十五 朝霧

「はあ……」

 早朝の街角で煙草をふかしながら、啓一はため息をついた。

 朝食は既に食べたが、その足が現場に向かうことはない。

「再度の休工ってか。もういい加減にしてくれよ……」

 このことであった。

 今度の休工の理由は、何と市当局の内輪もめである。

 工事が余りにも混乱を来たしているのを問題視されたのがきっかけとのことで、その間強制的に工事を止めざるを得なくなったようなのだ。

 さすがにこんな知ったことかと言いたくなるような理由で休まれては、たまったものではない。

 サツキは朝食を食べるなり、部屋でふて寝してしまった。

 そんな柄でもないことをする辺り、すっかり辟易しきってしまっているのだろう。

「しかし、霧か。すっげえな、こりゃ」

 周囲は、濃い朝霧が立っていた。

 起きて窓を見ると外が暗かったので、小雨でも降っているのかと思ったらこれである。

 しかも、目抜き通りの一つ先の交叉点が完全に霞んでいた。視程は二百メートルというところか。

 植月町ですらこれだ。高台の下に当たる中心部なぞ、霧がたまってまるで真っ白である。

「……少し歩くか」

 もの珍しさに勢いで出て来たものの、することもないので目抜き通りを歩き始めた。

 開店時間にはまだ早く、時折モーニングをしている喫茶店が開いている程度である。

 車も乗合が通る程度で、そんなに交通量があるわけではなかった。

 そして霧をかき分けながら、商店が一旦途切れる場所へ差しかかった時である。

(おや……?)

 眼の前に、飽きるほど見た小さな人影が見えた。

「おい、おはよう、シェリル。どうしたんだ」

「……え?あれ、おはようございます。いなさんこそどうして?」

「いや、ちょっとな」

 経緯いきさつを話してやると、シェリルは、

「サツキちゃん、よっぽどですね……」

 ため息をつきながら言う。

「そりゃなあ、せっかく来たのにこう振り回されてばかりじゃね」

「何から何までお粗末すぎですよ。そもそも、名前だけで後先考えず無理矢理引っ張って来たってだけでも問題なのに」

「そこは思いっきり責められるべきとこだろうな。……もっともそのおかげで、探していたあいさんとあんな形とはいえ再会出来たのは皮肉だが」

 啓一は、すっかり髪の伸びた頭をかいてみせた。

「と、お前さんは何してたんだ?捜査中……にしちゃおかしいよな。霧で下何も見えないし」

 先ほど見た時、シェリルは商店横にある柵の欄干おばしまに寄りかかり、真っ白になった中心部をぼんやり眺めていた。

 アンドロイドに霧を透かしてものを見る機能があるとは聞いたことがないので、純粋に霧を見ていたことになる。

「いえ、この街の霧が好きなんですよ。おかげで汚いものも見えなくなりますし」

「そういうことか。毎日毎日あんなとんでもないもん見せられたらたまったもんじゃない、たまには隠れてほしくもなるわな」

 実際すぐ下に当たる桜通は、その狂態ごとすっかり霧に隠れてしまっていた。

「……今みたいに、霧の下に隠れていてくれればいいんですよ、連中も。今騒いでる等身大ドールだって、本当に本当のお人形をこっそりやり取りしてる分には、何も言う気はありません」

「え?」

 欄干おばしまに再び寄りかかって下を見つつ、ぽつり、とこぼすように言い出したシェリルの言葉に、思わず啓一は声を上げる。

「警察の使命を考えれば、本来は全部潰すべきなんでしょうがね。ですが、そんなのは無理です。知的生命体に欲がある以上、ああいう闇の世界は消えるものじゃないですから」

 シェリルは、静かに眼を桜通の方角へ向けた。

「それに光と闇って分かれないんですよね、どうしても。境目の灰色が出るわけでして。そこは理解してある程度まで認めないと、世の中がきれいになりすぎてしまって……息苦しいですよ。汚すぎるところでも人は生きられませんが、きれいすぎるところでも生きられませんから」

「どこのディストピアだって話になるもんな……」

「そうです。だから、連邦警察……というよりも、うちの特殊捜査課が特にそうなんですけど、少々の闇はあるもの、湧いて来るもの、灰色があるものともう認めてしまって動くことにしてるんですよ。……まあ、それにしたって闇入りすぎって気もしますがね」

 シェリルはそう言うと苦笑する。どこか、自嘲するような笑いであった。

「その代わり、闇の連中が自分の領分からはい出して来て、かたぎに迷惑かけたら絶対許しませんがね。さらに外道な真似をしようもんなら、追いつめて容赦なく命でおのれの立場を理解させてやりますよ。ましてね、こいつが一日生きれば一日誰かが苦しむ、そうなったら髪の毛一本も残さない覚悟でやらせてもらいます」

 そこで拳を固めるでもなく、まるで普通のことのように軽くうなずきながら言う。

「……なあ、シェリル。失礼だが、お前さん、確か歳って俺より二つ下だったよな?」

「そうですね。余り歳の話は……ですが」

「どこでそんなに世の中知っちまったんだ?」

 啓一は、シェリルの善悪観に驚いていた。およそ齢三十で持てるようなものとは思えない。

 中学生にしか見えない美少女から発せられたことを除いても、違和感があった。

「特殊捜査課の元々の気風もありますけど、入った時の課長が無能だったってのもありますね」

「えッ?どういうことだ?」

「簡単ですよ。上司が木偶の坊なら、私たち部下が尻ぬぐいする必要があるわけです。だから本来なら指揮する側になるはずの警部になっても、現場を駆けずり回っていたんですよ」

 「警部」というとよくミステリーで登場する刑事の階級であるが、実際には現場にはよほどでないと出ることはない。

 それが課長の無能のために、いみじくも創作の警部のように現場を駆ける羽目になったのだ。

「まあ、幸いその無能は数年で警察庁に行ってしまいましたがね。その間に現場を見まくって、いい勉強させてもらいました」

 その時の経験がすっかり癖になってしまい、課長が変わり自分が警視になった後も足で稼ぐ主義を崩していないのだという。

「まあ、いろいろありましたよ。いろいろあったからこそ、分かるんでしょうね」

 眼を軽く伏せながらシェリルは言った。

 その「いろいろ」の中で、一体どんな経験をして来たというのか……。

 啓一はしばらく黙っていたが、ややあって、

「……まあ、何だ。お前さんみたいなやつと知り合えてよかったよ」

 すい、とシェリルの頭をなでながら言う。

 本来なら嫌がりそうなものだが、シェリルは払いのけもせずに静かに笑った。

 その時左手から、

「ああ、啓一さん!ここにいたの」

 サツキの声が聞こえて来た。

「いつの間にかいなくなってるから、どこ行ったかと思って探しちゃったわ……って、シェリルが何でここにいるの?」

 はあはあと息を荒くしながらやって来たサツキが問うのに、

「神出鬼没が私の特技ですし」

 さっきまでのしんみりした雰囲気はどこへやら、いつもの調子でシェリルは答える。

「散歩してたら途中でいきなり現われたんだから、まんざら間違いでもないわな」

「何かいい雰囲気だった気がするけど……」

「霧でたまたまそう見えただけさ。話してたことはえらく固いよ」

 苦笑しながら、啓一がそう答えた時だ。

「きゃあッ……」

 いきなり、絹を裂くような女性の声が響いたものである。

 驚いてそちらを向くと、道路の斜向かいにあるごみ集積所の前で若い女性が腰を抜かしていた。

 霧が収まりそうなところを見はからって、ごみを捨てに来たのだろうか。

 ただならぬ雰囲気に、三人は一気に現場へ走った。

「あ、あ、あ……お、お巡りさんを……」

「私がそうです。一体、どうしましたか」

 シェリルがさっとホログラムを見せると、女性はその小さな躰にすがりついて集積所に指を差す。

「し、屍体が、屍体が……!」

「なッ……!?」

 見れば、そこには確かに人の左半身が見えていた。恐らくこの中に全身が埋まっているのだろう。

「すみません、禾津さんにサツキちゃん。その人をお願いします。あと通報を」

 そう言って女性を渡すと、シェリルは近づけるところまで近づき、アイ・カメラの倍率を最大まで上げて屍体を観察し始める。

 だが、すぐにおかしなことに気づいた。

(これは……。でも掘り出さないといけませんし、鑑識に見てもらって確定した方がいいですね)

