八 義士・高徳

 正午を知らせるサイレンが鳴ったのは、ちょうど二人が検査を半分終えた時だった。

「ん、正午?片側だけで随分かかっちゃったわね……。反対側は検査出来るようになったのかしら」

「遠くてよく見えないが、どうやらまだ作業やってるみたいだぞ。まだ駄目じゃないか?」

「困ったわね、両方検査しないと結論出せないのに」

 その言葉にすぐそばにいた監督の技師が、無線機を手許に出す。

「訊いてみましょう。……おい、そっち検査出来そうか?」

『まだ無理です。予想以上に手間取ってまして』

「どれくらいかかりそうだ?」

『あと一時間は確実に……もしかするともう少し超えるかも』

「ううむ、困ったな。……真島さん、いなさん、ちょっとこれはしばらく無理ですよ」

 こちらを見て盆の窪をかく技師に、サツキは、

「仕方ないです。戻ってしばらく待つことにしましょう」

 空中ディスプレイを消しながら答えた。

 ひょいとプールの隅に張られた昇降用反重力場に入り、飛び上がったサツキは、

「……こういう時、技術の人がうらやましくなるわ」

 作業用の出入口へつながる台に着地しながらぽそりと言う。

「自分の専門領域なのに助けられないなんてね、切ないわよ」

 ここに来てサツキは、このような言葉を何度言ったか知れぬ。

 同じ重力学の知識を持つ身でありながらアドバイス役に甘んじざるを得ず、苦労を強いられている技師たちを直接助けに行けないことが耐えられないのだ。

 サツキの専門分野はあくまで理論研究であり、技術研究ではない。大工が家を建てている現場に普段研究室ごもりの建築学者を呼ぶようなもので、お呼びでないというのが正直なところだ。

 こういうことを一切考慮せず「知名度」の一点だけで呼んだ市当局を、一体何を考えているのかと問いつめたくなる。

「………」

 啓一はこういう時、何も言わないことにしていた。

 あの近寄りがたい数式や理論と戦って来たサツキにとって、「知識」とはおのれのきょうとするところに他ならないはずである。

 それが通じないとまでは言わぬまでも、満足に使うことが出来ないというのは蛇の生殺しだ。

 啓一も転移直後から今までの知識がまるで役に立たなくなりかねないことに恐怖し、研究所で助手を始めても役に立てない無力感に長くさいなまれている身である。方向性は違えど、彼女の気持ちを理解するには充分だった。

 変に安い慰めは言わない。その類の言葉で嫌な思いをしたことなぞ数知れぬだけに、それを通すことにしたまでだ。

 話を元に戻そう。

 天幕まで戻って来た二人は、困惑した顔で椅子に座った。

「それにしてもまいったわね。せっかくいいソフトを作ってもらったのに」

 そう言いつつ、空中ディスプレイを出し、取ったデータを軽くチェックする。

「ああ。重力学関係の検査ソフトで、こんな分かりやすいのあるもんなんだな」

 啓一もディスプレイを触り、ちょいちょいとデータを点検し始めた。

 いつもがいつもの状態だけに、ソフトを触ることが出来ているというだけで驚きである。

「これはとてもいいものだわ、簡易なソフトでここまでの機能を備えてるのはそうあるもんじゃないもの。勝山宮子さんだったかしら、こんな優秀な人材が埋もれてたなんてね」

 宮子の作ったソフトは、とにかく「分かりやすく高機能」の一言に尽きた。

 重力学で使用する各種ソフトは研究者や技師が使うため、極めて専門性が高く使い方もデータの見方も難解である。簡易なものもあるにはあるが、あくまで補助的なものであって本格的な使用にたえるようなものはまずないのが実情だ。

「確かにすごいんだよな、どの数字を拾えばいいか検査しながら見当つくんだから。取り扱いも難しくなくてすぐ慣れるしさ」

 普段データ整理しかしない啓一がこう言うのだから、相当なものである。

「こういうのって、もっとあってもよさそうなもんだけどな。学問が難しいからソフトまで難しくなけりゃいけないって法はないんだから」

「言えてるわ。研究者や技師にしか需要がないとはいえ、きちんとした機能さえ備えていれば使いやすいものもあったっていいのよ。いつも小難しい計算してられるとは限らないんだし……。いい加減歴史が長いんだから、もっとそういうことも考えなくちゃね」

 サツキがそう答えた時、建設部の職員の横で通信機の呼出音がした。

「こちら本部……何ですって?」

 何やら不穏な声に、サツキが耳をぴくぴく動かして聞き耳を立てる。

「なるほど、事前調査内容に不備があったらしいということですか?ええ、ええ、かなりかかりそうだと。工期に影響は……ええッ、そんな」

 職員の声は、どんどん深刻なものとなって行った。

「……うっわあ、大変なことになった」

「どうしたんですか」

「どうしたもこうしたもない、数ヶ所調査不備でストップ。工期に響く可能性が出て来た」

「ええ!それ、早く連絡しないと!!」

 どたばたと足音が響き、今度は電話の声がする。どうやら市庁に連絡しているようだ。

 振り返ると、職員たちの顔は蒼白である。もはや嫌な予感しかしなかった。

 やがて、建設部の責任者がこちらへやって来る。

「すみません、お二人とも。緊急事態です」

 責任者はそう言ってことの経緯いきさつを説明すると、

「工期延長となると大変な話なので、市庁で今緊急会議が開かれています。その間動けないので、今日はこのまま休工にしろとの命令です。恐れ入りますが、本日はこれで終了ということにしていただけますか。私たちは市庁に行きますので」

「私たちはついて行かなくても大丈夫なんですか?」

「建設部からは、職員と監督技師、あと該当箇所を担当した技師のみでいいと」

 それにサツキは一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに戻り、

「分かりました。技術面のことです、理論専門の者の出番はなさそうなので仕方ありません」

 当てこするようなとげのある言い回しで返事をした。

「いや、そういうわけでは……」

「ま、まあ、諒解しました。上の方がいいというのなら、そうしますから」

 あわてて啓一が間に入り、その場を収める。

「よろしくお願いします。明日どうするかは、またお伝えしますので」

 そう言って責任者は奥へ戻って行った。

「サツキさん、あんな言い方はよくないよ」

「……だって、形式上とはいえ立ち会いなのに」

「分かるけどさ。この状況で無理に連れてけとは言えないじゃないか……」

「……はあ。仕方ないわ、撤収しましょ。仕出しのお弁当は、宿で使うことにしましょうか」

 ため息をつき、不承不承サツキは撤収を開始する。

 恐らく市庁側は緊急ということで純粋に職員と直接の関係者だけを集めようとしたのだろうが、それが彼女の技術面を扱えないという劣等感を刺戟してしまったようだ。

 わらわらと車に乗る職員や技師を尻目に、二人はプールのある体育館の敷地を出る。

「……どうしましょうかね。宿に戻る?」

「まずは研究所に電話した方がよくないかな?工期に影響が出たら俺たちの出張期間も変わるぞ」

「じゃ……」

 サツキの電話の声を聞きつつ、啓一はひょいと道の向こうを見た。

(そういや煙草がもうなかったな……)

 そこには飲料と並んで煙草の自動販売機がある。この世界ではチェリーは現役銘柄なので、多分入っているはずだ。

「……仔細が分かるまで待機ですって。まあそりゃそうよね」

「さもありなん。とりあえず、煙草買っていい?」

「いいわよ、そこでしょ」

 どこか仏頂面で言うサツキと一緒に自動販売機のところまで行くと、チェリーを買う。

 そして取出口から箱を取り出し、立ち上がった時だった。

 いつの間にか隣に人が来ていたらしく、どんと尻に衝撃が走る。

 そして、尻相撲の要領ですっ転びかけてしまったのだ。

「わわっ、すみません!大丈夫ですか!」

 大あわてで体勢を立て直して振り向くと、そこでは、

「だ、大丈夫です。僕、猫ですから」

 何と宮子がペットボトルを持って立っている。

 先日現場に来た時と違い、長袖シャツにジャージというラフな格好であった。

「何ですか?」

「いや、特に」

「啓一さん、女性をじろじろ見るのはよくないわよ」

 サツキのたしなめ声にそちらを向くと、なぜかむくれている。まだ機嫌が斜めらしい。

 余り怒ることも引きずることもなく、まして当たることもしない彼女にしては珍しいことだ。よほど外されたのが気に入らなかったのだろうか。

「ああ、あいさつを忘れていました。神社で一度お会いしましたが……改めて。国立重力学研究所の助手、禾津啓一です」

「私の方も改めて。同じく国立重力学研究所の研究員、真島サツキです」

「これはごていねいに。フリープログラマーの勝山宮子です。そういえば、きちんと顔を合わせるの初めてですね」

 ぱたぱたと細長い尻尾を振りつつ、小さな耳をかいて宮子は言った。

「扱いやすくて助かっています、あのソフト。従来のものは、どうしても一発で慣れるようなものじゃないですから……」

「専門家の方にそう言ってもらえると、僕も作った甲斐がありますよ」

 尻尾をぴんと張りながら照れる宮子に、サツキは笑ってみせる。

 その時、ぱたぱたと小さな足音がして、

「勝山さん、ここにいたんですか」

 何とシェリルが姿を見せた。

 植月神社で宮子がひるをしていた時連れ戻しに来たことから察していたが、やはり仕事上深いつき合いのある仲のようである。

 その時だ。笑っていたサツキがいきなりむくれ顔に戻ったかと思うと、

「出たわね、からくり人形」

 驚くような言葉を放った。

「か、からくり人形!?」

 尋常ならざる発言と態度にのけぞるシェリルに、ずんずんとサツキが迫る。

「あれから何も言って来ないで……あい先輩のことはどうなったのかしら?」

「え、いや、それは、しっかりあるはあるんですが」

「あるなら、多少は話してくれたっていいでしょ?」

「でもそちらは仕事がありますし……って!?」

 そしてたじたじとなるシェリルにいきなりつかみかかったかと思うと、

「吐かせる!首を取ってでも吐かせるわ!生首持って語りなさい!確保お!」

 後ろから絞め上げ、無茶苦茶なことを言いつつ首を上に引っ張り始めたものだ。

「私は被疑者じゃ……チョーク!チョーク!」

「あなたは息しなくても大丈夫でしょうが!」

「デュラハンは勘弁ですよ!」

 完全に乱心したサツキの行動に、啓一と宮子がそろって引きはがしにかかる。

 果たして悪戦苦闘の末取り押さえられたサツキは、しばらくして落ち着くと、

「はあ、はあ……ごめんなさい、機嫌が悪かったんでつい」

 息の荒いまま謝った。

「ついじゃないですよ……ちょっと点検、点検」

 あきれたような声で言うと、シェリルは首を横からつかんでこきこき回す。「点検」という辺りがアンドロイドらしいというべきだろうか。

「………」

「い、いやね、勝山さん。彼女、普段はこんな荒っぽい人じゃないんですよ?何だか今日は、よほど鬱憤がたまってるらしくて……」

 呆然としている宮子に、啓一は肩で息をしながら弁解した。

 だが宮子は何か考えるような素振りを見せた後、

「……『英田』さん?ねえシェリル、それって失踪者の一人でしょ?今反社の件とのつながりを捜査してなかったっけ?」

 思い出したような顔をしながら言う。

「あッ!勝山さん、私の許可なく言っちゃ駄目だと……」

「シェリル?」

 サツキの声に、シェリルはあわてて首を押さえる。

 また抜かれると思ったのだろうが、サツキは、

「反社の件とのつながりって、どういうこと?」

 毒気を完全に抜かれて深刻な顔つきとなっていた。

「もう……!」

「ご、ごめん。これだけ必死なんだからと思ったらつい」

「はあ、気持ちは分かりますけどね……。本当は私の方から頃合を見て話そうと思ってたんですが、もうそんなこと言ってられなくなりました。……じゃあ勝山さん、お二人を自宅に入れてもいいですね?そのお弁当も使う場所なさそうですし」

「え、ええ?僕の家汚いよ?」

「いいですね?」

 拒否権はないとばかりにシェリルに迫られ、宮子はうなずく。

 シェリルに追い立てられるようにして自宅へ案内させられる宮子に半ば同情しつつ、二人はその後について歩いて行った。



 宮子の家は、すぐ近くにある平屋の一軒家だった。

 入ってみると一人暮らしでほぼ家にこもりきりらしく、玄関廊下こそきれいなものの、自室は床の上に本や雑誌が散らばったり服があちこちに放置されていたりとなかなかの状況である。

