九 邂逅

 ロビーに出たサツキの許に市から電話がかかって来たのは、工事開始予定時刻の一時間前だった。

「二週間の休工に一月程度の工期延長……ですか」

『はい。会議の結果、そう決まりました。工期延長に関しては最後まで何とかしようとしたのですが……もはや避けられまいという話になりまして』

「そうですか。では、休工中は私たちには特に用はないということでしょうか」

『大変申しわけありません。緊急のお知らせがある場合、ご連絡する程度になると思います』

「諒解しました。ただ私たちは出張の身、これからどうするかは研究所に一度報告して上の指示をあおがないといけません。それについては結果が出次第、速やかにお知らせします」

『それですが、当方からも連絡を入れて説明させていただきました。お相手は第一研究部の部長さんだったのですが、とりあえず真島さんにも電話してほしいとのことでした』

「分かりました、そうしておきます。ともあれことの次第は、いなにもきちんと伝えておきますので。ありがとうございました」

 そう言って一度切ると、サツキは研究所に電話をかけ始める。

 さすがにここまで大規模な変更を迫られるとは思わなかったのか、やれ会議だ何だと実にあわだたしい雰囲気で、ついでとばかりに愚痴めいた言葉まで聞かされる始末だった。

 ひとしきり話したところで電話を切ると、サツキははあ、とため息をつく。

「……お母さん混じえての緊急会議ですって。結論出るまでしばらく待ってなさいと」

「こっちはこっちで大変なことになったな」

「困ったわね……。こっちは一ヶ月だからって来たのに、さらに一月とか」

「こういう場合、どうなるんだろうな」

「工期延長で出張期間が延びるのはあるわよ。実際入りたての頃に技術の人たちについてったら同じようなことになって、数日だけ延びたことがあるから。でも結局決めるのは部長やお母さんたちだから、結論はあっちから電話来るのを待つしかないわねえ」

「うーん……となると、今日は待機か?」

「建前はそうだけど、その辺結構緩いの。前の時には『連絡さえきちんと取れるようにしておけば別に出かけても構わない』って言われてるからって、先輩方と郊外に出かけたわよ」

「随分とまあ自由だな……」

「うちの研究所、そういうところあるのよ。仕事さえきちんとすれば、それなり自由にしててもいいっていうね。時折、これで大丈夫なのかと思うのも事実だけど」

 サツキはそう言うと、ロビーの隅に置かれたウォーターサーバーの水を飲み干した。

「ああ、頭パンクしそう。昨日のあれはいくら何でも情報量多すぎよ」

「ごめん、俺もその情報過多に加担したんで……」

「いや、あれは仕方ないでしょ。……水ばかり飲んでても何だし、何か買いましょ」

「あ、俺も買うわ」

 ぽいと紙コップをくずかごに捨てながら、入口横の自動販売機の前に立つ。

「……正直言うとね、延ばすなら一月といわずもっと延ばしてほしいんだけどね」

「やっぱり、あいさんのことが気になるのかい」

 サツキはボタンを押すと、黙ってうなずいた。

「シェリルは可能性にすぎないって言うけど、あれ聞いちゃったらね」

「気持ちは分かるが、あんな複雑なことになってちゃ手が出せないぞ。さらに、どう考えても一般人が関わったらまずいのが噛んでるかも知れないとなったらな。警察にまかすしかないよ」

「はあ……しかし、部下の人はどうしてるのかしらね。シェリルは何も言わないけど」

「どっかに潜り込ませてあるんじゃないかと思ってる。そこまでさすがにあいつも言わんだろ」

「それもそうね。普通より教えてくれるってだけで、全部話してるわけじゃないもの」

 さっそく缶を開けて飲みながら、憂鬱そうに言う。

 啓一がペットボトルの蓋をひねると、サツキは、

「……ねえ、郊外行ってみない?」

 唐突に言い出した。

「郊外?この街としては、ここが既に郊外の扱いみたいだけど」

「そりゃそうだけど、あのいけ好かない中心部が見えるじゃないの。私、あれが見えないところに一度でいいから行ってみたいのよ」

「だが、この辺以外のところへうかつに出るのはまずくないかな。何かあった時に対応出来ないぞ」

「一度でいいのよ、他に危なくないところがあったら行ってみたいの。後生だから」

「うーん……」

 サツキがここまで懇願するのも、理解は出来る。

 何せ仕事は停滞に追い込まれ、外出は安全上この地区に限定され、さらに清香の失踪に反社会的勢力が関わっている可能性があると言われ……という状態なのだ。

 これで逃避したくならない方が、むしろおかしい。

 啓一はうなずくと、受付のベルを鳴らした。

「すみません、この地区以外でどこか安全で気晴らしになるようなところはありませんか」

 受付は少々考え込んだようだったが、

「そうですね……中心部の東を流れる緑川を越えたところに、雑木林のある広い田園地帯があります。東京の多摩地区から移住した方が造成した地域なので、再現が本格的ですよ」

 そう言って散策用と思われる観光地図を呼び出し、説明を始めた。

「この地図に載っている『赤駒あかごま』『やま』『横山よこやま』という三つの地区、この周辺ですね」

「ありがとうございます。……あれ、この一番南に少しだけ見切れている『みなみはら』というところは?」

 何の気なしに啓一が訊ねると、なぜか受付は一瞬わずかに顔色を変え、

「ああ、そこですか。南原は企業の所有地になっているので、散歩に向いた場所ではありません。もっともつながる道が地区の中央を通る道以外にないので、そもそも出ることもないでしょうが」