 そうしているうちに市警のパトカーが飛んで来て、現場は騒然となった。

 しかしごみがどかされ、鑑識が入ってすぐのことである。

「部長、警視、これ人形ですよ。等身大の」

 呆れたような声がビニルシートの中から響いて来た。

「はあ?」

「あ、やっぱりそうでしたか……」

 唖然とする市警の巡査部長と納得するシェリルを、鑑識がビニルシートを開けて入れる。事件性がないと判断したため入れたのだ。

「何だこりゃ、大人のおもちゃじゃないか」

「ですね。もしかしてとは思ったんですよ」

「気づいてらしたんですか、警視」

「大体。ですがアンドロイドの可能性もあったので、鑑識に見てもらった方がいいかと」

 巡査部長とシェリルがそう話している足許には、薄汚れた等身大ドールが転がっている。

 要は屍体なぞではなく、ただの粗大ごみだったわけだ。

 巡査部長は人騒がせなと言いたげにこめかみへ手をやると、

「今お聞きになった通りですので……。粗大ごみとして処理すれば、何の問題もありません。本来は捨てた人を探して手続きしてもらうのが本筋なんですが、心当たりありますか?」

 女性にそう問う。

「ないですよ、そんなもの……」

「部長、多分これ分からないですよ。こういうのは隠しておきたいでしょうし、外部からの持ち込みの可能性もありますし……そちらで処分してもらうしかないんじゃ」

「ううん、それもそうか。迷惑かけられた側にやってもらうのも心苦しいが……」

 部下とそうやり取りした後、巡査部長はシェリルに向けて眼で合図する。

 それを見て、待っていたようにシェリルがうなずいた。

「ともかく、市に連絡してください。あとは収集してもらえますので」

「分かりました。ご迷惑をおかけいたしまして……」

「まあ仕方ないですよ、リアルすぎますからね。お気になさらず。それでは失礼します」

 そう言い残して、巡査部長はパトカーで去って行く。

 残された女性はそれをぽかんと見送っていたが、げっそりとした顔で市の清掃局に電話を始めた。

「じゃ、私もこれで失礼しますね」

「ご迷惑おかけしました」

「いえいえ」

 シェリルはにこにこと手を振り、啓一とサツキとともに道を渡る。

 だがそこで急に表情を険しくすると、さっと左手を耳の横に添えて内蔵通信機を起動した。

 これまでは一同の眼の前で使う機会が少ない機能だったが、人体改造事件が発覚して以降はこのように何かと起動することが多くなっている。

 そのまま通信をどこかへ飛ばし、声をひそめて話し始めた。

「大庭です。一体、行きます。……はい、大丈夫ですか。よろしくお願いします」

 さらに続いて別の場所へも通信を飛ばす。

「連邦警察の大庭です。一体行きますので、例の場所へ回すよう担当者の方にお伝えください」

 そして何やらひそひそと話している啓一とサツキに向き直ると、

「もし当たりだった場合、来ますか?」

 そう問うて来た。

「今ちと話してたんだが、気になることがある。行かせてもらえるか」

「同じくよ。私も行くわ」

「当たらないことを願いますが……では参道下で待機していてください」

 そんな会話の後、三人はそのまま別れたのである。

 一時間後……。

 果たして、啓一とサツキの姿を植月神社の参道下に見出すことが出来る。

「今回も、あたしの出番がなけりゃいいがな」

 鳥居前を掃除しながら、百枝が心配そうに言う。

 ややあって、緊張した面持ちで立っている啓一の耳に着信音が聞こえた。

「……ッ!南無三!」

 そう叫んで電話に出ると、シェリルが、

『当たりました……』

 ひどく深刻な声で言ったものである。

「ほんとかよ……!」

「啓一さん、まさか!?」

「そのまさかだ。ついに来ちまったか……」

「分かった。すぐに車回すから乗ってくれ」

 百枝が状況を察し、車を出して来た。

「分かりました、ありがとうございます」

「いいってことさ。……しかし、二度あることは三度あってほしくなかったな」

 目抜き通りを抜け、車は本通を走り出す。

 市庁が近づけば近づくほど、緊張が高まり始めて来た。

「まさか三人目が出てしまうとは……」

 ただただ、これに尽きる。

 市庁の裏から赤駒集落へ抜け、赤駒本町の停留所の先で左折すると、果たしてそこに「緑ヶ丘市民病院」と書かれた大きな総合病院が現われた。

 中心部から最も近い救急指定病院であり、そして市警や連邦警察が扱う事件で発生したけが人や病人を収容する場所でもある。

 一同は受付で、連邦警察関係者用の特別通行証を提示して大急ぎで指定の病室へ回った。

「いいのか、あたしまで入っちまって?」

「いいんですよ、『関係者』扱いされてるんですから」

 実はシェリル、何と建前は「技術者・科学者チーム」だというのに、全く畑違いの百枝までメンバーに入れてしまっている。

 清香や葵や瑞香と違って自由に動けるのに、情報一つやらないというのも気の毒だということらしいが、「サツキの臨時助手」という扱いで無理に押し込んでおり、さすがに大丈夫かと心配だ。

 それはともかく……。

 一同は入院病棟の一角にある「多目的室」なる部屋に入った。

「失礼します」

「ああ、来ましたか。どうぞ、こちらへ」

 シェリルがひょいと顔を出し、一同を真ん中に置かれたテーブルへといざなう。

 そこにエリナがぽつりと座っているのを見て、

「あれ?エリナさん、ヤシロさんはどうしたの?」

 サツキがぽかんとした顔で問うた。

「マスターは、今検査の方に回っています。本来は私も手伝いに入るはずだったんですが、病院が予想以上に看護師さんを出してくれたので待っていなさいと」

「被害者の方は見ましたか」

「いえ、全然……。運ばれて来る前にそういう話になったので」

 若干申しわけなさそうに言うのを、シェリルは、

「お気になさらず。来ていただく必要はあったんですから」

 気にするなというように手を振ってみせる。

「他の刑事さんは?」

「隣の部屋です。ヤシロさんは検査が終わり次第ですので、ちょっと時間が読めないですね」

「分かった。……しっかし、えらいことになったな」

「用意した病室、役に立ってほしくなかったんですがね……」

 この周辺の部屋は「多目的室」と名乗っているが、実際には財政の関係で維持が難しくなった病室から常設のベッドを撤去しただけの空室だ。

 今回の捜査で警察はこのうち三室を借り上げ、仮設ベッドを入れて捜査中に入手した等身大ドールの検査場所として用いている。

 人体改造が発覚した場合、被害者用の病室として使用することも視野に入れていたのだが、今回それがいみじくも活用される機会が来てしまったのだ。

「こういう言い方も何だが、地道な収集が実ったわけか……」

 現在連邦警察は、事件の証拠固めに「ホソエ技研」が製造した等身大ドールを集めている。

 既に述べたが、この会社は一新興国産業とは資本上関係のない別会社であるものの、元取締役が社長であり、以前簡単な図面提供を受けたことがあるという事実があった。

 このため、一新興国産業が隠れ蓑として使っているという疑いが持たれているのである。

 同社製品の中から人体改造を受けたドールがさらに発見され、その口から証言が取れるようなことがあれば、一気に捜査が進展する可能性があるのだ。

「そんなものそうそう集まってたまるか、と当てにされてなかったんですが……集まりましたねえ」

 シェリルの言う通り、この作戦は当初まるで期待されていなかった。

 曰く、いくら一新興国産業や橋井地所の統制が弛緩しているとはいえ、商売物としての扱いは最低限しているのだから、そう簡単に手に入るはずがない。

 曰く、しらみつぶしとなるため、企業自体を調べるよりも手間と時間がかかってしまう。

 そういった意見が、予想もつかない方向から吹き飛んだ。

「まさか、あっちから粗大ごみとして出すなんて普通思いもしないわよねえ。慎重さのかけらもなくて、逆に感心しちゃったわ」

 何と代用風俗営業をしている店が、古くなったドールをためらいなく粗大ごみとして廃棄しているのが分かったのである。

 等身大ドールの廃棄については、

「廃棄の際は通常の粗大ごみに出さず、回収担当部署へ依頼を」

 そうホソエ技研がネットで公開している説明書にも書かれていた。

 一応環境への配慮云々言っているが、その実が証拠湮滅なのは間違いない。

 しかし下請業者が最近さぼっているらしく、店や所有者がしびれを切らして粗大ごみ扱いで捨ててしまう事例が続発していることが次第に分かって来た。

 あちらから証拠を放り出してくれるならまさに千載一遇、下請業者が変わる前に回収するだけしてしまえと、連邦警察が市清掃局と連携して回収し検査しているのである。

 それにしても、下請がさぼっても気づかない、店が規則を破っても押さえつけられない、証拠となり得る品が行政の手に大量に流れても気にしないとは、

「一体この連中は用意周到なのか間抜けなのか、さっぱり分からない……」

 というのが捜査本部内での一致した意見であった。

 それはともかく、とシェリルはこほん、とせき払いする。

「気になることって、何でしょうか?」

「ああ、それか。……実はあのドール、よく知ってる人に似てるんだ」

「知ってる人?まさか……お知り合い、ですか?」

「いや、そうじゃない。これは、サツキさんの方がいいんじゃないかな」

 そう言って啓一がサツキに水を向けた。

「そうね……。単刀直入に言うと、UniTuberのあかつきヒカリさんにそっくりなのよ」

「えッ……!それって!」

 名を聞いた途端、シェリルが息を飲んだ。

 有名人だというのもあるが、それ以上に彼女が驚いたことがある。

「あの人、ですね。七月にあった『UniTuber拉致事件』の被害者……」

「そういうことね」

 このことだった。

 この事件については先に少しだけ触れたので、読者の中には覚えている者もいるかも知れぬ。

 兇漢によって拉致されたヒカリの行方は、今でもまだ分からないままだ。

 このUniTuber拉致事件は事件の経緯いきさつも性質も異なること、そして管轄が違うことから、女性連続拉致事件とは今も別件扱いとされ捜査も別になっている。

 しかし捜査本部ではこちらの事件が拉致事件であることが判明して以降、捜査を行っている新星警視庁から「近接する事件」として捜査情報の提供を受け、動向に注意を払うようになっていた。

