二十八 街の灯り
その時、サツキは耳の中に何かが入ったのに気づいて、思わず耳をぱたぱたと振った。
「……あ、花びら」
ひょいと耳毛を探ってつかみ出すと、果たして桜の花びらが数枚出て来る。
啓一が上を見てみると、それなりの樹齡と思われる桜の木が満開となっていた。
「へえ、すごいじゃないか。あんだけのことがあったのによく生き残ったよなあ」
「ほとんど駄目になったんじゃないかと思ってたんだけど……強いわねえ」
「折れたり傷ついたりして枯死した木も相当ある一方で、こうやって無事だった木も多いそうですよ。元々木自身が強かったんでしょうけど、やはり奇跡みたいに感じますよね」
これはシェリルである。
自身も髪の上に乗った花びらをぱたぱたはたきながら、
「私も長きにわたる捜査でこの時期に来たことがありますが、こんなに明るい桜を見るのは初めてです。この通りが『桜通』の名に恥じなくなったことを祝うかのようですね」
ひょいと上を見て感慨深げに言った。
今の言葉からも察せられる通り、ここは緑ヶ丘市の桜通だ。
通り名の由来である桜並木が、悠然と揺れている。
事件から半年経った翌年四月四日、啓一とサツキ、清香とシェリルは、緑ヶ丘を再訪していた。
この日は緑ヶ丘市の街開きが行われた日であり、市民にとっては「市制記念日」として最大の記念日とされている。
これまでは状況が状況だけに祝うこともままならなかったのだが、街に平和が訪れたことでそれが可能となり、市主催のささやかな式典もとり行われるとのことだ。
それ以外にも市民がこぞって花見をしに出るなど、どこか浮足立った雰囲気が漂っている。
そして今日はこの四人ばかりでなく、他にも同行者がいた。
「こんな素敵な通りが、かつては地元の人も避けて通るような危険な場所だったなんてねえ。とてもじゃないけど信じられないわ」
ハルカが、心底驚いたという顔で言う。
「正直、話を聞けば聞くほど地獄みたいな場所というイメージしかなかったからなあ……。それが今やこの極楽浄土だ。シェリルだけでなく、いろんな人の努力の賜物さ」
「私なんかシェリルが出張するって言うたびに、もしやまたあの危険なところにってはらはらしてたもの。何もないとは思ってたけど……。ここまで治安がよくなれば気にする必要ないわね」
年かさの人間の夫婦が、桜の花びらを手に受けながら顔を見合わせた。
シェリルの製造者で両親に当たる「大庭博士」こと
たびたび「会ってみたい」と言っていた啓一は、新星へ帰った後、清香がこれからの生活について相談しに行くのにサツキとともに同行し、初めてこの二人と顔を合わせた。
直義はサツキから聞いていた通り、学界でも一目置かれるほどの学者であり技術者でありながら、頭でっかちを嫌って何ごとも実践を旨とするという性格の人物で、実に好印象だったのだが……。
清香に対し簡単に躰の構造を調べさせてほしいと言った際、非番でいたシェリルが、
「……父さん、まかり間違っても
じとりとした眼で珍妙なことを言い出した。
「単なる検査だぞ、何でそうなる!?お前、父親を何だと思ってんだ!?」
「いや、信用ならないんですよ。前科があるので」
思わず啓一がぽかんとしていると、
「し、失礼。実はですね、シェリルを造った時に獣耳着脱式にしようかと思ったんですが、本人に断られまして。じゃあせめて特製獣耳カチューシャをと言ったら、これも断られてしまって……。それを今も根に持たれてるんですよ」
いきなり話を斜め上の方向へ持って行かれる。
「だってですね、女の子なら獣耳つけたくなるもんじゃありませんか?元がいいんですから、絶対にかわいいはずでしょう!?」
「……は、はあ」
一体何を言っているのかという突飛な発言に、啓一は引き気味にうなずいた。
「ほんとにうちの娘は、オプション勧めてもすげないんですよ。警察に入る時も、武器として手はめ式のドリルや巨大ハンマーを勧めたらいらないと言われて……」
天井をあおいで妙ちきりんな嘆き節を始める直義に、さすがに夏美が口を差しはさむ。
「あなたねえ、駄目に決まってるじゃないの。大体にして役立たずじゃない」
「何を言うんだ、こういうのは浪漫だぞ。そもそもシェリルは設計概念からその辺を意識して……」
「ああもう、そういう話は聞き飽きたから。……す、すみません、みっともないところを。うちの人、ちょっと変わってるんです」
直義をいさめつつ、すまなそうに頭を下げて夏美が言うのに、啓一が、
(ああ、この人やっぱり変態技術者だったわ……)
思わずあきれ果てたのは言うまでもなかった。
そんな夫婦の横を、シェリルを追うようにしてシャロンが歩いて来る。
「私は桜見るの初めてだから新鮮だなあ。こういうところに社会のごみはいらないよ」
あれからシャロンは大庭家に引き取られて養女になり、現在では「大庭シャロン」としてシェリルの義妹になっていた。
せっかく苦界から解放されたのだから幸せになってほしいと、一家そろって決めたことである。
製造者については、直義が親友の国立アンドロイド技術研究所所長・
しかし粟倉を通して返って来たのは、
「現在確認出来る免許所持者の中に該当者はいないと思われる」
そのような無情な回答だったという。
話を聞くに製造者はまともな人物と思われるため、免許は持っていたはずだ。アンドロイド技術者免許は終身免許のため、見つからないということは死亡している可能性が高い。
死亡者のデータも残されてはいるが、人数が膨大である上に新しいものは開示されていないため全部見ることが出来ず、捜索はそこで事実上手詰まりとなった。
結局のところ、なