六 狂乱の街
「どうだった、反応?」
連休明け、総務部へさっそく試しに書いた原稿を出しに行った啓一は、戻って来るなりサツキにそう訊ねられた。
「いや、何というか……えらく喜ばれたんだが。これはよさそうだって」
「やっぱり。そうなると思ったのよ」
啓一の言葉を聞いて、サツキは尻尾を振りながらにこにこと笑う。
「しかしだ、あそこまでほめられるとはな。こちとら三文文士以下なんだけど」
「ええ……?そういうこと言わないの、実際に面白そうなんだから」
あの日
この際に助けとなったのが、元の世界との共通点が思った以上にあるのが分かったことだった。
一ヶ月近くも暮らしているので、さすがに日常生活の範疇では共通するものが多いということは分かって来てはいる。だがそれ以外のことに関しては、暮らしや仕事に慣れるのに一生懸命で腰を据えて調べる暇が持てず、きちんと把握出来ていなかった。
殊に今回の小説では、展開上刑法や刑事訴訟法など刑事法の知識が簡単ではあるが必要になるため、ここでけつまずくと終わりになってしまう。
そこでいい機会だからとざっと調べた結果、元の世界の二十一世紀の日本のそれと多くの部分が一緒らしいことが分かった。ちょっとかじった程度の素人なので全部が全部一致しているかは分からないが、少なくとも刑や罪の規定、逮捕から公判までの流れといった部分は同じである。
驚いて調べると、この国の憲法や法律は建国時に日本のそれを元にして作られたとのことだった。しかも自分のいたのと同時期の条文を掘り起こして調べてもほぼ一致している上、その後もがらりと変わってしまうほどの改正はしていないとのことなので、ある意味で通じて当然かも知れぬ。
もっとも、大きな違いとして懲役刑と禁錮刑があるということがあった。元の世界の日本では両者を合わせて「拘禁刑」とするという話が進んでいたのだが、こちらでは
この他にも思わぬ共通点がいくつか見つかったこともあり、何とか無事に構想を立てて書き出すところまで持って行けたのだ。
それでも啓一は、いつ自分の持つ知識が通じなくなってしまうか知れたものではないと警戒を解いていない。今回のこともしょせん一部分の話、たまたま運がよかっただけという見方をしていた。
話を元に戻そう。
啓一が原稿を封筒に入れ、かばんにしまった時である。
にわかに扉がノックされ、
「真島さん、今よろしいですか。秘書課の
いかにもまじめそうな女性の声が聞こえて来た。
「あ、あれ?所長の秘書さん?……はい、ちょっと待ってください」
急いでサツキが扉を開くと、そこにはスーツ姿の女性が立っている。
「真島さん、所長がお呼びです」
「分かりました。じゃあ啓一さん、私ちょっと……」
「いえ、
「えッ」
佐良山女史の言葉に、思わずサツキは啓一の方を見る。
啓一は啓一で、いきなりトップからお呼びがかかったことに眼を点にしていた。
「それでは、啓一さん」
「ああ」
戸惑いながら、とりあえずサツキとともに佐良山の後について廊下を歩き出す。
「……佐良山さん、わざわざ来たということは何か重要な要件ですか?」
「そうです。とにかくお二人とじっくり話したいとのことでして」
エレベーターに乗り、最上階に着くとすぐに所長室だ。ぺいぺいの助手である啓一にとっては、実に二週間ぶりとなる場所である。
「失礼いたします。真島さんと禾津さんをお連れしました」
「どうぞ」
扉の向こうからは、思ったよりも緊張感に満ちた声がした。
前会った時には気さくで明るい女性という感じだっただけに、いよいよただならぬものを感じる。
(何かやらかしたか、俺?)
