天ノ川連邦見聞録

苫澤正樹

一 突発

(おい、何なんだ……この妙ちきりんなありさまは)

 漆黒の闇の中、ひたすらいな啓一けいいちは困惑し続けていた。

 これが普通の闇ならばもっと恐怖するのだろうが、いかんせん天地も左右も分からないままに浮いているというのでは、恐怖より疑問ばかりが先に立ってしまう。

 手足を動かしてみると、まるで宇宙遊泳のようにふわりふわりと泳ぐことが出来る。さながら闇の海というところだ。

 余りに不可解過ぎて逆に冷静になってしまい、啓一は足場の悪い中にあぐらをかき、手を組んでじっと考え込む。

(……ううむ、もしや死んじまったのか?)

 普通の状況ならまず考えそうなことだが、啓一はそれに思い切り首を振った。

(待て、すぐ近くで事故が起きたのは確かだが、俺自身は一切巻き込まれなかったはずだ。落石なんぞもなかったし、こけそうでこけなかったしな……死んでるわけがない)

 このことである。

 つい先ほど出先で崖下を歩いていたら、巨大なダンプが眼の前で崖の法面に衝突するという大事故に出食わした。

 しかし完全な単独事故で、啓一は直接被害どころかゆうに百メートルは離れた場所から目撃しただけである。落石や土砂崩れなどの二次災害も起こらなかった。

 唯一何かあったといえば、地面に衝撃が走ってつんのめったくらいのものなのだが、それとて数歩歩いた程度で踏み留まって転びもしなかったのである。

 当然頭を思い切り打つなどのこともないため、死んでいないのは明らかなのだ。

 そしてさらに、自分の生を確信することがある。

(躰や頭のはたらきが、全部生きてる時のままだ)

 死ねば当然脳も死ぬものだし、そうなれば何にも出来ないどころか感じられもしないはずだ。

 だが五感も思考能力もしっかりあるのだから、これが生きていなくて何だというのか。

(生きてるんだから、今頃現場で大騒ぎになってるのを見てたり、警察に事情訊かれてたりしてるはずだろ。闇の中で無重力体験させられる筋合がそもそもないぞ)

 交通事故を目撃したら、奇妙な闇に浮いていた。

 事態を要約すればこうなってしまうが、全くもって理屈も道理もあったものではない。こんな理不尽な話はなかった。

 しかし何より、啓一には腹の立つことがある。

(もしや、四次元空間か何か異空間にでも迷い込んだってのか?……ふざけんな、今の生活から解放されたいと思っちゃいたが、世界そのものから解放されたいとまで思った覚えはないぞ)

 このことであった。

 実は啓一は、先月仕事を辞めている。

 勤め先は出版社の編集部だったのだが、社内上層部の紛争が数年前から絶えず起こるようになって職場環境が劣悪となり、ついに過労でドクター・ストップがかかってしまったのだ。

 療養後即座に求職を開始したものの、この不況のご時世にあって三十二歳を拾ってくれる奇特な企業なぞそう簡単に見つかるはずもない。

 この日も職安で電話をかけてもらっては断られるを繰り返され、

(それでも、今の生活から解放される手段がまだあるだけまし……)

 そう無理に言い聞かせながら、失意に肩を落としたまま自宅へ帰る途中だったのだ。

 そこへ来てこのざまである。到底承服しかねるというのも当然のことだ。

(……ああ、それより問題があった。原稿脱稿してなかったな、糞ったれ)

 そして渋面を通り越して悔しげに血も出よと唇を噛みしめ、組んでいた手足を解いて再び闇をくるりと一回転した時であった。

 いきなり躰が急降下し始めたのである。

(なッ!?)

 ばたばたともがくが、全く意味をなさない状態だ。今までの無重力状態はどこへ行った、と言わぬばかりに一点に引きずられる。

 そして一瞬光の点が見えたかと思うと、という衝撃とともに何か固いものに背中から打ちつけられたものだ。

(………!!)

 背中と尻に走った痛みに、声にならない声を上げる。

(何……で、落、ちる……?)

 そう考えたのが限界で、あとはひたすら意識が朦朧とするばかりだ。

「え、人が倒れてる!?……えと、生きてる、わよね。救急車!」

 ペーヴメントを走る音とともに、女性のあわてた声が響いて来る。

「こ、これ……まさかとは思うけど、警察案件?そっちにも連絡しないと」

 そして女性が電話で話す声を遠くに聞きながら、啓一の意識はそれきり途絶えた。



 次に眼が覚めた時、啓一が見たのは病院らしき建物の天井だった。

 一瞬、あれは白昼夢か何かだったのではないかとも思ったが、

(それにしちゃ落ちた時の衝撃とか、やたら生々しかったぞ)

 すぐに首を振って否定する。

 と、その時だ。

「あれっ、もしかして眼が覚めて……って、動かしちゃ駄目ね。看護師さん、眼が覚めました!」

 すぐそばから、若い女性の声がする。声からするに、先ほど自分を拾った女性のようだ。

「サツキちゃん、私がした注意を忘れないでくださいね」

 それを追うように、今度はいやに子供じみた女性の声がする。一瞬中学生くらいの少女かと思ったが、言葉の内容からしてただ声が高いだけの成人女性と思われた。

「分かってるわよ、シェリル。……あの、念のため先に言いますが、これから私の顔を見せます。どうか驚かないでくださいね」

(………?)

