったのである。
この言葉に、一同がはっとした顔となった。
確かに情報を与えないよう元を絶ってしまえば、どうそっくり返っても漏れようがない。
「だってシェリル、お前さん今の聞いてどんな場所にいそうか分かるか?」
「……いえ、全然です。余りに個性が排除されすぎてて、当たりのつけようすらないですよ。そもそも部屋自体が、鉄筋の建物なら個人宅からビルまで地上にも地下にも作れそうな代物ですから……。さらに外観が普通の建物でも作れますし、余計に分かりません」
「だろ。鉄筋の建物なんて普通にそこらにあるし、さらに外見から分からないと来たら、まさに木を隠すなら森の中をやられてるわけだ。それに極端な話、大門町のアジトみたいに一発で分からないところにあるかも知れないじゃないか……」
シェリルの言葉にそう答えると、啓一は机を指でとんとんとたたいた。
「馬鹿にしてやがるんだよ、あいつ。情報を手に入れられなけりゃ探しようがないからな。それをわざわざこんな風に伝えることで、見つけてみろって煽ってやがるんだろう。しかも刑事が知り合いなの知ってるだろうしな。敵の頭目を狙いすまして煽れるんだから、そりゃ喜び勇んでやるだろうよ」
吉竹爆殺事件や偽者騒動のことを考えると、啓一の言うことには説得力がある。
前者はもう自分に手を出せないことを分かっての挑発であると結論が出ているし、後者も捕まるリスクを考えると警察を
松村が警察を侮って挑発してやろうと思っているのは、ほぼ確定だと言っていいだろう。
「あの野郎、取っ捕まえたら耳の穴から指突っ込んで奥歯がたがたいわせたろか……」
啓一はぎりっと切歯の音を響かせながら言った。
「
それを受けるように、シェリルも怒気を含んだ声で吐き棄てる。
「とりあえず、話はよく分かりました。どのみち売られたけんかは買うのがうちの流儀です、絶対に場所を突き止めて助けますから」
『ごめんなさい、ろくな情報もないのに……』
「謝らないでください。相手の方がやり手だっただけのことです」
そこでシェリルは、椅子に座り直して一つ息をついた。
「それでこっちのことなんですが……すみません、情報はありはするんですが、そちらの状況を考えると伝えられないことだらけです」
『無理しないでいいわ。そうだろうと思ったし……』
「ただ、差し支えのない範囲で話しておきたいことがありまして。私の偽者をやった人のことなんですが、どうしても彼女のことを……」
そう前置きをして、シャロンについて話そうとした時である。
『……知ってるわ。「一号」さんのことでしょう?』
予想外の反応が返って来た。
「えッ!?どうして知ってるんですか!?」
『松村に訊いてみたのよ。そしたら意外にも答えが返って来て』
ここで松村はシャロンを「一号」という名で所有していた時のことを、待っていたとばかりにべらべらとしゃべり始めたという。
過去話としてはごく一部でしかないが、その内容の凄惨さや悲惨さはサツキをして強く眉をひそめしめるに足るものであった。
同時に、松村に対する怒りも改めて湧き上がったのは言うまでもない。
『あの男、ほんとに楽しそうに「一号」さんをいじめていた時のことを話していたわ。一応婉曲してたけど、それと分かるように卑猥なことも平気で言ったり』
それだけでも唖然としたが、さらに開いた口がふさがらなくなったのが、一貫して松村が、
「いろいろトラブルがあったが全部『一号』のせいだ」
という態度を取り続けていたことであった。
明らかに松村がミスをしたためにその場が台なしになっても、彼女がけがをしても自分は悪くないと言い張り、挙句の果てには例の顔の大疵をつけたことに関しても、
「そもそもあいつが似てるのが悪い」
やったことの大きさにも関わらず、平然と子供のように幼稚な責任転嫁をしたという。
これにはさしものサツキも同じ女性として怒髪天を衝く思いだったが、この状況で怒りを露わにするのは得策ではないため必死にこらえた。それでも、尻尾が逆立つのは避けられなかったが。
『百聞は一見にしかずという言葉を、この時ほど実感したことはなかったわ。本当にこういうことを平気でしたり言ったり出来る人物がいるんだと……』
つとめて冷静に言葉を選びながら話しているが、怒りで明らかに声が震えていた。
『それでいて、何で「一号」さんが偽者をやったのかを訊いたら、「部下にくれてやったし自分の指示じゃないから知らない」よ。さすがに気の毒になったわ』
サツキが怒りを収めようとするかのように、深々と息をついた。
「その分じゃ、いずれにせよこちらからも補足を話した方がよさそうですね」
「あ、その前に。サツキさん、彼女をその名で呼ぶのはやめてくれ。卑猥な由来があるんだ」
ここで啓一が横入りしてそう言い、さっと理由を説明する。
シャロンの名誉のため内容は伏せるが、ある程度の年齢以上の読者ならば大体察せられるはずだ。
『……分かったわ。ほんとアンドロイドを何だと』
再び怒りを見せるサツキをなだめ、シェリルが前後の過去話や事件時のことについて補足する。
『ひどい……』
話を一通り聞き終えたサツキの口から最初に出た言葉は、その一言であった。
『ずっとそんなとんでもない扱いを受けてたのね。しかも徹底的に無知に追い込んでおいたのをいいことに、犯罪に利用するなんて……むしろ被害者じゃない』
やはりというべきか、サツキはひどく衝撃を受けている。
「そうなんです。刑事の私がこんなこと言うのも問題があるんですが、どうにもこう聞いてしまうとこのまま杓子定規に処断というのも忍びなくて……」
『情けあらば、みんなそう思うんじゃないかしら。当人の責任なんてとてもじゃないけど問えないわよ。自分を直接騙した相手とはいえ、処罰感情なんて持てないわ』
サツキは沈痛な声でそう言い、処罰の意思がないことを示した。
「あ、あの、いいんですか!?……私は何も知らなかったとはいえ、あなたをこんな苦しい目に遭わせる手伝いをしたんですよ!?」
シャロンがサツキの言葉に驚いて、飛び出して来ながら問いかける。
『厳密にはそうなるけどもね。でも法律的にどうかはともかく、この場合厳しく罰したら割に合わないと思うわ。それにそうなると、さらにあなたは追い込まれちゃう』
「いけません!罪があるからには償いをしないと……!第一、何もされていないからいいようなものの、もし何かされていたらどうするつもりだったんですか!?」
『確かに無事だから言える面もある、それは否定しないわ。でも何もされていないし、あっちもする気はないと言っているの。今の状況がそうなんだから、それでいいのよ』
「そんな……」
