五 筋違橋にて

「あー、やっと終わった」

 そう言うと、啓一は眉間にしわを寄せて万年筆を置いた。

「お疲れさま。結構、大変なものなのね」

「レイアウトの調整込みだとこんなもんさ。ともかく、これでいいはずだ」

 そう言った啓一の前には、校正が終了した所内報の初校ゲラ(初回の校正刷り)がある。

 あの日、サツキに引っ張られる形で総務部へ向かった啓一は、担当者に所内報の校正とレイアウトの修正をやらせてもらえないかと頼んだ。

 研究員の助手から来た意外な申し出に、担当者はひどく驚いたようだったが、

「……いいんですか?手伝っていただけるなら助かります、非常に困っていたので」

 すがるようにそう言い出したのである。

 話を聞くと、サツキの予想通り前の担当者が定年退職してしまったのが原因だった。

「引き継ぎでやり方を教えてもらっていたんですが、忙しくなってしまって……。とりあえず用意されていた枠にテキストを流し込んで、校正するくらいしか出来なかったんですよ」

 この言葉からするに、どうやら仕事の合間をぬってようやく編集作業を行っていたようである。

 編集というものには、本来テキストの調整や文字組みの改善や空白埋め、さらにはレイアウトの見直しなどいろいろな作業が含まれるため、専念して出来ないのは致命的だ。

 とりあえずということで朱を入れた件の所内報を渡して修正してもらったところ、その力が認められて校正とレイアウト修正がこちらに移管されたのである。

 それも救いの手を逃すまじと思ったのか、自分の上司の総務部長のみならずサツキの上司の第一研究部長の許にも向かい、正式な許可を取ってのことであった。

「部長に許可取って来るとはな……さすがに困惑したぞ」

「まあ自分の仕事を他の部の人に渡すわけだから、一応筋は通さないと」

「そりゃ分かるが、あの生き生きした顔……厄介払い出来るぞと言わんばかりだったじゃないか」

「まあまあ、そう言わないであげてよ」

「とりあえず、反映をうまくやってくれりゃいい。しょっぱなから豪快にミスって、三校を出してもらう羽目になったからな。今度は再校で校了(校正終了)させる」

 編集作業においてゲラは最初に印刷して出したものを「初校」と称し、以下校正で入れた朱字を反映して出した順番に再校・三校・四校……と数える。

 ただし、通常よほどのことがない限り校正は何度もやるものではなく、再校で校了させるくらいが適切だ。三校でぎりぎりあり、四校以降になると印刷所にあれこれ言われても文句は言えない。

 殊にこのような部内向けの発行物なぞ再校止まりにしておくべきだろうに、担当者が慣れていないために三校まで出かねない可能性があった。

「ちょっと戻して来る。南無三、三校出るなよ……」

 そう言いながら、啓一は総務部へゲラを戻しに向かう。

 それを見送りながら、サツキは息をついた。

(とにかく元気出してくれてよかった……)