 ただ顔を見せるにしては、どうも面妖な言葉である。何か急には見せられないもの、例えば大きな傷跡やあざなぞでもあると言いたげだ。

 そう戸惑っていた時である。

「じゃ……」

 すっ、と眼の前に現れた女性の顔を見た啓一は、

「………!?」

 驚くを通り越して一瞬のうちにはね起きた。

 そこにあったのは、レイヤー・ボブカットの薄茶色の髪に鳶色の眸の女性の顔である。

 ゆったりした藍色のチェックのワンピースという、いかにも社会人らしい服装からして成人のようだが、童顔とも思える丸顔はまだ「美少女」の言葉で表現しても決してばちは当たらぬはずだ。

 だがそれより問題なのは、

「狐耳、えッ、狐耳!?」

 このことである。

 女性の頭の上では、髪と同じ色で先だけ黒の差した大きく長い狐耳が、これでもかとばかりにまっすぐ立って存在を主張していたのだ。よく見ると、同じ色の尻尾もある。

 しかも動いているところを見ると、これは本物だ。いわゆる「狐娘」という存在としか思えない。

 だが「狐娘」というのはあくまで創作の産物で、架空の存在でしか有り得ないはずだ。

 それがいきなり現実に現れたという時点で、啓一は脳が停止してしまっている。

 完全に固まった啓一に、女性——サツキの方も困ってしまったらしく、

「……あの、落ち着きました?」

 恐る恐る訊いて来た。

 そこではっとなった啓一は、

(落ち着け、禾津啓一……相手は普通に日本語が通じているんだ、話せば何とかなる……落ち着け、落ち着くんだ)

 眉間に指をやってひとしきり自分に言い聞かせ、思い切って口を切る。

「い、いや、まだ混乱してます……。失礼ながら、あなたのような姿の方を見るのは初めてで」

「ああ……これは決まり、かもね」

 啓一の言葉を受け、サツキは気まずそうにぽつりと妙なことを言った。

 その言葉に啓一がぽかんとしていると、

しまさん、ここは私がやりますので」

 余りの様子を見かねたか、看護師が割って入って来る。

(こっちは普通の人間か……)

 何ともほっとした気分になっている啓一をよそに、サツキは奥に顔を向けると、

「ねえシェリル、やっぱり刺戟強過ぎたんじゃない?あなたが最初の方がよかったんじゃ」

 とがめるように言った。

「一理ありますけど、まだ報告が残っていましたからね」

「まあ、そりゃあなたは仕事が仕事だし……でも種族的に外見はまだなじみやすいでしょうに」

 奥でサツキがさっきの少女声の女性と話をしているが、啓一は一つの単語に引っかかりを覚える。

(『種族』……ねえ)

 言うまでもないが、「人種」「民族」ならともかくこんな言葉は我々の日常では使わない言葉だ。人間以外の知的生命体がいないからである。

 もっとも狐娘が眼の前にいる時点で、この言葉が出て来たとて今さらそう驚くに値するまいが。

 ともかく今確実に言えるのは、ここは自分の住んでいた人間だけが生きている世界ではない……すなわち「異世界」であり、自分はそこに転移してしまったということだ。

 いわゆる「異世界転移」と呼ばれる現象である。

(おいおい、よりにもよってこの展開かよ……えらいことになっちまった)

 看護師に寝具の整頓をしてもらいながら、啓一は頭を抱えていた。

 少なくとも我々の世界では、今のところ「異世界転移」は創作の産物でしかない。それが現実に起こってしまったのだから、たまったものではなかった。

 その時、奥から足音が近づいて来たかと思うと、

「もう大丈夫ですか……失礼します」

 横合いからサツキと話していた女性の声が響いて来る。

(……え?)

 ふとこうべをめぐらしてその姿を見た啓一は、驚きの余り瞠目した。

 何とそこにいたのは成人女性ではなく、赤紫色でレイヤー・ボブカットの髪にビリジアンの眼をした見た目中学生くらいの少女だったのである。

 しかもハイネックでノースリーブのワイン色の上着に白のミニスカート、さらには白のサイハイソックスと白のアーム・カヴァーというなりだ。服飾としては実在し得るもののはずなのだが、どうにも漫画やアニメから出て来たような感がぬぐえぬ。

 それらを抜きにしても、なぜこんなどう年かさに見積もっても十四五歳にしか見えぬ少女がこんな場にいて、まるで社会に出た成人女性のごとく振る舞っているのかが理解出来なかった。

(どういうこった……?)