『そうやって誠実さをひたむきに見せてくれるだけで、私は充分。いい歳して自分の罪を理解しない、理解出来ない人物を間近に見ちゃったもの。あなたの爪の垢を、うちの研究所のプール一杯分くらい煎じて飲ませてやりたいと思ってるわ』
「私はそんなじゃ!誠実なんて、当たり前のことをしてるだけで……!」
なおも否定し続けるシャロンに、サツキは優しく続けた。
『それを当たり前と言える時点で、充分に評価に値するわ。松村をわざわざ出さなくても、世間にはそれすら出来ない人が掃いて捨てるほどいるのよ?』
「でも私が加害者なのは、揺るぎないことですよ……?」
『そうね、あなたは加害者だわ。でも一方で被害者でもある……というより、割合で考えたらもうほとんど被害者よ。刑事さんがどうしたらいいのか悩んでるのも、そんな人を出来るなら罰したくないから。友達だから言うけど、機械的に被疑者を処理するような冷たい子じゃないの』
「ですけど、悪人を罰しないのは……」
『そう、いけないことだわ。でも本当の本当に悪いのは誰?あなたを騙した人たちでしょう?そして一番上にいる松村じゃないのかしら?ほとんどの連中は実刑間違いなしだし、松村に至っては死刑確定。それだけのことやってるのよ。それと比べたら……果たしてあなたはどうかしら?』
「………」
シャロンは、何も言えずに黙り込む。
巨悪のために小悪を見逃す――本当はあってはならぬことだが、サツキは今回のような場合、かえってその方がいいと考えているのだ。
『今一度、じっくり考えてみて。……シェリル、もう一度言うけど私に処罰感情は一切ないから。シャロンさんを厳しく罰することのないよう嘆願させてもらうわ』
「分かりました。これで関係者全員に処罰感情がないという意思を確認しましたので、それを考慮してシャロンさんの処分を改めて考えます」
『頼むわ、最終的な判断はあなたにしか出来ないから』
シェリルがそう告げるのに、サツキははっきりとした声で返す。
『見張りがちょっと騒がしいわね。長すぎたかしら?それでも最初の約束を守るなら電話は禁止されないと思うから、またかけるわ。……あ、シャロンさん、いいかしら』
「はい……」
『悪人に悪意を向けられ続けてつらかったでしょうけど、天網恢恢疎にして漏らさず、あなたを蹂躙した連中は、いつか天の網にかかってその報いを受ける。……いや、もうすぐにでも。だからどうなってもやけにならず、自分を大切にしてちょうだい』
シャロンにそう言い含めるように言うと、
『それじゃ、ごめんなさい。切るわ』
サツキは電話を切った。
「サツキさん……!」
感極まったか、シャロンが絶句して泣き崩れる。
「おい、サツキさん……女神か天使かよ、あの人は」
啓一は、思わずぽつりとつぶやいた。
サツキの性格を考えると十中八九処罰感情を示すことはないだろうと思っていたので、そこまでは想定の範囲内である。
だが、その上に来てシャロンを優しくいたわり激励するとは、さすがに思わなかったのだ。
「……ああいう子なの」
清香はそれだけ言う。
百枝たちはただただ安心したような、困惑したような顔をするばかりだ。
一方シェリルとエリナは少しの間ぽかんとしていたが、あわてて逆探知で取ったデータを分析し始める。途中でジェイや宮子も駆り出された。
「……ッ!駄目ですか!エリナさん、そっちは!?」
「アドレスが断片的に取れましたけど、調べると市内全域に点在していてどれがどれだか……!」
「多分、真島さんがいる建物のはるか前から欺瞞されてるな。電話中にたどるのは無理かね?」
「きついと思う。予想される機器構成からして、電話し始めると即命令が飛んで欺瞞するようになってるはずだから。通信制限装置をごまかす方法をサツキさんに教えればいけるけど、どういうやり方をしてるか今のやり取りだけじゃ詳細に分からないから、対策がにわかに思いつかないよ。かといってハッキングしようにも、こんなんじゃどこを攻めていいかも分からないし……ああもう」
駄目で元々だったとはいえ、完全な逆探知失敗に四人が一斉に頭を抱える。
「捜索部隊からの連絡もないし、どうしたらいいのか……」
シェリルが呆然とそう言った頃、サツキはすっと携帯電話を消していた。
部屋の中に、再び空調装置の音が静かに響く。
「終わったか。さあ、手を回せ」
部屋の外から、見張りの男がやって来た。
扉越しに状況をうかがっていたのだろうが、あれだけきわどい電話の内容に何も言わないところを見ると、話しているか否かだけの確認をしていたのだろう。
電話では言わなかったが、縄を解いた後なぜか彼らは、
「外にいるから適当に話せ。終わったらこっちから来る」
そう言って出て行ってしまい、今の今まで何もすることはなかった。
多分松村の指示でやっているのだろうが、監禁している者を一時的とはいえ見張り役が直接見張らないというのは明らかに異様なことである。
しかもこれによって、サツキの方も監禁されているというのに自分の状況を忘れ、話が進むほど会話にどんどん余裕が出て来るという異様な状態になった。
仲間を心配させまいと自分を奮い立たせて余裕のある振りをしようとしたのだが、自由と安全の保証から来る安心感に飲まれて、本物の余裕になってしまったようである。
手を縛り直されながら、サツキは自分は敵地で何と馬鹿をやっているのかと震えた。
仲間たちも素直に安心してはいたが、内心ではさぞかし面妖に思っていることだろう。
そもそも尋常ならぬ自由さが約束されているこの状況自体、改めて考えると極めて気味が悪いものだ。それを思うと、妙に心臓がどきどきして気分まで悪くなって来る。
しかし見張りは気づくことなく、
「また便所行きたいとかあったら言いな」
結び目を確認した後、そう言いながら部屋の隅に陣取った。
動悸が収まったところで、サツキはさっき啓一が言っていたことを思い返す。
彼の推測は、恐らく当たっているはずだ。実際、一応出来る限り「情報」と呼べそうなものを話したものの、清香やシェリルの反応を見ても分かる通り、まるで何の役にも立たない。
敵はあらかじめ仕込みを入れておくことでサツキから一切の情報を奪い、完全な無力状態に追い込めるだろうことを見越していた。
その上で出来る限り自由にさせるという奇策を用いて本人に自分たちの余裕を思い知らせ、ついでに利用して外部の知り合いや警察にも誇示し挑発したわけである。
通常の監禁では有り得ない自由さもそうだが、本来ならがちがちに固めるはずの見張りすらこのように一時退去するなど緩い対応をしているのも、要はそのためのポーズと思われた。
(徹底的に馬鹿にしてるわね……!)