 ぱたぱたと手を振って答えてみせる。

「あとこの南原との境目にある緑地に、緑川を渡って中心部へ向かう歩行者用の橋が架かっています。この緑地内にいる分には特に危険はないですが、ここを渡るとご存知の通り出る場所があのありさまですので、よほどのことがない限りは使わない方がいいです」

「分かりました。……って話だが、行ってみる?」

「そこには変な連中はいないんですね?」

「ええ、警察もいないのを確認しているそうですし」

「どうやって行くんですか?」

「当ホテルの前に『植月町』という停留所がありますので、そこから横山車庫行に乗ってください。北からめぐりたければ『赤駒本町』で降りるとちょうどいいと思いますよ」

 交通局のサイトと周辺の写真を出しながら説明するのに、サツキはにっこりとほほえんだ。

「ありがとうございます」

「じゃ、行こうか。まさか一人で行かせるわけにもいかないし」

「そうね、行きましょ行きましょ」

「お、おいおい……」

 いやににこにこしながら背中を押して来るサツキにおたつきつつ、啓一は一緒に玄関を出て行ったのであった。



 しばらくして、植月町停留所で二人は無事に横山車庫行の乗合を捕まえた。

 植月神社の参道下を過ぎて少し進むと、乗合は本通へ出て行く。

『次は本通三丁目、本通三丁目、敷島しきしまどおり入口です』

 車内放送を聞きながら車窓を見ていた啓一は、そこでおかしなことに気づいた。

 桜通との交叉点に停留所が設置されておらず、そのまま通過してしまったのである。

 あんなやくざな場所とはいえ曲がりなりにも中心歓楽街、無視どころか通り自体なきがごとき扱いをするというのはいかにも奇妙だ。

 もっともここにかたぎの市民はいないというし、やくざ破落戸どもにも乗合なぞ使う用事はないだろうから、需要のないものを設置する必要がないと言えばそれまでである。

 だがやはりここまで露骨だと、桜通との関わり合いを嫌がってわざと無視を決め込んでいるのではないかと邪推したくなるのも事実だった。

 本通の突き当たりにある市庁の前を鍵の手に曲がり、大きな川を渡って雑木林の中を少々走ると、そこが赤駒本町である。

「おや、こいつはなかなか……」

 名前が「本町」という割にはそのような雰囲気はなく、周囲は林の中であった。

 雨は降ってこそいないが、映画『となりのトトロ』で主人公姉妹がトトロと乗合を待った「稲荷前」停留所の雰囲気である。

(そういやあの姉の名前も『サツキ』だったな)

 たわいもないことを思い返してくすくす笑う啓一をよそに、サツキはうきうきしている。

 今日の服装は一応何かあったらということでスーツにしているだけに、何とも妙な感じだ。

「赤駒に山野に横山か……『万葉集』の防人さきもりのうたにある『赤駒をやまはがし捕りかにて多摩の横山かしゆからむ』から取ってるんだな、こりゃ」

「え、短歌にちなむの?」

「ああ。九州を警護する防人に徴兵された東国の人や家族の歌だ。『赤駒を山野に放って捕まえられぬまま、多摩の横山を歩かせて行かねばならないのだろうか』。詠んだのは女房だったかな。防人はえらく過酷だから、もう二度と会えないかも知れないっていう気持ちのこもった悲壮な歌も少なくない。ここの場合は、単に有名な歌だから取ったってだけだろうけど」

「………」

 啓一の説明にサツキは一瞬暗い顔をしたが、すぐに、

「あそこの遊歩道、歩いてみましょうよ」

 下を流れる川端の遊歩道を指差す。

 玉川上水を模したものだろうか、桜と思われる木が川端に植えられ、のどかな歩道となっていた。

 下りてみると、ちょこちょこ人が歩いている。

 獣人の夫婦が肩を寄せ合っていたり、人間の老人が杖を突いて歩いていたり、人間も獣人もアンドロイドもごちゃ混ぜの若者集団がしゃべり合いながら流していたりと、橋一つ越えた先が殺伐とした反社会的勢力の根城とは思えないほどの別世界であった。

「葉っぱ、さして赤くないわねえ」

「十月頭だよ、少しばかり早くないかい?環境が地球と一緒なんなら来週くらいじゃないか」

「それもそうね」

 てくてくとそぞろ歩きしながら、サツキが上機嫌で答える。

 緑ヶ丘に来てから、こんなに笑った彼女を見たのは初めてだ。

「それにしても、想定外とはいえ休めてよかったかも。気分がくさくさしてたから」

「昨日の夜辺りから、顔がそう言ってたよ」

「あらやだ。……それにしても、見てると私たちみたいな格好の人いないわね」

「普通なら仕事してる時間帯だからなあ。昼休みまではまだあるし」

「それもそうね。そんな時間にこうしてスーツ姿の男女が仕事でもなさそうな雰囲気で語らい歩いてるって、通る人は何だと思うかしら」

「さあな、さぼりと思われたりして」

「不粋なこと言うわね。そこは一つ、『デート』くらい言っておいて……」

 そう言いかけた瞬間、サツキの顔が真っ赤になる。

(えッ……?)