 だが世間には何らかの理由で実年齢よりはるかに下に見えるような体格をしている人間なぞ、有名無名に関わらず山ほどいると聞く。

 大体にして狐娘なぞというこちらの常識外の存在が実在する世界なのだから、人間の姿一つ様子が異なっていたとしても決しておかしくはないはずだ。

 啓一がそう思い直して困惑を収めようとしているのに気づいたのか、少女は少し様子を見るような素振りを見せてから口を開く。

「申しわけありません。本来だったら目覚めるまで私も立ち会う必要があったんですが、職務の関係で彼女におまかせしてしまって。人間と違うので驚かれたでしょう?」

 幼い外見に似合わず、下手な大人よりしっかりした口調で言う少女に、

「い、いえ……それよりあの人には、実に失礼なことをしました。あれだけ気を使わせた上、驚いて飛び起きるなんて……。さすがに今は落ち着いてますが」

 思わず敬語となって返した。

「安心しました。説明の義務があるので、パニック状態だと大変なことになりますから……」

「説明の義務?……というより、どなたで」

 啓一がそう言うと、少女ははっとしたような顔をして、

「失礼しました、改めて自己紹介を。あま川連邦がわれんぽう連邦警察特殊捜査課所属の警視・おおシェリルといいます」

 手のひらに警察の徽章とおぼしきホログラムを浮かべて提示してみせる。

「へっ!?」

 それを見た途端、啓一は思わず間抜けな声を上げた。

(け、刑事!?この子が!?しかも警視って……警部の上だぞ!?)

 外見が中学生の女性警視。所属は聞く限り、何やら通常の警察とは違うようだ。

 しかも警察手帳が実体ではなく、宙に浮かんだホログラムなのである。

 さらに、国名もまるで聞いたことがないと来ていた。

 突然入って来た大量の情報に啓一の脳が輻輳を起こしているのを見て、少女――シェリルは、

「再び混乱させてしまい申しわけありません。しかし事件や事故として取り扱う以上、身分を明かさないわけには行きませんので……」

 盆の窪に手をやりながら申しわけなさそうに言う。

「は、はあ……」

 反応がなおも薄い啓一に、シェリルは、

「ええとですね……疑問も多分におありとは思いますが、一旦右に置いておいてください。説明しながら、漸次分かる範囲でいろいろ確認して行こうと思います」

 つとめて冷静に話を続けた。

「職務上、持ち物から氏名など身分を調べさせていただきました。日本国の東京都青梅市在住、禾津啓一さんでいいですね?」

「え、ええ」

「大体予想はついていると思いますが、ここは禾津さんの住んでいた世界から見ると異世界です」

「やっぱりそうなんですか……」

 今さらながらはっきりと「異世界」宣告を受けたことで、啓一は天をあおぐ。

「そうです。ですが、共通点がまるでないわけではありません。この時点で共通していると判断出来る部分についてお話しします」

 シェリルはそう言うと、一つずつ話し始めた。

 この世界にも太陽系が存在し、地球も存在している。

 そして日本もしっかり存在しており、

「持ち物からの判断ですが……」

 国家体制や習俗文化など基礎的な部分について、同一とみられるというのだ。

「言語も日本語に関しては完全に同一ですね。会話が出来ている時点で分かりきっていますが」

 こういった異世界をはじめとする未知との遭遇を描いた創作などでは、いきなり互いに言語が通じてしまうという描写が多用される。

 だが、現実はそのようなものではないわけだ。第一にして地球の中ですら国や民族が違えば言葉が通じないというのに、いわんや異世界をやである。

 これがしっかり通じているのだから、明確な共通点として断じてしまって問題ないはずだ。

「次は、相違点と判断出来る部分についてです。この世界は、人間以外の知的生命体が存在する多種族世界です。さっきの反応から大体察せられたのですが、人間のみの単一種族世界だったのでは?」

「そ、そうです」

 答えつつ、思わずサツキの狐耳と尻尾をちらりと見る。

 改めて近くで観察しても、生きている本物の耳と尻尾でしか有り得なかった。

「やはりそうでしたか。その可能性を考え、対面の際に一言注意してから顔を見せるようにと言っておいたんです。もしそうだった場合、少しでも驚きを緩和してパニックを防ぐためにと……」

 言われてみれば、あの時のサツキの言葉はその辺を考慮した上でないと出て来ないものである。

 正直効果は疑わしかったが、初見であれ以上の配慮を求めるのは酷というものだ。

「あと時代についてですが、そちらからするとかなり未来の可能性が高いです。ことによると、百年単位になる可能性も否定出来ません。実際には、暦法が一緒かどうかなど種々の検証を行う必要があるので、にわかに結論の出せるものではありませんが」