サツキは、悠然と壁に寄りかかっている見張りを軽く
たまたまそうしているのが楽なだけで取り立てて他意があるわけではないのだろうが、余裕を見せつけられているようで無性に腹が立ってならなかった。
その時である。
ノックの音に見張りが駆け寄って扉を開いたかと思うと、何と松村が現われた。
「やあ、真島さん。電話が済んだみたいですね。ちょっとそこでお待ちしていました」
どうやらさっき見張りたちが騒いでいたのは、松村が来たのに対応していたからのようである。
「ええ、ついさっき」
「どうですか、お知り合いの様子は」
「私が何もされないと聞いて、安心していましたよ」
先ほどの電話でさらに心証を悪くしたこともあり、サツキは最低限の答えでなるたけ短く済ませたいという空気をわざと出した。
しかしそんなものが分かるような男のはずもなく、妙に気をよくして自慢げに胸を張る。
「そうですか。私は淑女には優しくする主義ですのでね、分かってもらえて何よりです」
暴力的に女性を拉致するのを事実上黙認しておいて「淑女に優しい」なぞとは噴飯ものだが、それを言って聞くような男ではない。
その面の皮の厚さにかちんと来たサツキは、
「そういう気持ちがあるなら、少しはそれをシャロンさんに向けてあげればよろしかったのでは」
搦手から皮肉を言ってやった。
「シャロン?誰ですか、それ」
「あなたが言っていた『一号』さんのことですよ。本来はそういう名前だそうです」
「へえ……あんな
堂々と大人のおもちゃを指す俗語を使って、シャロンを物扱いし公然と侮辱する松村に、サツキは思わずぐっと唇を歪める。
本当ならば徹底的に噛みつくところだが、自分の立場を考えると黙るしかなかった。
「それより、お仕事はいいんですか。私に構っている暇なんてないでしょう」
サツキはもっともな疑問を次の矢として放ってみる。
吉竹亡き今、恐らく専務ということで社長代理でもやらされていそうなものなのに、どうしてこう気軽に来られるのか不思議だ。
「いなくたって回りますよ。大義の前には一企業の仕事なんて塵芥も同然です」
いけしゃあしゃあと言う松村に、サツキは怒りに尻尾を毛羽立たせて震える。
数年にわたって市民を苦しめ続けるに飽き足らず、街の平穏を脅かして多大なる損害を与え、果てには非人道的手段により何人もの人を玩弄したことのどこに「人として守るべき道義」があるのだ。
「大事」の間違いだろうが度が過ぎる、義務教育からやり直せ、そう怒鳴りつけてやりたい気持ちを必死に押さえる。
「『天知る地知る我知る人知る』、この言葉をお贈りします」
サツキが怒りを押し殺してようやく言うのに、松村は眼を丸くしたが、ややあって、
「何ですか、その何かの口上のような言葉は。まあいいでしょう。……それでは、部下を待たせてあるので失礼します。ごゆっくり」
そう言いつつ手を振って出て行った。
「……通じるわけないわね。まあ『悪事は必ずや露見する』なんて、一番縁遠い言葉でしょうし」
サツキは小さな声で吐き棄てる。
通常「我知る」は抜かされ言い回しも少し違うため分からないこともあろうが、この男に限ってはそういう問題ではないと言ってよかった。
「……啓一さん、シェリル、先輩、みんな。どうか本物の『大義』をあの男に見せてやって」
そうつぶやいた声が、静かに殺風景な空間に消えて行った。
「禾津さん、これちょっと入力頼むわ」
清香は提供された画像と動画とを見ながら取ったメモを、向きを整えつつ啓一に渡す。
「分かりました。これでこの区画は終わりですかね?」
「そうね……しかし多いわ」
あれから二人はせっかく警察署まで来たのだからと、会議室に留まって本来の仕事である龍骨出入口や点検口の画像や動画の調査を行っていた。
しばらく家を空けてしまったこともあり、他の面々は帰宅している。
この二人の仕事なのだし、そもそも知識の関係上みな門外漢ということでは、帰ってもらって自分たちのことに専念してもらった方がいい。
シェリルはシャロンを連れて本部の方に戻ったらしく、あれから姿を見せていない。気になるが、それより先に仕事の性質上こちらを優先しなければならぬ。
「うーん、人一人やっとの点検口なんて、あいつら使うのか疑問なんだけども」
「極左暴力集団は使わないかも知れませんが、元職業軍人がいるとなりますと」
「……そうか、軍人がいたわね。本当の戦争のプロなんだし、何かの特殊技能があったらこれくらいでも使っちゃうか」
清香はそこで公文書を読むと、一つため息をついた。
「それにしても、ここの市って本当に財政逼迫してるのね。光線欺瞞装置が劣化を起こしてる場所多すぎよ。よほど反社対策に金を持って行かれてるのか何なのか……」
先にも述べた通り、光線欺瞞技術は光を大きくねじ曲げることで物や人の姿を不可視化し、さらには音も電波も遮って視覚以外でも察知出来ないようにするという技術である。
当然こんなものを使うのに苦労しないわけがなく、二十四時間三百六十五日持続させるとなると莫大なエネルギーと高度な技術、そして強靭な装置が必要となるのだ。
殊に装置はきちんと維持管理をしないと、負担に耐えかねてたちまちに劣化する。
さらにこの街の龍骨に用いられている光線欺瞞技術はかなり高度な方式なのだが、一方で装置に過度に負担をかけることがままあり、劣化がさらに早まってしまうといううらみがあった。
「装置の劣化があるってことは、それだけ突破しやすいってことですよね?」
「そうね。想定される突破技術について例の手引書に記述があったけど、劣化してる部分はあれに載ってるうち中レヴェル程度の方法で突破出来るわ。せっかくの欺瞞技術が、劣化で極度に不安定になってるからね。維持管理をしっかりやらなかった結果がこのざまよ」
「それはひどいですね……」
「そういうこと考えると、突破するなら一番弱いこの辺りしかないのよ。このどれかから入り込んで、すわ出動って時に出口にしようと企んでる可能性が高いわ」
渋い顔をしながら、清香はペンをメモに走らせる。
こうして作業を始めること三時間ほどで、大体の様子が見えて来た。
装置が劣化している場所を地図へ落とし込み、さらにいくつかデータを打ち込む。
「うわあ……」
処理されて地図が出た瞬間、清香の顔が凍りついた。
「東郊外ひどいわ。これ、早いとこ避難させた方がいいわよ」
