二十三 疵痕
――真島サツキ拉致さる!
この一報は、シェリル本人によってすぐさま捜査本部に伝えられた。
他の刑事たちとともに落合と弓削が公園へ駆けつけると、そこにはくずおれた啓一たちと痛恨の表情のシェリルが立ち尽くす姿があったのである。
「……やってしまいました」
いつも気丈なシェリルが血を吐くような声で言うのに、二人は戸惑っていたが、
「拉致に関わった二人を現行犯逮捕しました。連行しますので、手伝ってください」
清香に倒された男と偽シェリルを示され、はっとなってすぐに連行に取りかかった。
同時に、啓一たちも何とか正気づけて移送する。
泣きながらもおとなしく従って歩き出す偽シェリルの手には、手錠がかけられていた。
「警視、なぜ彼女に手錠を……?抵抗の意思がないようですが」
「……自害に及ぼうとしたためです」
ドラマなどの描写から「逮捕には手錠がつきもの」というイメージがあるが、必要になるのは烈しい抵抗をされた場合や逃亡の意思を見せた場合、そして他害や自害のおそれがある場合である。
偽シェリルはサツキが拉致された直後、やけになって男が落とした拳銃を手に取り、こめかみに当てて自決せんとした。
シェリルがとっさに石を投げ、引き金を引く前に止めたのでことなきを得たが、やむなく手錠をかけることになってしまったというわけである。
警察署に入った一同は、そのまま弓削により事情聴取を受けた。シェリルが行わなかったのは、被疑者二人の取り調べに向かったためである。
一同は余りの衝撃に証言もおぼつかなく、清香に至っては途中で泣き出すなどしたため、一人一人にひどく時間がかかった。
何とか事情聴取を終え通された会議室で、呼び出されていたらしいジェイと宮子に出迎えられる。
しかし会話が一言二言しか続かず、しばらくして全員押し黙ってしまった。
通夜のごとく重苦しい空気の中、一同が時間の感覚も消えた状態で待っていると、いつの間に着替えたのかいつもの姿のシェリルが静かに入って来たのである。
「取り調べが一通り終了しました」
「お疲れさま。……どうしたんだ、何か後ろ気にしてるが」
啓一がねぎらいの言葉をかけつつ、シェリルの様子がおかしいのに気づいた。
先ほどから、扉の向こうをやたら気にしているのである。
「い、いえ、気にしないでください」
シェリルはその指摘に一瞬しまったという顔をしたが、すぐに着席して話を始めた。
「何より先にサツキちゃんのことが気にかかると思うので、そこからお話しします。
一同が息を飲むのに、シェリルは一つうなずくと、
「結論から言うと、サツキちゃんは危害を加えられることはないと見ていいでしょう」
慎重な口調ではっきりと言う。
「後でまた詳細をお話ししますが、とりあえず簡単に説明を。今回の事件は想像していた通り松村に与している極左暴力集団の犯行でした。しかし、松村に指示されたわけではないんですよ」
「やつの指示じゃないって……?まさか独断独行か?」
「一応そうではないんですが、近いことになってしまっていたようですね」
男の供述によると、この拉致計画自体は幹部の発案であった。
しかし雇われの身である以上きちんと許可を得る必要があるからと、数日前に幹部自ら松村にうかがいを立てたのだという。
だが松村は、この計画に極めて消極的な姿勢を示し、
「仲間の重力学者を使えば次はやり返せるだろう、どこが脅威だ」
のっけからそう鼻で嗤って小馬鹿にして来た。
あの連中は明らかに普通ではない、とにかく危険だから芽を摘んでおくにしくはないと説得したのだが、ろくに聞こうともせぬ。
そしてそんなに言うなら仕方ないとばかりに、
「やるなら勝手にやれ、失敗しても自分は知らない」
「成功しても目立つから殺したりするな、人質として引き取るくらいはしてやる」
そう言って突き放して来たというのだ。
「幹部も相当困惑したようですが、後の面倒を見ると言ったのを一応の許可が出たと解釈して、そのまま実行に移したそうです。ですから、最後は独断独行に流れたとも言えなくはないです」
「何だそりゃ……いかな何でもぐだぐだじゃないか」
啓一は話の流れに、怒りとあきれがない交ぜになったような顔で言う。
作戦をこき下ろしながら結局判断を放棄して止めない松村も松村だが、それを許可が下りたと解釈して動いてしまう実行犯側も実行犯側だ。
そんな頭の悪いなりゆきで仲間が拉致されたなどと聞いては、こうもなろうものである。
「とりあえず『殺したりするな』と言われている以上、実行犯は手を出さないでしょう。それにあんな命令をしたからには、松村自身危害を加える気もなければ、配下など周囲の者に加えさせる気もないと見ていいと思います。下にやるなと言って自分でやってれば世話ないですからね」
「実行犯はそうだろうが、松村の方はどうかね?まともな理屈が通じないやつだぞ」
松村の性格を考えるとにわかに信用出来ないと思って訊く啓一に、
「今回に関して言えば、その辺は大丈夫でしょう。何せ同じ引き取るのでも『人質』としてだと、事前に明言してるわけですから」
シェリルが含みを持たせてそう言った。
「……どういうことだ?」
「実行犯にとっては危険人物を取り除くのがまず先だったので、拉致した後でどう扱うかは二の次だったそうなんですよ。取り立てて何か特別なことをせずに単に監禁しておくだけでも、充分に目的自体は果たせるからと」
「言われてみりゃそうだ、拉致したからって必ずしも『人質』として利用する必然性はないもんな。……となると『人質』云々は、松村が含むところあって言ったことってわけか」
「そういうことです。意味のない拉致ではあっても、うまく行けば相手方の人物が手に入るには違いない。それなら引き取って、存分に利用してやろうという思考の現われと見て間違いないでしょう」
「待て、それは危害を加えない理由にはならないんじゃないか。傷つけても『人質』としての機能は果たすはずだぞ」
「松村はサツキちゃんを、いろんな意味で脅威と見ていません。そんな人物に危害を加えても後始末が面倒になるだけ、何の益もありませんからね。それより無駄な苦痛を与えずに紳士的な態度で接した方が、扱う上で楽になると考えるでしょう。外面だけでも慇懃にするのは得意ですから」
まあすぐに下衆な中身が漏れ出すわけですが、とシェリルは眉をひそめる。
「そのような諸々の打算から、無傷のままで『人質』として利用しようとしている可能性が非常に高いです。……今までのこちらへの態度からするに、もしかすると交渉材料には使わず監禁したままにして、『囚われの姫君』を助け出させてやろうなどと考えているかも知れません」
「『囚われの姫君』だと……ふざけてやがるな。人を馬鹿にしやがって」
余りに人を食った発想に、啓一がぎりぎりと切歯した。
「とりあえず、サツキちゃんの身に危険が及ぶ可能性はかなり低いと見ていいってことよね?」
清香が横合いから顔を出し、再度確認する。
「そういうことです。松村のところに行っているという前提になりますが、これも間違いはまずないでしょう。実行犯にしてみれば、最初から引き渡すつもりだったでしょうし」
「まあ親玉が引き取ってやるって言うんなら、それに甘えた方が楽だもんね」
さっきもシェリルが言った通り、人質にするでもなくただ相手の戦力を奪うために拉致しただけなので、実行犯たちにしてみれば正直お荷物のはずだ。
「しかしいくら危害を加えられる可能性が低いとは言っても、早く助けなければならないのは一緒です。松村の根城たる一新興国産業本社周辺をはじめとして、市内のおよそ関係があると思われる場所に人を回して捜索を行っています。ある程度の結果が上がって来るまでやはり時間が……」
シェリルは悔しそうに唇を噛んで言う。
何としても親友を救いたいがままならぬ、そのような顔だった。
「ともかくサツキさんが何とか無事でいられるだろうという見通しが立っているだけで、少しは気が楽になる。時間がかかるのはもう仕方ないだろう、そう簡単に行けば世話はない」
「あせって無茶すると、サツキちゃんやこっちにとって不利益が生じるのは明らかだしね……」
啓一と清香が、シェリルを慰めるように言う。