「えッ……」

 啓一はこの言葉に一瞬息を飲む。

 今のところ周囲を見た感じでは二十一世紀と余り変わりがないため油断していたが、言われてみれば充分に有り得る話であった。

「まずここまでは、ご理解をいただけたでしょうか」

「……大丈夫です」

 啓一が頼りないながらも答えると、シェリルはその顔をうかがいながらさらに話を進める。

「そして今いる場所ですが、ここは地球上ではありません」

「え……?」

「地球より約四光年ほど離れた宇宙コロニー群からなる『天ノ川連邦』という国の首都・新星しんせい市という場所になります」

「ということは……地球から宇宙への移民で出来た国ですか、やっぱり?」

「そういうことです。正確には、日本人移民が中心となって作ったものですけどね。だから余計に日本語が通じるというのもあるんですが」

「………」

 啓一は頭を抱えてしまった。いきなり「宇宙コロニー」なぞという、自分の世界ではまだ構想段階で実現していなかったものが飛び出して来たのだから当然である。

 だがそれより、彼が衝撃を受けていたことがあった。

「ちょっと待ってくださいよ……俺、地球にいたはずなんですよ。宇宙に飛ぶって変でしょう」

 このことである。むしろそちらの方が理解出来ぬ話だ。

「元の世界では、地球にいらっしゃったんですね……それで宇宙に飛ばされれば、戸惑うのも無理はありません。とりあえず、ここに来るまでの経緯いきさつを簡単におうかがいしていいですか」

「え、ええ」

 言われるまま、啓一は件の事故の詳細を話す。

「なるほど、よくあるパターンです」

 シェリルはこの話を、実にあっさりと受け止めた。

 そして説明するところによると……。

 物理的に生じた衝撃力が、偶然その世界を包んでいる「時空の壁」の固有振動数と一致、共振してしまうことが全ての始まりなのだという。

 そうなると、共振が時に物の破壊をもたらすのと同じ原理で「時空の壁」が大きく裂け、一定時間近くの人や動物や物体を吸い込んでしまうのだ。

「この吸い込まれた空間を『時空のはざま』と呼び、しばらくここを漂流することになります。禾津さんが見た闇の世界は、ここですね」

 しかし、それも長くは続かない。「時空のはざま」は本来物体の存在しない世界であるため、異物がまぎれ込んだ形になるからだ。

 そのため排除作用がはたらき、どこかの世界に押し込められてしまうのである。

「とにかく排除出来ればいいので、どの世界のどの場所にするかは適当に選択されます。この際に元と異なる無関係な世界や場所が選ばれ、そこに無理矢理入れられてしまうわけです。これが転移現象のメカニズムですね」

「そんな簡単な話だったんですか……」

「そうです。ちなみにこちらでは現象そのものは『転移』、遭った方は『転移者』と呼んでいます」

 シェリルの説明は、啓一にも納得の行くものであった。

 もっと小難しい理論理屈が出て来ると思っていたのだが、存外に単純なものである。

「しかし『適当』とは、随分いい加減な真似をしてくれるもんで」

「仕方ないですよ、時空に意思はありませんから」

「……神の類でもいれば、文句の一つも言えるんですがねえ」

 まあおらぬものは仕方もなし、と再び眉間をもんで、啓一は一つ訊ねた。

「それはともかく、これってよくある事件なんですか」

 先ほどのサツキの「決まり」発言といいシェリルのこなれた説明や対応といい、どうもこちらが異世界から転移して来た者であるということをはなから予測した上で動いているとしか思えない。

 ある程度慣れていなければ、そもそもそんなことすら考えられないはずだ。

「そうです。うちの世界は、どうやら転移者の方をやたらに引きつけてしまう傾向があるようでして……。それもですね、奇妙なことに地球ではなく宇宙にあるここが。時空にとって押し込めやすい世界と場所として、完全に好かれてしまっているようなんですよ」

 シェリルはそう言って、肩をすくめて首を振ってみせる。

「それだけならまだしも、頻度が高い高い。半年に一回は必ずというところでしょうか」

「半年に一回!?……そりゃ慣れますわ」

「そうなんです。正直こんな大ごとが簡単に起こっていいのかとすら思うんですが、私たちのあずかり知らぬ力のなせること。一世界の警察に出来ることといったら、せいぜい適切かつ迅速な処理を可能にしておくことくらいですよ」

「何とも因果な話ですな……」

 啓一は思わず盆の窪に手をやり、気の毒そうに言った。

 事故の重大さと頻度が釣り合っていないのでは、シェリルがこうどこかあきらめたような言い方をしたくなるのも分からなくはない。

「今まで何人くらい来てるんです?」

「おおよその数字だけで言えば、三百二十人くらいだったかと」

「その人数がいろんな世界から、定期的にここ目がけてってわけですか……」

「そうなんですよ。しかも父祖の代から続いてまして」

 シェリルがまいったような表情をするのに、啓一は事態の深刻さを見た。

 先ほどの話に出た頻度で単純計算すると、百六十年はこの現象が続いていることになる。

 この世界の人々の寿命は知らぬが、父祖の代からというのならこんな顔にもなろうはずだ。

「やっぱり特定の世界から集中して、とかあるんですか?」

「一応ないではないですが……すみません、余り詳しくは教えられないんです。転移者の方の生活に関わるからと、いろいろ守秘義務がかかってまして」

「ああ、なるほど」

 考えてみれば、異世界転移した者なぞかなり特殊な存在である。下手に明かしたら本人に何の累が及ぶか分からぬと、扱いに過剰なほど慎重になるのも道理といえた。

「あ、すみません。お訊きになりたいことが多いと思いますが、一旦ここまでで。お手数ですけれど分署で改めて事情をお聞きしながらにしたいと思うんですが、いいでしょうか」