 二人はそこの大きめのテーブルで弁当を使った。シェリルが無理矢理承諾させたのである。

「国家権力の濫用だ……」

「捜査情報を漏洩した人が言えた立場でしょうか?」

「ええん、この子怖いよー!お巡りさーん!」

「私もお巡りさんですが、何か」

 漫才のようなかけ合いに苦笑しつつ弁当殻を片づけると、シェリルと宮子が向こうに座った。

「では、さっそく話に入ります。まず先に言っておかないといけないんですが、英田さんの件と反社の件は本来全く別の件のはずでした。最初から結びついていたわけではありません」

 そういえば、船の中でも何か捜査案件がもう一件あるようなことを言っていた気がする。

 あの時別の話だと部下が制止に入ったところを見ると、本当にあの時は関係がなかったのだろう。

「まず英田さんの方から入りましょう。新聞では概要しか発表しませんでしたが、実際の捜査ではもう既に目撃者とは接触を果たしています。中心部の神明しんめいどおりにある神社・緑ヶ丘神明社を管理している人間の巫女さんです」

 その巫女の話によると……。

 五月十六日の早朝、一人の女性が必死の形相となって境内に駆け込んで来たのだという。

 その時「破落戸に追われている」との訴えを受け、すかさず女性を拝殿へかくまったのだ。

「神明通は桜通から少し離れた場所にある通りなんですが、中心部では唯一と言っていいほど治安のいい場所でして」

「え?諸悪の根源の近くなのにか?」

「それがですね、その巫女さんが中心になって近所の人たちとともに根気強く破落戸の追放に力を注いだ結果、奇跡的に排除に成功したんです。だから神明社も、何かあった時の駆け込み寺ならぬ『駆け込み宮』になっているとの話でした」

「でも踏み込んで来るでしょ、あいつらなら」

 これはサツキである。確かに神仏なぞ屁とも思わなさそうな連中だ。

「それは、かくまった場所が社務所じゃなくて『拝殿』なのがみそなんですよ」

 シェリルがそう言うのに、啓一が反射的に、

「……礼拝所不敬罪取るつもりか!」

 手を打って言った。

「よくご存知ですね、その通りです」

 礼拝所不敬罪は、我々の世界での日本の刑法にもある罪だ。寺社仏閣・教会や墓地・慰霊碑などの宗教施設や信仰の場において、公然とその神聖や尊厳を害した場合、簡単に言えば極度にばち当たりな行為をした時に適用される。

 その判定は極めて厳しく、我々の世界では嫌いな家の墓地に何度も「小便ひっかけてやれ」と言って立ち小便の真似をし続けただけで成立、罰金刑に処せられたことすらあるほどだ。

 本殿のご神体を礼拝するためにある拝殿に徒党を組んで殴り込むなぞ、自分から捕まえてくださいと言っているようなものである。

「市警の話だと、実際に初期にこれで何人も現行犯逮捕したとのことです。それが見せしめになって、さしもの破落戸連中も『神社へ手を出したら捕まる』と理解するようになったみたいなんですね。まあ住居侵入罪でも逮捕出来ますが、本格的にあきらめさせるには特別な場所として認識させた方が都合がいいでしょう」

 それでも完全に追い返せるわけではなく、構わずに踏み込もうとする輩も少なからずいるというのだから実に度し難い話だ。

「話が横道にそれましたね。まず状況確認をと追って来た連中を扉のすき間から確認しようとしたんですが、いなかったそうです。何とかうまいことまけたのではないかとのことでした」

 それより巫女が気になったのは、女性の服装の乱れだった。

 下はベルトが緩んだスーツのスカート、上はジャケットもなくシャツだけ。

 穴が開いてぼろぼろのストッキングに、固いものにぶつかったような跡のあるパンプス。

 シャツは中途半端に裾が入れられてはみ出している上、転んですれたような傷と汚れがあり、どう見ても単に追われていただけとは思えなかった。

「待て、それって……やばいやつじゃないか?」

 啓一がひどく嫌そうな顔をする。もしそんな事件となったらとんでもない話だ。

「それは否定出来ませんね……。一度脱いだか脱がされたかしているのは確実ですので」

 実際巫女もそれを疑ってかまをかけてみたのだが、女性は、

「因縁をつけられて追い回されていたんです」

 その一点張りであったという。何かを隠しているのは明らかだった。

「ただ、助けた人が事情を隠すこと自体は珍しい話ではないそうです。恥ずかしがったり、後ろめたいことがあったり……。殊にそういう犯罪の場合、まず話すとは思えませんし。あまり無理矢理訊き出そうとはせず、警察にまかせることにしているとか」

「まあ言いたくないなら、わざわざ問いつめることもないわな。どのみち、保護したからには警察に届けないといけないわけだし……」

「……で、ここからが問題でして。ともかく汚れをふこうとタオルを取りに行ったすきに、忽然と姿を消したんだそうです」

 これに巫女は真っ青になった。あの格好のままでこれ以上うろつくのは危険極まりないし、また追われでもしたらおしまいである。

「周囲を探しても見つからず、ともかく警察に来てもらったそうですが……結局行方不明のまま。面相と服装と年格好の情報を頼りに、周辺の住民に聞き込みをしましたが坊主とのことでした」

 そう言うと、シェリルは手のひらに当時描かれた似顔絵を出した。

「似てるような、似てないような……。色つきはないの?」

「ないんですよね。とりあえずある情報だけで、何とか合成してみます」

 超能力者のように念じると、数分かけて画像に色がつく。

「これでもまあ似てるかも……としか言えないわ」

「何せ十分やそこらのことだったそうですから、完全なものは望めませんね」

 盆の窪をかくシェリルに、サツキは、

「でも、なぜこんなに経ってからその話が出て来たの?」

 いぶかしげに問うた。

「それはもう、表向き連続失踪事件との関係を見出せない事件だったからということに尽きますよ。これで関係を見出せるとしたら、それはもう超能力者です」

「でも面相まで分かってるんなら、関連情報を調べるくらいはしないものかしら?」

「ちょっとそれは厳しいですね……。この手の駆け込み事件は件数自体が非常に多い上、助けられたのに再度行方をくらましたという例もあまたあるので。事件が次々飛び込んで来る状態でそういう人の捜索までするわけですから、どうしても深く掘り下げられないまま打ち切るしかないんだそうです。そんなですから、他の場所と違い過去の事件の遡及が難しくなるというわけでして」