 このそのものの反応に、啓一は意外の感にとらわれた。

 男性をいきなり同居させて平然としていることといい、ごく普通に手に触れたりしていることといい、異性に対する耐性が人並み以上にあると思っていたからである。

 どうやらサツキ嬢、同じ異性に対するでも助けたり親切にしたりといったことでは恐ろしいほどに積極的だが、恋愛要素が入るといきなり奥手になるくちのようだ。

 今のもありがちな冗談で返そうとしたところ、気づいて急に恥ずかしくなってしまったのだろう。もし他人が見たなら、漫画やアニメでもあるまいしと言いそうな過剰反応だった。

(まあそっちでも積極的なら、とっくに恋人くらいいるだろうからな。それに彼女みたいな美女がこんな三十路みそじ醜男ぶおとことデートなんて有り得ないし、そっちの意味でも恥ずかしいだろうさ)

 そう思って苦笑した啓一は、自分の顔も少々赤くなっていることに気づいていない。

「……と、ともかく!これってどれくらいまで続いてるのかしらね」

 振り切るように言い、サツキは話を無理矢理変えた。

「この用水路自体はさっきのでかい川から分岐した後、弓なりに流れて横山集落の南でまた合流してるみたいだな。遊歩道の終点が緑地って言ってたけど、そこに堰でもある感じかね」

 空中ディスプレイに受付でも見せられた観光地図を出して、啓一はいろいろと調べる。

「現在位置は……ありゃ、気がつかないうちに結構来たな。山野地区の中に入ってる」

「結構この地区狭いのね。すぐに通り抜けちゃうわ」

「だね。……しかしコロニーってどう考えても計画都市だろうに、新星といいここといいよく考えて作られてるよな」

 実際他のコロニーの地図を見てみても、本当に計画都市かと思うほど自然な街の形となっている。

 中心部では整然とした街路も見られるが、「定規でまっすぐ線を引いて作りました」というような「わざとらしさ」がなかった。

「モデルがあるからってのもあると思うわよ。それとやっぱり移住して来た人にしてみれば、せっかく長く住むんだから愛着が湧く街並みの方がいいじゃないの」

「そうだなあ……」

 啓一は、筋違橋すじかいばしへ出かけた時のことを思い出す。

 中央区の「新星橋通り」は日本橋と銀座、その横は有楽町と丸ノ内。

 後者は昭和の戦前戦後が混じったような感じだったが、いずれにせよ東京生まれや東京をよく知る人の愛情を感じる街並みだった。

 事故で異世界、さらに宇宙へ転移などというとんでもない目には遭ったが、そういった思い入れを大事にする人々のいる世界へ飛ばされたのはまだ幸いだったかも知れぬ。

「ここの中心部も、市庁の位置を城跡に擬制して城下町っぽくしてあるんだよな。通りのつながり方や町の区割がそうなってる。それだけに、もったいねえよなあ」

「………」

 サツキは何も答えなかった。今あちらのことは考えたくないということか。

 失言だったかと啓一は口をつぐんだが、すぐにサツキから不快そうな雰囲気は消えた。

 ぴくり、ぴくりと耳が動いている。何かをじっくり聞いているような感じだ。

「……いい音ね。新星は都会だから、どうしてもこういうのとは縁遠くなるわ」

 先にも述べた通り、新星市は我々の世界での旧東京市十五区に相当する街である。多少「郊外」と呼べるような場所はあるが、ここのように田園や雑木林の広がる本格的な「郊外」はないのだ。

 隣へ足を伸ばせばあるにはあるが、それをやっている暇が普段彼女にあるかというと疑問である。

 それだけに、この感慨ももっともと思えた。

「そうだろうね。元の世界の東京でも、二十三区の人にはそう縁のある光景じゃなかったしな」

 雰囲気を壊さぬようそれだけ答えて、啓一は静かに歩みを進める。

 そうして二十分ほど進むと、対岸にひょいと乗合の車庫が顔を出した。

「あれ、もう横山集落に入ってたんだな」

 啓一が、そんなことをひとりごちた次の瞬間である。

 ごんと鈍い音を立てて、道のど真ん中の木にぶつかったものだ。

「あ痛ッ!?……お、おい、こんなとこに木かよ!?」

「何やってるの、ここ緑地みたいよ?」

「あ、本当だ。終点になってるっていうあれか」

 見れば、眼の前には木に囲まれた小さな緑地がある。

「恥っずかしいなあ」

「まあ、私も絶対ぶつからない自信があると言ったら嘘になるわね、この位置は」

 思わず苦笑し合ってしまった。

「いいわね、ここ。少し入るだけ入ってみない?」

「そうするか。あの橋の周りだけ注意すればいいだろうし」

 緑地の右奥には、果たして受付が言った通り中心部へ向かうらしき細い橋が架かっていた。人が余り通らないと見えてやや荒れているが、むしろこの場合はそちらの方が安心出来る。