「いいですよ」

 想定済みとばかりに啓一は快諾した。慣れているとは言いつつも、警察沙汰になるからにはこれくらいはあってもおかしくないだろう。

「サツキちゃんも、第一発見者ということでお願いします」

「分かったわ、ことがことだしね」

 その言葉に、啓一がベッドから起き上がるのを見つつサツキもうなずいた。



 一時間後。

 病院から少々離れた連邦警察分署の会議室に、啓一たちの姿を見出すことが出来る。

『警視、結果が出ました。データをお送りしましたのでご覧ください』

 若い技官の声がどこからか響いたのに、シェリルは、

「ありがとうございます。説明はこっちでするからいいですよ」

 即座にいかにも「未来」と言わんばかりの空中ディスプレイを出してさっと画面を見ると、啓一たちの方に向き直った。

「さっきの検査の結果が出ました」

「ほぼ立ってただけだったんですけど、あれで俺がどこから来たとか分かるんですか」

「ええ。時空を越える騒ぎですからね、どうしても何かしら影響が残るものなんです」

 実は啓一は事情を聞かれた後、元いた世界の時空上の位置を示す「時空座標」なるものを突き止める装置によって検査を受けていたのである。

 これで得られた座標とこの世界の座標とが近ければ世界として類似点が多く、遠ければ少ないということが分かるそうだ。

 よくそんな装置なぞ造ったものだと思うが、シェリルによると人や動物以上に物が結構な頻度で飛び込んで来るため、危険性がないか検査する必要に迫られてのことだという。

「ほんと、物にまで好かれるなんて……うちは納戸や物置じゃないんですがね」

 そう言ってシェリルは苦笑してみせた。

 ただしそのため装置は小型化し、精度も百発百中に限りなく近くなっているというから皮肉なものである。実際レントゲン撮影でもしているかのように簡単で、啓一は拍子抜けしてしまった。

「ああ、これ……説明しますね」

 微妙にシェリルが眉をひそめたのを見て嫌な予感にかられた啓一は、居住まいを正す。

「結論から言うと、厄介な結果になりました」

「え、厄介って……」

「百聞は一見にしかず。禾津さん、手を少し前に出してみてください。ディスプレイが出ますから」

「え?え?」

 恐らくは彼女の前に出ている空中ディスプレイのことだろうが、そんなもののかけらもない世界で育った啓一が出せるわけがなかった。

 やむなく空間を押したりこすったりと試行錯誤していると、横に座っていたサツキが手を取って、

「こう、こう……あ、出た」

 手の出し方を教えてくれる。

 だが、そこで啓一は固まってしまった。

(……って、女性に手を握られただと?)

 このことである。女性経験が一切合切ない啓一にとって、余りに慣れないことだったのだ。

(待て、うぶなねんねじゃあるまいし)

 そうは思うが、ひとしきり眼を白黒させているそのさまは完全にうぶそのものである。

「シェリル、初めての人にいきなりは無理よ。……ってどうしたの、啓一さん」

 そうとも知らず肩をすくめてシェリルにそう言うと、サツキは啓一を見て不思議そうな顔をした。

「あ、いや、何でもないです。ありがとうございます」

 あわてて首を振るが、顔が赤い。

 手のこともだが、サツキがいきなり敬語をやめて話しかけて来たのも効いていた。

「ああ、ごめんなさい……と、いいですか、続けても」

 こちらも不思議そうなシェリルの声で、ようやく啓一は我に返る。

「え、ええ」

「………?ともかく、今データを送ったので見ながら聞いてください」

 言うや、すっと何やらグラフが画面に現れた。

「これは『平面時空座標図』といいます。時空座標はそのままだと非常に見づらいので、こんなグラフに落とし込んで見るようにしてるんです」

 シェリルが画面を操作すると、グラフの右上に点がともる。

「これがこちらの世界ですね。次に禾津さんの世界についても……と言いたいところなんですが、測定で得られたデータに非常に癖がありまして、結果だけ出すと誤解を招く可能性があります。そこでここでは手順に従いながらデータを読み込ませ、その過程を見ていただくことで説明して行きます」