 このことである。

 このままでは、続けさせるも辞めさせるも出来なくなってしまうからだ。

 シェリルに報告したところ、

『状況が一転したんですか……それならまだ何とかなりそうです。引き続き見てあげてください』

 そう言われたため、特にそれ以降相談などはしていない。

 さて……。

 ややあって、啓一が戻って来た。

 何やらひどく困惑したような顔なのに、サツキが意外の顔となって問う。

「……どしたの?何か問題でも?」

 啓一はそれに対し軽く肩をすくめたかと思うと、

「……空きが一段出来たんでどうしようかって話をしてたら、連載小説はどうかって言われたんだが。しかも、俺に頼みたいって」

 思いもよらないことを言い出した。

「え、連載小説!?」

「ああ。今さら確認するけど、所内報って完全に内輪のもんだよな……?」

「う、うん。元々うちの職員だけが見る前提で作ってるものだし」

「確かに文芸欄はあるけどさ、ちょこちょこ川柳とか俳句が載ってるくらいじゃないか。内輪で楽しむならそれが限界だろうと思ってただけに、連載小説と来るとはねえ……」

 所内報に連載小説。何ともアンバランスだが、あちらは本気らしい。

「多分、自己紹介で小説家目指してたみたいなこと言ったからかも。しかし無茶振りするものね」

「ああ、結構無茶だよ。小説も文芸だから載せるのは百歩譲っていいんだが……あれ、そう簡単に書けと言われて書けるもんじゃないんだぞ」

 まさに啓一が困っているのはこれだった。

 ちょっとでも創作をしたことがある者なら分かるが、小説というのははい出来ましたと右から左に出るようなものではない。

「それで、どうしたの?」

「せめてコラムにと言ってみたんだが、間に合ってるからって言われてさ。しょうがないんで、とりあえず書いてから原稿見てもらって、駄目そうならやめって条件で受けたよ」

「大丈夫なの?」

「隔週だし、文字数も勘定した感じさして多くないから慎重にやれば……。しかし連載という形態がね。まさか有名になる前に頼まれるとは思わなかった」

 啓一は、まだ一度しか雑誌に載ったことがない。

 それも市民が原稿を持ち寄って作るような地元の文藝誌なので、載ったところで大した栄誉があるわけではなかった。しかも最近はそれですら数年落ち続けだったのだから、どだい話にならぬ。

 本人に言わせれば「三文文士ならぬ一文文士」、きちんとデビューした作家がやるような連載をやれと言われて慎重にならぬわけもなかった。

「それに、この世界の知識もまだ足りないからな。こりゃきっちり勉強と取材せな……」

 盆の窪をかいてそう言うと、サツキが、

「あ、ごめんなさいね。話の途中だけど、そろそろデータ取り始めないと残業になっちゃう」

 急いだ声で言って立ち上がる。

「そうか、のデータな。今回は四号機だっけか?」

「そうね。三号機が終わったかと思ったら、すぐに来ちゃうなんてね……」

 サツキはそう言うと、研究室の入口の台の上に鎮座していたトランクのようなものをかついだ。

 この研究所は、人にもよるが研究室の隣に実験室が与えられている。学問によっては同室も有り得るところだが、重力を扱う実験となると結構な広さがいるので別室が原則だ。

「ねえ、今度は中に入って見てみない?」

「何も出来ないで突っ立ってるだけじゃないか。それに、心得のないやつがいると危ないの分かってるわけだし。自分のことに集中しなよ」

「気にしなくたっていいのに……」

 実験の時、いつも交わされる会話である。

 啓一とて学問をした身、未知の実験に興味がないわけではなかった。

 だが一回誘われて入ったところ、うっかり反重力場に接触してしまって吹き飛び、結果的に実験を駄目にしてしまったことがあったのである。

 しかもその時、サツキが、

「し、素人さんがうかつに触っちゃ……!!」

 思わずそう叫んでしまったものだからいけなかった。

 当然大失言となり、以後啓一は一切実験室に立ち入らなくなったのである。

「じゃあいつも通り、入口で見てるよ」

「分かったわ……」

 啓一が入口横に移動したのを見て、サツキは実験を開始した。

「えーと、連邦暦一六二年九月二十八日土曜日十五時三十五分、天候雨後晴れ、気温摂氏二十三・六度、湿度六十五パーセント、気圧一〇一九・五ミリバール。データ入力確認完了」

 実験室の中養生テープで「×」印がついたところに立って年月日や気象状況などを喚呼し、自動で空中ディスプレイの中の表に内容が入るのを確認する。なお「連邦暦」とは、建国を元年とする天ノ川連邦独自の紀年法で、連邦暦元年=西暦二一〇六年である。

「『ディケ』起動」

 件のトランクのような「ディケ」なる装置をボタンを押して起動すると、果たしてサツキの周囲に円筒状の薄いシールドが現れた。

「反重力場、直径二メートルまで拡大完了」

 紙を一枚シールドの中に浮かべると、ふわりと浮き上がる。反重力場がうまく出来ている証拠だ。

「測定開始、っと」

 そう言いつつ計器を反重力場の中へ差し込んだり出したりしては、空中ディスプレイに入力する。

(片手でよく出来るよな……実質暗算してるじゃないか)