「……ありがとうございます。とりあえず、この話はこれで終わりとしまして……取り調べで分かった事件の概要や新事実について、お話をしようかと」
「じゃあ、そっち……」
そう言いかけて、啓一はまたしてもシェリルの態度がおかしいのに気づいた。
入って来た時と同じように、扉の方をちらちら見ているのである。
「……何かあんのか?あの扉の向こうさ」
「あ、その」
シェリルはそう言ってしばらく黙っていたが、ややあって、
「……みなさん。この先、どうか感情的にならず落ち着いて対応をお願いいたします」
決心したように慎重な声で言った。
「えっ……」
ざわめきが広まる中、シェリルは一旦外へ出て誰かを連れて来る。
その瞬間、一同が凍りついた。
「………!?」
何とそれは、逮捕されたはずのあの偽シェリルだったのである。
「お、お前!どういうつもりだ、こいつを連れて来るなんて!!」
「逮捕したはずでしょ!?何でこんな手錠もつけずに!!」
「てめえ、よくもあたしらの前に抜け抜けと!手足もいでばらしてやる!!」
啓一と清香、続いて百枝が敵意と憎悪をむき出しにして叫んだ。
当然のことである。自分たちを
「ちょ、ちょっと、みなさん……!」
ジェイはすさまじい怒気に横合いから襲いかかられた形になって戸惑い、宮子に至っては耳に来たらしく苦痛の表情を浮かべて耳を押さえつけている。
「ちょっとも何もない!」
それに対し啓一が大声で言い返し、今度は言い合いに発展しそうになった時だ。
「待ってください、みなさん!様子が変です!」
エリナが間に入り、一同の方を向いて必死に制止する。
見れば、偽シェリルはシェリルの背中にぴったりとしがみつき、がたがたと震えていた。
「……け、刑事さん、駄目です、やっぱり駄目です。私、この人たちに会う資格なんて……どうしてあの時、死なせてくれなかったんですか……」
泪を浮かべて小さな声で言う偽シェリルの頭を、シェリルは落ち着けるようになでる。
「エリナさん、あんた腹立たねえのかよ!シェリルも何でそんな優しくしてやがんだ!!」
百枝が食ってかかるが、エリナはあくまで冷静に努めていた。
「それは私も腹を立ててますよ。でもここは大庭さんの言う通り、まずとにかく落ち着いて話を聞いた方がいいと思います。あの人の態度含め、とても普通じゃなさそうですし……」
「ま、まあそれもそうだが……おい、そんならそうで早く話に入れよ!」
百枝が怒鳴りつけるのに、また偽シェリルがおびえて泣き声を漏らす。
「エリナさんの言うのももっともだ。とりあえず、矛は収めよう」
「その代わり、話次第では再び抜くかも知れないけどね」
啓一が不承不承に言い、清香が警戒を崩さすに言った。
「やっと落ち着きましたか……」
「大庭さん、エリナの言う通りだと私も思いますが……いきなり連れて来るのは無理がありますよ。先に予告しても大混乱にはなったでしょうが」
ジェイにたしなめられ、シェリルが小さくなる。
「面目ありません……ことを急ぎすぎました」
そう言った瞬間、偽シェリルがいきなり一同の前に飛び出し、
「みなさん、ごめんなさい!私のせいであの人が、あの人が……!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
土下座をして必死に泣きながら、命乞いかと思うほどの勢いで謝罪を始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
壊れたレコードのように繰り返す偽シェリルに、さしもの一同も驚きすぎてすっかり毒気を抜かれてしまい、瞠目したまま固まっている。
「あ、ああ……これじゃ話に入れません。ほら、顔をまず上げてください。みなさんに謝るのは後でも出来ますから……」
シェリルは床のほこりにまみれた偽シェリルを立たせ、一緒に横並びで座った。
連れて来た本人もここまでのことをするとは思わなかったのか、ひどく戸惑っている。
こんな表情をシェリルがするのは、実に珍しいことだ。謝罪をしたいと申し入れられたなどの単純な理由で連れて来たのではないらしい。
「……改めてですが、予告をせずにこのようなことをしてしまい申しわけありませんでした。実は彼女について、いろいろとお話をしなければと思ったんです。話を早くするために本人を連れて来た方がいいだろうと思ったのですが、見通しが甘かったようです……」
そう前置きをすると、シェリルはゆっくりと話し始めた。
「現在、逮捕監禁罪により逮捕している状態です。なりすましによって
「なッ……どういうことだよ!?時間制限四十八時間しかないんだぞ!?」
この世界でも我々の世界の刑事訴訟法と同じように、警察は逮捕後四十八時間以内に留置する必要があるか否かを判断する必要があり、必要がある場合は検察官送致、ない場合は釈放となる。
しかし明らかに罪があると認められる場合、弁護士の横槍でもない限りは取り調べが済めば即検察官送致の判断を下してしまうはずで、ぐずぐずと引き延ばすというのは少々異様の感があった。
「それが……彼女、嘘でも何でもなく本当に何にも知らないんですよ。余りにも知らなさすぎて、こっちもどう処理したらいいのか困っているんです」
「え?ちょっと待てよ、偽者やっといて何も知らないって……!?」
さすがにこれは、一同も全く予想していない展開である。
今回の事件は自分たちをしっかり認知した上、これからどのような予定で動くかを知らないと出来ない、今までの偽者事件とはまるで質の異なる代物だ。
そのような事実がある以上、何も知らないで偽者が出来るとは到底思えないのだが……。
ましてや偽シェリルは、細身に見える程度で本人とよく似ていた。最初から狙いすまして造られたと言われても通るのに、本人が知らないというのはおかしい。
「嘘のようですが、これが本当なんですよ。何と、偽者であるという自覚すらありませんでした」
「……そういえば、『騙された』とか『聞いてない』とか言ってた気がするわ」
清香がそう言うと、偽シェリルは唇を噛みながらうなずいた。
「……あんな犯罪者集団の中にいたなんて、それで知らずに手伝いまでするなんて、私、私……」
泣き崩れそうになるのを、大急ぎでシェリルがなだめる。
連れて来たはいいが、こう泣かれてはどうにもならなかった。
「とりあえず、本人に二度語らせるのも酷なので……私から」
シェリルによると……。
この偽シェリルは、その出自からして異様なアンドロイドであった。
とにかくあらゆる個人情報を訊ねてみても、何も出て来ない。
それどころか自分がいつどこで生まれたのか、それすらも分からないというのだ。
「それこそ何もないんです。さすがに名前はあるだろうと訊ねてみたら、普段は『ロリ』や『青頭』などとばらばらに呼ばれていたらしく……。中には『けつの切り身』なぞと、遠回しに大人のおもちゃを暗示する下品な名前で呼ぶ者もいたようです。別の場所では『一号』とも呼ばれたことがあったそうですが、そちらも同様とか……」
「……そりゃひどいな。後の方なんか、品性を疑うなんてもんじゃないぞ」
「もう名前というようなものじゃないですよ……完全な『モノ』扱いです」
これに啓一が露骨に顔を歪める。何を指しているか分かってしまったからだ。
ジェイもかつてそういうものを日常的に見ていたため大体理解出来たらしく、眉をしかめている。
「ロリ」「青頭」の時点で、まともに呼ぶ気がないのは目に見えているようなものだ。いわんや大人のおもちゃに例えるをや、である。
「ただ、出生名に関しては『シャロン』という名前だと分かりました。本人は覚えていなかったのですが、身体検査で軽くスキャンをかけたところ、頭脳外殼に出生名が入っていまして」
「そんなところにかよ?これまた意外な……」
「人によりますが、入れることが多いんです。ともかく一人のアンドロイドである以上、先のような人権蹂躙に等しい名を使うわけには行きませんので、これで呼ぶことにしました」
シェリルは偽シェリル――シャロンの方を見ながらゆっくりとうなずいた。
「……刑事さん、私はアンドロイドじゃありません。動いてしゃべって男の相手をするだけのお人形です。そんなまともな名前で呼ばれるような存在じゃないんです。まして今は犯罪者じゃ……」