 そこにこれなのだから、驚かぬ道理がない。

「超有名ってほどじゃないけど、顔はそれなり知られてるからすぐに分かるわよ」

「俺も調べてるうちに何度も見たから覚えてるし、それで分かった。そこ来てこの世界で最初から知ってるサツキさんがああ言うくらいだ、本当に似ていると思ってくれていい」

「……ううむ」

 シェリルは空中ディスプレイでヒカリの顔写真を見ながら、一つうなった。

 二人が言いたいことは分かる。

「ヒカリは一新興国産業に関係する反社会的勢力に拉致され、等身大ドールに改造されてしまった」

 こういうことだ。

 一見すると荒唐無稽なようだが、可能性がないわけではない。

 実は個人が反社会的勢力の力を借りて自分の気に入った女性を拉致した挙句、奴隷として改造してもてあそぶという事件が、実際に過去何度も発生しているのだ。

 これを考えると、同じような経緯いきさつで毒牙にかけられたと考えることも出来る。

 だがそれが成立するのは、「顔が変えられていない」という前提があってこその話だ。

 もしかすると全く関係のない女性を、よく似た面相に改造した可能性もあるからである。

 もっともどちらであれ、人一人の存在が蹂躙されている以上短絡的な推測は慎まなければならぬ。

「今は推理にはやらないで、結果が出るのを待ちましょう。それからでも遅くはありません」

「ああ……エリナさんにも、関わることだしな」

「そ、そうですね……当たらないことを、祈ります」

 やっとそこで、それまで黙っていたエリナがぽつりと言った。

(………?)

 含みのある雰囲気に、シェリルはいぶかしげな顔となる。

 大きな反応がなかったので気づかなかったが、よく見るとエリナは冷汗を流し唇を噛んでいた。

 シェリル自身はUniTuberについては通りいっぺんの知識しかないし、エリナの配信活動についても事件と関係があるわけではないので何も調べていない。

 同じUniTuberとして事件自体も気になるところ、そこでこう来たために衝撃にたえないということなのだろうか……。

 シェリルが真意を訊ねようとした時、

「しっかし、どうしちまったんだ?えらい長くかかってるんだが」

 横合いから百枝がいらついたように言う。

 なお一連の情報は、シェリルから伝えずともジェイの口から伝わっていた。

 さらには清香や葵、果てには瑞香にも伝わってしまっているため、実質的に関係者全員が捜査情報を共有していることになる。

 もう既に捜査情報の秘密も何もあったものではないが、シェリルとしては関係者に広がる分にはとがめ立てする気もないようだ。

 それにしても時間がかかる。発見したのは九時のことなのに、もう正午になりそうだ。

 そして一度刑事たちのところに引っ込んだシェリルが、こちらへ戻って来た時である。

「大庭さん、みなさん。検査が一通り完了しました」

 ジェイが部屋に入って来た途端、固い表情でそう言った。

「医者や看護師さんはどうしたんだ?」

「今、被害者や医療機器の病室への移動を行っている最中さ。ありゃまかせるしかない」

 啓一が訊くのに、ジェイは険しい顔で答える。

「何か異常はなかったんですか?躰とか意識とか精神状態とか」

 これをまず訊かねばなるまいと、サツキが問うた。

「意識は当初ありませんでしたが、今では問題ないほどに恢復し、精神状態にも異常はありません。ただし躰はどうもよくありませんね……所有者のところで相当ひどい扱いを受けたのでしょう、外殼に大小の傷やへこみが多数、人工臓器にも打撲によると見られるあざが残り、人工骨にはひびが入った跡まである状態です。ここまで損傷した躰を見るのは何年ぶりか……」

 搬入された時、被害者が人体改造を受けており、生きているということは一発で分かったという。

 だが到着時点で昏睡状態に陥っていた上に文字通りの満身創痍とあって、一時は意識が戻るかどうかすら危ぶまれていた。

 しかし予想に反して一時間ほど前に眼を覚まし、三十分ほどでコミュニケーションを取れるほどまで恢復したというのである。

 医師が質問をいくつか投げ、精神状態に異常がないことも簡易的だが確認された。

 これまで性的搾取に耐えかねて精神崩壊した被害者が相次いで出たことを考えると、まさに驚くべき奇跡としか言いようがない。

「……記憶なども、大丈夫なんですか?」

「大丈夫でしょう。うちにある機械があれば分かるんですが……いかんせん据えつけで、持って来られませんから」

 せんかたなし、という顔をするジェイに、

「それでなんですが……あの方は自分を誰だと名乗ったんでしょうか?実は今、そのことである疑惑が持ち上がってまして」

 シェリルが核心へ切り込んだ問いを投げた。

「『二宮ふたみやさき』と名乗ってらっしゃるんですが……一方で『暁ヒカリ』という名前でUniTuberをしてらっしゃったと……」

「………!!」

 その瞬間、一同の顔が紙のように真っ白になったのは言うまでもない。

 図らずも、啓一とサツキによる推理が当たってしまったのだ。

 ジェイもヒカリのことを知っていたのだろう、唇を噛んでいる。

 だが、一同より衝撃を受けていたのが、

「まさか……こ、こんな、こんなことになるなんて……嘘です、嘘です」

 他ならぬエリナであった。

「ど、どういうことですか、エリナさん」

「大庭さんはご存知ないと思いますが……ヒカリさんは、私が『エレミィ』として活動を始めたきっかけになった、大切な方なんです」

 このことである。これを、何度もエリナは放送内で話していた。

 当然のごとく先輩として憧れの的であり、一番の「推し」でもあるのは言うまでもない。

 その憧れの人が、よりによって獰悪な連中によって切り刻まれ、男にもてあそばれるという辱めを生きながらに受けたというのだ。これが衝撃でなくて何だというのか。

 顔が土気色になったまま、椅子から転げ落ちそうになるエリナを思わずサツキが支えた。

「だ、大丈夫です、ありがとうございます」

 全く大丈夫ではない様子で、力なく礼を言う。

「……今は恢復しているようですが、これからの見通しはどうなんですか」

 ジェイが座ったところで、シェリルが恐る恐る訊ねた。

「はかばかしくないというのが我々の見解です。さっきも言いました通り、昏睡から醒めたこと自体が奇跡のようなものでして……。今はよくてもこれからまた増悪する可能性があります」

「そうですか……」

 これまで発見された二人にも、外殼の損傷などはなかったわけではない。

 しかし体力がかなり温存されていた上、さして大きいものでもなかったので、投薬治療で恢復するだろうという診断であった。

 だがそれは店側も商売物ということで粗雑な扱いを避けたこと、そして最近では旧型化して茶を挽いている方が多かったことが、いい方にはたらいただけである。

 個人に所有された場合、どんな扱いを受けるか到底知れぬし、札束で頬を引っぱたくような下衆なら使い捨てにするような外道な真似も充分するはずだ。

 大体にして平然と夜中によその街のごみ捨て場に投棄するような時点で、彼女がどう扱われていたか推して知るべしと言うべきであろう。

「手術とかはどうなんですか。新しい義体に移すまではしなくても、今の躰をどうにかして直すというようなことは……」

 サツキが恐る恐るそう訊ねた。

 大体分かってはいたが、訊かずにおれなかったのである。

「それは、私がこうして戻された時点で分かっていただけるかと」

「つまり、出来ないってことですか……?」

 ジェイは、眼をつむって小さくうなずいた。

 アンドロイドに対する医療行為はほとんどの場合修理と同義のため、専門医でも技師でも行うことが許可されている。違うのは専門医が免許持ちで開業可能であること、業務範囲が医師寄りとなっていて一部の行為を独占していることくらいだ。

 このように境目があいまいであることを逆手に取り、大規模な手術を行う際に医師の補助として技師を招くことも少なくない。

 今回の事件では、患者が被害者はじめ事件関係者で大規模な手術が必要となる場合に限り、ジェイが入って医師の補助を務めることになっていた。

 それが用なしとして戻されたということは、そのような大きい手術をしない、いやしても無駄だということである。

「大手術に耐えられるだけの体力が本人に残っていませんので、こちらに出来ることは小さな手術で一部の損傷を直し、投薬治療をすることだけです。体力が復活すればと言いたいところですが、機械部分と生体部分の均衡が滅茶苦茶で、とてもそこまで望めない状態です。よくあれで昏睡しないで済んでいるものだというくらいに……」