 サツキが今使っているのは、専用のソフトだ。相対性理論の知識を持ちある程度計算が出来ることを前提にしたもので、全くもって得体の知れない代物である。

 それを時折画面を見るだけで扱ってしまうのだから、サツキの常人離れぶりが分かろうものだ。

「展開地点を前方五十センチ地点に移動」

「展開地点を前方一メートル地点に移動」

「実験者より前方二十センチ離して展開」

「続いて展開地点を後方五十センチ地点に移動」

 確認のためかサツキはいちいち喚呼しながら、養生テープの上で「ディケ」のボタンをいじったり、自分の立ち位置を確認したり周囲を見渡したりと忙しく立ち回る。

 小さな女性が耳と尻尾を整える間もなく実験にいそしんでいるのを見ると、何とも心苦しいものがあるが、逆に迷惑になるのは先日のことで分かっているのだから仕方ない話だ。

「よし、終わり……ああ、疲れた」

「お疲れさま」

「いやあ、安定してるわねえ……いろんな意味で」

「やっぱりそういう結論になりそうかい」

「そうね。個体差がない、条件に左右されない、反重力場の発生にぶれがない。しかも場の発生位置を前後左右いろいろに動かしてもびくともしないとなったらね」

 感心したように言って耳の間をぽりぽりかきながら、サツキは「ディケ」を台の上に戻す。

「しっかし、反重力発生装置ってこんな小さくなるもんなんだな」

「応用技術担当してる第四研究部の努力の賜物ねえ……私が入る前から苦労してたらしいもの」

 実はこの「ディケ」なるトランク型の装置、これだけで反重力場を発生し制禦することが出来る携帯用反重力発生装置なのだ。

 「アストレア」のシステムを使った反重力発生装置は、何もあの反重力プールで使われるような巨大なものばかりではない。中型や小型の装置もしっかり存在し、それこそ日常生活でも使われあちこちで目にするようになっているのだ。

 これにより、この世界では市民生活に大きな利便がもたらされている。

 一番大きいのが、高所からの人や物の落下事故が防げるようになったことだ。

 例えば工場や工事で高所作業を行う場合、足場や作業台の周囲に軽く反重力場を発生させ一部無重力状態を作っておくと、作業者の転落事故や工具・資材の落下事故が防げる。また鉄骨や特大の鋼板など重量のある資材を高所へ上げる際にも反重力場を作ってうまく制禦すると、落下が防げるどころか自分から持ち上がってくれることすらあるので上げやすくなるのだ。

 場所によってはこんなことにも使われる。屋上など露天の高所の周囲に常にある程度の強さで反重力場を発生させることで、人が入って転落しても押し返すことが可能だ。これは単なる転落事故だけでなく、飛び降り自殺防止にも効果を発揮している。

 むろん命綱をつけたり荷崩れしないようにきちんと縛ったり柵を整備したりと、物理的に安全対策を取ることは必須であるが、これだけでも随分落下事故が防げるものだ。

 このようなものなので、人命救助にも活用出来るのは言うまでもない。救助隊員を持ち上げて作業を補助したり瓦礫を取り除いたりけが人搬送を補助したりと大活躍し、助かった命は数知れぬ。

 また関連技術である光線欺瞞も、行政や企業などで頻繁に使用されている。専用の装置を使えば、立入禁止場所への通路や企業秘密となる物品を視覚的に隠すことが簡単に出来るからだ。しかも音波や電波なども遮蔽出来るので、何か音がする場合でも問題ないし、対応するレーダーでも使わないと見つからないと来ているため、事故や機密漏洩を防ぐことが出来て万々歳もいいところである。

 むろんこれだけ便利だと悪用する者が出るわけだが、見逃すほど警察も甘くないものだ。相手の反重力場制禦を無効化したり光線欺瞞を破ったりと対抗し、日々取り締まりに走り回っている。

 実はこの辺のことは、啓一が研究所に最初来た日に見た展示室にも解説があった。

 重力学の説明の難解さに煮つまってしまったのを見かねたサツキが途中で切り上げたため、見たのはこちらへ通うようになってからである。

「ディーゼル発電機くらいまで小さくしたのかよ……」

 展示を改めて見てやはり驚いたのは、これであった。

 百年ほど前から市販が開始された反重力発生装置は、年を経るごとに小型化が進んでいる。

「もっと小さくして、トランク型を実用化する予定でいるわ。ただどうにも調整が済んでくれなくてね、多分うちでも実験頼まれるかも」

 その言葉の通り、やって来たのがこの「ディケ」であった。なおこの名は「アストレア」と同一神とされる女神の名前に由来し、反重力発生装置開発時に必ず使われる開発コードだ。