「そのようなことを言ってはいけません。あなたはまぎれもないアンドロイドです。当然人権もあるんですよ。人道に基づききちんとした名前で呼ばれるべきです」
シャロンが自嘲するのを、シェリルが必死に言い聞かせる。
今の言葉だけでももの言いが異様に卑屈で、明らかに普通ではなかった。日常的に暴力や精神攻撃や搾取で蹂躙され続けた者が、極度の自己評価の低下と自暴自棄からしばしば見せる言動である。
しかも卑猥な呼び名をつけられていたことや、自分をあたかも売笑婦のように言うところからして、彼女が性的な虐待をも受けていたことがおおよそ知れた。
「それにあなたが蹂躙されていたこと自体、あなた自身の責任なぞではありません。さらに言うなら、今回のことだって……」
だがシェリルの言葉にも関わらず、シャロンは首を振る。
そしてあごに手をやると、思い切り皮膚を引きはがしたものだ。
「……これでもですか?」
そこから出て来たのは、シェリルとは似ているようで似ていない少女の顔である。全面でないところを見ると、どうやら顔の一部だけをカヴァーしてうまく似せたようだ。
だが、一番の問題はそこではない。
顔のまさに中心、鼻梁から右眼と鼻の間を通り頬からあごへと突き抜ける、相当に深く大きな
「ああッ、つけたままでいいと言ったのに……!」
一同が呆然とする中、シェリルがあわてたように叫ぶ。
「いいんです、これが本当の私なので。こんな傷物ですから、偽者に仕立られて使い捨てにされたのも道理です……」
「そんな無茶苦茶な道理はありません!どうかそんなことは言わないで……!」
シャロンは疵に手をやるだけで、何も言わぬ。
シェリルはかなり戸惑っていたが、やむなく強制的に話を進めた。
「と、とりあえず……そのような状態ですので、まず彼女の過去からして不明点が多いんです」
不幸なことにシャロンの過去の記憶は大きく欠損してしまっており、なかんずく初期のことに関してはほとんど何も覚えていないと言ってよい。
製作者は男性の技術者ということだが、ごく普通の人物であったということ以外には、名前はおろか顔形すら覚えていなかった。
当然、彼女が製作者の許を離れたきっかけに関しても全く分からない。闇社会経由であることは間違いないが、断片的な話から綜合するに製作者がそちらと接点がありそうには思えなかった。
本人としては、気がついた時には暴力団の許にいたとしか言えないのが実情だ。
「今まで担当した事件でもあったことなんですが、人間や獣人と同じようにアンドロイドも精神的打撃で記憶に支障を来たすことがあるので……調べないと分からないですが」
「それは難しいと思いますよ。それに……あたら調べるとそれだけで本人が苦しむことも」
「そうですね。ヤシロさんの言う通り苦痛を味わわせることも少なくなかったので、こちらも調べる気はありません。その必要もありませんから」
暴力団において、シャロンの人権はまるでなかった。
本部とおぼしき建物の一室に閉じ込められ、日夜構成員の相手をさせられたのである。
「気づいた時には監禁されていたので……そこがどこの街のどの場所なのかは分かりませんでした。組織の名前も知りません。訊こうものなら、『知る必要はない』と暴行されました」
どうやら構成員たちは、自分たちに関する一切の情報をシャロンに与えていなかったようだ。
しかもメンテナンスなどで部屋の外へ出す場合には、さまざまな情報を知られることを嫌ってわざわざ電源を落としていたというのだから徹底しているとしか言えない。
ここまでとなると、故意に無知の状態に仕立て上げる気なのは火を見るより明らかだ。知恵をつけて抵抗したり、さらには逃亡を図ったりするのを防ごうと考えたのだろうが、下衆にもほどがある。
「そいつらが『暴力団』という悪人の集団だと知った時には、腰が抜けるかと思いました。でも、私には抵抗の手段なんて一切なく……」
むしろあたらそれを知ったことで、シャロンは、
(悪人のものにされていては、もう何をしてもどうにもならない)
そのような深いあきらめを抱くに至っただけであった。
そのうちにこの状況を完全に受け容れてしまい、絶望の中で時折意識朦朧としながらも慰みものにされ続ける日々が続いたのである。
「よくまあ、心が壊れなかったものね……」
清香が言う通り、等身大ドールに改造された被害者が絶望から自我崩壊を起こしたことを考えると、正気のままで踏み留まったのはある意味奇跡であった。
「そのためだけに存在してるんだと自分に言い聞かせましたから。そうすれば苦しくありません」
「そんな……」
それに対してシャロンが自嘲するように言うのを見て、清香は絶句する。
自分を守るため、この世に生を享けた理由をおのれの存在をおとしめる方向にねじ曲げなければならなかったかと思うと、その場の全員が心の痛みを覚えざるを得なかった。
そしてそれから何年経ったのか、月日を数えることもやめた頃である。
突如所有者が変わると告げられ、そのまま電源を落とされたかと思うと、今度はいきなり見たこともない殺風景な部屋に座らされていたのだ。
そこに一人の初老の男が入って来たかと思うと、
「こんにちは。私が君を引き取った、松村徹也だ」
実にていねいにあいさつをしたのである。
「松村……!?」
いきなり登場した敵の首魁の名に、一同がどよめいた。
いくら暴力団と関係が深いからといって、こんなところで名を聞くのはさすがに予想外である。
よりによって何という男のところに譲り渡されたのかと思ってしまうが、それは一同が松村という男のことをよく知っているから言えることだ。
シャロンはこの姿を見て、すっかり松村を信用してしまったという。
「初めてでしたよ、こんな紳士的に接してもらえたのは。多分、この人が救ってくれたんだなと思っていました。これでましになると……」
当然、その思いは完全に裏切られた。
松村は最初こそていねいに接していたものの、やがて本性を見せ始めたのである。
「部屋が粗末な時点で、ろくな目に遭わせる気はないと気づくべきだったんです。前とは別のやり方で延々といじめられました。特に人間関係でストレスでもたまっていると、私をその相手に見立てて何時間でも平伏させて言葉で責め続けたりとか……。あと相手をしている時でも明らかに自分が原因で失敗したのに、全部私のせいにして折檻して来たりとかもあって……前より地獄でした」
医師による診断がないため明言は避けているが、松村は高確率でサイコパスの可能性がある。
一見親しそうにして相手を安心させながら接近し、充分に近づいたところでほしいままに振る舞い甚大な被害を与えるというのは、得てしてその行動例として挙げられることがあるものだ。
「……ひどいな、あの男ならやりそうだが。しかし、こんな時まで人のせいにしてんのかよ」
「ほんとに救えないわね……。その場で直接身体的な被害があるだけに、なお始末が悪いわ」
「けッ、サイコ野郎が。まあ、相手が人でも構わずおもちゃにするようなやつだからな」
「とてもじゃありませんけど、アンドロイドに関わる会社の役員とは思えません……」
「有り得ないですよ。私の住んでいた前の世界の出来事かと思うようです」
「ひっど……僕ならすき見てのど笛かき切ってやるとこだよ」
一同がめいめいに嫌悪感を露わにしながら言う。
「いつシャロンさんが松村のところに引き渡されたのかは、例によって不明です。ただし、かなり最近、少なくとも平沼の自首前まで松村の手許に置かれていたことは確かです」
「何でそんな詳細に分かんだよ?今までそういうの分かんなかったろ?」
「松村はたびたび彼女にストレスをぶつけていたわけですが、その中に明らかに今回の事件に関わる発言が何度もあったそうなんです。その中に、平沼の裏切りに関する話は含まれていなかったので」
「ああ、なるほどな。あれだけのことなら絶対に怨み節吐くだろうし」
百枝は納得したようにうなずいた。
「……実はそれだけじゃないんです。私、とても大切なことを知ったようでして」
シャロンがそう言い出したのを、シェリルが制止する。