 そう言いつつ操作すると、すぐ左下に点が出た。

「近い場所に出ていますね。これですとまだ並行世界程度です。が……」

 シェリルは含みを持たせた後、一つ、また一つとデータを読み込ませて行く。

 啓一はそれを黙って見ていたが、次第にいぶかしげな表情となり、

「……ちょっと待ってください、何でさっきから点がこう忙しくあっち飛んだりこっち飛んだりしてるんですか。一向に落ち着く気配が見えないんですけど」

 ついにたまりかねたように問うた。

 事実グラフ上の点は、極度に近くなったかと思うと直後にはあさっての方向へ遠くなり、かと思うとまた近くに戻って来たりと、動きが極端かつ無秩序極まりない。

「訊かれると思いました。それを示すためにわざわざこんな風に過程を示したんですよ」

 シェリルによると……。

 この点の挙動は、比較する世界間の一致点と不一致点の比率によって決まるのだという。

 このため一致点が多ければ近い場所へ、不一致点が多ければ遠い場所へと大体の位置が最初から決まってしまい、動いてもその周辺を少しばかりうろうろとするだけなのだ。

 逆に言うと、位置が全く定まらずこのように極めて大振りな挙動をするのは、

「世界間に中途半端に一致点と不一致点があることの証左」

 なのだというのである。

「実際に読み込ませるデータを見ると、一致点と不一致点が無秩序に転がっていて比率も滅茶苦茶なんです。モザイク状になっていて、もはや何が何やらですよ」

「むう……」

 啓一は、うなって唇を噛んだ。

 シェリルの言うことを信じれば、自分の世界とこの世界との間には、

「共通点と相違点とがまだらに入り混じって存在している」

 ということになるではないか……。

「……これだけならまだよかったんですが、最後にさらなる問題が。『時間軸』の項目です」

 そう言って、データが読み込まれた瞬間だ。

「げえっ……」

 人目も構わず、啓一がとんでもない叫びを上げた。

 点がいきなり原点を飛び越し、グラフを外れそうなほどに左下の隅へ瞬間移動したのである。

「ああ、やっぱり……。これなんです、これが一番大きな違いなんですよ」

 反応を予想していたのか、シェリルは大きなため息をつくと説明を始めた。

「確か禾津さんの世界の年は、西暦二〇二一年でしたよね」

「え、ええ」

「こちらにも『西暦』が存在するんですが、暦法など全て同一であることが判明しましたのでそのまま言います。こちらの世界の年は西暦二二六七年です」

「へっ……?」

「二百四十六年後ですね、要するに」

 とんでもないことをさらっと言ってのけるシェリルに、啓一はただただ唖然とする。

「これだけ時代が離れてしまうと、計算上ここまで座標が食い違ってしまうんですよ。さすがに埋めがたいものがあります」

「確かに道理ではありますが……」

 啓一はこの言葉に、こめかみに手をやりながら呆然と言った。

 一致不一致がにわかに分けられないほどの渾沌状態の上、さらにすさまじい時代の差である。もはや近い遠いという概念が意味をなす領域を超えていた。

「ただし留意していただきたいのは、これはデータ上の話だということです。現実に何がどう違うかについては分からないため、様々な可能性が考えられるんですよ」

 通常は世界間での不一致となると、どうしても歴史の違いなど深刻なものを想像しがちである。

 だが決してそればかりとは誰も言い切れない、とシェリルは語った。

「実際にはちょっとした生活習慣や考え方の違いばかりだったということも有り得ます。これだって細かいことですし、日常や社会の中のことですから無秩序に転がっていても何の驚くにも値しません。蓋を開けてみないことには分かりませんが、結果どうであったとしてもそういうものと受け容れていただくより他なく……」

 なるたけ安心させるような口調で言うが、やはり歯切れが悪い。

 もしかするといい方に転ぶかも知れないとつけ加えているだけで、いずれにせよ何が飛び出すか分からないと言っているのには違いないことを、本人も分かっているわけだ。

 だがここまで来て、啓一はあることに気づく。

「ちょっと待ってください、もしかして俺がここ住む前提で話してませんか?少しの間留まるくらいなら仕方ないでしょうしいいですけど、そこまでする気はないですよ!?」

 よくよく噛み砕くと話の中身がいやに細かくなりつつあるだけでなく、さらにはそれらをいかに受け止めるかという方向に向かい始めているようだ。

 中身が細かいのは職務ゆえと解釈すればまだ分かるが、暗に何が出るか知れたものではないから何ごとも覚悟してかかれと言いたげな言葉は、一時逗留するだけの者にかけるには大げさすぎる。

 どうにもきなくさいものを感じた啓一は、

「あ、あの、そもそも元の世界に戻れるんですか!?」

 大あわてでそう訊ねた。

 先ほどから聞くに、この世界では異世界転移が日常茶飯事という。

 それでなくとも二十三世紀、相当科学技術が進んでいるのは間違いないはずだ。人一人帰すくらいは何とかなるはずだろう。

 だが、シェリルの口から飛び出た言葉は、余りに無情なものであった。

「それが……結論から言いますと戻れません」

「……えッ」

「時空を移動する技術自体がないんです」

「で、でも、転移のメカニズムが分かるなら……」

「分かるからこそなんです。時空の壁を破る衝撃力は計算出来ますしかけることも可能なので、人工的に裂け目を作ること自体は出来ます。……しかし、それだけなんです。作ることが出来るだけで、それ以上実験すら出来ないんです」