「それにしても大変だよな。最終調整のためにまた初期実験の繰り返しだなんて」

「みんなうんざりしてるんだけどね……でもやらないと、いつまで経っても実用化出来ないのよ」

 実は正直なことを言うと既に「ディケ」はもうほぼ実用化の一歩手前まで来ているのだが、かなり長い間そこでくすぶり続けている。

 ここの発明品としては異例のことなのだが、その理由は、

「余りにも『ディケ』の機能が強烈すぎて制禦が難しい」

 このことにあった。

 ありったけの叡智をつめ込み、大型の反重力発生装置にしかついていないような機能まで盛り込んで造ったはいいが、設計者も驚くほどの万能かつ大出力の装置となってしまい、このままではじゃじゃ馬がすぎると研究所総出で調整中なのである。

 実際に危険と判断されて実験中に封印されてしまった機能も多く、四台造られた本体にはいくつかのスイッチに封緘がされているほどだ。

「うっかり怪物誕生なんて本当にあるもんなんだと思ったぞ、こいつの話聞いて」

「か、怪物って……確かに間違ってはいないけどね」

 啓一のもの言いに苦笑しつつ、サツキは壁のカレンダーを見た。

「あ、そうだ……明日から連休だけど、あなたどうする?」

「ん……市内に行ってみようかな、って。目的地は決めてないが」

 あれから啓一は、折に触れてサツキの案内を受けながら新星市内を見て歩いている。今では、大体街の構造も分かるようになった。

長治ながはるちょうの古本屋でも行ってみるかねえ」

 長治町は、地球の東京の神田神保町に相当する街である。

 同名だと混乱するため、「神保町」の由来となった旗本・神保長治じんぼうながはるの下の名前を取って命名したものだ。

「それとも……小説のねたでも探すか」

「さっそく動くのね」

「そりゃそうだ、二週間以内に頭を書き出してなけりゃいけないんだからさ。……とりあえず、残りの仕事仕事。やらにゃ始まらん」

 そう言うと、啓一はデータ整理の仕事を再開した。



 翌日。

 真島家にほど近いすばるまちの電停上に、啓一の姿を見出すことが出来る。

『まもなく十八番、白鳥今しらとりいままち行が到着します』

「こいつは飛ばす、と。十七番だ、十七番」

 そう言うと、空中ディスプレイではなく紙の路線図を広げて経由地を確認し、

「しかし何だな、こんな系統があったとはな」

 なぞってひとりごちた。

「起点はまるで違うが、終点はほぼ同じ雰囲気。系統番号まで『十七番』で一緒ってのは、何か因縁めいたものを感じるな、うん」

 これから啓一は、所内報の連載小説の取材をするため市電で市内へと向かおうとしている。

 実は昨夜、寝る前に頭ををしぼって何とか案を練ろうとした。

 これがどうにも大変な話である。この世界に徐々に慣れては来ているものの、小説を書くほどの知識があるかというと、かなり怪しいのだ。

 完全に困り果て、すがるように交通局の電車路線図を開いた時である。

「……ん?」

 その眼が、一つの系統に止まった。

「十七番って、こんな妙なところで終わるのか」

 そこには六郷前から中心部を経由した後、一本だけ隣の道にずれて走り、「筋違橋すじかいばし」という歓楽街の電停でいきなり別の系統の横腹にぶつかって終わる系統が書かれている。

 この系統に、啓一はあるものとの類似を見た。都電十七系統である。

 実は啓一には、古いものがとにかく好きという側面があった。

 そのため東京など大都市の古い街並みにも興味を持ち、本をあさって関係資料である都電の写真集にも手を出していたのである。

 この時妙に印象に残ったのが、この十七番であった。

 経路は池袋駅前〜後楽園〜水道橋〜神保町〜一ツ橋〜新常盤橋〜東京駅八重洲口〜数寄屋橋で、神保町から先が単独で特殊な経路を取っている。そして、数寄屋橋で別の系統に横っ腹からどんとぶつかって終わるのだ。

 池袋駅前から出る唯一の系統であるばかりでなく、後楽園や神保町といった著名な街や東京駅八重洲口という交通の要衝まで通って、最後でいきなりぷつりなのである。記憶に残らぬ方がむしろおかしいというのが啓一の言い分だ。