「あの、それって……もしや?」

「……その『もしや』が充分有り得ます。しかもかなり近い時期に」

 その瞬間である。

 後ろで、がたあんとすさまじい音がした。

「エ、エリナ!!……くそッ、しまったッ!!」

 大急ぎで振り向くと、エリナが椅子ごと倒れて動作停止していたものである。

「担架、誰か担架をお願いします!動作停止です!急いでお医者様を!」

 シェリルが叫び、その場は修羅場と化した。



 エリナが目覚めたのはそれから三十分後、ベッドの上でのことであった。

「システム異常なし、再起動します――あれ、私……?」

「よかった……さしもの私も、今回はあせった。済まない、わきまえるべきだった」

 眼をしばたたくエリナに、ジェイは安心した声で言いつつそう謝る。

 精神的衝撃によって、プログラムがエラーを吐いたようだ。

 これくらいで異常が生じるほどアンドロイドはやわではないが、やはり心配は心配である。

「ごめんなさい、私があんなところできわどい方向へ話を持って行ったから……推しをこんな目に遭わせるなんて、完全にファン失格ね……」

 サツキが耳をへたりと伏せてすっかりしょげ返っているのを、エリナは、

「いえ、いいんです。どのみち、どこかで聞かなければいけなかったことなんですから。私の気が弱かっただけなんです、気にしないでください。マスターも……」

 そう言って一生懸命にとりなした。

「すみません、ヤシロさん。状態を確認させてもらいますね」

 後ろにいた医師が、のっそりと姿を見せる。

「ちょっと眼を見せて、精神感情系プログラムのキャッシュを出してください」

 エリナの眸にコマンドが流れたのを、医師はじっと見ると、

「なるほど……これなら普通にしていても大丈夫でしょう」

 素早く診断を下した。アンドロイド診察の基本らしい。

「ああ、これは……。これなら、寝かしておく必要もないかな?」

 ジェイも眸をのぞいて再確認し、あごをひねった。

「じゃあ、起きてしまいますね。ご迷惑をおかけしました」

「あ、待った……起きるのはいいが、横を見ても驚かないようにな」

「……え?」

 身を起こして横を向いたエリナは、そこで思わず瞠目した。

 何とそこには、暁ヒカリその人が、さまざまな装置につながれて臥せっていたのである。

「……とっさに運べる病室がなかったので。二宮さんと一緒は承知で、ここに運び込みました」

 医師が済まなさそうに言った。

「そういうことなんだよ」

「どうして、ヒカリさんが一般病棟に……」

「本人のたっての希望なので、こうしました。今は小康状態ですので……」

 これは医師であった。

 歯切れの悪い辺り、本来は集中治療室に入れるべきなのだろう。

 本人の希望をそこで優先したということは、つまりは「そういうこと」なのだ。

「これから聞き取りが始まる。今、落ちなかったから大丈夫とは思うが、駄目そうなら言うんだぞ」

 エリナがこくりとうなずいてベッドから立ち上がるのを見ると、シェリルはゆっくりとヒカリの枕許に近づく。

 眼を見開いてベッドで寝ている人形に、アンドロイド用の医療機器、さらにはパソコンやスピーカーなどがついているような状態だ。

 画面は空中ディスプレイなので形はないが、脳波の波形や各種の測定値を示す数字がぷかぷかと空中に浮いているというのは、いささかぞっとしない。

「聞こえますか?」

 シェリルがゆっくりと話しかけると、

『……聞こえています』

 合成音声で返事が返って来た。

「ほんとに、暁ヒカリさんの声だ……」

 サツキが呆然とつぶやく。

 この世界では発声出来なくなった患者のために、元の声を再現する技術があるのだ。

「失礼します。二宮美咲さんでよろしかったですね?連邦警察特殊捜査課所属の警視・大庭シェリルです。お躰の具合の許す限り、お話をお聞かせください」

『はい、分かりました』

「ええと、UniTuberをしている際は『暁ヒカリ』を名乗っていらっしゃったようですが……どちらでお呼びすればよろしいですか?」

『「暁ヒカリ」の方でお願いします。下の「ヒカリ」で構いません。……どうやら、その方が通りがいいようですから』

 シェリルの問いに、ヒカリはためらわず答える。

「まず、発見時から意識が戻るまでの状況についてお話しします。また現在あなたが置かれている状況も事件があった時と大きく変わっており、女性連続失踪事件との関係が確定しています。長くなりますが、必要ですのでお聞きください」

 そう言って、シェリルは説明を開始した。

 前者はともかくとして、後者は話自体が突拍子もない上、各事項の関連性を分かりやすく説明するのに実に骨が折れる。ゆっくりと慎重に説明が進んだ。

『そんなことが……!しかも実験台だったなんて!』

 驚きを通り越し恐怖の混じった声で、ヒカリは言う。

 兇漢に拉致されて改造されたというだけでも有り得ない話なのに、それが人体改造技術を会得し実践するための礎とする目的で行われたものと聞かされて、およそこうならない者はいないはずだ。

「ただし実際には、きちんとした証拠や証言がない部分もかなりあります。そもそも一新興国産業が関わっているというのも、今のところ完全な確証が取れているわけではありません。警察ではあの会社を何をするか分からない兇悪な組織として危険視しています。少しでも早く、出来るだけ証言がほしいんです。お願い出来ますでしょうか」

『……分かりました』

 息を飲む音がし、ヒカリが話し始めた時である。

『私、改造された時の記憶があります。あと、場所も』

 いきなり核心を突く言葉が飛び出したものだ。

 シェリルは全員が色めき立つのを手で制止し、話を続けさせる。

 それによると……。

 ヒカリが意識を取り戻したのは、工場の敷地だったという。

 生まれつき麻酔や睡眠薬が効きづらい体質だったため、改造へ行くまでに眼が覚めたようだ。

 暴れ出したヒカリを、かついで来た男たちは地面の上に置いて無理矢理押さえつけ、躰を様々な方向に回しながら再度締め上げようと悪戦苦闘し始める。

 そしてじれた男の一人によって身を起こされた彼女の眼に、わずかな間だが工場の壁に書かれた文字が飛び込んで来た。

「一新興国産業本社第一工場」

「一新興国産業本社第二工場」

 これである。

 照明に照らされ、堂々とその文字が輝いていたのだ。

「なるほど、とんだ間抜けが見つかりましたね……。そこで見えないように躰でふさぐなり何なりすればよかったものを。それ以前に、道中で目隠しもしていないとはあきれた話です。この程度でやすやすと眼を覚まさないだろう、そんなあちらの慢心が招いた事態と言うべきでしょうね」