そんなことを考えているのをよそに扉が開かれ、ハルカとの対面となった。
(う……)
そこにあったのは、顔の前、それも口許で手を組んでひじをついているハルカの姿である。
せっかくの美貌が、逆に恐怖の種になるほどの威圧感があった。
「すみません、佐良山さん。外してもらえるかしら」
そこへ来てこれである。一体どれだけ重大な話があるというのだ。
佐良山が席を外すのを見届けると、ハルカは、
「……さて、来てもらったのは他でもありません」
重々しく言い出す。
「は、はい」
啓一がその声にごくりとのどを鳴らした時である。
「出張、二人で行って来てください」
この雰囲気で言うとは思えない言葉が飛び出した。
二人が眼を点にしているのに気づいたのか、ハルカは、
「いや、だから二人で出張に……」
明らかにあせったような声でもう一度言う。
「……あの、所長。出張命令は分かりましたが、何かよほど大変なことがあるんですか?失礼ながら、どう見ても雰囲気が普通じゃありませんよ」
これはサツキであった。どうやら彼女もさぞかし重大な話をされるのだろうと踏んでいたらしく、困惑しきっているようである。
そこでハルカはようやく腕を元に戻して顔を上げた。
「実はそうなのよ。ほんといろいろと困った話で、朝からずっとどう切り出したものか悩んでたの。変な雰囲気にするつもりはなかったんだけど、勘違いさせちゃったみたいでごめんなさいね」
どうやらあの格好は、ひどく悩んでいたがゆえのものだったらしい。口許が全く見えないのでさっぱり分からなかった。
「そんな大変な仕事を?」
「いえ、仕事自体は時間はかかるけどそう大変じゃないの。まずはうちが図面を提供した反重力プールの修理の立ち会い。あとは『ディケ』の実機を持ち込んで、市・警察本部・消防本部相手にプレゼンテーションをしてもらう……こんなものかしら。期間は一ヶ月くらいで」
「確かに大変な仕事じゃないですね。……でも、私でいいんですか?技術のことですし、第一研究部所属だと向かない気がします。第三研究部や第四研究部の人の方がふさわしいのでは」
仕事内容を聞いたサツキが、戸惑ったように言う。
重力学研究所には第一から第四まで四つの研究部が存在するが、第一・第二が理論担当、第三・第四が技術担当となっているため、今回のような仕事は完全にサツキの管轄外なのだ。
「そうよねえ、訊かれると思ったわ……。正直なことを言うと、何もなければあなた以外の人に頼むところだったのよ」
「何かよほどのことがあるんですか?」
サツキがいぶかしげな顔をするのに、ハルカは頭を抱える。
「……よほどというか何というか。これ、あちらからのご指名なの。『ぜひともあの有名な真島サツキさんに来てもらいたい』って強く頼まれて」
「ええ……そういう理由でですか」
身勝手な先方の要求に、サツキがあきれたような声を上げた。またしても知名度がたたってしまったと言わんばかりである。
やっぱり言われたというような顔をするハルカに、
「所長、ぶしつけながらこれは問題があるのではないでしょうか?相手が真島さんのことをきちんと分かった上で来てほしいと言っているのか、はなはだ疑問です。不安しかないのですが……」
啓一は思わず突っ込むように訊いた。
そもそもこちらの事情を無視して勝手な希望を押しつけて来るような相手に、ここまで唯々諾々と従う義理がどこにあるのだろうか。
「それに別の面でも不安があります。私は新人の上に『助手』といっても名前だけ、ろくに知識もない事務手伝いみたいなものです。かえって現場を混乱させることにならないでしょうか?」
さらに、このことも引っかかった。
立ち会いというのならしかるべき知識がいるはずだろうに、全く素人同然の自分が行くのは迷惑極まりないのではないか……。
だがこれに、ハルカは少し視線をそらして暗い顔となると、
「実は、そういうのって考慮出来ないのよ……。自治体や公的機関からの派遣要望はよほどの理由がなければ基本的に断れないし、相手の希望に出来る限り沿わなければならないって規定になってて。助手のことも、こういう時は派遣される研究員付きの人を必ず一人以上つけなければならないって規定があるの。病気やけがで臥せってるとか、抜けられないような大仕事に駆り出されてるとかって事情でもない限り、一緒に行ってもらわないと駄目なのよ」
頭を抱えるようにして言った。