地図上では赤駒地区を中心とする東郊外に点が集中して打たれ、さらに真っ赤に染まっている。
この赤色は点を打たれた場所、すなわち装置が劣化している龍骨出入口や点検口から仮に敵が出て来た場合、占拠が可能な範囲を示したものだ。
出る人数と経過時間をいじると即座に計算されて範囲が変わるのだが、いずれにせよ百人以上出られて鎮圧に乗り出さなければ、東郊外は一時間半で占拠に至るという結果が出ている。
「あくまで全部一斉に破られて、敵がそれぞれ同じ人数出て、通れる道を全部通って展開する想定の下、機械的に範囲を出してるだけだから、シミュレーションとしては幼稚だけどもね」
清香はそうつけ加えたが、仮にこの通りにならないにせよ、この赤インクでもこぼしたような地図はそれだけで充分に説得力があった。
「ちょっとシェリル呼ぼうかしら、これ早い方がいいわよ」
「そうですね。一応あいつに一度は見てもらった方が……」
清香が内線電話で呼ぶと、やがてぱたぱたと足音が響いて来る。
「すみません、何でも大変に深刻だそうで……」
立て込んでいたのか、完全に息が上がっていた。
ともかく座ったところで、さっそく地図を示しながら一通り説明すると、
「……なるほど。東郊外はその分だと相当危ないですね」
あごに手をやりつつ厳しい顔で重々しく言った。
「元々松村の根城たる一新興国産業の本社があるから、潜在的な危険性はあったわけだけど……こう出入りしてくださいと言わんばかりじゃ」
「下手をすると、中心部に達することもありそうですね」
「そうだけど、さっきも言った通りこれは機械的に計算しただけのものだから。そこまでひどいことになる前に、止める人がこの周辺ごまんといるでしょ」
「ええ、そうですけども……」
そうは言いつつも、シェリルは険しい表情を崩さなかった。
「実際にどうなるかは、まずあっちがどれだけの知識や技術を持ってるかが鍵よ。こうやって突破されてるわけだし、ある程度のやつがいるのは確実だけど」
「そうですね。小川の供述だと『自分より格下だが研究者や技師が数人いる』とのことでした」
偽手引書事件の犯人である小川が研究者としては大体並よりやや上くらいの人物であることを考えると、残りの連中は恐らく並程度といったところか。
劣化した光線欺瞞装置なら、その程度の研究者や技師でも突破出来る可能性があった。
「あと気になるのが、そいつらがどうやって出入口の状態を把握して対策立てたかなのよね。調査をするためには、光線欺瞞を一回軽くでもいいから破らないといけない。いちいち反重力発生装置で何とかしないといけないから、結構面倒な作業よ。まさかこの広さでこの数を一つずつとか……うーん、ちょっと考えづらいわねえ」
「あいつら無駄に行動力だけはあるから、有り得ない話じゃないとは思いますが」
これは啓一である。
シェリルにもそのような印象があるらしく、軽くうなずいてみせた。
「でも行動力だけじゃ、これはなかなかじゃないわ。もらった資料の中にもあったけど、専用のネットワークで結ばれてて、自動で監視されてるのよ。その監視をどうやってかいくぐったのか……そこも考えないとね」
「そうなると、ネットワークの乗っ取りがある可能性もあるかも知れませんね」
「そうなっちゃうと、話が違って来ちゃうから困るわ。とりあえず今は、そういうのはない前提で現場の状況見ながらいろいろ考えてる最中。もっと詰めれば、その辺も分かるんじゃないかしら」
そこで清香は、地図から手を離して深いため息をつく。
「ほんとはね、サツキちゃんの意見がほしいんだけど……。そもそも三時間でここまで出来たのは、前々からサツキちゃんとちょくちょく手引書見ながら分析してたおかげだしね」
「
「まあ、仕方ないわ。残った私と禾津さんで回すしかないんだし」
三人はサツキのことを思って少し黙り込んだが、ややあって清香が、
「それはともかく、こういう結果だから……東郊外に避難してる人たち、西に移動するか外に出てもらった方がいいわよ。危険すぎるわ」
避難民の移動について切り出した。
「それならば既にやっています。さっき英田さんが言った通り、元から敵の本拠に極めて近い地域ですので……。各避難所にさっき訊いたんですが、もうかなり移動してると」
「あ、それならよかった。病院なんかは?」
「病状に合わせ、分散で何とか対応すると。植月町にも救急指定病院ありますし」
偶然とはいえ、シェリルの仕事の早さに二人は感心したようにうなずいた。
「……あれ?じゃあ、林野さんも?」
「そうですね、植月神社で受け入れてもらえないかどうか訊いてみると」
「あそこ、集団避難出来るほど広さあるか……?」
社殿に対して決して広いとは言えない境内を思い浮かべ、啓一があごをひねる。
「一回、林野さんに連絡取ってみるか……」
今回の一件で、啓一は何があるか分からないからと関係者の電話番号を電話帳に登録してあった。
すっと電話帳を繰り電話をかけた啓一は、
「あれ……?おかしいな?」
電子音がし続けたまま、呼出音にも移らないのに気づく。
試しに離して画面を見てみると、何と間違ってサツキにかけていた。
「あッ、隣り合ってるからやっちまった。かからないって本当だったんだな……」
改めてサツキの言葉の裏を取る形になってしまい、苦笑しながら切ろうとした時である。
「……これ、何だかおかしいな」
漫然と聞いていた電子音が奇妙なのに気づいた。
再び電話に耳をやると、受話口から出ている電子音は一定の音程とリズムを刻んでおり、まるで何かの信号音のようである。
「どうしたんですか?」
異変に気づいてシェリルが話しかけるのに、啓一は、
「信号音みたいなのが流れて呼出音に入らん。何か意味があるもんだったりしないか?」
すっと携帯電話を渡してやった。
それをしばらく聞いているうちに、シェリルが厳しい顔になり始める。
「確かにこの規則正しさ、何かを示しているような気がしますね。途中でループを続けていますし。しかし、一体何なのかまでは分からないです」
「とりあえず切ろう、サツキさんに迷惑かかったらいけない」
啓一は携帯電話を受け取って一回切ると、しばらく考え込んでいたが、ややあって、
「……警察の方では、こういうの分析出来ないのか?」
あごに手をやりながら訊ねた。