「そういえばこの先、南原なのね」

「ああ、そうみたいだ。企業用地って言ってたけど何なんだろうな」

「観光用の地図だからかしら、社名書いてないわねえ」

 果たして十分ほどで、二人は緑地の奥までたどり着いた。

 啓一が想像した通り堰があるようで、そこの部分だけ木が途切れ開けている。

 が、その時だった。

 眼の前に広がった光景に、サツキが呆然とする。

「え、工場?何でこんなところに?」

「ひい、ふう、みい……おいおい、三つもあるぞ」

「散歩に向かないっていうのは、このせいもあったのね。社屋だけならともかくこんな大きな工場が立ち並んでるんじゃ、確かに到底勧められないわ」

 いきなり今までの雰囲気をぶち壊しに来た工場群に驚いていると、正門とおぼしき場所に車が止まり誰かが降りるのが見えた。

 護衛つきのところを見ると、この工場を所有している企業のお偉いさんだろうか。

 それを眺めていた時であった。

「啓一さん、あ、あれ……」

 サツキがいきなり身を震わせながら、工場の上の方を指差す。

 そちらを見て、啓一は瞠目した。

「『一新興国産業本社第一工場』だって……!?」

 瞬間、啓一は転移の直後に天河てんかわどおりを案内してもらった際のことを思い出す。

 あの時、サツキはこの会社――一新興国産業がいかにやくざな会社かを話してくれたはずだ。さらに、社長や幹部に反社会的勢力とのつながりが噂されているとも。

 サツキは凍りついていた。新星にあるのは支社で本社は別にあると知ってはいたが、まさか緑ヶ丘にあろうとは夢にだに思わなかったのだろう。

「……どうして」

 サツキの口からようやく言葉が出た。見ると、泪を浮かべている。

「どうして、せっかく一時とはいえ反社や破落戸とかから離れられたのに、ここまで来てまたこんなもの見なくちゃいけないの……?この街は、かたぎの人をいじめたいの?」

「サツキさん、それは……」

 その瞬間サツキは身を翻し、弓弦ゆんづるに弾かれたように走り出した。

 必死で追い駆けるが、そのまま橋へ突入してほぼ全速力で駆け抜けて行く。

 種族の違いもあるのだろうが、余りにも速すぎてなかなか追いつけなかった。

 普段のサツキならやくざ企業の一つ目撃したところで眉をしかめはしても、我を失って逃げ出すことはなかっただろう。

 だが来たその日からこちらやくざ破落戸の雨あられにさらされ続けたことで、精神的にもろくなっていたことは想像に難くなかった。

(くそ、間の悪い時に!……とにかく早く止めないと!)