 奇しくもここの市電の十七番も、最後の方がこれに似た特異な経路を取っている。これに興味を持ち、天秤区から行けるのをいいことに乗ってみることにしたのだ。

『十七番、堀川ほりかわどおり経由、筋違橋すじかいばし行です』

 滑り込んで来た電車に乗ると、すぐに発車である。後がつまっているのだ。

『次は鍛冶通二丁目、鍛冶通二丁目……』

 地図によると、ここから四つ先の新星橋しんせいばし電停から中央区に入る。新星橋は、どうやら東京の日本橋に相当する橋らしかった。

(電車がうじゃうじゃ集まって来たな)

 新星橋から先、電車は「新星大通り」と呼ばれる大通りに入る。

 ここはやたらに経由する系統が多く、一気に電車がなだれ込んで来るのだ。

『次はとおりさんちょう、通三丁目。以下の系統お乗り換えです。経由地にご注意ください。一・五・八・十二・十三番新星空港行……』

 我々の世界の都電にもあった電停名の後に、実に十八もの系統が乗り換えとして案内される。市電の路線網は、この通三丁目電停を中心に出来ているのだ。

 扉が開いた途端、乗客の入れ替えが一気に起こる。心なしか、車内が空いたようだ。

 発車後、いきなり電車は交叉点を右に曲がる。追従する電車はなく、後ろでそろって直進・左折して行った。ここが、唯一十七番のみが通る経路である。

 この先大きな川に突き当ったところで橋の西詰を左折し、一気に進み始めた。橋ごとに交叉点があるため、電停名は「橋」が続く。これらの橋の名前は、一部を除きかつてあった外堀に架かっていた橋の名前を移して来たようで、呉服橋、鍛冶橋と聞いたような名前の電停ばかりだ。

『次は有楽橋、有楽橋です』

(そういや、あいさんがいなくなったってのはここの電停だったか)