「やろうと思えば出来ます。ただし、今鑑識が出払っているので……」
「ああ、騒乱の捜査でいっぱいいっぱいだもんな」
いくら技術的に出来ても、人手がないのではどうにもならない。
「手っ取り早く、勝山さんに投げてみていいか?鑑識の人たち待つのも何だし、もしアングラなもんだった場合はあの人の方が詳しいだろ」
「連邦警察もそういうの詳しいですけど……仕方ありませんね。お願いします」
シェリルは少々不満そうに口をとがらせつつ、許可を出した。
「すみません、英田さん。林野さんへはそちらからかけてもらえますか」
「分かったわ」
「じゃ……」
そう言って宮子にスピーカーにして電話をかけ始める。
そして三十分ほど話し込んだところで、電話を切ってぱちりと指を鳴らした。
「よっしゃあ、これで抜け道が見えたな」
「まだ決まったわけじゃないわ。かなり成功率は高いと思うけど」
「やる価値はあります。私の方でも作戦を少し練っておきますので」
そう言うとシェリルはさっと髪をかき上げ、
「となると、またちょっと忙しくなりますね。大門町で張ってる部隊からそろそろ定時連絡もあるでしょうし、ちょっと失礼します」
ぱっと立って部屋を出て行く。
途中、刑事に止められたりしているところを見ると、本当に忙しい間をぬって来たようだ。
「部長、例のものが届きました」
「届きましたか、じゃあ確認します。それと昼にも話しましたが、明日朝からになりますのでそのつもりでいてください。また再度打ち合わせを行いますので、呼ぶまで待機願います」
刑事の報告を受けて指示を出すと、シェリルは本部にある本部長席へ駆けて行く。
「いい加減、この乱雑な机からも解放されたい……と、来ましたね、定時連絡」
しばらくあれこれと大門町にいる部隊と交信していたが、通信が切れるなり、
「……動きませんか。そうは問屋が何とやらですかねえ」
頭をかきながら考え込むように言う。
「まあどのみち、明日の朝には嫌でもいぶり出されるでしょうが……」
そうつぶやき、渡されたデータを確認しようとした時であった。
にわかに、すぐそばで呼出音が鳴る。
さっと携帯電話を呼び出してみると、何と発信元はサツキであった。
「ああ、これは……!いいタイミングでかかって来ましたね!」
そのまま会議室へと走り出し、再び啓一たちの許へ戻って来る。
「どうした?」
「サツキちゃんです。今出ますので」
「おお、こいつはありがたい!」
顔を明るくする啓一をとりあえず置いておいて、シェリルは電話に出た。
「もしもし、大庭です」
『サツキよ。……ごめんなさい、忙しかったかしら』
「構いません。むしろちょうどよかったですよ」
『え?どういうこと?』
「とりあえずスピーカーにしますので、禾津さんからお話を」
スピーカーにして置かれたのを見るや、啓一がさっそく話を始める。
「サツキさん、かけて来てくれてよかった」
『あ、あの……何か待ってたの?私、ただただ不安になってかけただけから、迷惑になったかなって思ったんだけど……』
「迷惑なんかじゃないさ、かけて来ていいんだ。それどころか、むしろこの上なくありがたい」
『え……どういうこと?』
「実は、試してほしいことがあるんだ。もしかするとこれで、事態が進展するかも知れない」
『………!』
息を飲むサツキに、啓一はゆっくりと解説を始めた。
「まずその前にさっきの通話についてだ。実はあれ、シェリルとエリナさんが一緒に逆探知かけたんだが、盛大な欺瞞に遭ってそっちまでたどり着かずに終わった。なかなかのもんじゃないらしい」
『やっぱり、そういうところはしっかりしてるのね』
「俺もちょっと驚いたよ。で、勝山さんの予測するメカニズムだと、電話をすると通信制限装置に捕捉されて、周囲のサーバに命令が飛んで欺瞞の体制が出来るらしい」
『それで逆探知が失敗したわけ……』
「そうさ。だから、成功させるには君が装置を騙す必要があるんだ」
『でもどうやって騙すのよ、私に出来ることは電話帳登録者に電話することだけよ』
いぶかしげな声でサツキが言うのに、啓一はにやりとすると、
「そうなんだよ。そのままの状態ではね。そう、そのままの状態じゃ」
含みのある言い方をしてみせる。
『……え?』
「結論から言うと、ある『魔法の文字列』を頭につけてかければ見事に騙せる」
『ちょ、ちょ、どういうこと!?わけが分からないわ!』
「まあ待ってくれ、順を追って説明するから」
叫ぶサツキを落ち着け、啓一は話を進めた。
この方法が判明したきっかけは、先ほど啓一がサツキに誤発信した時の信号音を、宮子に試しに分析してもらったことにある。
『これはね、サツキさんの携帯電話が今どの周波数帯でどれだけの出力で電波を出しているか、そしてそれがどのように伝わっているか、そういった情報が手短に入った信号だね。通信時にネットワーク上で通るサーバとか、各種機器のために発信されてるものなんだけど……』
これには啓一も驚いたが、伝えられたサツキも、
『ええ!?そんなのがもろに通話先まで行っちゃっていいの!?』
顔が見えたなら瞠目でもしていそうな声を上げた。
「いいわけないさ。セキュリティのために必ず途中の機器が使ったら消しちゃうものらしいから」
『……ということは、だだ漏れ?』
「そういうこと。恐らく通信制限装置がぽんこつで、漏らすだけに飽き足らず消しきれないほどの増幅までやっちゃってるんだろうと。まともな装置なら有り得ないって勝山さんもあきれてたよ。どうやら、久々に間抜けが見つかったみたいだぞ」
このところいろいろとうまく出し抜かれていたため忘れかけていたが、松村たちは過去何度も妙なところで手抜かりをして自滅するということをやらかして来ている。
どうやら今回、よりによってこんな時にそれが発動したようだ。
「そこで対策を考えて出たのが、『魔法の文字列』なんだよ」
ここで制限装置
それは、携帯電話の周波数帯を一時的に大きくずらすということだ。
この世界の携帯電話を含む無線機は空間ネットワークに直接電波を乗せ、必要な場合だけ交換機などの機器を通るという方法で通信を行っている。
しかし空間ネットワーク内のどの場所を使ってもいいわけではなく、しっかりとその機器に割り当てられた周波数帯により分かれており、よほどのことをしない限り自動的にそこへ飛ばされるのだ。