こういうことも仕事とはいえ、依頼側の望みばかりが優先されて研究所側の都合がほぼ斟酌されないとは、さすがに無茶な規定だと言わざるを得ない。
話を聞く限りハルカはその規定と現実に板ばさみとなってよくよく困り果てた挙句に、派遣の決断を下すに至ったようだ。
それを思うと、これ以上いろいろと言うのも気の毒というのが二人の正直な気持ちである。
「分かりました。そういう特殊な事情があるので直にお話を、というわけだったんですか」
だが、サツキの言葉にハルカは静かに首を振った。
「それもあるといえばあるけど、行き先がね。むしろこっちよ、問題は」
「それは、どういう……?」
その問いに、一瞬ハルカは黙った後、
「……
思い切ったように答える。
「え、あ、あそこですか!?」
「そう、あそこなのよ……悪名高い」
ハルカが片眼を覆ってひじをつき、サツキが肩を落とした。
「あの……?」
「ああ、禾津さんには分からないわよね。四年前に出来たうちの国で一番新しいコロニーなんだけど……いろいろ問題があるのよ。そこで座って話しましょうか」
そうしてソファーに座り語るところによると……。
緑ヶ丘コロニーこと緑ヶ丘市は、治安がひどく悪いことで国内でも有名なところなのだという。
その中でも特にひどいのが、「
「どうやら破落戸の巣窟になってるらしいの。女性どころか男性でも近づくと危ないわ。絶対に立ち入らないで、誤って入り込んだら即座に回れ右してちょうだい」
サツキはその言葉に、困ったようにこめかみをもんだ。
「話は聞いたことがありますが、そこまでですか。……そんな危険な土地に女性研究員派遣しろなんて、さすがに先方にたっぷりともの申したくなりますね」
そう言って眉をしかめるのに、ハルカも辟易したような顔となる。
「ほんとよ、規定がなかったら即刻断ってるわ。研究員を危険にさらすようなことは出来ないし。あと……もう私的なことを言っちゃうけど、娘をわざわざ危険なところへやりたい親はいないわ。啓一さんだって、慣れない世界に来て間もないのに……そんなところへ行かせるなんてしのびないわよ」
よく考えてみればすごい話だ。国立研究所の所長ともあろうものが、本気で所員の派遣を嫌がるのである。どれだけ緑ヶ丘というところはやくざな街だというのか……。
「まあまあ……話がもう決まっている以上、言っても仕方ないことでしょう。とにかく要警戒の土地なんですね?我々の方で気をつけて動くしかないですよ」
とりあえず啓一は、二人の間に入った。気持ちは分かるが、親子で愚痴っていても仕方ない。
「そうねえ……まあ、そんなに不安にならないで。現場は郊外だし安全だから」
この街は郊外に行くと西側がかなりの高台、東側は大きな川で隔てられた平地となっており、中心部と郊外の地理的断絶が大きいのだとハルカは語った。
このような断絶は必然的に生活圏の分断を発生させるため、街の様子も変わって来る。
むろんそんなものなぞ構うものかと押し入る輩もいるだろうが、この街では幸いにもそういうことは起こっていないようだった。
「そうですか……」
「ともかく、正式に命じます。緑ヶ丘市に十月二日から一ヶ月、現地の反重力プール修理立ち会いと『ディケ』プレゼンテーションのため出張ということで」
「分かりました……はあ」
「もう、そんなため息つかないでよ、サツキちゃん……。国立研究所っていう公的機関の長である以上、嫌でも規定を守らないと科学技術省に怒られちゃうのよ……」
余りに娘の雰囲気が重苦しいのに、ハルカは思わず母親に戻って言う。
「ねえ、お母さん。こういう時に言うのね、あの言葉。一緒に言わない?」
その言葉にこくりとうなずき合うや、
「せまじきものは宮仕えじゃなあ」
そう泣き真似をしながら、芝居がかった声で二人そろって言った。
「……研究所なのに『寺子屋』ですか。まあ気持ちは分かりますけども」
歌舞伎の名ぜりふをいきなり披露する真島親子に、啓一が冷静な突っ込みを入れる。
「ごめんなさい、茶化しでもしないとやってらんなくてね。ともかく、何を依頼されてるかはここにまとめてあるから……それを読み込んでちょうだい」
頭をかきながら一つ苦笑すると、ハルカは話をまとめにかかった。
「あと、『ディケ』の持ち出しについて申請書出すのも忘れないでね。ちゃんと番号も書くのよ」
「分かりました。じゃあ、これでお話は大丈夫ですか」
「ええ。ごめんなさいね、禾津さんも。よろしくお願いするわ」
「あ、いえ」