 このままでは、走るまま妙なところに突入して事件に巻き込まれかねない。

 だが、その予想が当たってしまった。

 「朝日通」と案内板に書かれた通りに飛び込んだのを見て入ると、何と破落戸が彼女を追い回していたのである。

 これに啓一がぷつりと切れた。今のサツキにとって、一番会わせたくない連中である。

「てめえら、何してやがる!!」

 大音だいおんじょうで呼ばわると、サツキを助けに飛び込んだ。

 しかしけんかなぞしたことのない啓一にとって、これは余りに無謀である。すぐに防戦となってしまい、通りの隅へ追い込まれた。

 殴りかかろうとする破落戸の手を何とか避けるが、余りにしつこくきりがない。

 とうとう啓一は、ここでついに最終手段に出た。

えいッ!」

 バランスを取るため開きっぱなしになっていた破落戸の股を、思い切り蹴り上げたのである。

 いわゆる「金的」というやつだ。情けない戦法だが、この際構っていられない。

「むうん……」

 睾丸たまも潰れよと手加減なしにやったためか、破落戸はそううめいたきりどおっと倒れた。

 男の性というやつだろう、急所中の急所をやられたのを見て他の破落戸がひるんだ一瞬を突き、

「サツキさん!こっちへ!」

 啓一は叫ぶとサツキの手を取って走り始める。

「神明社だ、神明社へ!」

 ここで啓一は、昨日シェリルから話を聞いたばかりの「駆け込み宮」を使うことにした。

 横道に飛び込んで破落戸をまきつつ、神明通を探す。

 ややあって、一神明いつしんめいづくりの社殿を持つ神社が見えて来た。社殿の造りからして、あそこで間違いない。

 鳥居横で巫女が掃除をしているのを見出した啓一は、

「すみません!助けてください!」

 力の限り叫んだ。

 すぐに察したのだろう、巫女はほうきを放り出すやすっ飛んで来て、二人を拝殿へ導く。

「早く!早く入ってください!」

 だが破落戸の方が速く、階段を上がりかけたところで鳥居の向こうに顔が見えた。

「くそッ、あそこだ!拝殿入られたら手出し出来ねえぞ!」

「構うもんか、引きずり下ろしてやれ!」

 礼拝所がどうしたと言わんばかりの破落戸の叫びに、二人が青くなったその時である。

 いきなり境内のどこかから男性が飛び出して来たかと思いきや、鳥居をくぐって拝殿近くまで吶喊して来た破落戸の前に思い切り立ちはだかったものだ。

けがれの塊が鳥居をくぐるんじゃない」

「こ、この!何だお前は!」

「三下の常套句だね。名乗る義理はない」

 煽るような言葉に、破落戸が男性を殴りつける。

「正当防衛成立」

 そう言うや、男性は破落戸を一気に蹴り倒した。まさに一瞬のことである。

「こ……」

 もう一人も飛びかかろうとした直後に、斜め上から首許に手刀をぶち込まれて尻餅をついた。

 場所を考えると、気絶しなかったのが奇跡である。

「見てないで早く入って!あと通報!」

 男性の叫びに我に返った三人は、あわてて拝殿に飛び込んだ。

「覚えてやがれよ!」

 表でどたばたと足音が響く。どうやらかなわぬと知って逃げ出したらしかった。

「……捨てぜりふまで三下か」

 そのつぶやきを扉の外に聞きながら、巫女が警察に通報する。

「すぐ来ますから、安心してください」

 耳をぺたんと伏せて震えるサツキを抱きしめながら、巫女が言った。

 ややあって、警察官が数人やって来て拝殿の扉を開く。

「大丈夫ですか?けがはありませんか?」

「ええ、何とかこちらの巫女さんと、応戦してくれた男の方のおかげで……」

 ようやく躰の震えが止まったサツキが、真っ先に答える。

「応戦された方というのは、そちらの方ですかね」

「えッ、違います。俺は一応やりましたけど逃げる方が先で。それとは別に、そこの鳥居辺りで正当防衛取ってのめしてくれた人がいるんですよ」

 思わぬことを言われて、啓一はそう説明した。

 だが警察官は眼を丸くすると、

「おかしいな……そんな人いませんでしたが。おい、ここ来た時に誰かいたっけかー!?」

 扉を開き鳥居近くにいる同僚に大声で訊ねた。

「いえ、いませんでした」

 すぐに戸惑った声で答えが返って来る。

「おかしいですね、確かにいたのに」

「どんな方だったか見ましたか」

「いや、この騒ぎでしたし、後ろ姿しか見ていません。ただ少なくとも人間だったのは確かです」

「人間ですか……それじゃ分かりませんね」

「ああ、そうだ。どういうわけかここの境内にいたんですよ、その人。参拝者だったのかな」

「なるほど。はやしさん、ご存知ありませんか」

 啓一の言葉に、警察官が巫女に問う。この神社に来る人物なら顔見知りの可能性は高いはずだ。

「いえ、知りません」

 「林野」と呼ばれた巫女は、あっさり否定する。

「分かりました。本当は交番に来ていただきたいのですが、その様子では無理ですよね。ここでお話をお聞きします」

 サツキは震えこそ止まったものの、躰から完全に力が抜けており立てる状態ですらなかった。

 警察官もその辺は予想していたようで、書類を持参して来ている。

「……なるほど、よく分かりました」

 啓一とサツキが語るのを質問を繰り返しながら書き留めると、警察官は、

「訊くまでもないと思いますが、被害届を出されますか」

 そう言って書類を出した。この用意のよさ、どれだけこの手の被害が多いのか物語るようである。

 うなずくと、警察官の代書を混じえながら作成が始まった。

「禾津さん、今回は仕方ありませんが股間を狙うのはなるべく避けた方がいいです。金的で死ぬ人もいないではないので。過剰防衛どころの話じゃなくなります」

「申しわけありません。しかし、実に情けない話で……」

「いえ、充分やったわよ。むしろ悪かったのは、あそこでおかしくなっちゃった私の方だもの」

「いやそれは……この頃のことを思うと責められないさ」

 人は心が疲弊しきっていると、どうしても情緒不安定になって崩れやすくなるものである。

 躁鬱などと揶揄するなかれ、誰であろうと人は弱いのだ。

「それでは、これで捜査を進めますので。出来れば助けに入った方も見つけたいですが、この分だと名乗り出でもしない限りは無理ですね……。もし何かあったら、連絡させていただきます」

 そう告げると、警察官は帰って行った。

「はあ……厄落としになったかと思ったら、数倍以上の厄がついて来やがった……」

 がっくりと肩を落とす啓一に、林野女史が茶を勧める。

「ああ、すみません。同僚の様子まで見ていただいて……ほんと、警察に注意されるようなやり方でしか立ち向かえず逃げる一方とは、情けない限りだ」

「ご自分を責めないでください、真島さんの言う通り充分に出来ることをしたんですから。禾津さんがいなかったら男三対女一です、この通りに逃げることすら難しかったでしょう」