 サツキの話を思い出し思わず周囲を見回すが、右手は相変わらず川、左手は瀟洒なオフィスビルが並んでいるだけで特に何もない。

 会社がはねると思われる夜には、川向こうの歓楽街に行くくらいしかない場所だ。

 そう考えているうちに電車は大きな橋の袂に出ると、一気に平面交叉で橋を直進する軌道をまたぎ、終点の筋違橋電停に到着する。

 降りて観察してみると、まさに両者の軌道はただ交叉しているだけでつながってもいなかった。つまり、ここだけぽつりと隅に取り残されているのである。

「……うわあ、都電の方の十七番の数寄屋橋電停まんまだわ」

 啓一としては余りにそっくりすぎて、驚きを禁じ得なかった。

 都電の方の十七番はかつて新橋駅まで伸びていたのを切り捨てたがために、平面交叉の向こうで終点となっていたのだが、こちらはどういう理由なのだろう。

 先を見るとオフィス街から変わって小さなバーなどが立ち並んでいる辺り、やはり数寄屋橋の周辺をきれいにコピーしているようだ。

 電車が折り返したところで、電停名の由来でもある筋違橋へ出てみる。流れでいうと、これが東京の数寄屋橋に相当する橋になるはずだ。

「うーん、まんま大昔の数寄屋橋だな、こいつは」

 鉄道高架や首都高速はないし、川も埋め立てられず現役のためかなり印象が異なるが、古写真にある数寄屋橋そのままの姿がそこにある。

「多分、あっちが有楽町のコピーだな。ちょっと行ってみるか」

 そして、橋を半分ほど渡りかけた時だ。

ももさんって、ほんとに巫女服や神職装束以外の和服着ませんね」

 にわかに女性の声が聞こえて来る。

 ひょいとそちらを見ると、青い着物を着た長い黒髪の人間の女性と黒いスーツを着た銀髪で短い外はね髪の人間の女性が、欄干おばしまに寄りかかって話していた。

「そりゃそうだ、きちんと着付けしたのなんてきつくて着られるかよ。別にいつも和服じゃなけりゃいけないって決まりはないんだぜ。みずがきっちりしすぎなんだよ」

「いけませんよ。巫女たるもの、神職たるもの……」

「ああもう、またお説教が始まったよ。新星に来てまでいいっての!」

 「瑞香」と呼ばれた女性はまじめでしっかり者、「百枝」と呼ばれた女性はそれとは真逆に伝法で鉄火というところか。

 何とも凸凹としたコンビと思っているうちに二人は欄干おばしまを離れて歩き始め、啓一とすれ違った。

「……ん?」

 その瞬間、ぱさりと何かが落ちる。見れば、

「新星空港→緑ヶ丘空港」

 と印刷された切符であった。この分だと、宇宙船のものだろう。

「あ、すみません。これ、落とされましたよ」

 どっちが落としたものか分からないが、とりあえず追い駆けて行って渡した。

「え、あ……やべッ!それ、あたしんだ。ありがとうございます」

 百枝女史が、大あわてで頭を下げる。どうやら鉄火なだけでなく、大雑把な性格でもあるようだ。

「どこに入れてたんですか……またポケットでしょう」

「う、うるさいな。大丈夫だろうと思ってたんだよ。……そ、それじゃ失礼します」

 きまり悪そうな顔をする百枝を引っ張るように、瑞香はその場を去って行く。

「……全く、仲がいいもんだね」

 腐れ縁の仲だろうと思われる二人を苦笑して見送りながら再び橋へ歩みを進めると、不意に眼の前に影が立った。

「あれ?いなさんじゃないですか。お久しぶりですね」

 こんな少女の声で自分を苗字で呼ぶ者というと、一人しかいない。

「ありゃ、シェリルか……こっちこそ久しぶり。どうしてまた、こんなところで」

「まあ、ちょっと用がありまして」

 シェリルは少々言葉を濁した。非番ならはっきり言うはずなので、刑事として余り一般人に言えないような仕事でもしていたのだろうか。

「それより、禾津さんこそどうしてまた」

「ああ、それは……」

 問われて連載小説の件を話すと、シェリルは、

「無茶振りしますね」

 じとりとした眼になった。

「全くな……。でも、市内に出る機会が出来たと思えばいいさ。こうして歩いてるだけでも、何かあると意外とぴんとひらめくもんなんだ。さっき会った女性二人連れも、凸凹コンビっぽくてアイディアになりそうだったし」

「……あれ、それってもしかして、あの遠くにいる二人連れの人間の方たちですか?」

 ひょいと後ろを振り返ると、遠くの方でまた百枝が信号待ち中に瑞香に説教でもされていたらしく、げんなりとしている姿が小さく見える。

「どこかで見たような後ろ姿なんですよねえ、片方の人」

「本当に知り合いだったりしてな。首都っていろんなとこから人来るし」

 少し笑うと、啓一は先ほどから気になっていたことを訊ねてみた。

「そういやさ、新星の街って東京を真似てる?」

「全体的にかなり真似てますね。程度は場所によっていろいろですが……。この筋違橋は完全に昔の数寄屋橋のコピーですね」

「そうなのか。実は俺の世界の数寄屋橋も、昔はこんなんだったんだよ。どうやら俺の世界の東京とこっちの世界の東京って、普通に共通点ありそうだなあ」

「有り得ますね。橋一本だけ一緒というのもちょっと考えづらいですし」

 そこで啓一は、ふと思い立ってある謎かけに挑んでみた。

「……君の名は」

「真知子……って答えさせる気ですか。古いにもほどがありますよ」

「じゃあそれ知ってるお前さんは、一体何なんだ」

「何百年経っても名作は名作だからいいんです。何なら主題歌だって歌えますよ」

おりしげさん知ってるとか、ますますどういうこったい」

 このやり取りでとする読者は、今やもうほとんどいないかも知れぬ。

 これは戦後すぐに大ヒットしたラジオドラマにして、ついには映画にもなった『君の名は』を下敷きにした謎かけであった。

 この作品で重要な舞台の一つが、現役時代の数寄屋橋なのである。ただし実際にはこの時ヒロインは名を告げていないため、厳密にはこのやり取りは間違いなのだが。

(こっちの世界で通じるとはな。数寄屋橋も一緒だったみたいだし。ということは、思ったより一致してる部分が多いのか……)