「実験が出来ないって……」

「さっきの説明を思い出してください。時空のはざまに入った後、どの世界のどの場所に出るかは適当に選ばれると。そんな状況で実験をすれば、被験者はことごとく行方不明になり、成果もなく無為にかばねを累々と重ねるだけです。研究以前の話ですよ」

「………」

 シェリルが強めの口調で説明するのに、啓一はもはや言葉もない。

 技術水準を考えると簡単に出来そうなことが出来ないというのは世の中ままあることではあるが、まさかよりによってここで当たってほしくはなかった。

「ともかく全く力になれないのです……申しわけもありません」

「あ、いや……」

 シェリルが頭を下げるのに、啓一は呆然として答える。

「……じゃあ、結局はこの世界に骨埋めるしかないってわけですか?生きてるにも関わらず、あっちで永遠に行方不明の扱いのままで?そして両親も親戚も友人も、原稿も本もパソコンも何もかも全部あっちに残したままで?」

「そういうことになります。大変にお気の毒な話ですが……」

 シェリルは伏し眼がちとなって、再び頭を下げて言った。

 だが次の瞬間、それまで呆けていた啓一が急にきっと表情を変えたかと思うと、

「じゃあどうすりゃいいんですか。どうしろってんですか」

 いきなり語気を荒くして食ってかかって来る。

「え、ちょ、ちょっと……」

「ええ、ええ。もう無理なもんは無理なんでしょう、はらあくくりましたから安心してください。暮らしますよ、暮らします。でも、まさかぽいと放り出されやしないでしょうね」

 啓一は絶望からかやけくその体となり、完全に開き直っていた。

 シェリルの経験からすると、転移者がよく取る態度の一つである。

 正直なところ、泣き叫んだり怒り狂ったりしながら直接的な罵倒や暴力をしかけて来る方がまだましと思うくらい、見るにたえないものだ。

 だがこんなに昂奮されると話が続かない。やむなくシェリルは、

「とりあえず、お話ししますから一旦落ち着いて……」

 部屋の隅のウォーター・サーバーの水をくみ、啓一に渡した。

 その水を一気飲みしてぜえぜえと息を吐き終わるのを待ち、話を再開する。

「もちろん、そんな非人道的なことはしません。行政側で住居の提供を行うとともに、生活に慣れるまで諸々の保護や援助、金銭物品の支給などを行わせていただきます」

「……衣食住足りても、この世界のことが分からないじゃ困りますよ」

「もちろん、そこも考えています。保護司を派遣しまして、対面での生活指導や援助を行わせていだたくことになっていますので」

「ありがたい話じゃありますが……保護対象が右も左も分からないどころの話じゃないんですから、相当大変なことになるんじゃ。それこそつきっきりとか……うまく行くもんなんですか?」

 啓一がいぶかしげに問うのに、シェリルは一つこめかみをかくと、

「……正直難しい質問です。おっしゃる通り本来はつきっきりで援助するのが理想なのですが、実際には通いになってしまいますので、どうしても空白が生じてしまいます。むろん支障がないようにしますが……うまく行くかと問われれば、究極的には人によるとしか言えません」

 困ったように眉間にしわを寄せて言った。

「それって不安しか感じないんですが……」

「本当にこればかりはやってみないと分からないので、どうにもこうにも」

「そっちにも都合があるでしょうし、分かるんですがね。何せこちらは寄る辺なき者、余り不確実なようではたまったもんじゃないですよ」

 何せ援助される側は、一時的とはいえ完全に生活能力を喪失してしまっているのである。援助者の目が常に届かないとなると、何か問題が起きても対処しきれない可能性があるし、それ以前に不安で仕方なくなるはずだ。

 やはりシェリルもこの辺を難詰されるのは分かっていたらしく、さらに苦渋の表情となる。

「……正直なことを言いますと、その辺はむらが烈しいです。余りにうまく行かないからとご本人が自力で無理に何とかしようとした結果、その……問題が起きることも少なくありませんでして」

 奥歯にもののはさまったような言い方に、啓一は思わず何とも言えぬ表情となった。

(さてはしょっちゅう振り回されたり、場合によっちゃ事件起こされたりしてるのか?)

 正直うがった見方ではあるが、充分に有り得ることだろう。極めて特殊な状況での生活を強いられているのだから、追いつめられ思いつめて爆発した日には大変なことになるのが目に見えていた。

 余りの悩ましさに啓一が頬杖をつきながら考え込んでいると、シェリルは、

「ですが、もう一つの方法として条件に見合う家庭や個人に保護してもらうというのがあります。同居ですので援助者がそばにいる時間がぐんと増えますし、一緒に暮らして行くだけで生活指導や援助になりますから、自然になじんで行くことが可能ですよ。これはほぼ確実です」