 そう言いながら、シェリルはコードを召喚すると、

「記憶から読み取ってみましょうか。改造の際に、固定されている可能性があるので。その方式の装置ならやれますから」

 生体脳をモニタしている装置と自分の手首にある端子をつなぐ。

 ややあって左手の手のひらに、ヒカリが言う通りの風景が写り込んだ画像が出現した。

「この写真、同じ構図の写真がなかったか?ほら、視察報告書に……」

「探しましょう」

 啓一の言葉に、空中ディスプレイに画像を移してから件の報告書を調べてみる。

 すると、果たして『第一および第二工場間の通路より正門』のキャプションがついた、ほぼ同じ構図の写真が出て来たものだ。

「潔白を示すために好きなだけ写真を撮らせたのが、こんなところで逆に自分の首を絞め上げる材料になるなんて……実に皮肉ね」

 サツキが、信じられないという顔で髪をかき上げた。

「前言撤回。どちらかというと馬鹿の方ですね」

 辛辣に言うと、シェリルは話に戻る。

『……とにかくぎちぎちにされたと思ったら、どこかの建物に運ばれて……。ようやく縄をほどかれたかと思ったら、今度は手かせ足かせのついた妙な台に固定されたんです』

 百聞は一見にしかず、と画像に出力してみると、どうやら大の字の金属板に強靭な桎梏しっこくがついた台であるらしい。

 ヒカリ自身は全体がつかめないが、全裸の状態であるようだ。

「これ、動画にして出力出来ないのか?その方が早いんじゃね?刑事殿なら出来んだろ」

「同時はちょっと厳しいかも知れませんね……」

 百枝の言葉にシェリルが盆の窪ををかいていると、エリナが、

「私がやります。生粋ではないですがこれでもアンドロイド、役に立たせてください」

 そう言ってさっとコードを召喚し、シェリルのコードの中間部につなぐ。

 処理能力を思い切り使ったらしいが、無事に手のひらに動画が出現した。

 屈強な男たちに押さえつけられて鉄板にくくりつけられるや、小型クレーンで釣り上げられてそのままあお向けでどこかに置かれる。

 天井が流れているところを見ると、コンベヤの上らしかった。

 全てがヒカリの視点なのでかなり分かりづらいが、音声などからも状況を察することが出来る。

 ところがしばらく進んだところで、急に停止の声がかかり、天井の動きが止まった。

『……体液固定薬品を忘れてたとかで、もう一度引き上げられて液体に入れられたんですよね』

 この言葉に、啓一と百枝を除く全員が同時に叫んだ。

「体液固定薬品!?」

 このことである。

「何だそりゃ……?」

「人や動物の躰を外部から傷つけても、血液などの体液が流れないように固定する薬品です」

 啓一がみなの驚きぶりに眼を丸くしていると、シェリルが説明した。

 体液固定薬品そのものは、通常の手術でも大量の失血が見込まれる場合に使われることがある、きちんとした医薬品なのだという。

 むろん危険であるため扱いは極めて慎重に行われ、溶液の濃度を適切に調整すること、量を最低限に留めること、必ず解除剤を用意しておくことが条件だ。

 そんな代物であるから、当然ながら人一人を全身丸ごと浸漬するなぞ有り得ない。

 そのような無茶苦茶な真似をすれば、ほぼ全身が切っても血も水分も流れない躰になってしまい、解除すら出来なくなってしまうのだ。

「人体改造犯罪のうち、脳以外残さず機械化する場合に多用されるものです。脳に対しては頭蓋骨によって浸透が阻害されるので、ちょうどいいんですよ」

「……その前に溺死したりしないか、これ?」

「下手な輩がやるとほぼやらかしますね。このためらいのなさと手早さは、自分たちの伎倆うでに自信があるからです。常習犯である証拠としても扱えるかも知れませんね、これは……」

 餅は餅屋というべきか、最前線で捜査に当たっているシェリルの言葉は説得力があった。

『しばらくして引き上げられて、またコンベヤで流されて……』

 実際、先には数人の医師や技師らしい人物が、ずらりと並んでいるのが見えたという。

 しかしそこで、ヒカリの意識は一旦途切れた。何かを打ち込むような音がした辺り、高圧注射器で強い麻酔を打ち込んだと思われる。

 この後、待機していた者たちによって流れ作業で改造されて行ったようだ。

 こんなやり方をする意図は不明だが、

「改造人間を量産するラインを構築するための、練習のつもりなのではないか……?」

 というのがジェイの見立てである。

 事実ジェイが元いた世界では、流れ作業の人体改造なぞごく普通のことであった。

 ただし彼によると、このラインは動画を見る限り極めて幼稚なもので、いかにもそれらしいものを想像だけで無理矢理でっち上げたように見えるという。

「私のいた世界の基準で言うのも何ですが、これでは改造人間の量産なぞ夢のまた夢ですよ。ラインを作れば何とかなるというものじゃないんです」

「私もあちらの世界で工場に忍び込んだことがありますが、自動車工場並みの設備のところばかりでした。マスターの言う通り、想像に頼った代物ですね」

 形から入ろうと考えたにしてもお粗末すぎて、「本場」から来た人間からすれば笑止以外の何ものでもないというわけだ。

 話を元に戻そう。

 ヒカリが眼を覚ました時には、既に改造は終了していた。

『……全然躰が動かないし、声を出そうとしても出ない。そうしているうちに、大きな箱に押し込められてしまって』

 シェリルが写真を、エリナが動画を出力してみるが、梱包用と思われる段ボールがせわしなく視界を動くのが映っているだけで、何が何だか分からない。

「ちょっと止めて。これ、『ホソエ技研』って書かれてないかしら」

 獣人の動体視力がものを言ったのか、サツキから待ったがかかった。

「わ、分かりづれえ……」

「補正かけます」

 百枝がうめくのに、とっさにエリナが静止画で出力してフィルタをかけてみると、確かにヒカリを入れようとした箱に「ホソエ技研」の名が書かれている。

 一方「一新興国産業」と書かれている気配がないことから、同社がホソエ技研の名を借りてこの改造行為に及んでいることは明らかであった。

『連れて行かれたのは、どこかのお屋敷で。箱から出された時、主人と他に男性が二人いました』

「他人が見ている前でお披露目と決め込んだわけですか……」

『ええ、どう見てもそうでした』

 このように複数人の前で披露するかのようなやり方で外に出されるというのは、この手の犯罪ではよく見られることである。

 参加者に関しては二つにおおよそ分かれ、その一つが依頼者と製作者などの関係者たち、もう一つが依頼者と同好の士たちだ。基本的に絵画や彫刻の完成披露と同じ感覚と言っていい。

「その三人の関係は、どういうものか分かりましたか?」

『主人が「社長」で、一人は「専務」と呼ばれていました。最後の一人は……知人のようでしたけど分かりません』

 この言葉に、一同は一斉に嫌な予感を覚えた。

 最後の一人はともかく、社長と専務……この事件に関わる、ある二人の人物が思い浮かぶ。

『名前は……「社長」が「吉竹」、「専務」が「松村」、あと一人は「平沼ひらぬま」でした』

「………!!」

 果たして予感のど真ん中を撃ち抜かれ、その場がどよめいた。

 要するに一新興国産業社長の吉竹洋平がヒカリの拉致改造を依頼して自宅まで運ばせ、専務の松村徹也と「平沼」なる人物の前でお披露目としゃれ込んだ可能性があるわけである。

 シェリルとエリナが、大急ぎで写真と動画で出力を試みたところ、それが確信に変わった。

 吉竹と松村の顔は嫌というほど見ているため、すぐにそれと分かる。

 「平沼」は最初何者か分からなかったが、捜査資料を掘り起こしたところ、ホソエ技研社長の平沼良ひらぬまよしの顔と一致した。

「おいおい、親玉とぶんが雁首そろえてやがるじゃねえか……」

「まさかこう来るとは思わなかったわね……」

 啓一とサツキが、心底驚いた風に言う。

 だが、これは逆に言うと好機である。動画が取れた以上、いかなる会話がこの閉鎖空間でなされたかを聞き取ることが出来るはずだ。

 以下、その声から聞き取れた会話を記そう。


 吉竹 ようやく出来たか。……ほう、確かにこれは本人そっくりだな。

 松村 当たり前でしょう、「本人」なんですから。

 吉竹 感謝するよ。……しかし、あんな事件を起こしておいて大丈夫か。

 松村 ああ、ご心配なく。馬鹿どもは、しかるべき場所に流しておきましたよ。

 吉竹 ……そうか。後顧の憂いがなければそれでいい。

 松村 意外と臆病ですね。社長の地位にあるお方が。

 吉竹 勝手……(小声のため聞き取れず、「勝手なことを」カ)

 松村 何か言いましたか。そもそもこのご依頼は私がいなければ達成出来なかったことです。それにその改造も、ですよ。

 吉竹 分かっている、分かっている!

 松村 まあ、平沼さんのご協力もなければ出来なかったので、私だけの功績ではないですが。

 平沼 ……え、ええ、一応。

 松村 何ですか、暗いですよ。もっと胸を張っていいんです。

 平沼 いや、名前を貸した程度では。

 吉竹 それでいばら……る。(小声のため聞き取れず、「それでいばられたら困る」カ)