「まあ確かに……」

 彼女の言うことも事実ではあった。自分がいなければサツキはどうなっていたか。

 だがやはりその場にいたからには、他人に必要以上の迷惑をかけることなく、一人で追い払ってしまうにしくはないはずだ。

 警察官は「まず逃げろ」と言うそうだが、尻尾巻いてすごすごというのもみっともない話である。

 啓一は暗い顔をしていたが、そこでさっきから気になっていたことを訊ねた。

「すみません、突然話が変わりますが……もしかして、先日新星の筋違橋ですれ違いませんでしたか?お連れの方の落とした乗船券を拾った者です」

「えっ、ああ!どこかで見た覚えがあると思ったら……」

 騒ぎのためすっかり話に上らなかったが、相手もうすうす気づいていたらしい。

「恐れ入ります。私はこちら、緑ヶ丘神明社の宮司兼巫女を務めますはやしみずと申します。このたびは、我が街の者が大変なご迷惑をおかけいたしまして……」

「いえ、頭を上げてください。あんな破落戸、そちらの市民だなんて思いませんから」

 深々と頭を下げる瑞香をサツキが取りなすが、

「そうは行きません。同じ土地にいる以上は言いわけなりません」

 小さくなって言うばかりだ。筋違橋で見かけた時もそうだったが、非常にまじめな女性らしい。

「ところで、どちらにお泊りですか?一度目をつけられていますし危険ですから、お帰りの際にタクシーをお呼びしますよ」

「植月町の『ビジネスホテルよしやす』です。植月神社の下辺りの……」

「あッ、そこだと……もしかすると百枝さんに頼めば」

 場所を聞いて瑞香が言うのに、啓一ははっとなった。

「そういえば、倉敷さんと一緒に歩いてましたよね、あの時」

「そうです。百枝さんと直接お会いになったんですか」

「ええ、二人とも」

「まあ、それは。宮司と巫女の職にありながらとてもがさつで荒っぽくて口の悪い人でしょう、失礼があったなら親友として代わりに謝らせていただきます」

「いえいえ、ああいう鉄火なご神職や巫女さんがいてもいいと思いますよ」

「そうでしょうか……。私は心配でならないんですが」

 瑞香がそう言った時だ。

 着信音が鳴ったのを聞いて、サツキが手許に携帯電話を出現させる。

「もしもし、真島ですが……ああ、所長ですか。会議の結果が出たんですか」

 どうやら相手はハルカらしい。見ればひるぎ、相当経っていた。

 しばらく話をすると、サツキはこっちを向いた。

「研究所から。結局、工期に合わせて延ばすって話になったわ。詳しいことは会議の経緯いきさつ含めて、また後で連絡するって」

「うーん、じゃあ帰った方がいいかね?というより、大丈夫かい」

「ええ、もう大丈夫よ。さっさと帰りましょ、疲れたわ……」

 二人ともうなずき合う。もうこれ以上のことは充分だ。

「じゃあ、百枝さんに電話します。いいでしょうか」

「あの……倉敷さんに迷惑じゃないですかね」

「いえ、こうして迎えに来てもらうことが多いので」

 さらっと言うが、とんでもない話である。

 やはり自分たちのように植月町に泊まっている者が迷い込んでしまい、こうして世話になることが多いのだろうか……。

 気まずい気分のまま、二人は瑞香のかける電話の声を聞いていた。



「ひどい目に遭ったもんだねえ。まさかあんたたちがあそこの世話になるなんてさ」

 車のハンドルを握りながら、百枝はため息をついた。

 あれから……。

 十分ほどして、百枝の運転する軽自動車が鳥居の前にやって来た。

 事情を聞いた百枝は、

「そりゃもう、すぐに帰った方がいい。いかな破落戸でも三歩歩けば忘れる鳥よか頭はいい、このままじゃまた出食わすぜ」

 そう言って急いで二人を乗せたのである。

「啓一さん、あんた思い切って潰しちまえばよかったんだよ。あんな連中の金玉なんざ、後生大切にしてやるこたあない。生ごみはぶち砕いて袋ごと捨てるのがマナーってもんだ」

 相当頭に来たのか、男でも控えそうなほどの悪罵をしてのける百枝に二人は引き気味となった。瑞香が心配する気持ちが多少ながら分かる気もする。

「しっかしなあ、一新興国産業のやつらめ……あたしらに迷惑かけるだけじゃなくて、よその人にまで不意打ちで精神攻撃するとかどれだけ糞ったれなんだか」

「余りいい噂を聞かない企業だとか」

「本社のあるここじゃいい噂を聞かないどころか、悪い噂ばっかりだよ。大体、あいつらが来たせいで緑ヶ丘の街が全部狂っちまったんだからな。今さら言っても後の祭りだが、表面上業種がまともだからって認めちまったのがまずかった」

「………」

「悪い、この話はやめておくことにするか。あたしが話すと怨み節だ。詳しいことは刑事殿か別の人に訊いてくれ」

 サツキが暗い顔になったのを見て言わない方がいいと思ったか、百枝はそれきり一新興国産業のことを口に上せなかった。

 途中乗合に抜かれながら、車は無事植月神社の下にたどり着く。

 安心したのか、ふらつくサツキを支えながら啓一は車を降りた。

「ありがとうございます、お手間をおかけしまして」

「本当にすみません、こんな体たらくで」

 口々に礼を言うのに、百枝は、

「まあ、いいってことさ。……ここなら安全だから、宿に帰るでも買い物するでもすればいいよ。下からごみが来たら、あたしがどやしつけて掃除してやるから安心しな」

 軽く笑うと、立てかけてあったほうきを手に取る。

 どうやら参道下周辺を掃除していたところで呼び出されたようだ。

「……どうするかね。宿に帰ろうか」

「いや、ちょっと待って。まだお昼を食べてないわ」

「いっけね、それがあったか」

 ホテルの食堂は朝のみの営業なので、こればかりは外で食べないとどうしようもない。

「ま、しょうがないわな。手早く食べちまおう」

 そう言って歩き始めた時だ。

「……一体どこへ」

 小さな声で誰かがぶつぶつ言うのが聞こえて来る。

 ふと振り返ると、参道にほど近い生け垣の前でメイドが腰をかがめて何かを探し回っていた。

「何か探しものですか?よければ手伝いますよ」

 啓一がそう申し出て近づくのに、彼女は顔を上げると、

「お願い出来ますか。メイドがこのようなことを頼んではいけないのですが……あれ」

 啓一の顔を見た途端に驚いたような声を上げる。

「もしかして、先日奥宮近くでお会いした方でしょうか」

「ええ、そうです。もしかしてと思ったらそうでしたか。あの時は失礼しました」

「いえ……それより、先ほどこの生け垣のそばを通った際、うかつにも枝に接触して缶入りののど飴を落としてしまいまして。小さいものではないのに、なかなか見つからないのです」

「どう落ちたんですか?」

「袋から飛び出て生け垣の中へ。落ちた音がしないのでどこかに引っかかっていそうなのですが」

 再びかがんで、二人が探し始めた時だ。

「あれ?もしかして啓一さんの後ろに引っかかってるやつかしら?」

 いつの間に近づいて来たのか、サツキが指差しながらそう言ったのである。

「えッ」

 一斉に立ち上がると、何と随分上の方にのど飴の缶が引っかかっていた。

「どうしてそのようなところに……」

「さあ……でも本当に見つからなくて困った時は、視点を変えるといいってほんとね」

 サツキは久々に笑うと、缶を手に取ってメイドに渡そうとする。

 そして、立ち上がったメイドとしっかり顔を合わせた瞬間である。

「……英田先輩!?」

 凝然としていきなりそう言ったものだ。

「………」

 メイドはその言葉に一瞬無言となったが、ややあって、

「……恐れ入ります、どなたかとお間違えではないでしょうか。私はセレナと申しまして、この上の家でメイドをしておりますアンドロイドです」

 冷静な声で答える。

「………!す、すみません!顔つきが今探している知り合いに似ていたので」

「それは……」

「そ、そうよね、英田先輩の髪もっと青色がかってるし眼の色も濃いめだし。第一先輩は人間なんだし、その時点で有り得ないわよね。どうかしてるわ、私」

 そうまくし立てて顔を赤くしながら、セレナに缶を渡した。

「……ありがとうございます。残念ながら、その英田さんという方については何も存じ上げません。私は敷地を巡回するか、こうして臨時の買い物に出るかくらいでしか外に出ませんので」