 こんなつまらないやり取りに元の世界との接点を感じて安心した気分になっている啓一をよそに、シェリルは不満そうに話し続ける。

「そんなこと言ってますとね、あの作品よろしく恋人とすれ違いばかり起きてろくなことになりませんよ。こっちでも『筋を違える橋』っていう文字面や響きから、恋人同士で余り長くいるとよくないなんて迷信があるくらいなんですから」

「はは、そりゃまた。恋人なんて未来永劫出来ないから大丈夫だよ」

「……一つ屋根の下に女性と暮らしておいて、この人は」

「しょうがないだろ、あそこまで言われて断れるわけないじゃないか。第一、最終的に承諾したのはお前さんも一緒じゃないか」

「いやまあそうですが……」

 そんなたわいもない話をしながら筋違橋を渡りきったところで、啓一はせっかくだからと件の話について訊ねた。

「なあ、英田さんの件ってどうなってるんだ?サツキさんに聞いたんだけど、すぐそばで失踪して目下捜索中だって話じゃないか」

「やっぱりその話、サツキちゃんから聞いてましたか。まあ知った以上は禾津さんも関係者ってことで、言っちゃっていいですかね。ただ路上ではちょっとあれなので、喫茶店でも入りましょう」

「その方が都合がいいなら」

「じゃ、そこの天ノ川劇場裏の喫茶店にでも」

 そう言うと、シェリルはひょいと正面に優雅な曲線のついた劇場を指差す。

(今度は日劇のコピーがお出ましかよ。個人的にはナイスと言いたいが、宇宙コロニーの中だと思うと何とも言えない違和感がな)

 「日劇」とは、昭和八年から五十六年まで数寄屋橋の袂にあった「日本劇場」という大きな映画館兼劇場のことだ。

 どうやらこの界隈の設計者は、レトロ趣味でもあったようである。

 劇場の裏に回ると、そこには雑居ビルに入った何とも古色蒼然たる喫茶店があった。

「……また渋い店を。外見が中学生くらいの子と思うと随分とまあ」

「禾津さんまで……サツキちゃんから聞いてるでしょうけど、私はあなたと歳あんまり変わらないんですよ。アンドロイドだから何年経とうと見た目が変わらないだけです」

 店員の案内のまま空席に座って見回すと、見れば見るほど昔の喫茶店である。やはり失礼ながら、シェリルの外見では違和感がぬぐえなかった。

 注文をすると、水を飲みながらさっそく本題に入る。

「……さて、と。英田さんの件ですが、先に結論を言うと正直進展がほとんどありません」

「サツキさんからまた目撃情報があった、みたいな話を聞いたけどな。あれも駄目だったのか」

「そうですね、空振りです。よく似た別の人でしたよ。これでもう三十一件目……」

「そんなに集まって分からないって、一体どうなってんだ。他の人とかはどうなのさ」

「余り詳しくは言えませんが、やはり二十や三十は情報が来て全部駄目ってパターンですね。一人たりとも分かっていません」

「そこ来て人数増え続けてるから大変だよな、こないだ十八人目が出てるだろ」

「そうですね……」

 シェリルが悄然と言ったところで、頼んであった珈琲が運ばれて来た。

「ああいや、責めてるんじゃないんだけどな。殺人とかなら明確に犯人がいるから何とか対処が取れるが、失踪は基本原因不明で状況不明なんだから防ぎようがないじゃないか」

「でもそれ、言いわけにしてられないですからね。不気味な事件によって市民が心理的に脅かされているにも関わらず、まるで糸口がつかめず次々とというのは一緒ですし」

「うーん……」

 珈琲を一口飲んで、啓一は苦い顔をする。

 いつでも自由奔放とのことらしいが、それでもこれだけの事件の捜査で指揮を取る身、やはり責任と重圧を感じているようだ。

「打開の糸口が見えないのはつらいよな。それで、個人的な意見なんだが……これって拉致事件だったりはしないのかね。それならやりようはありそうだが」

 カップを置くと、啓一は少々話の流れを変える。

「それですか、拉致の線も実は考えています。ただし、いくつかの事件……特に英田さんの件を含む新星での事件はかなり人出の多い繁華街、それも深夜まで裏道でも人が普通にうろついているような場所で起きてるんですよね。こんな環境で拉致なんて、闇社会の連中でもよほど度胸がないと……」