宮子によれば、特定のコマンドを電話番号の前につけることで、本来携帯電話の調整に使う裏機能を起動し、割り当てられていない周波数で発信出来るというのである。
これならば、装置はサツキの発信を携帯電話によるものと認識せず、沈黙したまま欺瞞の命令も飛ぶことがなくなるというわけだ。
『みだりにやると法律違反になるから、あくまで裏コマンドっていう扱いなんだけどね。今回の場合は許してもらえるよ、だって人一人囚われてるんだし』
そう言うと、宮子は口頭ではなくメッセージでコマンドを送って来たのである。
『そんなの、本来の用途以外で使って大丈夫なの?動作おかしくなったりしない?』
「大丈夫だってさ。余り大きな声じゃ言えないが、勝山さんもやったことがあるらしい」
サツキは考え込むように黙った後、
『……なら、これやってみてもいいわね』
そう決心したように言った。
「ああ、やる価値は充分にある。シェリルにも許可もらってるから」
やり方は、実に単純なものである。
電話帳にコマンドをつけた電話番号を新規登録するなり修正登録するなりしてかけるだけだ。
コマンドが長すぎて、登録しないととてもではないが発信出来ないのである。
装置に干渉されているのが気にかかるが、腑抜けとねたが割れた以上、少々電話帳をいじったところで見破られまいというのが宮子の見解だった。
「これに使うのは、シェリルか英田さんかエリナさんの内蔵通信機の番号だ。通常の携帯電話じゃ受けられないからね。無線機使う方法もあるけど、仲間にいるんだし手っ取り早い」
内蔵通信機は、その名前からは想像がつかないが実は固有の電話番号が割り当てられている。大門周防通騒乱の前の迷子捜索で、携帯電話をはさんでリレーが出来たのもそのおかげだ。
このため内蔵通信機持ちのアンドロイドが知り合いにいる場合は、電話と通信機の番号の双方を登録するのが習慣となるため、電話番号は確保されている。
『誰がいいのかしら?』
「エリナさんでお願い出来ますか。そうすれば逆探知の要員が私とエリナさん、さらには勝山さんとヤシロさんの四人まで増えます」
ここで、黙って説明を聞いていたシェリルが口を開いた。
今回はコードでつなぐのではなく、内蔵通信機で割り込んで逆探知するつもりでいるようである。
『分かったわ。盛大にやっちゃってちょうだい』
「私から頼んでおきますので。四人がかりで雪辱してやりますよ」
さっきの失敗がよほど屈辱だったのか、黒い笑みを浮かべながら答えた。
「よし、じゃあ登録と行こう。見張りは今どうしてる?」
『それがいないのよ。電話し始めると出て行くの。一応外から様子をうかがってはいるようなんだけど、終わったかどうかを確かめる程度しかしてないみたいで』
「そ、そうなのか……。余裕を見せてるつもりなんだろうが、今回はただの間抜けだな」
『間抜けというか、慢心というか……』
「じゃあ、エリナさんの通信機の番号の頭に、これから言うコマンドをくっつけて修正登録してくれ。ゆっくり言うからよく聞いて……」
啓一の指示を受けつつ、修正登録を終えたサツキは、小声で復唱する。
「よし、合ってる。一旦切って、十分待ってから彼女にかけてみてくれ。その間、念のためかけてる演技をした方がいいかも知れないな」
「もし通じたら、勝山さんに私の携帯電話に電話するよう伝えてください」
『じゃあエリナさんにかけてみるから。切るわね』
不安そうな声で、サツキは電話を切った。
それと同時にシェリルがエリナにこの旨を手早く伝える。
あとは、サツキから電話が行くのを待つばかりだ。
「お願いだからかかってくれよ……」
そして十分が過ぎた時である。
置きっぱなしになっていたシェリルの携帯電話が急に鳴った。
「勝山さん!来ましたね……!」
シェリルが拳を固めつつ言って、電話に出る。
「はい、大庭ですが……」
『シェリル、僕だよ。見事にエリナさんの通信機にかかってるよ!』
果たして電話から聞こえて来たのは、成功を知らせる宮子の声だった。
「逆探知はどうですか?」
『うん、今本人がそばいるんだけどやってるよ。ヤシロさんと僕も同時に動いてる』
「じゃあ、こちらも始めましょう。割り込み通信かけますね」
シェリルはそこで割り込みを行い、エリナと話し始める。
「割り込み失礼します、大庭です。逆探知かけますので、探知経路を完全確定出来たところまでこの通信を導いてください。……はい、お願いします」
そう言うとシェリルは空中ディスプレイを出して、手首の端子と召喚したコードでつなぐと、
「内蔵通信機だけでも行けますが、今度は詳細に結果を出してみせます」
そう意気込んで逆探知を開始した。
「内蔵通信機の通信をこっちに分岐させて……いい具合ですね、気持ちいいくらい探知が進みます」
よほどすんなり進んでいるのか、不敵な笑顔を浮かべている。
そして、十五分ほどそれが続いた後だ。
「……これが限界ですか。しかし、ここまで行けば上等でしょう」
そうつぶやくと、さっきからつながっている携帯電話に向け、
「こっちは大体結果が出ました。そちらはどうでしょうか?」
かがみ込むようにして問う。
『うん、出たよ。全員が一新興国産業本社内、工場以外のいずれかの建物で一致してる。どの建物になるかは、エリナさんとヤシロさんは一号館か二号館のどちらかで確率は半々、僕は一号館か二号館で確率は不明って結果だよ』
「私も同じく、一新興国産業本社内までたどれました。一号館か二号館、大穴で三号館があるかなという分析になりましたよ」
一新興国産業本社の本社社屋は、五号館まで存在することが分かっていた。その中でここまで絞れれば、上々の結果といえるだろう。
『分かった。電話の方どうする?』
「こちらは切ってしまってください。面倒ですが、サツキちゃんには一回エリナさんとの通話を切ってもらって、私の方にかけ直してもらうよう伝えてください」
『分かった。じゃあ切るね』
あわだたしく宮子が電話を切り、すぐにサツキが電話をかけて来た。
「すみません、いろんなところたらい回しにしちゃって」
『いいのよ。エリナさんから聞いたけど、本当に何のひねりもないところだったのね。どこかで欺瞞されてやしない?』
「されてないですね。最終的にどこかまでは突き止められなかったものの、先の方に制限装置とおぼしき回路が確認されたので、まず間違いはありません」