そう言ってハルカが立ち上がり一礼するのに、二人も頭を下げそのまま辞去する。
研究室までたどり着くと、何と三十分も経っていた。
こうなると周りには、一体全体何の話をして来たのかと思われていることだろう。
「……何だか疲れたわ」
「同じく。人払いしてまで話したくなるよな、あんなんじゃ」
ハルカが、相当この出張に神経をとがらせているのは確かだ。
出張先にいろいろと問題があるだけでなく、行かせるのが娘と新人。
これではじっくりと話した方がいいと思うだろうし、母親に戻って心中を吐露したくもなろう。
少なくとも、所長として秘書には見せられない姿だ。
「しっかし、破落戸の巣窟か……何をどうすればそうなるんだよ」
「詳しい事情は分からないわ。真偽不明の噂ばかりで……」
「大丈夫なのかね、この出張。けがして帰って来たくないぞ」
啓一が眉根にしわを寄せて言うのに、サツキは、
「ま、まあ、ともかく言われた通りにすれば大丈夫だと思うわよ……」
そう答えるが、全く説得力がない。
「はあ……せまじきものは宮仕えじゃなあ」
啓一もそこで同じく特大のため息をつくと、さっきのせりふを自分も言ったのだった。
二日後の
啓一とサツキは、新星市の玄関口である新星空港へ到着した。
アーチ状の屋根がかかる電停に降り立ちターミナルへ入ってみると、旅行者がひしめいている。
しかし、ここで驚いたことがあった。
「おい、こりゃ空港というより純粋に『港』じゃねえの?」
このことである。
「空港」は「港」の字を使ってはいるが、あくまで発着地という意味での譬喩表現だ。
だがここでは、本物の港よろしく棧橋状の乗場がぷかぷかと宇宙空間に浮いており、そこへ宇宙船が直に船体を着けて客扱いをしているのである。
「そうなるかしらね。うちの国での宇宙旅客船の使い方が使い方だから、自然に普通の船のようになってしまったとでもいうのかしら」
そう言うと、サツキは右手奥を指した。
「あそこに、『近距離路線乗場』ってあるでしょ。コロニー同士の間には鉄道とか敷けないから、近隣に行くのにはあそこから出るのを使うのよ」
見れば、確かに小型の宇宙船がさっきから出入りを繰り返している。
乗場の上の案内を見ると、何と短いものでは十分間隔での運航となっており、もはやフェリーですらなく渡船と言った方がふさわしそうだ。
「これから乗れば分かるけど、ここの宇宙船は基本『船』の感覚よ。国際線の場合は相手の空港の仕様の関係もあって、飛行機要素があるけどね」
「……そういやこの切符も、どっちかというと『航空券』じゃなくて『乗船券』って感じだな」
そこには「新星空港→緑ヶ丘空港」の文字とともに「二等」の文字がある。
数字の等級制という時点で、既に飛行機要素がなく船そのものであった。
「しっかし平所員の出張っていうと普通は一番安い席だろうに、何でまた一つ上なのかね」
「さあ……総務部の人の話だと、お母さんがそうしてくれって言ったって」
「何でまた……まあいい席に座れるんだからいいか」
運輸省が運営する省営航路は三等級制だが、一等は一部の路線にしかないため、ほとんどの路線では二等が最上等だ。二人が乗る新星緑ヶ丘線もそれなので、一番いい席に乗れるわけである。
しかも一番新しいコロニーということで船も新しいとあっては、実にありがたい話だ。
だが啓一はそこで一つ深くため息をつき、肩をすくめる。
「これで、行く先に問題がなければよかったんだがな……」
このことだった。
「ちゃちゃっと調べてみたが、ありゃ相当ひどい。情報がどうにも充分になくて細かい話までは分からなかったが、軽く見ただけでもう腹いっぱいって感じだよ」
いつもならこういった調査には抜かりない啓一も、出張命令が余りに急で準備に時間を取られたため、今回ばかりはろくに調べられていない。
ただ分かったのは、危険地帯として名指しされた件の「桜通」なる場所が、
「中心繁華街だというのに風俗街と化している」
ということであった。
サツキにその辺を話してみると、
「それ、私も見たわ。たまったもんじゃないわよ……」
そう言ったきり、げっそりとして黙ってしまったのである。
性産業を否定するわけではないが、風俗街なぞ男性でも時にぞっとしないものだ。女性の立場からすると目の毒ですらあるだろう。
「まあともかく、現地でどうするかは船の中で考えよう。どうせ二時間あるんだし」
「そうねえ。一ヶ月いることになるんだし、腰を落ち着けて考えた方がいいわ」