「シャロンさん、その話はちょっと待ってください。今話してしまうと話が混線しますので」
「……分かりました」
松村の行為は日々エスカレートし、やがて目的がストレス発散のみになって死ぬかと思うような暴力を受け続けることになった。
その中でも一番兇悪だったのが、自分の懐を探るシェリルを煙たがり、
「面があの刑事に似ていて気に入らない」
と言いがかりをつけて、いきなり刃物で顔を思い切り傷つけたことである。
「えッ、その疵ってあの野郎が……!」
啓一が息を飲むのに、シャロンは疵痕を隠すように顔を覆った。
この世界のアンドロイドは高めの自然治癒力を持つため、人間なら残るものでもまず残らない。
それがここまで大きく残っているのは、得物がかなり鋭利もしくは大きな刃物だったか、切りつけた力が相当大きかったかのどちらかしか考えられなかった。
しかしこれだけの疵を負わせておきながら松村はシャロンを放置し、治りかけた頃になって別人に譲渡すると言い出したのである。
その理由は「傷物になったから」というものであった。
「あの奸物……!てめえで疵を負わせておきながら何てこと抜かしやがる!!」
啓一が激昂し、どんとテーブルをたたく。
「
シェリルが鋭く注意を飛ばす横で、シャロンがぶるぶると震えていた。
相手が自分のために怒ってくれているのは分かっているのだが、やはり怖いのである。
「す、すまない……余りにひどすぎる話だったんでな」
啓一は気まずそうに手を引っ込めたが、怒りは収まらないようだった。
「その時期が、ちょうど平沼の自首の少し前とみられます。平沼の自首が九日前の十月三十日なので、それ以前ということになりますね」
松村は譲渡を宣告するや、電源を落とさずに出て行ってしまったという。
それと入れ替わるように、見も知らぬ男たちが新しい所有者を名乗ってやって来た。
そしてそのまま、またしても慰みものにされるようになったのである。
この男たちの正体については、やはり引き続き監禁されていた上、絶対に情報を与えまいとされていたため全く分からなかった。
ただ幹部らしき男が何度か現れていて、直近のことでもありしっかり顔を覚えているという証言が得られたため、ぴんと来たシェリルが何人かの男の画像を示してみたという。
すると、ほぼ全員に見覚えがあると言い出したのだ。
「その画像って何なの?そっちにあるくらいだし、ろくな連中じゃなさそうだけど」
「ええ、その通りです。というより、一部は指名手配犯ですよ」
清香の言葉に、シェリルはディスプレイを卓上に広げ画像データを示す。
その瞬間、一同があっと声を上げた。
「極左暴力集団の幹部連中……!」
このことである。
「そうなんですよ。シャロンさんは、松村が従えていた極左暴力集団に譲渡されたんです」
男たちの正体を知らなかったということは、当然組織についても何も知らぬ。
それどころか、取り調べの段階まで「極左暴力集団」やその俗称である「過激派」なるものの存在はおろか言葉自体知らず、
「は、反政府テロ組織……!?い、嫌、嫌あッ……!」
説明された途端にそう叫んで、しばしパニックに陥ったというのである。
まさかここまで何も知らないと思わなかったため、さすがのシェリルも泡を食った。
「お、おいおい、そこまで根本的に何も知らないとなると……どうやってあの作戦やったんだ?」
百枝が半ば呆けたような顔で訊く。
「簡単に言ってしまうと、ろくに何も説明されず強要されたとのことです」
あの事件が起こる前、シャロンはいきなり構成員に連れ出され、別の部屋で疵を隠していたテープを一度はがされた上で改めてあごまで包むつめ物の入ったテープを貼られた。
さらに青色の髪を赤紫に染められ、茶色の眸をカラーコンタクトでビリジアンに変えられた挙句、シェリルの普段着と同じ服を着させられたのである。
変装させられているということだけは分かったが、否応なしにどんどんと進められてしまい、一体何をしようというのか訊く暇すらもなかった。
もっとも訊こうとしたところで返って来るのは怒声と暴力なので、何も言わなかったのだが……。
「これから行くところに立って待ってると女がやって来るから、そいつと話をするんだ。何か言われても適当な言葉で相槌を打てばいい。一定時間来なかったら戻るぞ。あと答えにどうしてもつまったら、後ろに俺たちがいるからそこに声をかけろ。ぐずぐずしてたらぶん殴るからな」
そして電源を落とされ、気づいた時にはあの茂みの前に運ばれていたのである。
言われた通りに立ちはしたものの、当然自分が何のためにそんなことをさせられているのか知らないし、こんな変装をどういう理由でさせられているのかも知らないし、自分がその女性とやらと話すことでどうなるのかも知らないし、組織にとってその女性がどういう関係のある人物なのかどう扱うつもりなのかも知らない。
言い換えれば、シャロンは組織に強要されて一切知識も自覚もないままに動いたところ、結果的にシェリルの偽者を演じ、サツキと清香を騙して拉致のきっかけを作ってしまったというわけだ。
「考えようとしなかったわけじゃなかったんですが……知識を得ようとしても得られませんから、考えようもなくって。それに、逆らったらひどい目に遭わされるだけですから」
暴力による支配は人の思考能力を奪う。まして今までそれが何年も日常であれば余計だ。
そこへ来て周囲の者により知識が意図的に与えられていなかったとなれば、土台がないのだからもはやこれは考えることが出来る方がおかしいだろう。
「何てこった……本当に知らないづくしじゃないか」
啓一は、気が抜けたように言った。
確かに標的を引きつけるだけなら何も知らなくても務まるが、ぼろが出るリスクを考えるとどう考えても知っていた方がいいだろう。
結局のところ実行犯たちは何をさせても一切抵抗されない上、そもそも無知であるため捕まったところでさして問題にならないだろうと、最初から捨て駒にするつもりでいたのだ。
「だから私が『警察官詐称は罪』って言ったら、あんなあわてたのね。誰の変装をしているのか分かっていれば、ああはならないし」
清香が現場でのシャロンの反応を思い返し、納得したような顔で言う。
「正直、あれだけで電源が落ちそうになりました。まさか刑事さん、それも連邦警察の警視さんなんてとても偉い人に化けていたなんて……しかも捜査本部長さん……」
シャロンが再び嗚咽を上げるのに、シェリルが背中をさすってやった。
「拉致した男たちがどうやって後ろに隠れていたのかも、この分では知りませんよね?」
「ええ。外に出される時に電源を切られている時点で、知りようがないでしょうし」
エリナの問いに、シェリルは首を振りながら答える。
「……こういうことなんですよ。杓子定規に法律を当てはめれば拉致に関与したことになりますが、ここまで何も知らず騙しうちとなると……。それに彼女の過去や今の自罰感情の強さを考えると、情状酌量すべき面も多々あり……判断に困るのが分かると思います」
「ううむ……」
一同は、シェリルの言葉にうなってしまった。
最初こそ啓一や清香や百枝は処罰感情どころか殺意すら見せていたが、今やその感情は消し飛んでいる。むしろここまでの目に遭わされた少女に、さらに前科をつけるのは忍びないと思っていた。
だが、拉致されたサツキがどう思うかである。
(あの子のことだから、事情を知ったら処罰感情は持たないと思うけども……)
清香はそう思ったが、今連絡が取れない以上確認は不可能だ。
思わず眼を伏せるのを、シェリルは何とも言えぬ表情で見つめていた。
「まあとりあえず、彼女のことは分かった。もう一人、英田さんが倒した野郎はどうなんだ?サツキさんの話もそいつの供述で分かったわけだし、他にもいろいろ知ってるんじゃないのか」
「ええ、こちらが本命と見て丹念に取り調べましたよ。最初は敵対的でなかなか話してくれませんでしたが、お話ししましょうと説得して頭を冷やしてもらいましたら、素直になってくれました」
「お前、それ……」
一転して笑みながら言うシェリルに、啓一が顔を引きつらせる。
「何ですか?正直に自分から話してくれたんですから問題ないですよ?いいですね?」