 明るい声となって言ってみせる。

「ありなんですか、そんなの」

「充分にありです。ホーム・ステイの一種だと思ってもらえば」

「ああ、なるほど……もしかして、そちらとしてはこっちがお勧めなんですか?」

「……そういうことになりますかね」

 シェリルはそう言いながら、眼をそらして眉をかいた。

 やはり警察としても不確定要素が多すぎる転移者だけの独居生活よりも、確実性の高い市民との同居生活の方を、さまざまな意味で推奨したいようである。

 だが、ここで問題となることがあった。

「保護してもらうのはいいとして、誰になんですか?」

 このことである。こんな重大事態に巻き込まれた人物を、ちょっと親切な程度の家にほいと預けるような真似なぞ到底出来ないはずだ。

「それなんですが……発見者が第一候補となります。そちらで互いに承諾が得られなければ、警察や行政で探すことになりますね。私たち警察官が預かれればいいのですが、職務が職務のため満足な援助が出来ないからと原則禁止する通達が出ているので」

 そう言うと、シェリルは困ったようにちらりとサツキへ目をやる。

「……サツキちゃんなら充分援助出来ると思うんですが、いかんせん一人暮らしですからね」

 ため息をつくように言うのに、啓一は頭を抱えた。

 確かにどう考えても、一人暮らしの女性に男を押しつけるなぞというのはいかにもまずいだろう。

「いいわよ」

「そうでしょう……ええッ!?」

「ですよね……ええッ!?」

 サツキの口から出た信じられない言葉に、啓一はぎょっとなって横を向いた。

 シェリルも予想していなかったらしく、眼をむき出して驚いている。

「だからいいわよ。うちに来てもらっても」

「あの、一人暮らしですよね?俺、男ですよ?」

「気にしないわよ、困るでしょ?」

「………」

 余りにもあっさりと言ってみせるのに、啓一は完全に言葉を失った。

 気持ちは実にありがたいのだが、何度でも言うが一人暮らしのうら若き女性なのである。

 しかも、今日今さっき初めて出会ったばかりなのだ。そんな状況で転がり込んでいいと言われてよしとするほど、啓一も無神経ではない。

「サツキちゃん、実家があるでしょう?そっちじゃいけないんですか?」

 ここでシェリルが助け舟を出して来た。

「実家だって一緒よ?お父さんとお兄ちゃんが地球にいるから、お母さん一人だし」

「いやまあ、そうですが……こういうことは、年上の方の方が向いてるんじゃないかと」

「理屈は分からないでもないけど、何せあの忙しさだもの……。ちょくちょく出張してるし、普段の仕事でも大きな案件抱えちゃって数日家に帰れないなんてこともざら。啓一さんのこと、事実上ほったかしになっちゃうわよ?」

「そ、そういえばそうでしたね……。保護の役目が果たせなくなります」

「でしょ。そうなると、もう私のところしかないじゃない。私は週休二日の九時五時勤務、出張も年に二三度あるかないかで、家に帰らないことなんてまずないんだから」

「道理ではありますけどね、うーん……」

 シェリルはついにそう言ったきり、天をあおいで黙り込んでしまう。

「いやいやいけません、それなら一人暮らしで……」

「だから、そんな遠慮しなくてもいいの」

「……サツキさんは怖くないんですか、家に男が入り込むんですよ!?」

「別に怖くないわ。啓一さん、変な人じゃなさそうじゃない。私ってこう見えて勘が鋭くてね、善人か悪人かって大体分かっちゃうのよ」

「それでいいんですか!?……第一その、俺は三十二のおじさんですよ!?」

 直接的に自分の脅威を述べても意に介さず、ひたすらこちらを信用するばかりのサツキに、啓一は関係ないはずの歳の話まで引っ張り出して一生懸命止めにかかった。

 ちらりとシェリルを見ると、何を言っても無駄と言わんばかりに小さく首を振るだけである。

「そんなのどうでもいいわよ。ホーム・ステイ感覚なんだし、思い切って気軽に来ればいいの。それに困ってる人を放っておけないわ。しかも、自分が助けた人だもの」

 もはやサツキ女史、すっかり乗り気だ。

 啓一はどうしたものか困り果てたが、ここまで言われて断るわけにも行くまいし、何よりこうして押し問答を続けていても全員の負担になるばかりである。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 とうとう折れた啓一に、サツキは、

「どうぞどうぞ、大歓迎よ」

 上機嫌で尻尾を振りながら答えた。

「と、とりあえず話がまとまったようで何よりです……」

 困惑しきり引き気味となった顔で、シェリルがそうまとめる。

 制度上も規則上も問題がなく互いに承諾も取れたため、不本意ながらこう言わざるを得なかったというのが不安そうな声からありありと分かった。

「……ただ、一つだけ注意を。禾津さんの言うことももっともな部分がありますので、互いに気をつけてくださいね。変なことにはならないと信じていますが」

 何とか警戒を促そうと思ったのか、「」の部分を強調しながら注意をするが、当のサツキは馬耳東風でにこにこしている。

(本当にいいのかよ……とんでもないことになっちまった)

 こうして混乱と不安の中、啓一の異世界生活が始まったのであった。

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