乗場へ向けて歩きながらそう話していると、急に構内放送が入った。
『新星緑ヶ丘線十三時発緑ヶ丘空港行、改札開始いたします。十三番乗場までおいでください』
話を切り大急ぎで駆けつけると、人波に乗って改札口を通り抜ける。
「あ、あれ?荷物の検査は?」
「ないわよ。飛行機じゃなくて船感覚だって言ったじゃない」
「いいのかそれで……。面倒くさくなくていいっちゃいいが」
しっかりと荷物を抱えつつ、宇宙空間に浮いた棧橋から乗船する。
二等船室はほとんど人がいなかった。二時間とはいえ、もっと人がいてもよさそうなものだが。
座席に座った啓一は、思わず腰に手を当てておたついた。
「シートベルトないわよ」
見抜かれたか、苦笑しながらサツキが言う。本当に「船」感覚なのだ。
『新星緑ヶ丘線緑ヶ丘空港行、出発いたします。駆け込み乗船はおやめください』
ばたんと扉が閉まる音がしたかと思うと、どどどっとエンジン音が響き棧橋から離れ始める。
そしてくるりと方向転換すると、宇宙空間へ滑り出して行った。
「……ほんとに船だな、おい」
飛行機のように、助走をつけて斜めに飛び上がるということがない。シートベルトいらずというのもよく分かろうものだ。
『本日は、省営航路をご利用いただきましてありがとうございます。この船は新星緑ヶ丘線、緑ヶ丘空港行です。緑ヶ丘空港へは十五時五分の到着を予定しております……』
船内放送を聞きながら啓一は空中ディスプレイを出したが、ややあって、
「いや、音楽でも聴くかな」
そう言うと、空間から携帯電話とヘッドフォンを呼び出す。
たまたま転移時に音楽プレーヤーを持っていたため、アダプタを使って移しておいてあったのだ。
「……何聴くつもりなの?」
「片耳でよければ聴くかい?二つに分ければいいからさ」
ごく自然に勧めて、啓一はとんでもないことを言ったのに気づく。
(え、一つのヘッドフォンを分けて聴くって……)
何やら想像してあわてる啓一をよそに、サツキは受け取ったヘッドフォンをすぽりと耳にはめようとしたが、ひじが妙なところに触れてかばんを通路の前方へ落とした。
「あ、しまった」
急いで立ち上がって手に取ろうとすると、その前に誰かがそれを手に取る。
「どうぞ」
「ありがとうございます……って、シェリルじゃない!」
何とそこには、シェリルがいたのだ。
「え、サツキちゃん……ということは、禾津さんも一緒ですか」
「え、シェリル!?おいおい、また偶然会ったな。仕事か?」
「ええ」
「もしかして、何か捜査に進展が……」
「
口に人差指を当てて鋭く啓一の言葉を遮ると、周りを注意深く見回す。
「……どうやら、二等の乗客は私たちだけみたいですね。小さい声でその辺をお話ししましょう」
その時、シェリルの横と前に座っていた女性と男性が横合いから口をはさんだ。
「警視、いいんですか」
「捜査情報ですから一般人に言う話では」
「
「警視がそうおっしゃるのなら……」
二人が不承不承に納得するのを、シェリルは満足そうに見る。どうやら、部下の刑事のようだ。
「実は……
「え、ええッ!」
「わわッ……サツキちゃん、落ち着いてください!」
清香の話と聞いて飛び上がって食いつこうとするサツキを、シェリルが止める。
二人にはさまれた形になった弓削なる女性刑事が困り果てているのにも気づき、サツキは大急ぎで身を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい。で、緑ヶ丘でって……それは確かなの?」
「かなり信憑性は高いです。緑ヶ丘の中心部に住んでいる方が、そっくりの人に出会って言葉も交わしたというんですよ」
「接触があったのか。そりゃ有力だわ」
これは啓一である。
「今までどの事件でも本人と接触したという情報はなかったですから、これは私たちの出番だと」
「でもおかしいな。新星で行方不明になった人が、何でそんな遠く離れた場所にいるもんかね?俺ならむしろ疑うが」
「これが緑ヶ丘でなかったら、私たちもかなり疑ったかも知れませんね」
妙な含みをこめて言うシェリルに、今度はサツキがいぶかしげな顔になった。
「緑ヶ丘でなかったらって……?」
「何せあそこは、妙なのがわんさと巣食ってますから」
「あ……」
シェリルはぼかしたが、二人には言わんとしていることが大体分かる。