「あっはい……」
これ以上踏み込むのに危険を感じた啓一は、そのままうなずいて引き下がった。
なお後にこの時の取り調べの状況について、立ち会っていたという落合に訊いてみたところ、
「……そればかりはどうか勘弁してください。ただ一つ言うなら、警視の笑顔がしばらくトラウマになりそうだとだけ……」
そう言って身を震わせたとか……。
話を元へ戻そう。
捕らえられた男は
「これが、少々特殊な立場にありましてね。連中は本隊の他に遊撃隊を持っていまして、細村はその一人として市内を転々としていたそうです」
「簡単に言えば、常に表でやくざ破落戸にまぎれてたやつってわけね」
「そういうことです。……ただ細村本人はさほど高い地位にあるわけではなく、命令は上がアジトから持って来たのを、郊外の林の中など人目につかない場所で直接か、もしくは通信で受けていたそうです。そして何らかの活動をする場合は、直接現地に行って実行部隊に合流していたと」
「ええ……じゃあ、アジトにすら行ったことないわけ?」
「そうですね。自分の地位では、場所を教えてすらもらえないと言っていました」
シェリルはそう言うとため息をつく。
大門周防通騒乱で逮捕した被疑者は、あれからも一切アジトの場所などを吐くことのないまま検察官送致されてしまったため、今度こそはと期待していたようだ。
「そんなありさまでしたが、上からの信用はあったようでしてね。活動の際には実行部隊の三番目四番目くらいの地位につけられ、計画に関してほぼ全貌を教えてもらっていたようです」
「……となると、一応はそれなりの重要人物を捕まえたことになるのかしら」
「そういうことですね。これでこっちの事件のことも知らなかったら悲惨な話なので、こっちとしては実に助かりました」
清香がひじを突きながら言うのに、シェリルは髪をかき上げながらうなずく。
「理由ですが、やはり脅威の排除です。拉致という方法を選んだのは、排除だけでなく見せしめを兼ねられるような作戦だったからとのことでした。いろいろ方法を検討したそうですが、今必要以上に目立たず実行出来そうな方法がこれだという結論に達したと言ってましたね」
「おいおい……見せしめの意味があったってことは、もし出来ると考えたなら極端な話襲撃も辞さないくらいのつもりでいたってことか。歩いてるところを尾行してぶすりとか」
「考えたくありませんが、恐らくそうでしょう。脅威を排除するなら病院送りにするか殺すかするのが手っ取り早いですからね」
「思考がやくざ破落戸と変わらんだろ……さすが劣化コピーの劣化コピーだ」
啓一がげんなりとするのに自分もこめかみをもみつつ、シェリルは続けた。
「標的ですが、サツキちゃんと英田さんでした。とりあえず戦力を殺ぐのが目的なので、どちらか一人でもよかったそうです」
「……二人だけなのか?一緒に俺も標的にしてもよさそうなもんだが。一番槍だし目立つ立ち回り随分したし、脅威に思う理由は充分にあるだろうに」
「そういうことは考慮しなかったそうです。どうせ見せしめにするなら女の方がいい、そんな発想で選んだようでして……」
「いつの時代も発想は一緒だな……。実際にはその女性に倒されて、手が後ろに回ってるわけだが」
皮肉のこもった言葉に、その倒した当人である清香が黙って苦笑するのが見える。
「しかし、あいつらがここまで俺たちを脅威と見なしていたとはな。警戒されるとは思ってたが、ここまで積極的に打って出て来るなんて……。その幹部、かなり分かってるくちか」
「そうですね。この幹部の部下の中に小川がいたので、重力学が脅威になり得る存在だというのをしっかり理解していたそうです」
「ああ、なるほど。身近にいりゃ危険視もするわな」
「さらに言うと部下からの報告を聞いて、大門町での攻撃が重力学の応用、それも未知の方法によるものと見抜いたとか。存外にやり手ですよ」
逆に言うとこれだけよく理解した上で立てられた作戦を一蹴した松村は、そういった分析すらしないし出来ない男だということになるわけだ。
「次に、これは恐らくみなさん大いに疑問に思っていると思うんですが、なぜあそこでちょうどよく計画を実行出来たかということです」
「それだ。漫画じゃあるまいし、ご都合主義になっちまう。行動を知ってないと無理だぞ」
先にも述べたが今回の犯行は備後通の公園に未発見の掘削跡があり、その下見に一同がやって来ることを前提になされたものなので、なにがしかの方法でそれを知らなければならぬ。
この質問に、シェリルは額に手をやって深々とため息をついた。
「簡単です……市から私の方に来たメールが、傍受されてました」
「へ!?お前、そんなこと……」
「そんなことあったんですよ。もう、実に頭の痛い話で」
先にも述べた通り、この世界では何も考えず普通にメールを送っただけでも即座に暗号化がかかるほどセキュリティがしっかりしている。
しかし当然ながら破られることもあり、安穏としていてはいけないのも事実だ。このため定期的にアップデートをかけ、なるたけ新しい方式を使うのがこの国の習慣となっている。
それがどんな時代や社会にも抜けている人々というのはいるもので、市の担当者が使用している暗号化方式は四年前にコロニーが出来た時のまま、既に破られて久しい方式であった。
しかも注意されても理解出来ないという状態で、ずっと最後までその調子であったという。
「こちらが最高レヴェルの暗号化をしていても、あちらがあのざまでは……。片側だけでも傍受出来れば、その時点で何を話してるか大体分かってしまいますからね」
打ち切ろうにも打ち切れないのでなるたけ手早く済まそうとしたのだが、最後に担当者が内容のまとめを確認としてごていねいに全部返して来てしまったため、全てがご破算となってしまった。
「うわ、肝腎のお役所が何てことしてるんだよ……。電気通信省から通達が行ってるのをがん無視してるとしか思えないや。よく分からないんなら、相談すればていねいに教えてもらえるのにさあ」
宮子が耳を引っかくようにぐしゃぐしゃと頭をかき回す。
電気通信省はこの世界の要である情報技術を専門とする省庁のため、個人であろうと行政であろうと困っていればかなり積極的に面倒を見てくれるのであるが、緑ヶ丘市当局には残念ながらそこまで気が回る者がいないようだ。
「偽手引書といい掘削跡といい、どれだけ市は間抜けなんだよ……僕、市民として恥ずかしいよ」
「ま、まあまあ、勝山さん……。でも残念ながら、そのせいでかなり漏れてしまったようです」
「おいおい、責任問われたりしないのか?」
「こっちは何度も『危険ですからアップデートしてください』と警告しましたし、なるたけ文字数も少なめに、回数も最小限に留めましたし……。ここまでやっても相手が非協力的でどうにもならなかったんですから。余り言われても困りますよ」
「頼んでもいないのに全確認を返して来たのに至っちゃ、刑事殿一切悪くないしな……」
百枝が心底あきれたとばかりにため息をつく。
偽手引書の件、掘削跡の件に続き、市にとっては三度目の大失態だ。
「計画を発案したきっかけは、大門周防通騒乱でサツキちゃんと英田さんの面が割れたことでした。顔が分かってしまえば、もうあちらのものです。個人特定なんて朝飯前の連中ですからね」
「……おい、じゃあ名前も居場所もばれてたのか?」
「幸いこっちの守りが固かったので、居場所など一番重要な情報は割れませんでした。ただサツキちゃんの名前や英田さんの『セレナ』という偽名は特定されましたし、二人とも有能な重力学者だということまでは突き止めたとか。なぜ英田さんがメイドをしているのかは、最後まで謎だったそうですが……。ともあれ、大きな脅威であると判断して排除に動くことにしたというわけです」
ここから計画の始動に至るまでの流れは、先にも述べた通りである。
幹部の命令の下、細村たちはまず二人が連邦警察に協力しているのを突き止めた後、シェリルやら捜査本部やらの周囲をかぎ回ってつけ込むすきを狙っていた。
そこに件のメール傍受成功の報が入って来たため、大急ぎで実行が決定されたのである。