『そこまで分かっててたどり着けないのね……』
「ここまで行ったら全部行けそうに思ったんですが、そこから先は馬鹿みたいにセキュリティレヴェルが高い状態です。通常なら一発なんですが、やはり敵もさるもの引っかくものですね……」
逆探知は我々の世界では昔のドラマの描写から極めて難しく失敗することもあるというイメージがあるが、少なくとも二十一世紀の時点では一瞬である。
こちらの世界でも以前は同じように一瞬だったのだが、情報化がどんどん進んだことで犯罪者側のやり方が極めて多様化かつ巧妙化し、解析などに時間を食われるようになった結果、逆に速度が落ちて時間がかかるようになってしまった。
高度な通信技術やセキュリティ技術が簡単に使えるようになるとともに、選択肢が極めて多くなり無限の組み合わせが出来るようになったことが、逆にあだとなってしまった形である。
『でも、これやったことは非常に単純なのよねえ』
「そうですね。通信制限以外にこった機能制限まで小ざかしく実現したくせに、ごく簡単なところで穴があって突破された。策士策に溺れるの機械版ですか」
『それを言ったら、人の方も一緒じゃない』
「ああ、確かに。完全に通信を絶てばよかったものを、余裕を見せて挑発するために絶たないでいたら、穴を突かれて場所が露見した。……機械はともかく、こっちはただの馬鹿ですね」
『まあ、そうなるわよね』
シェリルが苦笑するのに、サツキも同じく苦笑しているような声で返した。
しかしサツキは、すぐにまじめな声に戻って話を進める。
『それで、正直どうなの?来られるの……?』
「それです、敵の根城の真っただ中というのがどうにも」
「……どう考えても、松村の逮捕状がないと無理だよな?」
「そうです。それがネックなんですよね……」
啓一が問うのに、シェリルが苦渋の表情でうなずいた。
「実際のところ、いつになったら取れそうなんだよ。さすがに引き延ばしすぎじゃないか?」
「そう言われましても、完全にこじれてしまってますからね。家宅捜索が一応の目安ということにはなりますが……捜索場所が多いので、それだけ押収物品も増えます。それらを全部見ないといけないので、どうがんばっても数日は確実にかかるかと」
「何も全部見ないでもいいんじゃないのか?どこか一ヶ所でも関係が見受けられそうなところ見つけたら、そのまま取りに行けそうだが」
「出来なくはないですが、すぐに当たるとは限らないですし。それに関係が見え透いていても立証することが難しいなんてこともありますから、証拠は多ければ多い方がいいんですよ」
「そりゃそうかも知らんがな……」
「一応この他にも、派生でちょっとした仕込みをしてあります。こちらを頼った方が恐らく早いだろうし、充分な証拠が出る可能性も高いという確信がそれなりにありますので」
「じゃあ結局、そいつ頼みになるかも知れないのか?」
「恐らくは。……ただし、うまく行けば、あくまでうまく行けばです。そもそもこういったものは、期待外れに終わる可能性だってありますからね。言うなれば、運次第としか言えません。駄目ならまた何か考えなければいけなくなりますね……」
「ああもう、気がもめるな……!家宅捜索で決まるみたいな話だったのに、今になって何だかやけに頼りなくなってるじゃないか!そんなんじゃいくら時間があっても足りないぞ!悠長にやってるとサツキさんが耐えられなくなるじゃないか……!」
唇を噛むシェリルに、啓一が眉をしかめながら言う。
言いたいことはよく分かるのだ。いまだかつてないような大騒乱だったのだから、家宅捜索と一言で言っても、捜索から押収から調査から何でも普通の事件より時間がかかるのは当然である。それ以前の問題としてどんな策を取ったとしても、結局蓋を開けてみなければ証拠があるかどうかは分からないのだから、常に最悪の想定をして覚悟をしておかねばならぬ。
そう分かってはいるのだが、現に監禁され不安でいるだろう女性を、居場所が大体分かりながら救いに行かないでいるというのは、感情的に
「そう言われても困ります。逮捕状っていうものは、請求書にしっかりとした証拠を出来るだけ多く添附しないと出してもらえないんです。あなたならそれくらい分かるでしょう、刑事訴訟法それなり知ってるんですから。それにそれだけじゃなくてその後の捜査にも大いに関わりますので、徹底的にやらないと、私たちだけでなく被害者にも影響が及びます。それを怠って、あとあと何か問題が発生してもいいって言うんですか」
シェリルは啓一に、冷静ながら少々とげのある言葉と口調で言い返した。
だが、これがいけない。煽っているように響いてしまったのだ。
「そんなわけあるか。だがそもそもこうやってこじれてるのは、証拠になると思ってた代物がいきなりそうならないかも知れないなんて話になったからだろうが。あれが証拠としてそのまま採用されてればこんなことになる前に……!」
「文句は判例に言ってください。私たちだって悔しいんですよ、腹立ってますよ。しかもここまでこけにされて、何にも出来ないとか!」
「お前らだけがそうみたいに言うな!……大体何だ、今回の事件の発端は。本部長の立場なんだから、ちょいと曲げて知らせてくれりゃよかっただろう。それならあんなことにはならなかった!」
「馬鹿言わないでください、私にだって本当に出来ないことはあるんです!しっかり上司がいるんですよ、命令聞かないわけには行かないんです!」
「ふん、捜査本部長がひょこひょこ出歩いていいって上司が言ったのかよ!違うだろ!普段なあなあにしてるくせに、こういう時だけ命令だからか……!」
松村逮捕に至れないことへのいら立ちをむき出しにし、ついには今回起きた行き違いの話まで持ち出して責めて来る啓一に、シェリルは負けじと反撃する。
普段の二人からは到底想像出来ない口げんかが、このまま続くと思われた時だ。
「いい加減になさい、二人とも!!」
素晴らしい
びくりとして凍りついた二人に、清香は無言で電話をあごでしゃくった。
『……やめて、お願いだからやめて……』
電話の向こうのサツキが、嗚咽混じりの声を上げている。
何も答えられず黙り込んでいると、サツキはなおもすすり上げながら続けた。
『……誰が悪いかれが悪い言っても、始まらないじゃない。何なら私だって悪いわよ……。せっかく、せっかくこらえられてたのに、そんなけんかをされたら私、私……』