「サツキさん、気持ちは分かるけど種族違いじゃさすがに他人の空似ってやつだ。……すみません、ちょっと彼女、人探しをしていまして」

「そういうことでしたか。お手伝いしたいところですが……残念ながら先のような状況ですので、お力にはなれないかと存じます」

「いえ、構いません。気にしないでください」

 サツキの言葉を聞きながら、セレナは缶をしまい、

「改めて感謝申し上げます。それでは、お嬢様がお待ちですので失礼いたします」

 メイドにつきもののカーテシー(足を軽く組みスカートの両端をつかんで持ち上げる礼)をていねいに行うと、神社横の宮の坂を上って行った。

「はあ、びっくりした……。本気で本人かと思ったわ」

「そんなに顔つき似てたのかい。……というより俺、英田さんの顔知らなかったわ」

「あ、そうだったわね……これ」

 サツキはすっと携帯電話を出すと、一枚の写真を見せる。

「この私の横の人」

「ああ……分からんでもないな。特徴的な眼してるし」

 指差された女性の顔を見た瞬間、啓一は納得した。

 確かに青灰色の髪と橙色の眼を黒と山吹色に変えれば、あのセレナになるといえばなる。

「でもなあ、あのメイドさん少し細めじゃなかったか?服のせいかも知らんが」

「あ、あらやだ、そうだった?そこまで間違えるなんて……」

「しょうがないんじゃないか、それだけ必死なんだし」

 しゅん、と耳を垂れるサツキをそう慰めると、啓一は、

「しっかし何だ……何者なんだろうな、あの人の主人とやらは。この街の状況を考えると、隠棲してるってのはいかにも怪しそうだが」

 腕を組みながら言った。

「それはさすがにうがちすぎじゃないかしら」

「いや、そうでもないですよ」

「そうか……ってうわあ、シェリル!?」

 突然背後に現れたシェリルに、啓一はのけぞる。

「い、いきなり現れるな、このからくり人形!」

「禾津さんまで『からくり人形』呼ばわりですか……」

 げっそりとした顔をするシェリルに、啓一は苦笑した。

「あのですね、私たちの仲ですから冗談で済みますけど、下手に言っちゃいけませんよ。種族差別扱いになることがありますから」

「す、すまん」

 啓一が小さくなるのにシェリルが一つため息をつくと、

「それより『そうでもない』ってどういうこと?あの人のご主人に目をつけてるってこと?」

 サツキが話を元に戻す。

「有り体に言えばそういうことですね。私と一緒にいた部下二人がいましたでしょう」

「ああ。あれから顔見てないが」

「それはそうです、桜通で探りをかけてる最中なので。で、この二人が特定の日に何度も同じ人物が妙な行動をしているのを見かけたんです」

 当初、潜入していた刑事はこの人物を気にも止めていなかった。

 しかし余りに何度も現われ、何度も同じアダルトショップをはしごしていることに気づいたため、とりあえず追ってみることにしたのだという。

 すると、何とも意外なものを探していることが分かったのだ。

「何でもですね、新しい等身大ドールが入っていないかと訊いて回っているんだそうです。さすがに毎回ではないようなんですが……」

 等身大ドール、つまりはの処理に使う人形のことである。

 正直かなり高いもので、高級品になると我々の世界では数十万はするものだ。

「要は『オランダ妻』のリアルなやつか」

「そうですね。ただあんな特殊な代物、そう置いてあるものじゃないでしょう」

「そりゃそうだ、無理がある」

 確かに、値段と大きさとを考えるとそう簡単に置いてあるわけがない。

 もしあるとすれば、それ専門の店くらいだ。数がどれだけあるかは知らぬが……。

「それを入ったか入ったかと、定期的に何度も同じ店で訊くなんて普通じゃありませんよ。単に運が悪くて手に入らないだけなのかも知れませんが、やはり何か妙な意図があるんじゃないかと勘繰ってしまいます。些細な異変でも、意外な手がかりにつながることは少なくないですからね」

「うーん……言われてみればな。というより、取り寄せすりゃいいだけの話だろうに」

「それは私も思いましたね。現物を見て選びたいのかも知れませんけども」

「ものを考えると、分からんじゃないが……」

 啓一はそう言って首をかしげた。確かにただ探しているにしては、いささか面妖である。

「そこでまず何者かを突き止めるため、尾行をしてみたんですよ。すると何と、ちょうどこの坂を上へと上がって行ったそうなんです。道が狭くて目立つというのでそれ以上の尾行は断念されましたが、面相だけは確認したため聞き込みをしたところ、一番上に住居を構えるジェイ・ヤシロという人だということが分かりました」