「ですから、そこを探ってみようかと。自分たちの利になるなら、平気で何でもする輩が山ほどいますのでね。まあそれと別口でも……」
「警視、その話はこのお二人とは関係ありませんよ」
落合と呼ばれた男性刑事が、後ろを向いてシェリルをたしなめた。
「……そうですね、すみません。余計でした」
しゅん、と座席の上でしょげ返る。こうしているととても警視には見えない。
それに苦笑すると、啓一は席を立った。
「ちょっと便所行って来る」
そう言うと、二等船室と三等船室の間にある便所へ向かう。
その帰り、船の真ん中にある狭いロビーを通りがかった時、啓一は妙なものを見た。
ロビーのソファーに、びっしりと人が座っている。
それだけなら別にいいのだが、三等船室をその後ろにのぞいてそれが疑問に変わった。
(三等船室、がらがらじゃねえか)
このことである。
確かこの船の三等は自由席のはずだ。空いているなら堂々と座ればよかろうに、なぜわざわざロビーでおしくらまんじゅうなぞ酔狂をしているというのか……。
さすがに気になり、啓一は、
「……あれ?ここじゃなかったか?」
船室を間違えたふりをして中を見た。
その瞬間、啓一は船室の異様な雰囲気に瞠目した。
まず、明らかに不自然な方向を向いた乗客が多数いた。
それも隣とわざと間を空けたり、通路の向こうの乗客を見ないようにしたりと、避けているような感じがありありとする。
そして避けられている側の乗客を見て、啓一は思わずどん引きの体となった。
全員男ばかりで、妙な熱気、それも余り品のよろしくないものをむらむらと放っている。
(おいおい、堂々と成年雑誌読んでるやつまでいるぞ……ひどいな)
ここで、ようやく啓一は状況を理解した。
ロビーの客たちは、この下品な連中を嫌ってわざわざ疎開していたのである。
確かにこんな性欲にたぎった連中と二時間も同じ空間に押し込められるなぞ、男の自分でもごめんこうむりたいところだ。
顔が歪まないよう気をつけながら船室を去ると、座席に戻って来る。
「どうしたの、妙な顔して」
「三等をちらっと見て来た。ハルカさんが二等取ったわけが分かったよ」
「………?」
「全員じゃないが客層、特に男が最悪だ。あれは女性……いや、それだけじゃなくてまともな神経の持ち主にはきっついよ」
「ええ……」
サツキはそう言ったきり詳しく訊ねて来なかったが、逆に啓一にはその方がありがたかった。
「まいったね、こりゃ。あっち着いたら気をつけないとな」
先が思いやられるとばかりに、啓一は盆の窪をかいた。
十五時五分、定刻に船は緑ヶ丘空港に到着した。
啓一たちは三等の乗客が降りるのを待ってから、ゆっくりと降りる。
さっきの性欲にたぎった男どもが我先にとどやどやと改札口を通過し、その後を露骨に空けるようにして残りの乗客がげっそりとした顔で降りて来た。
「ああ、そういうことだったのね……」
その様子を見て、サツキは啓一が見て来た光景を察したようである。
「それではお二人とも、お先に。どうぞ気をつけてくださいね」
ターミナルビルを出たところでシェリルたちを見送ると、二人は一回立ち止まった。
「今日泊まる宿ってどこだったっけ?」
「……んっと、中心部の西、
「どれどれ、これまた大雑把な地図だな」
啓一がのぞき込むと、そこには最低限の目標と道の構造だけが記された地図がある。
「まあ、調べれば済む話ね。どれどれ……」
サツキが空中ディスプレイを出し、ささっと調べた。
「あ、少し遠いけど歩いて行けるわ。まっすぐ行ってから左へ入ればいいみたいね」
「危険って言われてた『桜通』に少し入るのか?大丈夫かね、治安云々あるらしいが」
「多分そこまで心配しなくていいんじゃないかしら。ちょっと戸場口を通り過ぎるだけでしょ」
「じゃ、そうするか。もし何か変なのがいるようなら、大急ぎで逃げよう」
互いにうなずいて広場からまっすぐ通じる通りに入り、少し先で左折したのだが……。
「……あれ?ちょっと待った。これ、通行止めだ」
何とペーヴメントがぼろぼろにひび割れており、通行止めにされていたのだ。
調べると、さらに先に行ったところに横道があるのでここを迂回すればいいようである。
だがこのことは、桜通をしばらく歩く必要があることを意味していた。
「ええ……危険地帯に突入するの?」
サツキが困惑するが、他に道がない以上どうしようもない。
とりあえずそろそろと入って行くが、ごく普通のビルが立ち並んでいるだけだ。
(ありゃ、考えすぎか?)