今にも泣き崩れそうな声に、二人は下を向く。
(やってしまった……)
ただ、この一心であった。
ごく普通に話をしていたため失念していたが、本来ならこんな監禁状態、しかも危害を加えぬと約束されたとはいえ人非人の率いる兇暴な武装集団に取り囲まれるような状況にあって、うら若き女性が耐えられるわけがないのである。
今まで動揺を見せなかった、いや隠し通せていた方がむしろおかしいほどだ。
それを爆発させてしまったのだから、二人が罪悪感を覚えぬわけがない。
「……すまない、サツキさん」
「ごめんなさい……」
だらだらと長くなり被害が尽きない事件、手の届かぬところで跳梁跋扈し舌を出す悪党ども。
この状況にあってストレスをためぬ者はいないとはいえ、それで仲間同士殴り合っても何の解決にもならないことくらい、いやしくも大人ならば分かっているはずである。
それだけに飲まれたことを、二人はひどく恥じていた。
『……いいの、じれる気持ち分かるから。でも、怖い、怖いわ……いくら自分のいる場所の見当がつくかも知れないっていっても……助けて、啓一さん、お姉ちゃん、先輩……』
泣きじゃくりながら続けるサツキに、シェリルが何か言おうとする。
だが、その言葉は啓一に遮られた。
「……泣かないでくれ、絶対助けに行くから。あの野郎、同じ世界の出身者として処さずにゃいられねえ、プライドが許さん」
決然と言うのに続き、今度こそシェリルが口を開く。
「どうか泣かないでください、サツキちゃん。こういう事件を解決してこその私たち警察なんです。手続きをねじ込んででも、あなたを助けに向かいます。……血はつながらずとも、妹分をほっといて何がお姉ちゃんですか。あなたを苦境に置いた罪、あの男に吠え面をもって償ってもらいます」
息をゆっくり吸いながら、一つ一つ自分にも言い聞かせるように言った。
「サツキちゃん、どうか気をしっかり持ってちょうだい。あなたの背後には、たくさんの味方がいるのよ。松村たちのやってることはね、公然と全国民を敵に回しているようなもの。天網恢恢疎にして漏らさず……あなたが言ったこと、私たちが絶対に証明してみせる」
清香の毅然たる言葉に、サツキが、
『……ありがとう、みんなありがとう……』
そう言ったかと思うと、一気に泣きじゃくり始める。
「サツキさ……」
「……泣かせてあげてください」
シェリルが自分も泣きそうな顔で啓一を押し留めた。
電話越しにひとしきり泣き声が続く。
ややあってサツキは、
『……ごめんなさい、泣いてしまって。一応の目的が果たされた以上、こうしてずるずる話していても詮ないわ……切るわね』
悲しみの中にどこか強さを持った声で言った。
「……分かりました。どうか、無事でいてください」
三人を代表してシェリルが言うと、電話が切れる。
何とも言えない静けさが、会議室に広がった。
「はあ……シェリル、悪かった。英田さんも申しわけありません」
「いえ、私も言い方が悪かったので……。英田さんも止めていただいてありがとうございました」
「構わないわ。サツキちゃんもだけど、あなたたちもたまっているものがあったわけだし……一概に責められないところがあるもの」
清香がそう慰めるが、二人は気落ちしたままである。
「はあ……普段冷静な面して、こういう時駄目なんだからな。しかも泣かすか、最低だろ。サツキさんに愛想つかされるわ、こんなんじゃ」
啓一が深いため息をつきながら、これまでないほどに暗い顔で言った。
一方、啓一より落ち込んでいたのがシェリルである。
「……正直、下手な不始末よりずんと来てますよ。本来はあの子のお姉ちゃんなのに、あんな醜態さらした挙句に泣かせてしまうなんて」
額をごしごしと手でこすりながら、切なげな声でそう言った。
「……なあ、『お姉ちゃん』って何だ?サツキさんとは、友達のはずだよな?」
「それですか……。サツキちゃんから聞いているかも知れませんが、私は十六年前に設定年齢十四歳相当で生まれました。つまり長いこと、外見も中身もサツキちゃんより年上だったんです」
互いの両親が知り合いだったこともあり、当時七歳のサツキはシェリルになつき、彼女を親戚感覚で「お姉ちゃん」と呼んでいたという。
サツキが十五になるまで八年間この呼び方は続き、それ以降は現在の名前呼びとなった。
しかし長い期間これで通して来たため、サツキにとって「お姉ちゃん」呼びはまだ完全に過去のものとなっていないというのである。
「サツキちゃん、極度の不安や動揺を覚えると、今でも『お姉ちゃん』が飛び出すんです。禾津さんを見つけた時も、軽くパニックになってその呼び方を……」
「じゃあさっき『お姉ちゃん』って言ってたのは、相当精神的につらくなってる証拠か」
「そうです。久しぶりに聞きました……早く、助けてあげないと。いや今すぐにでも飛んで行って、かちこみかけてやりたいですよ、出来るものなら……!」
シェリルは両眼を右手で覆うと、悔しそうに首を振った。
ここには、連邦警察の警視はいない。親友にして年下の妹分を案じる少女だけがいた。
「部長、お忙しいところ失礼いたします。そろそろ会議が」
ノックの音が響き、外から刑事の声が聞こえて来る。
「……そんな時間でしたね。分かりました、今向かいます」
シェリルは顔を起こすと扉に向かって返事を返し、二人の方に向き直った。
「申しわけありません、失礼します。これからどうしますか、仕事が残っていると思いますが」
「え、ええ。さっきのは一応のまとめだし……まだ分析するデータがあるから残るわ。禾津さん、すまないけどつき合ってもらえない?」
「分かりました。……というわけで、俺も残る」
二人が答えるのにシェリルはゆっくりとうなずくと、
「しばらく電話に出られませんが、緊急のことがあればお知らせを。それでは」
静かに部屋を出て行く。
「……あいつ、泪浮かべてましたね」
「ええ……」
啓一が沈んだ声で言うのに、清香が静かに答えた。
「親友って、ああいうもんなんだよなあ……」
清香は、何も言わぬ。
啓一は一つ首を振ると、途中になっていた仕事に再び手をつけ始めた。
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