 松村 じゃあ、さっそく楽しみませんか。使わにゃ損ですよ。

 吉竹 ああ、そうだな。

 松村 ……あと、例の約束も忘れないでください。

 吉竹 分かった……。


 鮮明な音では決してなかったが、書き起こすならこうなるはずだ。

 この場の主役は吉竹のはずであるが、明らかに客人で部下のはずの松村に押されている。

 自信満々で時に恩着せがましく、始終図々しい松村の口調が癇にさわってならぬ。

 一方、平沼は一味でありながらどこか腰が引けており、ほとんどしゃべっていない。

「……証拠が、取れましたね」

 シェリルが、ようやくそれだけ言った。

 依頼者は吉竹、拉致や改造など犯行の総指揮は松村、名義貸しは平沼。

 そして、ヒカリを拉致した犯人は不始末を犯したとして、恐らく始末されている。

 これだけの情報が動画で手に入ったことは、捜査の大きな進展を意味していた。

『それから私は、吉竹になぶられました。あと、松村にも……あ、ああっ』

「無理をしないで……!」

 ヒカリがうめき声をあげるのに、医師がとっさに叫ぶ。

 空中に浮かんだモニタの波線が、烈しく波打っていた。

「……そこの話は、そこの話はしないでください。最初からお訊きするつもりはなかったので」

 同じ女性としてこのようなことを語るのが、どれだけつらいか分からないわけがない。

『はあ、はあ……大丈夫です。最後に、捨てられた時のことを話していいでしょうか』

「分かりました、負担にならない範囲で」

 三ヶ月もの間散々いたぶられたヒカリは、「飽きたから」で廃棄されることになり、物置に入れられて処理のため下請業者の到着を待つばかりとなった。

 そして数日後の夜、業者により運び出されることになったのである。

 証拠湮滅のため、はて刻まれるかはて燃やされるか、絶望に暮れていた時であった。

 いきなり業者の車が止まり、入れられていたビニル袋から引きずり出されたかと思うと、そのままどこかの街中にあるごみ集積場に投棄されてしまったものである。

『え、でした。ごみとして回収されてるのに、行先が町内のごみ捨て場……?』

 確かに面妖極まりない話だ。証拠湮滅の密命を帯びているのに、いきなり行きずりに放り出して行政に処理を押しつけるなぞ、まるで理屈が合わない。

 下請業者の職務怠慢があるとは聞いていたが、これは怠慢というよりもはや奇行の類だ。

「それから何らかの拍子で気を失ったまま俺たちが発見するに至る、か……何なんだ、この状況?」

 啓一が、眉間にしわを寄せて言う。

「突っ込み待ちかって感じだな。下請の頭までいかれてんのか、あそこは?」

 百枝があきれたような声で突っ込むのに、サツキが、

「……実は『待っていた』のかも知れませんね。いや、突っ込みの方ではなく」

 耳をぴん、と立てながら緊張した声で言い出した。

「もしかして、誰かが見つけるのを期待したんじゃ……」

 このことである。

 確かにあのありさまでは、容易に見つかってしまうはずだ。事実一般市民に発見されてしまい、こうして警察沙汰になったではないか……。

「待ってくれ、何でそんなことをする必要があるんだ。あっちにしてみれば、重要な証拠だぞ。実際にこうやって警察の手に入った結果、悪行がこれでもかと暴かれてるわけで」

「まあ、そうなんだけど……そうなんだけど、そう考えないと平仄が合わないじゃない」

「たれこみを企んでるやつでもいると考えないと、到底無理だ。だが、そんな殊勝なのがあそこの関係者にいるかね?」

 啓一とサツキが議論を始めたのを見て、シェリルが、

「すみません、その話は後にしましょう。ヒカリさんに負担がかかります」

 そうたしなめた。

「それとエリナさん、そろそろ接続を切った方がいいです。動画を出力しすぎていますので……」

 エリナを見ると、顔は平気そうにしていたが脂汗が浮いている。

 言われた通り黙ってコードを消すと、エリナはふらふらとよたついた。

「危ない!私が意図せずこき使ってしまったせいですね……申しわけありません」

「気にしないでください、私が勝手に志願してやったことですから」

 そうは言うが、顔色が聞き取りを始める前より悪くなっている。

「すみません、もう一度。今度は通常のキャッシュをお願いします」

 医師が再び眼をのぞくと、普段使わない基盤を無理に使ったせいか、修復に時間がかかりそうな大きめのエラーが見つかった。

「念のためですが、修復促進剤の点滴を入れましょう。放って置いても治りはしますが、非常に長くかかる可能性があります」

 医師がそう言って通信機を呼び出し、看護師に点滴の指示を出す。

「お手間をかけまして申しわけありません……」

「いや、それは私が言うことです。……先生、ここは私がそばに。仕事の方は大丈夫なので」

「いえ、無理をせずお仕事を優先してください。捜査本部長なんですから……」

 エリナとシェリルが押し問答になるのを、医師が止めた。

「お気持ちは分かりますが、修復を促進するためにも一人にしてゆっくり休んでもらった方がいいです。申しわけありませんが、ここは私の指示に従ってください」

 有無を言わさぬ口調に、二人はとうとう引く。

 そう言っている間に、点滴が運ばれて来た。

「……分かりました。では、後で暇が出来たらお見舞いに来ますから。みなさんも一旦出ましょう」

 後ろ髪引かれるような顔で振り返り、一同とともに去って行くシェリルの後ろ姿を、エリナはベッドの上でどこか寂しげに見つめていた。



 エリナが眼を覚ますと、既に陽が落ちかけていた。

 食堂で昼食を食べて寝転がったまでは覚えているのだが、そこでどうやら寝てしまったらしい。

 通常の病室ならば医師や看護師、他の患者たちの気配がするのだろうが、ここは臨時で作られた病室のためその気配もなかった。

「じゃあ、私たちは待機しているから。ゆっくり休んでいなさい」

 昼食後、ジェイに言われたのを思い出して耳をすましてみると、どうやら隣の部屋にいるらしい。

 戦闘用時代に装着された聴覚増幅装置を使うまでもなく、話し声がしっかり聞こえて来た。

(恐ろしく壁の薄い病院ですね……)

 緑ヶ丘市の貧しさを物語るような建物の貧弱さに、エリナが一つ首を振った時である。

『ねえ、あなた……エリナさんっていったかしら』

 横合いから、いきなりヒカリの声がした。

「えッ、はい、そうです。す、すみません……起こしてしまって」

『いいのよ。……ねえ、これも何かの縁だし、お話しない?』

 思わぬ申し出に、エリナは息を飲む。

 これが普通に元気な状態であったなら、恐らく喜び勇んで一も二もなく乗っただろうが、この状態で果たして話なぞしていいものか……。

『私のことなら、気にしないでいいわ。……もう長くないと思うと不安で、話でもしていないとやっていられないの』

「………!」

 ヒカリがつけ加えた言葉に、エリナは凝然となった。

 彼女は、既に自分の死期を悟っている。

 医師やジェイは、この辺りのことについてはぼかしているばかりで直接的に語らなかった。当然のごとく本人にも言っていないだろう。

「いや、そんな長くないなんて……」

『あんな隠し方じゃばれるわよ。あなたも大体分かっていたんでしょう?』

「う……」

『まあ、それについてはいいわ。……悪いけど、そこのカメラに顔を映してみてくれないかしら』

 重要なことだというのにさっと流し、ヒカリはそう言い出した。

「こう、でしょうか?」

『ああ、ようやくきちんと見えたわ。道理で聞いたことのある声だと思ったら……あなた、同業者のエレミィさんよね?』

「そ、そうです!知ってるんですか!?」

『それはもう。昔、私の配信によく来てたでしょ?あの頃から名前だけは知ってたわ』

「えッ、どうしてそんなことまで……!?」

『目立つファンは、昔の人も今の人も全部把握してるしね。しばらく来なくなったと思ったら、いきなり同業者になってて大人気だもの、驚いたわ』

「そこまできちんと覚えられてたなんて思いませんでした。私なんて一山いくらのファンでしたし、有名になったのも運がよかっただけで大したことは……」

『そんなこと言ったらファンの人たちが泣くわよ。……実言うと、あなたの配信も何度も見てるわ。正式に会える時が来たら直に話そうと思って、コメントは打ってなかったけど』

 エリナは、ただただ驚くばかりである。

 まさか万単位のファンの中で自分が目を留められて去就も気にされ、さらには配信まで見てもらえていようとは夢にだに思いもしなかった。

 だが、次の瞬間である。

『……それで、気になったんだけど。あなた、もしかして転移者じゃない?』

 いきなり驚くべきことを言い出したものだ。

「そ、そうです。どうしてそれが分かったんですか……!?」

『いやだって……さっき話してた時にマスターさんとそろって「私のいた世界」とか「あちらの世界」とか言ってたから。こっちの人なら、言わないでしょ』

「あッ……」

 エリナは、先ほどの会話で元の世界と比べるような発言をしたのを思い出す。

『それとね……自分でも不思議なんだけど、何となくそう感じるものがあったのよ。勘みたいなものかしら。おかしなこと言うようだけど、引かれ合ったのかも知れないわね』

「ということは……」

『私も、転移者よ』

「………!?」

 エリナは絶句した。これほど驚くべき新事実があろうか。

『多分、元の世界は全然違うと思うんだけど……どんな世界なの、そっちは』

 問われて、エリナは困惑しつつも元の世界について話した。

 ついでに、自分がこうなった経緯いきさつについても勢いで話してしまったのである。

『……あなた、とてつもない目に遭って来たのね。マスターさんもだけど』

 ヒカリの声は、話の凄惨さに驚きというよりも恐怖を覚えているようであった。

 さもありなん、我々の世界のあらゆる紛争地帯がはだしで逃げ出すような世界である。

「ええ……。でも転移のことまで含めて考えた場合、私よりマスターの方がよほどつらい思いをしていると思っています」

『転移のせいで、助けた子たちを実質的に見捨てる羽目になったんだものね』

「それだけでもひどい話ですが、その後もいけないですよ。転移のせいで何もかも失っただけでなく、自分の持っている知識も技術もろくに役に立たないなんて」

『でも人に教えることは……』

「出来ないんです。この世界からすると飛躍しすぎていたり、基礎理論が違っていたりで……到底受け容れてもらえません」

『………』

 ヒカリはそこで黙り込んだ。

 恐らく彼女の表情を読み取れたなら、唇を噛んででもいたかも知れない。

『……何ていうのかしらね。こういうのを見てると、私のいた世界の小説や漫画やアニメではやってた、異世界転移ものがうらやましくなるわ。皮肉じゃなくて本気で』

「こういう話がはやりだった……?ヒカリさんの世界の人たちって、こういう転移をどういうものとして描いてるんですか?」

 エリナの世界には、そういう主題の創作はなかった。

 いや、泥沼の戦争が続く世界で、純粋な意味での創作活動自体があったかも怪しい。

『転移した先で自分の力を生かして、大活躍するような気楽なお話がほとんどよ。その世界より、進んだ知識や技術を使ったりとかしてね。行ったら偶然にもすごい能力があった、なんてのもあるわ。いずれにせよ、元の世界の力で無双の人物になって、楽しく暮らすってのが多いわね』