そう思い、前を見た時である。
「え、あの、啓一さん……あれ」
サツキが見るからに凍りついて、震える声で言った。
「……うわ、思ったよりがちの風俗街じゃないか」
このことである。
そこではいきなり時空を飛び越えたかと思うように、風俗店やアダルトショップなど性産業関連の店がずらりと櫛の歯を並べていたのだ。
「しかも営業中かよ……法律上問題ないんだろうが、さすがになあ」
「とにかくおとなしく探しましょう」
下品なほどぎらぎらした電飾がともされ、淫猥な看板が躍る中を急いで通り過ぎて行く。
とりあえず、女連れということで客引きには目をつけられていないようだ。
そこで安堵して、少々足を緩めた時である。
「……お、いい女連れてんな。どこの嬢だい」
いきなり横合いから、下卑た声が響いて来た。
見れば、汚らしい若者が一人にやにやとこちらを見ている。
「嬢」、すなわちそっちの店で働いている女ということだ。
ちなみに仕事ということで、サツキはスーツ姿である。当然啓一もスーツなのだから、普通は外来者だと思うはずだろうが……。
(こいつはやばい)
直感的にそう感じた啓一は、耳と尻尾をぴんと立てているサツキをかばうようにして後退した。
相手の意図は分からないが、いずれにせよ破落戸の類だ、関わることはない。
「何だよ、教えてくれたっていいだろう。狐族の嬢は好みなんだ、似たようなのが店にいるだろ」
男がなおも迫って来るのに、啓一は口を開いた。
「失礼ながら、私も彼女もよそ者でして。あなたの思うような
相手は破落戸とはいえ、しょせん鼠だろう。これで「つまらねえ」などと引き下がるはずだ。
だが、その目論見は見事に外れてしまう。
「何だ、よそ者か。……じゃあ姉ちゃん、そんな男より俺と一緒に来ないか。悪いようにしないぜ」
ああ言ったにも関わらず、意にも介していないようだ。
どうやらサツキは、完全にこの男に狙われてしまっているようである。
(そう来たか、糞ったれが!)
啓一は心の中で毒づくが、後ろで尻尾を毛羽立たせておびえているサツキがそれで助かるわけではないのだ。
とにかく何とかして切り抜けなければならぬ。
「申しわけありませんがね、私たちは仕事で来てるんですよ。通りがかっただけでそんなことを言われて、同僚を差し出せと?」
「いいから寄越せっての!」
会話が成立していない。
いかんせん啓一はごく普通の社会人、性格も荒くはないのだ。完全になめてかかられている。
もっともそれ以前に、この男の頭自体がいかれているのだろうが……。
この際殴らせて正当防衛を取るか、とまで覚悟した時だ。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん!ここにいたんだ、探したよ!」
ぱたぱたと走る音とともに、横合いから聞いたような声が響いて来たものである。
「シェ、シェリル!?」
声の主はシェリルだった。
泡を食う二人に、彼女は片眼を閉じてみせる。合わせろというのだろう。
「ああ、こんなところまで来ちゃ駄目じゃないか」
「へ、変な人に会ったりしなかった?」
サツキも震えを何とか振り払うと、躰を起こしてようやくそれだけ言った。
「……何だよ、がき連れだったのかよ」
破落戸がいかにも白けたという口調で言った瞬間、
「子供連れが何かね?」
野太い男性の声がする。
驚いてシェリルの肩向こうを見ると、警察官が二人立っていた。
恐らくはシェリルと一緒にいたのだろう、笑っていない眼で破落戸をじりじりと追いつめている。
「あ、いや、人違いですよ、人違い」
「ならいいがね。変なことをする人が多いから、この辺は」
「いや、大丈夫、大丈夫です」
完全に形勢逆転とあって、破落戸はおたつくばかりだ。
「じゃあ、さっさと行きなさい」
「わ、分かりました……」
しょせんは鼠というべきか、こそこそと去って行く。
「大丈夫ですか、お二人とも」
そう言って近寄って来る警察官に、
「大丈夫です、ありがとうございました」
啓一は頭を下げた。
「だ、大丈夫です……」
サツキもそう言って頭を下げようとしたが、安心したのかへなりと崩れる。
「危ない!……くそッ、俺がこの体たらくだから」
大あわてで抱き止め、啓一は思わず吐き棄てた。
「……啓一さんは充分にやったわ。あんな日本語の通じない人、想定外だもの」
「その通りです、あの手の輩に論理立った会話を求めちゃいけませんよ」
サツキとシェリルがそう取りなしていると、警察官の一人が近づいて来る。
「警視、行きましょう。人だかりが出来て来ていますから」
「まずいですね、余り目立ちたくはないので。……この通りを出るまで演技続けてください」
こくりとうなずくと、二人は再度演技に戻った。
「さあ、宿まで帰ろう。長居は無用だよ」
「そうそう。いくら探したからって、ここは中学生の来る場所じゃないわ」
「ごめんなさい」
謝る演技をしながら、シェリルはさりげなく事件のあった場所を見る。人は散ったようだ。
その時、ふと警察官が斜め前に向けて呼びかける。
「ああ、そうだ。
「う……分かったよ」
その言葉に出て来たのは銀髪の巫女だった。ひどく気まずそうな顔でほうきをかついでいる。
「また助けようと高台から飛び降りて来たのかい、そのうち本気でけがするよ」
どうやらこの倉敷女史とやら、二人を助けようと間に入るつもりだったようだ。
「えらい物騒な巫女さんだな……ってあれ?」
「どうかしたの?」
「あの人、会ったことある」
啓一がそう言った時、相手も思い出したらしく、
「あ、あれ、そこのあんた……前に筋違橋であたしの切符を拾ってくれた人じゃ」
心底驚いたとばかりに言う。
「やはりそうでしたか、その節は」
「い、いやそれはあたしのせりふで……」
互いに立ち止まって頭の下げ合いになるが、シェリルは、
「そういうのはまた後にして……宿はどっちですか」
そんなことをしている場合かと言いたげに、少々いらついた声で問うた。
「植月町の『ビジネスホテルよしやす』だ」
「植月町ですか?広場から左の道を上がっていけばいいはずですが……」
「え!?この道入る必要ないのか?」
「……ちょっとよろしいですか、何か勘違いされているようですね。どの道を通ろうとしたのか教えていただけますか」
警察官に訊ねられて、二人は簡単に説明する。
「それは地元民向けの裏道です。本来の道が街の西側に上るとは思えないような方向に向かってますから、見過ごして来てしまったんですね。広場の出口にある案内標識は見ましたか?」
「あッ、しまった!そこまで見なかった……!」
確かに広場の先に自動車向けの案内標識があった気がするが、歩行者には関係ないからと思い込んで見ていなかった。
「やはりそうでしたか。もし少しでも分からないと思ったら、遠慮なく空港の交番で訊いてくださいね。この街は下手なところへ入ると本当に危ないですから」
警察官が注意かたがた、歩みを早める。
そうして歩くこと十分ほど、ようやく一同は大通りとの交叉点に出た。
「すみません、仕事に戻ってください。ここから先は私がみなさんを送りますので」
「しかし……」
「また何かあったらまずいですよ。大丈夫です、あいつらもここから先下手に出て来ると、悪目立ちするしどやされて追い出されるしで、手を出したがらないですからね」
シェリルはそう言うと、倉敷女史――いや、あの時聞いた名前だと「
「……ちぇ、このちび刑事殿もちくちく言いやがるよな」
むっつりしているところを見るに、どうやらどやしているのは百枝らしい。
警察官が敬礼して戻るのを見届けると、啓一は大きな息をついた。
「しかしどうなってんだよ……治安が悪いというより、風紀紊乱じゃねえか」
「これは『間違えて入ったら即座に逃げろ』と言われるはずだわ」
「いろいろ疑問はあると思いますが……早く宿に入りましょう、また変なのに会わないうちに」
シェリルの言うまま坂を上りつつ、二人は嫌な予感にひしひしとかられるのだった。
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