「よくやったもんですよ。私がメールをやり取りしてたのが朝ですから、そこから数時間で整えたということです」
この際、作戦として取り入れられたのがシェリルの偽者を立てることだった。
これは元々は別の計画で、シャロンがシェリルに似ているという一部の構成員の言葉から、偽者による捜査攪乱妨害作戦の隠し玉として取っておいたものである。
「なるほどな。……落合さんの偽者は、どういうことだ?」
「あれは全く関係ないとのことでした。偶然かぶっただけだそうです」
「偶然かぶったのに振り回されたのか……まあ、やつらにしてみれば結果オーライじゃあるか」
啓一が吐き棄てるように言った。
「というわけで、あの公園で待ち受けたわけですが、誤算だったのが私が思ったよりもかなり早く来てしまったことでした」
本物がいないうちにさっと拉致して去る予定が狂った上、同一人物が二人いる状態では怪しまれてねたが割れる可能性が高いため、一時は撤退まで考えるほどあわてたらしい。
結果的に一同の眼が猜疑心にくもってしまっていて、本物を偽者だと決めつけ責め立て始めたこと、シャロンを本物と思い込んで標的が自分からこちらへ飛び込んで来たことで、何とか拉致出来るところまで持ち込めた。
しかしやはり無理矢理偽者を演じさせた弊害でシャロンがぼろを出したため、強制的に介入して拉致する羽目になったのである。
この時、清香が細村に金的を食らわせて倒し逃れたため、サツキだけが拉致されるという結果になったのは、既に述べた通りだ。
「流れは分かった。だが、一番分からんのがどうやってやつらが隠れてたかってことだよ。光線欺瞞使ったのは確かだろうが、正直疑問ばかりだ」
「それなのよね。まずあの狭苦しいとこに、どうやったら大の男が何人も隠れられたのかがまず分からないし。撤退の方法もまるで見当がつかないわ。あとあの人数を隠すには相当出力の大きな光線欺瞞装置がいるから、それをどこに置いたのかも……」
清香の言う通り、あの時シャロンの後ろにあったのは木をへし折ってようやく三人入れるかという程度の広さの茂みで、その後ろの建物も扉がなかった。
こんな余裕のない状態で人一人を拉致することに成功したのだから、必ず何かからくりがあるはずなのだが……。
「あの茂みの後ろの建物、公園管理事務所をうまく使ったとのことです」
シェリルの言葉に、一同の眼が点になった。扉もない建物を、どうやって使ったというのか。
「光線欺瞞により隠されていたんですが、あの茂みのすぐ横に事務所の裏口の扉があったんですよ。さらに事務所にはもう一つ、備中通へ抜ける扉もありましてね。この二つの扉の鍵を壊しておき、備中通の道端から建物の中を通って並んで潜伏していたそうです。もちろん、全て光線欺瞞を使っていました。装置については必要最低限のものを除き、使い捨てにしたと」
これを裏づけるように、実際に公園事務所の敷地や建物内ででいくつか光線欺瞞装置が押収されていたとのことだった。
「建物を使ってむかでよろしく数珠つなぎで並んでやがったのか、そりゃ人数入れるわけだ」
「……となると、撤退の時もその扉から?」
「そうです。光線欺瞞装置を持ちながら備中通へ退出した後、ひたすら細道を使って川沿いへ抜け、赤駒地区へ渡ったところで自動車へ押し込む算段だったそうです。拉致した二人はさっさと眠らせて、背負って行くつもりだったとか」
「じゃあ、俺たちがくずおれてる間にあいつら悠然と……!」
「……そういうことですね」
啓一が顔に怒りを上せるのに、シェリルが悔しげに答える。
あの場所から東郊外の赤駒地区まで徒歩で、しかも女性一人を背負いながら大人数で移動となると、さすがに相当な時間がかかるはずだ。
光線欺瞞を使いこなされて察知はまず無理だったと分かっていても、あそこで気づいてさえいればと悔恨の念が尽きない。
「見事にやられたわね……。泣いてる場合じゃなかったんだわ」
「仕方ありません。これは誰も責められませんよ」
シェリルが慰めるのに、悄然としつつも清香は話を変えた。
「……使ったのは、どういう装置なのかしら?そんな大行列を隠すほどってのは、相当出力高くないと。使い捨てにしたくらいだから携帯出来るような小型の装置なんでしょうけど、あの手のものは出力が弱いから、下手すれば百台くらい使わないと無理のはずよ」
「それなんですが……持ち物の中から、かなり急いで作られたと見られる手引書が見つかりました」
「中身はどうなの?」
「直感的に動かせるようにするためか、操作法が全て図解で書かれています。これからこちらでも調べる予定ですが、念のため見てもらえますか」
「いいわよ」
清香は手引書に目を通すと、ややあって分かったというように上唇を一なめし説明を開始する。
「ものとしてはよくあるタイプのやつだけど、操作方法にところどころ明らかにおかしなところがあるわね。出力を稼ぐために不正改造されてる可能性が充分にあるわよ、これ。……例の公園や公園管理事務所にあった光線欺瞞装置って、回収しきれてるの?」
「それがですね……現場からさっき報告が来たんですが、まだ残っているようです。恐らくそのせいなんでしょうか、通るといきなり周囲が真っ暗になる場所がいくつもあるとか」
「その場所には一切触らないよう、急いで鑑識さんに言って。それ、不正改造で出力を極度に上げたせいで起きてる現象よ。しかも無理がかかりすぎて半分壊れかけてる。もう随分時間も経ってるし、いつ暴走してもおかしくないわ」
「暴走ですか……!?止める方法は?」
「装置を壊すのが手っ取り早いわね。でも本体を探さないといけないし、下手に壊すと捜査に差し支えるでしょ?反重力発生装置を複数台持って来て押さえつける方法もあるけど……微妙な調整必要になるの。サツキちゃんがいれば、もう少しスマートなやり方考えてくれるんだけど」
清香は唇を噛みながら悔しそうに言った。
いくら先輩格の研究員とはいっても、出来ないものは出来ないのである。
いみじくも敵方の思い通りになったことに、一同は思わず切歯した。
「とりあえず、現場に指示入れます。本部より備後……」
その中で、シェリルは内蔵通信機でさっと清香の言ったことを伝える。
「一応の注意は入れました。うちから相当人数の技師を出しますので、それで何とかします」
「ええ、それでしのいでちょうだい。現場の経験がある人に頼むのが一番だわ」
「分かりました。鑑識と一緒に行っている人数の確認と……あ、ちょっと指示出しに行くので中座します。なるたけ早く戻って来ますね」
清香が静かにうなずくのに、シェリルはぱっと立って外へ出て行った。
その瞬間、再び部屋に沈黙が訪れる。
サツキに危害が及ばぬ可能性が高いということで最初の通夜のような空気はなくなったが、今度は代わりに一つの困惑が一同の心に広がっていた。
それは、シャロンのことである。既に述べた通り一連の話を聞いたことで一同の処罰感情は限りなく薄れ、赦免してもよい、いやむしろ赦免した方がよいのではないかという空気になりつつある。
しかし一同がどう思おうと、最終的な判断はシェリルにしか出来ぬ。
そもそもこの一件を一つの刑事事件として扱い、その被疑者として逮捕している以上、法に従ってしかるべく処理する必要が出て来てしまっているのである。
シェリルからも出来ることならば見逃がしてやりたいという雰囲気を感じるが、そんなことが出来るような状況ではそもそもないのだ。
検察官送致を保留するという処置を取ったのは、恐らく制限時間までに何とかしようと考えてのことなのだろうが、しょせんは姑息であることくらい本人が一番よく分かっているだろう。
(シェリルのやつ、ほんとにどうする気なんだか……)
啓一がそう思って、眉間のしわをもみほぐした時だ。
「お待たせしました。鑑識課がもう技師を集めていたところだったので、話が早く済みました。技師十人に反重力発生装置五台の体制で、暴走を押さえ込んでみます」
「あ、え、そうね。それくらいの規模でやれば多分大丈夫だと思うわ」
「………?」
清香が妙におたつくのにシェリルは少々首をかしげたが、すぐに座って話を再開する。
「今回の事件についての話はさっきので終わりなんですが、お話しすべき重大な事項があります。実はこの取り調べにより、捜査を大きく進展させる新事実がいくつか判明したんです。場合によっては、松村逮捕に直結させられるかも知れません」
「何だっておい!?」
この発言に、一同が一気に色めき立ったのは言うまでもない。
これまで警察は自白は充分取れていても、証拠に関しては数はあっても採用出来るかどうかという線で引っかかって、逮捕に踏み切れずほぞを噛んでいた。
だがそれが場合によっては出来そうだというのだから、騒がない道理がない。
「お静かに……今回、そのきっかけを作ったのはシャロンさんです」
「えッ、こいつがか!?だって、何も知らなかったんじゃねえのか!?」
百枝が眼を点にして言うのに、シェリルは、
「何も知らないとは言いましたが、何も聞いたり見たりしていないとは言っていませんよ」
意味深な言い回しで答えた。
「……あ、それについては私が自分でもう一度説明します」
それを受けるように、小さく手を挙げてシャロンが話し始める。
「既に刑事さんがお話しした通り、私は松村と極左暴力集団によって一室に監禁されていました。人がやって来るのは見張り以外は夜だけ、緊急時以外一切部屋を移されることもありませんでした」
シャロンの監禁されていた部屋は、コンクリート打ちっぱなしで窓のない部屋であった。
この部屋自体は、必要最低限のものと松村もしくは構成員の私物少々だけが置かれ、あとは便所とシャワーがついているだけの何のことはない部屋である。
扱いが扱いだけにこの部屋を昼に訪う者はなく、彼女は一人きりで過ごす必要があった。
「電源を落とされることはありませんでした。そうすると疲労も抜けないし、けがも治らないので……いくらおもちゃでも、壊れられたら困るということだったんでしょうね」
だがずっと電源を入れられていたといっても、何が自由になるわけでもない。
通信網が遮断されているため空中ディスプレイも携帯電話も使えず、テレビや本や雑誌もなかった。家具もベッドのみである。
そのため、昼は寝ているか、起きてぼんやりと部屋の中を眺めているかのどちらかしかなかった。
「そのおかげと言ったらいいんでしょうか、起きている時に周囲を観察するようになったんです。特に音でしょうか、何かないかと思ってやってるうちに小さな音まで聞こえるように……」
逮捕後の簡易検査によると、シャロンの頭脳にはオプションは一切取りつけられていなかった。
ただ耳の機能が鋭敏であるという結果は出たので、いろいろ音を探っていた際にその機能が思わぬところで発揮されたと思われる。
「耳をすましていたら、遠くに小さく女の人たちの声が聞こえて来るようになったんです」
こんなところに自分以外の女性がいるのはおかしいと、興味をひかれて聞いているうちに、次第に妙なことが分かって来た。
「まず、歳がみんなばらばらみたいでした。しかもかなりの人数いるんです。何度か聞いてるうちに聞き分け出来るようになったので数えてみたら、十人以上いるみたいで驚きました」
しかし面妖だったのが、声がやたら密に感じたことである。
そして何より、会話の内容が異様だった。
「はあ、やっと見張りがいなくなったわ」
「いつまでこんなこと続けるのかしらね……」
「月日の感覚がもうないわ、何ヶ月経ったのかしら」
「いつまでここにいさせるのよ、訊いても答えないし」
「今さら言ってもしょうがないけど、あの時寄り道してなければ……」
「お母さん、病気こじらせてなければいいんだけど」
このような嘆きと心配の声ばかりで、時折泣いているのも聞こえたのである。
「もしかしてどこかからさらわれた人たちが一部屋に押し込められているのかな、と思いました」
「てことは、拉致監禁……!?」
清香がそれを聞いて、とっさにシェリルの方に顔を向けた。
「恐らく。そして、松村で拉致監禁といえば……英田さんも被害に遭った連続拉致事件です」
「………!」
一同が、一斉に瞠目した。
シェリルが話題に出さないため忘れがちだが、この女性連続拉致事件は今も根本的なところで未解決である。被害者ほぼ全員の行方を突き止められていないからだ。
拉致された女性の総数は公式で二十一人。うち発見された清香、発見後に被害者であることが判明した葵とヒカリを除くと、実に十八人が今も行方不明なのである。
捜索部隊を組んでの捜索が続いているものの全く見つかる気配がなく、この件については捜査本部としてもしばしば頭を悩ますところだった。
もっともこの捜索部隊とその捜査網があったおかげで、今回彼らから人員を割いて部隊を組むだけでサツキの捜索を効率的に行うことが出来るようになったのだから、皮肉というほかない。
「……ということは、その女性たちが拉致被害者だと?」
「その可能性が極めて高いです」
そしてさらに、シャロンはここでもう一つ重要なことを明かした。
実は彼女は、女性たちが監禁されていると見られる部屋を、
「自分の部屋の二つ隣」
とはっきり言い切っている。
遠くで音を聞いただけで分かるのかと驚いて詳しく訊いてみると、そういうことではなかった。
実はシャロンは二回だけ、緊急事態のため一時的に別の部屋に運ばれている。
ひどいけがを構成員に負わされ、それを直すためやむなくのことだった。
「一時期、とっても粗暴な人がいたんです。その人にあんまり荒く扱われたせいで、手首が折れたり腕のケーブルが切れたりして。それで大急ぎで修理に……」
二度とも火花が散るなど危険だったために構成員があせってしまい、電源を落とされることなく眼を覚ましたままの状態で運び出されたという。
搬入先は何と隣の部屋で、中は人間用とアンドロイド用双方の手術設備を備えていた。
「おいおい、人を置いてる部屋のすぐ隣が手術室って……普通そんな作りにするか?」
百枝がここで突っ込む。さもありなん、いくら何でも滅茶苦茶だ。
「恐らくシャロンさんがいた区画自体、本来は医療関係の部屋がある区画だったんでしょう。しかし場所が逼迫した結果、手術室に医務室を合併するなどして部屋を空けたんじゃないかと」
「じゃあ何か、こいつがいた部屋も元は別の用途で使われたりしてたのか?」
「設備からすると、元は医療担当者の宿直室か仮眠室だったのではないかと思います」
ともあれこのおかげで、シャロンは断線でショートが止まらないというかなりの重傷でありながら、すぐに修理を受けることが出来た。
一方で、眼を覚ましたままでいたことはシャロンにとってまたとない好機であった。これを期に、密かに周囲を探ってやろうと考えたのである。
「この時隣から女性の声が大きく聞こえたので、あの人たちがいる部屋は私の部屋の二つ隣だと確信したんですよ。技師が『隣うるさいな』と舌打ちしてましたし……」
修理に時間がかかったため、二度とも女性たちの会話に耳を傾けてみた。
普段使わない部屋が使われているのに恐怖して、何をしているのか何かされるのではないかとひそひそと話していたのだが、その中に一つだけ奇妙な会話があったのだという。
「隣、もしかして誰かが変な目に?」
「またどこかから連れて来られたのかしら……」
「気の毒に……きっと縛られて来たんだわ。扉のすき間から見たあの姿ったら」
見張りが回って来たためそれ以上会話は続かなかったが、どうやら以前、彼女たちとは別に女性が拉致されて来てこの部屋に連れ込まれたらしいということだけは分かった。
「この人たち以外にもいるのかって思って聞いてました。でもこの話を信じるなら、場所が場所だけに何かの手術をされたってことになるんでしょうし……気味の悪い話だと思いました」
シャロンがぞっとしないという顔で言い、ぶるりと身を震わせた。
ところがすぐに場の空気がおかしいことに気づき見回すと、果たしてシェリル以外の全員が瞠目したまま固まっている。
「……あ、あの、どうしたんですか?」
「あ、あのね。今さらりと、部屋の位置なんかよりはるかに重大なこと言ったの気づいてる?最後の誰かが縛られて連れて来られた云々ってやつ」
清香が、たらりと汗を流しつつ言った。
「……それ、私か知り合いの子かのどっちかかも知れないわ。縛られて連れられて来て手術室で手術を受けたとか、まるで話がそっくりだもの」