「だから掘り起こすのが遅れたのね……」

「そういうことです。もう仕方ないですよ、これは」

 軽く首を振るシェリルに、サツキは渋い顔をしてみせる。

 もしここで掘り下げて捜査していたならば、いずれは両者が結びついて解決が早まった可能性も充分あったのだから当然だ。

 だがこういう事件が日常茶飯事の土地とあっては、かなり早くに見切りをつけて処理をしないと業務に支障が出るというのも理解出来るので、一概に市警を責めることは出来ないだろう。

「この話についてはここで一旦切ります。ただし、事件の起こった『五月十六日』という日付だけは覚えておいてください」

 含みを持たせながら、シェリルは話を次に進めた。

「次に反社に関する捜査ですが、緑ヶ丘にはかねてから暴力団などの反社が潜伏しているという噂があります。破落戸連中の中にもその手下がいると」

「ああ、倉敷さんから聞いた。あの植月神社の巫女さんな」

「その噂なんですが、ほぼ確定です。実際に暴力団関係者が中心部各所で目撃されていますし、彼らによる示威行為や不審行為もいくつもあります」

 シェリルは机の上へ水平に大きな空中ディスプレイを出すと、あたかも広げた地図のように触り、桜通と東隣の通り数本を強調表示させる。

「南部では神明通以外の全ての地区で、暴力団関係者が破落戸に示威行為を指示しているのが何度も目撃されています。今もかなりのものですが、神明通の破落戸追放運動の時が一番ひどかったですね。風俗店と出店拒否や客引き排除などで対立すると、すぐに暴力団から指示が飛んで破落戸が騒ぐという事態が頻発していました」

「風俗店が雇ったのかしらね?」

「いや、元々関係があるのかも知らんぞ。ああいうのは暴力団のしのぎであることも多いからな。取り締まりはどうなってんだ?」

「残念ながら、自らの手を汚さずやっている連中ですから。捕まえて泥を吐かせても、三下も三下だったり雇われだったりでろくな情報が得られません」

「ただ、あそこに暴力団を頂点とする組織体系があることだけは確かだよ。連邦警察はいくつかそのネットワークとおぼしきものをとらえてて、僕がそれを何度もハッキングして証拠を捕まえようとしてるんだ。でも敵もさるもの引っかくものだよ……」

 一見関係なさそうなハッカーの宮子が、捜査に参加しているのはこのためだったのだ。全国有数の力を持つという彼女が破れないとは、一体どれほどのセキュリティだというのか。

「そういうことですね」

「なるほどな。……ちょっと話がずれるが、ハッキングによる捜査って大丈夫なのか?どう考えても、令状ないと出来なさそうだが」

 我々の世界では捜査でハッキングを使うこと自体がほとんどなく、意見がばらばらだ。

 それでも、盗聴や傍受と同じようなものだと認識されているため気になったのだが……。

「ええ、大丈夫ですよ。令状もしっかり取ってあります」

「そうか。やっぱり捜査システムとしてあるのな」

「そうですよ。今回みたいに特殊な例の場合、こうやって民間人に協力をお願いすることも可能でしてね。……あ、とりあえず言っておきますが、内緒ですよこれ」

 それにしては百枝が知っていた気がするが、何せ普段が普段なので知人の間で「公然の秘密」になっていても決しておかしくはないかも知れぬ。

 もっとも人前で堂々と仕事の督促をする時点で、本気で内緒にする気があるとは思えないのだが。

「話を戻しまして……北部でも全域に渡って暴力団員や破落戸、また詳細不明ながらそうではないかと疑われる不審者が多数目撃されています」

 シェリルは、今度は本通をはさんだ北部の全面にさっと手のひらを滑らせた。

「この赤い点は、今までこちらが把握している目撃場所を示したものです」

「おいちょっと待て、真っ赤じゃねえか」

「そうなんですよ。北西部では、三下や破落戸が周辺の家と何度もトラブルを起こしていまして。ただし、既に過去の話になりつつありますが……これはまた後で」

 そう言うと、北東部にある「大門だいもんちょう」と書かれた周辺を拡大してみせる。

「問題は北東部、その中でもこの一帯です。絶対的な目撃数は少ないんですが、こちらの方が悪質なんですよ。連邦警察もここはずっと警戒していまして……既に一回がさ入れもしました」

「がさ入れですって!?」

「……もしかしたら、こないだ倉敷さんが言ってたのはこれか?この辺の家が反社をかくまってて騒ぎになった云々っての」

「まあ、騒ぎには違いないですね。現実はそんなものじゃ済みませんでしたが……」

 啓一が言うのは、ここへ来た初日に百枝がついでのように言っていた話であった。騒ぎどころか家宅捜索だったとはさすがに思わなかったが。

「元々ですね、ここの住宅近くではちょこちょこ怪しい人物が目撃されてたんですよ。いろいろ小ざかしく偽装したりしてますが、三下くらいはしょっちゅう」

「でもね、あいつらお行儀がいいんだよねえ、桜通辺りと比べると」

 宮子がいまいましげに言った。

「確かにここでは、上から言われてるのかかなり慎重に動いてますね。北西側が結構派手な時は派手なだけに、不気味なほどです」

 当然、簡単には尻尾を出さぬ。このため大門町界隈は、かなり長く人の目をかいくぐって動く反社会的勢力とすきを狙って摘発の手を構える連邦警察とが睨み合うという状態になっていた。

 だが、それが大きく動く事態があったのである。

「そのうち一軒の家に、今年摘発された暴力団の残党が出入りしていることが分かったんです。さらに探りを入れると、簡易なアジトとしても使われていることが判明しまして」

 これまで目立つ動きが見られなかった状況で、いきなりこれである。

「これで反社会的勢力の牙城を少しなりとも崩せるかも知れない」

 そう連邦警察が勇んだのは言うまでもなかった。

 しかもよりによって捜索の直前に、まるで招かれたように幹部や三下とおぼしき者たちが身を隠しながら家に集まって来たという。運がよければ、残党の殲滅も望める好条件だ。

 だがそう気合を入れていざ捜索と門前に立った時、いきなり怒鳴り声と烈しい物音がしたかと思うと、何発もの銃声が轟いたのである。

「虚を突かれました。内部で烈しい抗争が始まったんですよ」

 あわてて踏み込むと、そこにあったのはかばねの山と血の海であった。

「かくまっていた主人は既に射殺、幹部と思われる連中も射殺に意識不明の重体で搬送先で死亡、残ったのは三下ばかりというありさまでした」

 せっかくの家宅捜索が、ただの屍拾いとつまらない鼠捕りと化したことに、捜査員たちがいたく落胆したのは言うまでもない。

「よりによってそれは運が悪いわね。遺体の身元や生き残りの供述から何か分からないの?」

「主人は投資家ということだけは分かっているのですが、身辺や経歴に不明な点が多い人物です。投資していた企業ですら、一社を除きはっきり分からないほどなので。幹部とおぼしき連中も同じ状況で、捜査が非常に難航しています」