「……その発想は全くありませんでした。私だけじゃなくて、多分あっちの世界ではおよそ誰も考えたことがなかったと思います。みんな、ただただ戦うことしか頭にありませんでしたし……」

 エリナは、明らかにひどく戸惑っていた。

 嫌味でも当てつけでも何でもなく、文化が違いすぎて想像や理解そのものが出来ないのである。

「あの、転移先で楽しくってことは……もしかすると、主人公は転移する前の世界に残した人や物のことや将来のこととかを、全然考えなかったりするんですか……?」

『将来はどうだか知らないけど、ほぼ前の世界のことは考えないみたい。よくよく考えてみればおかしな話なんだけどね、純粋にお話を楽しみたいっていう場合には邪魔ってことになっちゃうのよ』

「邪魔、ですか……」

 理屈そのものは分かる。

「今の世界だと無理だから、異世界でヒーローやヒロインになって楽しい人生を送りたい」

 という無邪気な欲求を満たす創作で、元の世界に後ろ髪引かれる、これからのことを悩むなぞという描写は、確かに邪魔なだけだ。

 そうやって楽しさに振り切った創作があってもいい、ある程度まで必要なもの、それも分かる。

 分かるが、現実問題として転移のために悩み苦しんでいる人物をそばで見ているだけに、まるで実感も共感も湧いて来ないのも事実だった。

 だがそれは、今のヒカリも同じようであった。

『……そういうの見てただけに、現実で遭遇した時の衝撃が半端じゃなかったんだけども。故意に目をそらしてた部分から、がっつり来られて無理矢理そっち向かされたんだもの』

 ヒカリは元の世界で、YouTuberをしていた。

 ハイキングがてら投稿動画を撮影して下山した帰り、奥にある高い山がどんと地響きを立てて崩れた途端に転移を起こしてしまったのである。

 新星に吹き飛ばされた彼女は警察官に直接発見され、転移者として暮らす羽目になった。

 住居については状況的に保護してもらうことも難しかったため、一人暮らしを選んだという。

『落ち着いて来たら、やっぱりずんと来たわ。両親親戚も健在だし、機材や大切なものもたくさんあったし。何より、私にはYouTuber仲間や十万人以上のリスナーさんがいた。その人たちも、その人たちからの手紙やプレゼントも、みんなみんなあっち……』

 一般人ですら持っているものが多いのに、彼女はさらに苦労を同じうする仲間と名声と、そして自分を慕う人々を持っていた。

 それが全て一気に失われた時の絶望感は、いかばかりのものか……。

『でもね、私はまだよかったのかも知れないわ。こっちに同じ文化があってくれたから。地道に機材買いそろえて、何とかUniTuberになって……今じゃファンが倍だものね』

「ある意味、やり直せたと言えるような気がしますけど……」

『そう。でもこれ、どう考えても純粋に運がよかっただけよ。もしUniTuber文化がここになかったら、絶対路頭に迷ってる。……これだけ人気になっても、やっぱり向こうが気になるし、向こうで得た知識も全部使えてるわけじゃないしね』

「………」

 エリナは、おのれの軽率な発言を恥じた。

 いくらこちらで成功しても、なくしたものはなくしたままという事実が、彼女に苦しみとなってのしかかっていることには変わりはない。

『あとあっちではきっと大騒ぎだろうな、そんな風に思うと暗い気分になるわね、今でも』

 そこでエリナは、ある引っかかりを感じた。

 いつの時だったか、雑談で転移の話になった時、

「随分前の話だけど、俺のいた世界で女性YouTuberが一人、行方不明になって騒ぎになったことがあって。よく覚えてないんだが、確か朝や光に関係する明るい名前の人だった。山で遭難したって話だけど、もしかすると転移の線もあるのかね」

 啓一がそんなことを言っていた覚えがある。

 もしやこの女性YouTuberとは、ヒカリのことではないのか……。

「あ、あの……今思い出したんですけど、私の知り合いの転移者の人が、自分の世界でYouTuberさんが失踪したと言ってたんです。言っていた名前も近いですし、山でいなくなったのも一緒ですし、もしかすると同じ世界の人かも……」

『ええ!?……それ、明らかに同じ世界よ!何人もいると思えないもの』

 さすがにこれには、ヒカリも驚いたようだ。

 この世界が転移者を集めてしまう傾向があることは、ヒカリも聞かされて知ってはいる。

 だがまさか同じ世界の同じ時代からもう一人来ているなぞとは、夢にだに思いもしなかった。

『その人も、まさか』

「同じように、苦しんでらっしゃいます。私たちと一緒で、全てを失い知識も余り役に立たず、目標も仕切り直しと……」

『その目標って?』

「小説家だそうです」

『……それは、つらいわね。知識フルに使うし、作品も出来れば手許に置いておきたいんじゃない?それに一度精神的に折れると、立ち直るの死ぬほど大変って聞くし……』

「はい……しかも今の仕事も、うまく行ってないって」

『完全に、どつぼにはまっちゃってるわね』

 ヒカリはそう言って、黙り込んでしまう。

 下手なことはどう考えても言えない、そう判断したのだ。

 彼女が思慮深い女性であったことは、エリナにも、そして壁を通して聞いている啓一をはじめとする控えの一同にも救いであっただろう。

 ヒカリとエリナのことを気にする余り、シェリルや刑事たち、果ては医師看護師まで拝み倒して隣室に詰めていた一同は、転移の話が出たことでいっそう耳をそばだてていた。

 それだけにもしここで安っぽい同情や憐愍の言葉でも飛び出したなら、啓一はもちろんのこと一同にとっても、その塗炭の苦しみを知る身としてとても耐えられたものではなかったろう。

『……ねえ、エレミィさん。あなた、誕生日のお祝いの時なんかにファンレター来たことない?』

「え……?それは、来ますね。本当に私なんかにありがたいほど」

 突然の言葉に、エリナは眼が点になった。

 ファンレター自体は、多くもらっている。むろん住所を馬鹿正直に公開しているわけではなく、そういう中継ぎのサービスを利用しているのだが。

 自分が送ったことがあるので分かるが、ヒカリも確かそうしていたはずである。

『私の場合だけど、その文章の中にこう書かれていることがあるの。「いてくれてありがとう」「生まれて来てくれてありがとう」って』

「………!」

 その瞬間、エリナ、そして壁の向こうの一同が一斉に眼を見開いた。

『気持ち悪いって思うかも知れない。でも私は、あっちでもこっちでもこれでとても励まされたわ。ああ、いていいんだな、いることに価値があるんだなって』

「………」

『少なくとも、私の場合はいるだけで誰かの支えになってる。そう思うと、とても投げやりに生きる気にはなれなくてね』

 陽が傾きかける中、静かにヒカリの言葉が響く。

『陳腐なきれいごとかも知れないけど、人って生きてるだけ、そこにいるだけで価値があるものね。もちろん、人倫にもとらないことが大前提だけど』

「………」

『どうか、その人にもそう伝えてあげて。あと、もし誰か親しい人がいるのなら、もしかすると相手の支えにいつの間にかなっているかも知れない、これも一緒に、ね……』

「……しかと、承りました」

 エリナは、静かにうなずいた。

『恥ずかしいわ。本人が聞いていないからいいようなものの』

 照れ隠しなのか軽く笑いのこもった声で言うヒカリに、エリナは何も言えぬ。

 まさか「隣で本人が聞いている」なぞと、この場で何で言えようか。

『ごめんなさい、つき合わせて。ああ、何だかいろいろすっきりした気分。少し寝るわ。……今長話してたの、先生や看護師さんには内緒よ』

 そう言うと、ヒカリは驚くほど早く寝てしまった。

 ディスプレイをのぞいてみると、状態は安定しているようである。

(……飲み物でも買いに行きましょうか)