このことである。
シャロンはそれを聞いた後、
「……刑事さんが言ってたの、本当だったんですね」
びっくりしたという顔で、清香とシェリルの顔を交互に見ながらつぶやいた。
「どういうこと?」
「この話をしたら、その手術室で人体改造実験が行われた可能性があることと、その被害者の人が保護されていることを聞かされたんです。その一人が、今来ているとも。あなただったんですか……」
「ちょ、ちょっとシェリル……あなた、彼女に全部話したの」
「ええ、直感的に英田さんか奈義さんのことだと思ったので」
シェリルの言葉に、清香をはじめとして全員が驚きとともに考え込む。
つまりシェリルは清香か葵かどちらかの改造実験が行われたのが、まさにシャロンが修理を受けた手術室だと言いたいようなのだ。
「もっとも、該当者は英田さんしかいないと思うんですが」
余りにすっぱりとした決めつけに、今度は一同の眼が点になる。
確かに清香は縄で縛られて運ばれたが、一方の葵も気を失っていた間に同じことをされていないとは言い切れないのだし、断言するのは早いはずだ。
「その根拠は、次の話を聞けば分かりますよ。……シャロンさん、引き続きお願いします」
「はい、あの話ですね……分かりました」
シャロンの話によれば、彼女の監禁されていた建物――いやもはやアジトというべきだろうが、ここに拉致被害者が監禁されていることが明らかである。
さらには人体改造実験の現場になった可能性が高いということも、ほぼ確定した。
だが、ここで問題になったことがある。
シャロンの言葉通りならばアジトはコンクリート打ちっぱなしの建物ということになるのだが、捜索部隊が探っている場所の中にそのような場所はないのだ。
しかしこんなことでシャロンが嘘をついても何の得にもならないし、内容がここまで明確なのを考えると何か間違いがあるとも思えぬ。
どこか、捜索部隊が目をつけていない場所があるというのか……。
そこでさらに話を聞いて行くと、その手がかりが思わぬ形で出て来たのである。
「その修理も、やらかした人が追い出されたので三回目はありませんでした。そのまま監禁生活に戻って音を聞いて暮らしていたんですが、数日前の夜に部屋の外に人が集まって来まして。誰かと思ったら暴力団だったらしく……もしや何かされるのかと震えが来ました」
だが扉越しに様子をうかがっていると、どうにも勝手が違うようだった。
何やら目的があって集められたものらしく、時折「計画」がどうのこうのと言っている声が聞こえて来る上、何かいろいろなものをこっそりと運び出すような音もする。
一方、いつもやって来ていた構成員はこの時だけ誰も姿を見せなかった。
どうやら、近いうちに何か大人数でやろうと企んでいるように見えたという。
「その翌日でしたか、どやどやとどこかへ出て行って。直後にいきなり上が大騒ぎに。銃声はするやら怒鳴り声は聞こえるやら……細かく揺れ続けるし怖くて怖くて」
この話に啓一が何かを悟ったような顔になり、清香も驚いた顔で固まった。
「とりあえず何があったのかだけは把握しようと、耳を一生懸命すましていたら、急に様子が変わりまして。悲鳴がぎゃあぎゃあ聞こえ始めたかと思うと、それまでとは違う男の人や女の人の声が聞こえて。それで……一つだけ、男の人の言葉で印象に残った言葉が」
「印象に残った言葉?」
嫌な予感を覚えながら、啓一がゆっくりと訊ねる。
「『加茂川で水雑炊食らわせてやれ』って……何で雑炊なんだろうと」
次の瞬間、ごつりという音が室内に響いた。
見れば、啓一が思い切りテーブルに突っ伏している。
「えッ!?どうしたんですか!?」
「……そ、それ、どう考えても俺だ、覚えがある」
このことだった。
読者は大門周防通騒乱の際、大門町の現場に飛び込んで戦っていた啓一が、急に現れた極左暴力集団の構成員を見て激昂し、学生時代の怨み晴らさんとゲバ棒で散々に
この時、啓一が怒りの果てにサツキに対して言った言葉が、まさにこれなのである。
「こいつら川にぶち込んで殺しちまえ」
と言いたかったわけなのだが、よりによって『忠臣蔵』由来の言い回しを使ったため、歌舞伎なぞ知らないシャロンの印象に強く残ってしまったようだ。
つまり「上」で起こった「大騒ぎ」とは大門周防通騒乱の大門町側での戦いのことであり、さらにシャロンの耳に聞こえた声のうち、男や女の声は敵本営で戦った啓一・サツキ・清香の声、そして悲鳴は三人の反重力攻撃に蹂躙された敵のものだと考えられるわけである。
このことはシャロンのいた部屋が、
「大門町で敵が本営を構えた空地の下にある」
ということを示しているに他ならなかった。
これに従えば、拉致被害者の押し込められている部屋や人体改造実験に使われた疑いのある手術室も、自動的にそこに存在しているということになる。
「だから、さっき実験の対象者が私って言い切ったのね。大門町でやられたの私だけだし」
清香が感心したように言ってみせた。
「それに、平沼の証言じゃ『地下研究所』って話だったじゃない。あのうち地下ってところはどんぴしゃりだから、そういう意味でも説得力があるわ」
「そういうことです。私としては、話を聞いた時点でもう大門町のあそこだろうと思っていたので。まさかこんな形でしっかり裏が取れてしまうとは……」
「……何だかすまん」
「いや、別に謝らないでも。おかげで助かりましたし」
啓一が小さくなるのをシェリルがとりなしていると、シャロンが、
「あ、あの……何だか反響すごいですけど、お役に立てましたでしょうか」
おずおずと訊ねて来る。
「ええ、充分なほどに。ご本人たちに聞いてもらったことで、補強も出来ましたしね」
シェリルがしっかりとうなずいてみせるのを見ながら、
「……こりゃあ、確かに大変な事実だ。あそこの下に連中のアジトがあったとはな。しかも拉致被害者がいるわ、人体改造実験の現場まであるわじゃ相当なもんだ」
啓一が深刻な声になって言った。
「まずは拉致被害者の人を救出しないと……まさか、連れ出されてないわよね?どうだったの?」
清香がそこでシャロンの方を向いて訊ねる。
「ええ。出される直前まで、周りの音を聞いていましたから。みんないました」
シャロンがうなずいて言うのに、シェリルもうなずき返した。
「なるほど……なら、早く助けないと。今、その辺どうなってるの?」
この分だと、被害者たちが閉じ込められているのは地下室である。
人によっては数ヶ月閉じ込められている可能性があるため、早く救出せねばならぬ。
「すぐとは行きません。絶対近くに入口がありますので、件の空地を含め周辺の家の見張りを最大に強化します。平沼が松村から『家の地下研究所』と聞かされていたことから、家を経由しての出入りも有り得るだろうとのことで」
「平沼が聞かされたことを右に置いても、出入口としては使いやすいしな」
「そうです。それにあの被害で捜査関係者以外立入禁止にしてありますから、わざわざそれを破って来る輩は十中八九構成員と見ていいでしょう。それを追えばさらに詳しく入口が分かるはずなので、確定したら機動隊と特殊部隊を出して突入し救出する手はずです」
「じれったいわねえ」
「まさか上から壊して入るわけにも行きませんからね。ともあれ中に十八人もの人を監禁している以上、さまざまな物資の補給などがどうしても必要でしょうし、外から人が絶対に入って来ます」
「早く現れるのを待つしかないわね」
清香が不満そうな顔をしつつも、納得したようにうなずいた。
「……それに、いぶり出すことも出来るようにしてありますのでね」
それを見つつ、シェリルはぽつりと意味深なことを言う。
「そういうことですので、これから想定されるパターンとしては……」
そう言いかけた時、いきなりシェリルのそばで呼出音が鳴った。
「ん?誰ですか、携帯電話の方なんて珍しい……って、これ!?」
携帯電話を呼び出して、シェリルが固まる。
そして、画面を見ながら、
「サツキちゃん……!?」
そう叫ぶように言ったのだった。
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