「どうやら、誰かがこいつらのデータを湮滅いんめつして回ってるらしくてさ。尻尾を一度つかんでやったと思ったんだけど、するりと逃げられて……。こうなるともう捕まらないよ」

「連邦警察の専門捜査官でも追跡を振り切られてもおかしくないような相手だったので、そうしてつかみかけただけでも相当なものなんですが……」

 シェリルの言葉に、宮子が悔しそうな顔をしてみせた。

 眼の前で獲物に逐電ちくてんされたのだから、ハッカーとしての矜恃をいたく傷つけられたのは想像に難くない。

「三下どもは一応泥を吐きまして、あれから別の組織に雇われていたことが分かりました。しかしみな単に『組織』とだけ呼んでいて、詳細はまるで分からないと言うんです。頭目はおろか上層部の連中もどこの誰かも知らないし、本拠地も知らないと。組織内でも下の方には徹底した秘密主義を貫いているようで、末端の鼠を捕まえた程度ではどうにもならないことが分かりました」

「集まった理由や抗争に至った経緯いきさつは?」

「それも吐かせましたが、『何で集められたのか知らされていなかった』『説明をされる前にけんかになったので何も分からない』と言うばかり。事情を知っていたのは幹部だけ、三下は本当に下働きとして呼ばれて、現地で指示を出される予定だった……というところでしょうか」

「うーん、ままならないわね……」

 サツキがもどかしそうに言った。

 もっともとかげの尻尾切りがあることは、ここまで徹底しているか否かはともかく、反社会的勢力の常として予想していたという。

 むしろ問題とすべきは、なぜいきなりこれだけの人数が一同に会したのか、そして一体何が殺し合いになるほどの大抗争をもたらしたのかということであった。

「そのため、捜索はとにかく徹底的にやりました」

 そこまで聞いて、啓一が不思議そうに問う。

「で、その話と英田さんに何の関係が?」

「それですが、このがさ入れがあったのが五月十六日だったんですよ」

「何?それって……さっきの目撃日と同じじゃねえか」

「そうです。そして一階の部屋から人を縛ったと思われる長縄や猿ぐつわに使われたとおぼしき布などが押収されるとともに、女性用のスーツのジャケットが一着、同じく女性用の下着類が上下二組、さらには乱暴に抜かれたとおぼしき長めの髪の毛が、ポリエステルの細糸とごちゃ混ぜになって発見されました。いずれも身元を示すものはありません」

 そう言いつつ、シェリルは地図の上に鑑識が撮ったと思われる写真を何枚か呼び出した。

「ジャケットと下着のうち一組は、明らかに誰かが前日くらいまで着ていたものと判明したとのことです。また髪の毛の方は、長さからするに女性のものだろうと」

「つまり、それって……」

「そうです。この部屋に誰かウィッグなどをつけた女性が監禁されていたと推測されます。髪の毛のことからすると、何らかの暴行なども加えられていた可能性が……」

「………!」

 それを聞いた瞬間、サツキの耳と尻尾がぴんとはね上がる。

「さらに捜査を進めると、その部屋の窓にこじ開けられた跡、裏庭に小さな足跡、塀には誰かが無理矢理上ったと思われる痕跡が認められました。監禁された女性が逃亡した際に出来たものと思われます。非常に新しいものだったので、出来たのは当日の払暁だろうと」

「……警察は見てなかったの!?」

「残念ながら部屋自体が死角になっていまして、窓と塀さえ何とかなれば誰にも気づかれないで出られる状態でした。だからこそ被害者も何とか逃げられたのでしょうが……誰からも見えないでは、その場で警察と邂逅するのは無理だったと言わざるを得ません」

「捕まったやつらの供述はどうなんだ?そこまで物証あって、知らんってこたないだろう」

 これは、啓一であった。

「それがですね、いくら絞め上げても『知らない』の一点張りなんですよ。それどころか、その部屋そのものにいいと言われるまで寄りつくなと言われていたとか。少なくとも生き残りの連中は、監禁に関しては知る立場にすらなく、被疑者でも有り得ないということになります」

「それって確実なのか?」

「ええ。ちょっとぷすりとやって正直になっていただきましたので」

「ああ、それならな……」

 何をやったか一発で分かった啓一は、冷汗を流しながら言う。

「しかも被疑者が見つからないということは、監禁されていた女性が誰なのかすらも分からないということになります。せめて遺留品の中にそれと分かるものでもあればよかったものを……今さら言っても仕方ない話ですが」

 いくら事件の存在が明らかであっても、被疑者も被害者も分からないではどうにもならぬ。

 今も捜査は継続されているものの、両者につながる手がかりは全くと言っていいほど見つからない状態が続いている。

「ですが先ほどの目撃情報が出て来て日時的につながったことで、このような事件の流れが見えて来ました。反社により何らかの意図で家に連れ込まれて監禁された女性が、がさ入れの前にすきを見て逃げ出し神明社に逃げ込んだ。しかし何らかの理由でまた逃げなくてはならなくなり、そのまま行方不明となったと。抗争が起きたのは、女性を逃がしてしまったことが原因でしょう。殺し合いに発展するほどですから、うっかり逃がすとかなりまずい存在だったのでしょうね」

「なるほど。もしそれが本当で女性が英田さんなら、反社による拉致監禁事件に遭ったと解釈出来るってわけか……。よりによってそんな連中がからむなんて、ぞっとしないどころじゃないな」