 ガートル台(点滴を吊るす棒)を引きながら部屋を出たエリナは、自動販売機のある方へと廊下を歩み始めた。

 この世界の病院では床材の関係上、ガートル台一つ引いたところでさして音もしない。

 そして、便所へと向かう分かれ道に差しかかった時だ。

「……啓一さん」

「……サツキさん!?ここは、男用だよ」

「そんなのどうでもいいわ」

 啓一とサツキの声が聞こえ、思わず立ち止まる。

 このまま通り過ぎても一向に構わないのだが、なぜか去ってはならぬ気がしたのだ。

「泣いていたんでしょう?」

「いや、そんなことは……」

「いいのよ、隠さなくて。別に誰も何とも思やしないわ」

 恐らくは先ほどのヒカリの言葉に感極まって涙し、急いで便所に駆け込んだというところか。

「だが、散々愚痴ばっかり吐いて、挙句にこれだ……俺はどれだけ弱いのかと」

「……あのね、どうしてそんなに自分をおとしめるのかしら?」

 サツキが、とがめるような声で言った。

「人って、そんな強い?普通弱っちいものじゃないの?」

「いや、そりゃそうだとは思うが……。こう弱くちゃあ、余りにみっともない気がして。もし小説やら漫画やらアニメやらの主人公なら、とんでもないへたれだ、感情移入の出来ない駄目主人公だと嗤われるようなやつじゃないのか」

「今はお話の人物の話をしてるんじゃない」

「う……」

 耳をぴんと立て普段と異なる口調でぴしゃりと決めつけられ、啓一はつまる。

「……あなた、前の世界でどれだけの悪意を見て来たの?ほんとにくだらない理由で人にけちをつけたり、特定層をスケープ・ゴートにして集団でいびり倒すようなのをずっと見て来たんでしょう。それこそ『人』というものをろくに知らないくせして他人の人間性を判じ、虚ろな優越感にひたって喜んでいるようなのを。そのためになら、どんな人倫にもとる言動でもいとわない破落戸が猖獗を極めてるようなありさまを」

 我々の世界では、ネット上において至るところに悪意がじめじめと陰湿ににじみ、多くの無辜の人々を傷つけているのが実情だ。学者の中にも「インターネットは人を幸福にしなかった」と強い悔恨とともに言い切る者すらいるほどである。

 そんな中で三十二歳で恋愛経験も女性経験もなく顔も人並み程度という啓一は、ただそれだけで格好の標的にされ、人格を否定された上理不尽な侮蔑や嗤笑を向けられる対象になってしまうのだ。

 彼がこれにすっかりやられて、いらぬ劣等感を募らせてしまっているのは容易に知れる。

「人の弱さを知っているのなら、なおさらそんな連中に膝を屈しないで。きゅうぼくるべからず、糞土のしょうるべからずと言うじゃない。馬鹿らしいわ」

「………」

「いろいろと葛藤があるのは分かるけど、もっと自分を信じて。少なくとも、私だけでなくみんなは何とも思ってやしないもの」

 ゆっくりと言い聞かせるように言うサツキの耳が、いつしか静かに下がって行くのが見えた。

「……いるだけで、充分に価値がある人だと思ってるのに。支えになれる人だと思っているのに。後生だから、これ以上はよして」

 最後の方は、声が潤んでいる。

 エリナはもはや飲み物を買う気にもなれず、すすりなきの声を聞きながら部屋に戻った。

『う、ううん……』

 ベッドに座った途端、ヒカリが寝苦しそうな声を上げた。

「起こしてしまいましたか、すみません」

 そう謝った時である。

 直感的に、何かがおかしいと気づいた。

『な、何だか変ね……眼が霞んでるわ』

 エリナは、この訴えに不吉なものを感じる。

 彼女は知らぬことであったが、この予感は当たっていた。

 ヒカリの生体脳には常に圧力が強くかかっており、昏睡から醒めた後も話せるようになるまで何度か意識混濁を起こしていたほどなのである。

 この混濁の前駆症状として起こったのが、眼の霞みだったのだ。

 もっとも知らずとも、ディスプレイの波形が乱れている時点でかなり危険である。

「……先生呼びます!」

 とっさに呼び出しボタンを押すと、待機していた医師が飛んで来た。

「どうしました!?」

「ヒカリさんがおかしいんです!」

『そ、そんな大げさに騒がなくても……ううん……』

 すかさず空中ディスプレイを操作した医師の顔が青くなった。

「……おいッ!ナノブロキシン十ミリ、二本……いや三本持って来て!!」

 廊下の外を通りがかった看護師に怒鳴ると、脳波計をじっと見始める。

『……先生、もう時間切れですか』

「何を言ってるんですか!縁起でもない!」

『い、いえ……分かってるんですよ……もう持たないって。もう正直に、お願いします……』

 医師はごくりとのどを鳴らすと、

「……申しわけありません、それは言えません」

 固い表情で首を振って言った。

『あは、は……もう、隠すことないのに……』

 力なくヒカリが笑う中、大急ぎで看護師が薬品の入った瓶を持って来る。

『打たないでもいいですよ……もったいない』

「そんなことが出来ますか!」

 医師が叱責し、薬を特殊な注射器で打ち込んだ。

 機械部分との均衡の崩れを是正するため、ナノマシンを入れたのである。

 だが、もはやそれも姑息のことだと分かっていた。

「先生!」

 そこに、異常を聞きつけてシェリルと隣室の一同が部屋へやって来る。

「……容態はどうなんですか」

「悪い方向に向かっています。今、薬を注射したんですが……」

『……だから、無駄って言ったのに』

 ディスプレイに映る波形は乱れることをやめず、なおも烈しく異常を知らせていた。

 たまらずエリナが割り込む。自分の点滴パックが落ちそうだが、構っている暇はなかった。

「今は悪くても、恢復する可能性はまだあります!」

『……いいの』

「あきらめないでください、生きたいでしょう!?」

『……それは、そうよ……生きられるものなら……。あんなやつらにいいようにされて……死ぬなんて本当は、嫌……』

「なら……!」

『……でも、駄目なものは、駄目』

 必死で励ますが、既にヒカリは観念したような口調で言うばかりだ。

 急に、後ろで警告音が鳴る。素人目に見ても、かなり危険な状態なのが知れた。

 医師がもう一回注射を打つが、止まらぬ。

 エリナは本来微塵も変わらぬはずのヒカリの顔に、深い死相を見出した。

『……みなさん、お世話になりました……こんな、形で……お会いしたのは、悲しい、ことですが……事件の解決と、将来の……ご健勝を、お祈り……いたします』

 ヒカリは苦しい息の中で、あえぎあえぎ言う。

 医師は、もはや何も言わなかった。もうその時が近いことが知れたのだろう。

「……こちらこそ、ありがとうございます」

 シェリルが、ヒカリの手を握って答えた。あえて、過去形を使うのは避けた。

「ヒカリさん……エリナさんが言ったのは、俺のことです。失礼ながら、盗み聞きになってしまいました。……よい言葉を、ありがとうございます」

 啓一も、せき立てられるように礼を言い、一礼する。

 他の面々も、黙ったまま深く礼をし、言葉に代えた。

『……早く、全部が……終わっ、て、くれると、いい……ですね……』

 医師がディスプレイを見て、注射器を握りしめる。

 今頃効いて来たのだろうか、遅すぎる、という無念の心がにじみ出ていた。

『……エリナ、さん……こっち、へ、来て、手を握って……』

「はい」

『……出来る、ことなら……もっ、と早く、会い、たかったわ……。でも……最後に、しゃべれて、よかっ、た……』

「……私もです。お会い出来て、お話出来て、よかったです……」

 エリナの眼からは、既にぼろぼろと泪が流れている。

『……その、時が……来たら、あなた、の口、から……私の、こと……みんなに、伝えて』

「はい、はいッ……!承りました……!」

 再び、ディスプレイから耳ざわりな警告音が響いた。

『……じゃあ、今日は……これで、終わ、りです。……また、次の、時に……』

 そう配信を締める言葉を言った瞬間、一気に意識が混濁したのを脳波計が示す。

 そして、ややあって。

 警告音が唐突に止まったかと思うと、ディスプレイに平坦な波形と「〇」の数字が並ぶ。

 電気ショックで何度か刺戟を与えるが、もはや沈黙したきりだ。

 医師はゆっくり立ち上がると、各種計器の表示を今一度見渡す。

 そしてエリナたちの方へ向き直ると、腕時計を見て、

「……十八時七分、ご臨終です」

 静かに臨終を告知した。

 連邦暦一六二年十月二十九日十八時七分、暁ヒカリこと二宮美咲死去、享年二十。

 余りにも、若すぎる死であった。

 医師と看護師が一礼するや否や、

「うわあんッ……」

 エリナの慟哭が部屋中に響く。

 それを見て、誰からともなく部屋を去り、二人きりの別れの場を作った。

 扉越しにも聞こえる果てない泣き声に、一同が沈痛な面持ちでうつむいていた時である。

「……なあ、シェリル」

 啓一が、ぽつりとシェリルに言った。

「見つけたな、一日生きれば、一日誰かが苦しむ連中を」

 その言葉に瞑目したまま、シェリルはしっかりとうなずく。

「奸賊一新興国産業、誅すべし」

 恐ろしいほど静かな啓一の声が、廊下に響いた。

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