 そもそもそんな度胸いりませんがね、とシェリルは半分ほど飲んだ珈琲を置いて言った。

「ただ、新星警視庁から気になる事件の話が回って来まして。拉致未遂と思われる事件に巻き込まれた人が出ていたんですよ。それも組織的犯行とも取れるきなくさいものに」

「何だって?」

 そうして話すところによると……。

 被害者は神社関係団体である「天ノ川神社連盟」が開いた会合に別のコロニーの代表として参加するため、知り合いの神社に逗留していた巫女だったという。

 それが先日夜、急ぎの買い物に出かけた際に筋違橋の上で二人の男にからまれたのだ。

「幸い神社の隣家のご亭主が袂を通りがかり、飛んで行って救助に成功したんです。犯人には残念ながらあと少しのところで逃走されてしまったのですが……」

 これだけならば破落戸ごろつきにからまれたというだけで終わりだが、被害者に話を聞いてみると犯人が妙なことを言っていたことが分かった。

「『この女を連れて行けりゃ汚名返上だ』『上の連中が見てるんだぞ!早くしろ』など、明らかに拉致の意図が感じられる言葉や、さらに上に指示する人物か組織がいることを示唆することをしきりに言っていたそうでして」

「そいつらは拉致を指示された三下だったってところか……。そんな鼠でも、捕まえてたたけばほこりが出たんだろうが、まあ仕方ない」

 珈琲をまた飲み、シェリルはうなずく。

「この事件が失踪事件と関わりがあるかは今のところ不明ですが、もしあるなら失踪ではなく拉致の可能性が出て来ますので、極めて重要な事件です。そういうこともあって、現在警視庁と共同捜査しています。……実はさっき橋を歩いていたのも、現場周辺をを改めて見に来たからなんですよ」

「そうだったのか」

 確かにこの理由ならば、言葉を濁したのも分かった。表でこんな事件の話は長々出来ないだろう。

「収穫はあったのかい」

「残念ながら。もし何か見落としがあれば、と思ったんですが……そういう筋の連中が潜伏してそうな場所というのも見つからず」

 よく考えるとこの街は我々の世界における東京の有楽町、それもまだ瀟洒な百貨店や映画館に混じって雑居ビルが多くあった頃の街並みを再現している。そう治安の悪い街ではないはずだ。

「雑居ビルが怪しいといえば怪しいですけど、この周辺は官庁街の上に警視庁の本庁舎や連邦警察の本部も近いですからね。やくざ破落戸連中が隠れるには最も不適な場所です。いざとなればわっと警察官や刑事や機動隊が隊伍を組んで出て来るんですよ、どだい自殺行為としか」

「は、はは」

 事実なのだが、絵面を想像して軽く引き気味になる。

 それをよそにシェリルは腕時計をふと見ると、

「あっ、いけません。そろそろ戻らないと、部下のみんなにどやされちゃいます」

 あわてたように言った。

「それじゃ、お先に失礼します」

 頭を下げ勘定をして店を出て行くシェリルを見送りながら、啓一はぬるくなった珈琲をすすった。

「さて……どうするかねえ。珈琲一杯じゃ何だ、せっかくだから何か追加で頼むか。……おっ、喫茶店の定番あるじゃないか。こっちの世界でも一緒なんだねえ」

 店員を呼ぶと、ナポリタンを頼む。ついでに、珈琲のおかわりも頼んだ。

(……拉致未遂事件か。明らかにくっせえなあ)

 シェリルは刑事であるし捜査を統括する立場にあるので慎重な態度だったが、実際のところ関係があると踏んでいるだろう。

(だが拉致だったとして、何のために?人身売買ならこんな派手に新聞に載るほど目立った真似はしないだろうし……。かといって借金のかたにとか、そんな感じでもない。身代金目当てなんか論外だ、要求がないんだから)

 啓一はカップを置き、頬杖を突いて考え込んだ。

(警察からいずれ発表があるだろうが、拉致未遂ってだけで女性には外出が厳しくなるな。まあ別事件だった場合男が狙われる可能性もあるから、俺も気をつけないといかん)

 そこで頼んだナポリタンが来て、啓一は思考を止める。

(まあまずは、小説の構想だな……)

 ナポリタンを食べ始めた啓一の視点の先、店の外の道をロードショー帰りと思われる人々ががやがやと歩いて行った。

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