 思いがけぬ勢力の登場に、啓一は渋面を作って頬杖を突いた。

 この分だと下手をすれば清香一人に留まらず、他の失踪者もこのように拉致された可能性があるということになるではないか……。

「……サツキちゃん、サツキちゃん!」

 呆けているサツキを、シェリルが呼び戻した。

「ご、ごめん。それが真実なら、とんでもないことに……」

 泪を浮かべるサツキを、シェリルは、

「落ち着いてください。これはあくまで推測で、本当にそうと決まったわけじゃないんです。あくまでも『可能性』なんですから、まだ結論を出すには早すぎます」

 必死になだめてハンカチを差し出す。

「そう、そうよね……その『可能性』が否定されることを願うわ……」

 そう言ってサツキが泪をぬぐうが、耳はしょんぼりと下がったままだ。

 しばらく重苦しい空気が漂ったが、ややあって、

「……こんな状況で悪いんだけど、北西部の話は?前会った時は、まだ情報を集めてる最中とか言ってたよね。新しく分かったことがあれば聞いておきたいんだけど」

 ふと宮子が水を向ける。

「そ、それがありました。……先ほど、北西部では三下や破落戸とのトラブルがあったものの過去の話になりつつある、と言いましたね?」

「ああ、後でまたみたいに言ってたあれか」

「さっそくそれについて話をしたいところなんですが……まずその前に、見ていただきたいものがあります。これを前提に話さないと理解が及ばないので」

「何だそりゃ……」

 妙にもったいぶったもの言いをするのに三人が顔を見合わせていると、シェリルは持っていたかばんを探り、何やら紙が一枚入ったビニル袋を取り出してみせた。

「市警からこの辺りの話を聞いた際、関連資料として見せてもらった文書です。個人的に重要と思いましたので借りて来ました」

 証拠品よろしくていねいに卓上に置かれた紙を、サツキがのぞき込み、

「……漢詩の書かれた和紙?」

 ぴんと来ないという顔で首をかしげる。

 のぞき込んでみると、果たしてそこには端正な楷書体で五字二行の漢詩が書かれた和紙があった。

 紙が少々ぼろけて文字も薄くなりかけているが、書いてある文字はまだきちんと読める。

「こんなの学校でやったかな……?」

 宮子がそう言って、考え込むように天井を見上げた時である。

 後ろから遅れてのぞき込んだ啓一が、文字を見た途端、

「……えッ、これ『白桜はくおうじゅう字詩じし』じゃないかよ」

 目を見張りながら驚いた声でそう言った。

「その通りです。……分かるかどうか、少々不安があったんですが」

 それに応えてシェリルが重々しく言うが、もの自体を知らないサツキと宮子は、詩の名前を言われたところでまるで置いてけぼりの状態である。

「ちょっと待って、何それ?聞いたことないわ」

「うーん……漢詩って短くても四行なかったっけ?半分ってどういうことだよ」

 戸惑いの表情を浮かべ、何とか読もうというのか文字をじっと見つめる二人に、

「ああ、それは学校でやるようなもんじゃないよ。日本中世文学のうち、軍記物の研究やらないとまず触れることもない代物だから」

 啓一が軽く手を振りながら言った。

「こんな特殊なもん、何の断りもなく出すなよな……。とりあえず、このままじゃ読みづらいんで書き出そう。勝山さん、いらない紙を一枚くれませんか」

 宮子から紙を受け取ると、啓一は万年筆で文字を写し取ってみせる。


  天莫空勾践 時非無范蠡 高徳


「これで合ってるかな、うん、合ってるはずだ」

「これ、何て読んだらいいの?」

「『天勾践こうせんむなしゅうするなかれ、時に范蠡はんれい無きにしも非ず』。署名は『たかのり』って読む」

「……読み下されても、相変わらず分からないわ」

「いや、それが普通さ。故事を踏まえてる上に、作られた背景を知らないと意味不明だから」

 頭を抱えるサツキと宮子を困ったように見ると、啓一は、

「まさか異世界でこんなもんに出会うとはな……まいったねこりゃ」

 こめかみを一つかきながら、どうしたものかと言いたげな声でぽつりとつぶやいた。

「……あれ?『異世界』って、もしかして啓一さんって転移者なの?」

「あ……そ、そうです。きちんと言う前に言っちゃったか」

 宮子が眼を点にしているのに、啓一は気まずそうに盆の窪をかく。

 半年に一人は来ているとはいえ、転移者は極めて特殊な存在だ。

 このため本来は積極的に明かすことではないのだが、実際にはどうしても言葉の端々に元の世界との比較などの形で出てしまいがちで、こうして偶然知られてしまうことも少なくない。

 もっとも知れたところで不利益をこうむることはまずなく、啓一も親切や配慮を受けこそすれ、差別や嫌がらせをされるようなことはなかった。

「まあ、それは右に置いておいて……どうやら古典文学に関しては、俺たちの世界と同一みたいだな。乗りかかった船だ、説明しちゃってもいいかね?」

 そう言って啓一がシェリルの方を向くと、ひょいとOKサインを出してみせる。

 完全な丸投げであるが、啓一はそのまま何も突っ込まずに説明を始めた。

「この詩の解釈をするには、まずは『勾践』と『范蠡』を説明しないとな。二人とも『呉越の戦い』ってのは知ってるかい?」

「……もしかして、故事成語の『臥薪嘗胆』の元になった話かしら。由来でちょっとだけ聞いた覚えがあるわ。不倶戴天の仲にある国の王様が、負けた屈辱を忘れないために云々って」

「そうそう。多分多くの人はそれで知ってるか、雑学や趣味で知ってるかのどっちかだと思う」

 啓一はうなずくと、紙の上にいろいろと万年筆を走らせながら説明を続ける。

「それでこれは呉越の戦いの当事者のうち、越の国王とその腹心の名前だ。時代は中国春秋時代後期、孔子がまだかろうじて生きてた頃というと分かりやすいかね」

「そんな大昔も大昔の人だったのね……」

「そうそう」

 春秋時代の中国では、事実上次の戦国時代と一つながりにされるように、さまざまな国が群雄割拠して覇者になろうと抗争を繰り返していた。

 その末期に起きたのが、越と呉の大抗争である。

 特にそれが尖鋭化したのが、越王が勾践、呉王が夫差ふさの時であった。

 即位後に一回呉を退けた勾践は、相手が立ち直る前にと呉へと攻め入ることを決める。

 范蠡は夫差には切れ者の腹心・伍子ごししょがいるため勝ち目がないなどの理由でやめるよう諫めたが、勾践はこれを振り切って出兵、結果として返り討ちに遭う悲劇に見舞われた。