 聞いたことのある苗字に、啓一が食いついた。

「おいおい、何だ?その人、もしかすると植月神社の裏隣にある家の主人じゃないのか?前に倉敷さんから苗字だけだが聞いたぞ」

「そうなりますね。ご存知でしたか」

「そこ、家人はほとんど外出しないって話だったんだが……まさか主人が悪所通いしてたとはなあ。ひとり者ならまだしも、同居人がいるんだぞ。現にさっきそこんちのメイドさんと会ったし、もう一人女性もいるっぽいから……最低三人家族になるはずだ」

「ええ、同居人がそれだけいるってのに変な話ですよ、誰か見とがめないのかと」

 ここまで言ったところで、サツキが話に割り込んで来る。

「ちょっと待って。いろいろ不審な人なのは確かだけど、見張って何か甲斐がありそうに思えないわ。反社の捜査って大変そうだし、手がかりがほしいのは分かるけど……」

「確かにそれだけなら、そのうちこちらも監視対象から外した可能性はあります。何が出るか分からない場所ですし、他のところなら驚くような不審者が普通にいてもおかしくないと」

 ところが、意外なところでそれがただの不審者ではなくなった。

 宮子がさるサーバをハッキング中、別の場所からハッキングが行われていることを発見したのが、そのきっかけである。

 自分たち以外にそんなことをする者がいるのをいぶかしんだ宮子が、慎重に発信元をたどったところ、何とヤシロ宅附近から行われていることが分かったのだ。

「えッ、それって、あそこの主人が……」

「恐らくはそうでしょう」

 一方でともすれば反社会的勢力に益するかも知れない行為を取りながら、一方でその懐を探るような行為をしている。

 こんな矛盾を行っている可能性があるとなっては、放っておくわけには行かなくなった。

「何か警察に隠したままで独自に調べてるとかかしら?」

「有り得ますが、意図は全くもって不明です。何のデータを見ているかだけでも分かれば予想もつくんですが、何せ『恐ろしいだれでもう一度触ったら多分逃げる』と勝山さんも言うほどですから無理でしょう。せめてヤシロさんがやっているという確証さえ取れれば、いろいろ口実つけてでも事情聴取出来るんですが……」

「あなたのところも大変ねえ」

 サツキがため息をついてそう言った時である。

 いつの間にか、百枝がすぐそばまでやって来て話を聞いているのに気づいた。

 だが、様子が少々おかしい。ヤシロ家に興味がないと言っていたのに、必死に聞いているのだ。

「……倉敷さん、どうかしたんですか?」

 思わず不思議の体になって啓一が呼びかけると、百枝は、

「うお、な、何だい」

 我に返ったようにおたおたと答える。

「いや、わざわざ来てまで聞いてるんで……何かあるのかなと」

「ち、違うよ。隣人が桜通通いのやつだなんて、聞き捨てならないじゃねえか」

「まあ、それもそうですか」

 その様子に首をひねりつつ、啓一は二人の方に向き直った。

「しっかし、その分だと俺の予想は外れたなあ。もしかすると、あの人が『高徳』やってたりしないかな、なんて思ってたんだけど」

「……それはさすがにないと思いますよ、禾津さん」

「そうよ。それに技術者なんだし、古典文学なんてまず縁がないでしょ」

 シェリルにじとりとした眼で否定され、サツキに一笑に付された啓一は、

「ええ……倉敷さんはどう思います?」

 百枝に助けを求めるように水を向ける。

 だが返って来たのは、

「え……違うんじゃね?」

 何とも頼りない声での否定だった。

 いつもなら苦笑しながら伝法な口調で返しそうなものを、少々妙な感じである。

「……というより、『高徳』のことどこで知ったよ?」

「いや、シェリルからなんですがね……」

 そう訊ねて来る百枝に、啓一はさっと昨日の話をしてみせた。

「そうか……しかしそんなもん、よく手に入ったな」

「投函し損ねたらしく、玄関先に落ちていたそうです。それに住民が気づかずにいたのを、通報を受けた警察官が発見して……という流れだと聞きました」

「あー……疲れててとちっちまったかな?」

「まあ、どう考えても幽霊や妖怪の類じゃないでしょうから疲れるでしょうね」

 百枝の言葉にシェリルが苦笑混じりに言うのに、啓一も思わず笑ったが、

(………?)

 何やら引っかかるものを感じていぶかしげな顔となる。

 どうやらシェリルやサツキもそうだったらしく、軽く首をひねるなどしていた。

 場が妙な雰囲気になったところで、百枝が急にサツキの方を向き、

「あ、そんなことよりさ……サツキさん、早く帰った方がよくね?」

 今までの話を振り切るようにして声をかけた。

「そういえば……何だかとても疲れた顔してますね。何かありました……?」

 シェリルが心配そうに言うのに、これまでの経緯いきさつを説明すると、

「運が悪かったですね……ほんとに」

 一瞬絶句してようやくそれだけ言う。

「一新興国産業もいろいろあるためうちの捜査対象なんですが、この分だとお話はやめておいた方がいいですかね。第一、失踪事件の話からかなり大きく外れてしまいますから」

「そうしてくれ。かなり精神的にまいってるし、今日はこれ以上はやめで頼む」

「分かりました。……サツキちゃん、どうかお大事に」

 そう言うとシェリルは背伸びしながらサツキの頭を一なでし、どこへともなく去って行った。

「はあ……お腹すいたわ。ショッピングセンターのフードコートでも行きましょ。……それじゃ倉敷さん、失礼します」

「……失礼します」

 そう言って一礼し歩き出すのに、啓一も頭を下げてゆっくりと歩き出す。

 百枝はそれをいやに険しい顔をして見送っていたが、すぐにきびすを返して掃除へと戻った。

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