 この時勾践は裏工作によって何とか助命こそされたものの、虜囚の身となってしまう。

 これに范蠡は危険を冒して呉の領内に入り、奇策をもって密かに文をやり励まし、勾践の方もそれを受け屈辱に耐えながら夫差に取り入ることで、赦免され帰国することを得た。

 ここから勾践と范蠡が一緒になってやり返す。夫差がすっかり勾践に対する警戒を解いてしまっていたため、これ幸いと面従腹背を貫いて国を立て直し始めた。

 一方范蠡は、呉を内部崩壊させる作戦を立てる。絶世の美女として有名な勾践の妃・西せいを差し出して入内じゅだいさせ、夫差が淫蕩に走るように仕向けた。

 思惑通り夫差は西施にふけって国政を顧みなくなり、伍子胥の諫言も聞かなくなってしまう。それどころか、ついには激昂して粛清する始末であった。

 かくて歯止め役がなくなったことで夫差は完全に暴走、ついには覇権に目がくらんでそれだけに執心するようになり、自国を完全におろそかにするようになってしまう。

 これにすわ好機と勾践は後ろから襲いかかり、あっさりと大勝して夫差を処刑、ついに呉を滅ぼすことを得たのだ。

「大体こんな流れになる。つまり勾践は、范蠡という忠義の腹心がいたおかげで敗者から一転勝者になれたってわけさ」

「そんなドラマティックなお話だったなんて、まるで知らなかったわ。でも『臥薪嘗胆』はどうなったの?全然出て来なかったけど」

「あ、禾津さんが話したのは鎌倉時代以降に日本に伝わった形のもので、本家中国の『史記』や『呉越春秋』といった歴史書とは要所要所でかなり違うんですよ。『臥薪嘗胆』はこれとはまた別口で伝わった故事ですね」

 これはシェリルである。

「よく知ってんな、そんな細かいこと。その分だと詳しく知る機会でもあったのか?」

「ええ、『曾我物語』の中にあったのを読んだんですよ。歌舞伎に曾我兄弟の仇討を扱った『曾我物』がありますでしょう。原典はどんなのかと思って読んだら、途中で出て来て」

「……おいおい、何ちゅう珍しい知り方だよ。そもそも『曾我物語』経由ってだけでも珍しいのに、読む動機が歌舞伎とは」

「実は好きなんです、歌舞伎とか能とか古典芸能の類が。つまみ食いですけども」

「こりゃまた意外も意外だな……」

 シェリルがあごを人差し指で気まずそうにたたきながら言うのに、啓一は驚きを隠せない表情となりつつも話を続けた。

「ともかくこの話を引用かつ下敷きにした上で、軍記物の『太平記』の一エピソードで登場するのがこの詩なんだよ。軍記物ってこの話をやたら引くんでね、その一つだ」

 時は鎌倉時代末期のことである。

 たびたび朝廷に対して干渉をして来る幕府に不快感を抱いた後醍醐帝は、倒幕を考え蜂起した。

 だが敗北を喫した末に捕縛され、廃位されて隠岐へ流刑とされることになったのである。

 これに怒ったのが勤皇精神の強い備前国の豪族・島高徳じまたかのりであった。直ちに挙兵、護送の行列を襲い帝を取り戻そうとしたのである。

 ところが行列の経路を読み違えたために二度も連続で奪還に失敗してしまい、ついには兵も逃げて孤立無援になってしまった。

 それでも初志を貫き、行列が美作国院庄いんのしょうの守護館に入ったところでようやく追いついたのだが、余りに護衛の兵が多すぎて救出を断念する羽目になる。

 ここでせめて忠義と励ましの心だけでも伝えたいと、夜中に門先の桜の木を削って白くした部分に刻んだのが「白桜十字詩」だったのだ。

「そして翌朝騒ぎになっているところに帝が現れてご覧になり、その気持ちが無事伝わったという、まあそんな話さ」

「ええと、結局意味はどうなるの?」

「『敗れて虜囚となったかの越王勾践を天が見捨てなかったように、同じ境遇の帝を見捨てはしませぬ。時が来れば主君を助け呉を討ち滅ぼす道筋をつけた忠臣范蠡のように、帝をお助けし悲願を達成させる忠義の士が現れましょうぞ』。こんな感じかね」

「なるほど、確かに励ましてるわ」

「実際この後隠岐から脱出を手伝う武将が現れたし、高徳もその時ここぞと戦いに参加して戦功を挙げてるから、なお印象的なエピソードになったってわけよ。あんまりにも印象的かつ勤皇忠義の世界だから、第二次大戦前は小学校で教材に取り上げられて、国語の教科書に出たり唱歌にされたりしてた。戦後はこういうの駄目になったから消えたけどな」

「まあそうよね……その内容じゃ無理でしょ。『太平記』の名前すら言われるまで忘れてたわ」

 我々の世界では、戦前には「忠君愛国」を教え込むために『太平記』の一部が都合よく学校教育に利用されていたものの、戦後の教育体制見直しによって全ての科目から名前以外完全排除されたという歴史がある。サツキの反応からするに、この世界でもそれは全く一緒のようだ。

「まあなあ、無理もない。教育の舞台に出て来なくなったから、知名度もだだ下がりだし。ただ舞台になった守護館の跡にでかい神社一つ建ってるくらいだし、今も知ってる人は知ってるだろう。特にすぐそばの津山の人とか……」

「……あれ?その神社ってもしかして、植月神社にあった『さく神社じんじゃ』の元になったとこかしら?」

「そうそう。明治の頭に高徳の忠義を顕彰するために建てられた神社でさ。だから祭神が後醍醐帝と児島高徳になってるってわけ」

 啓一が説明するのに、サツキがようやく分かったというような顔をする。

 あの時は古典文学に弱い彼女の負担を軽くしようとわざと簡単に流したため、この説明でようやく理解が追いついたようだ。

「ま、倉敷さんいれば俺が出なくても一発だったよな、そういう意味じゃ」

 啓一がそう言い、照れくさそうに肩をすくめてみせる。

 それを横に見つつ、シェリルは一息つくと、

「まあ、そういう話はともかく。禾津さんの言ったように、この詩は囚われ辱められた方への励ましの意味を持っているんです。一からだと、今みたいに解釈に手間が非常にかかりますけども」

 件の紙を手に取って眺めながら言った。

「……勢いで長々解説しちまったが、その紙がどう北西部の話と関係があるんだ?」

「実はこの紙とそれについていたものこそが、トラブルを減らした要因なんです。もう少し言いますとこの『白桜十字詩』とその背景の児島高徳の説話自体も、ある意味で強く関わっています」

「………?」

 一同が話が見えないという表情をする。

「一年前くらいからでしょうか、反社や破落戸に目をつけられた住民の許に、『高徳』と名乗る謎の人物が真夜中に危険を知らせ避難や通報を促す手紙を投函するという事案が発生していまして。その手紙をはさんでいるのがこの紙なんです。当初は毎日のように投函されてまして、相当な効果を発揮したそうです。最近では駆逐対象が少なくなったため、回数が激減しているそうですが」

「何だそりゃ……」

「話を聞くと実にこってるんですよ。水でぼろぼろに溶ける紙を使っていまして、読んだら証拠湮滅のために水につけろと書いてあるそうです。それをみんなきちんと実行しているのか、さもなくば隠しているのか知りませんが、市警が手に入れたものはこれが唯一とのことでして……」

「随分芝居がかったことしてんな。住民の反応は?」

 紙を持ち上げ、明かりに透かしながら啓一が訊いた。

 確かに一部繊維がほぐれて溶けているのが分かる。和紙でも洋紙でもこういうものはあるが、これは雰囲気を出すため和紙にしてあるようだ。

「最初は半信半疑だったそうですが、手紙で伝えられた通り避難したら助かった、通報したら捕まえてもらえたという例が続出しましてね。正体は不明ながら、自分たちを救ってくれるということで『義士』扱いされています」

「なるほど。つまりこの『白桜十字詩』の紙は、参上したことを示すと同時に『今は耐えよ、きっと助けがある』と住民を励ますためにつけてるってわけか」

「そういうことです。しかもこの街の中心部に最初から住んでる人は、津山周辺から移民した方が多いので、この詩や児島高徳伝説を知ってて気持ちが伝わる可能性があるんですよ。そうなったら、信頼を通り越して心の支えにする人も出て来るでしょう。中心部北部は荒らし回られたせいで住民が萎縮しきっていますから、きっとありがたく思う人もいるんじゃないですかね」

「住民の出身地まで考えてこれにしたとなると、随分な役者だなあ。もっとも、個人的にはいささかじゃないかって気もするが……」

「市警はどう考えてるの?」

 これはサツキである。

 やっていることはどうあれ、一応「不審者」に当たるはずだ。

「うーん、悪いことをしているわけではない……どころか、取り締まりを間接的に手伝ってくれていますからね。住民にも『どうか手を出すのはやめてくれ』と懇願されているので、見て見ぬ振りをすることにしているそうです。そういう方針なのでこの案件自体いろいろと調べることもなく、余り表にも出さないようにしていたとか。ですからこの紙についても調べないつもりでいたようですし、うちにも見せないつもりでいたそうです」

「え、じゃあ連邦警察には話が来てなかったの?」

「とりあえずそういう存在がいることだけは聞かされてましたが、詳しいことまでは……。どうやら、突っ込んで訊いてもはぐらかされていたようです。この紙にしたって、私が出て行って交渉したらやっと出て来て、事件化しないことを条件に見せてもらったんですよ。そんなですから、借りるとなるとさらに一苦労でした」

「自分のとこが手出ししてないから、連邦警察にも同じようにしてほしいってこと?それって見て見ぬ振りどころか、事実上の肩入れじゃないの」

「完全にそうですね。件数が多すぎて困り果ててたそうなので、非常にありがたがっている感じが話してても見え隠れしてました。お目こぼしはともかく、それはどうかと思いますが……」

「まあ手伝ってくれるなら、それに越したことないもんね。それにかっこいいしさ」

「か、かっこいいって、まあ住民はそう思ってる節がありますけどね……」

 宮子ののんきな言葉に、シェリルはじとりとした眼になる。

 だがここで、サツキがふと考えて顔を上げた。

「でも、おかしくない?その『高徳』って人、どうして先に危険が迫ってるって分かるの?それだけ信頼性が高いなら、何か情報元があるんじゃないかしら?」

 このことである。

 予知能力でもあれば別だが、さすがにこの世界でも超能力は存在せぬ。

「それはそう思う、明らかに一人で情報収集出来る範囲を超えてるし。……でもなあ、その情報元も相当なもんだぞ?暴力団員も全員が同じ組織にいるわけじゃなし、破落戸に至っちゃほぼ個人か小集団だろ。そんなまとまりない連中の情報を網羅してるって、どれだけ網を広く深く張ってるんだよ。いや、そもそもどうやったらそんなこと出来るんだ?」

「まさにご指摘の通りで、その辺が警察も引っかかっているんですよね。正直その情報元、市警はおろか連邦警察もほしいくらいです。ついでに手法も教えてもらいたいですよ」

「僕でもそこまでほじくるのは無理だからねえ。このスーパーハッカーたる僕が出し抜かれてるのは面白くないなあ、何となく」

 宮子が口をとがらせて、尻尾をぱたんぱたんとたたきつけた。

 シェリルはそこでたん、と卓上を指で打つ。

「大体ですよ、中心部で一切姿を見せず気取られず、どこからともなく現れてどこへともなく消えて行くっていうのが出来る時点で不可解です。反社や破落戸連中も組織的に探し回ったでしょうに、捕まらないどころかしれっと今も活動している。千里眼じみた能力といい、これは一体どこの神様か仏様かと思うようですよ」

「昔話じゃないんだから……。でもそれくらい思っちゃうわよね」

「『千里眼を持つ』と恐れられた中国の官吏みたいに、実は多数の協力者や間者がいました、なんておちかも知れないしな」

 肩をすくめて言った後、啓一は顔をしかめて盆の窪をかいた。

 もしそうなればまたそれはそれで面倒くさいことになりかねないし、さらに何が出て来るか知れたものではない。

「ともかく、こりゃあえらい話ばかりだ。平和裡に解決すりゃいいが」

「いや、平和裡……とは行きそうになさそうね……」

 啓一はサツキの言葉に、ただただうなずくことしか出来なかった。

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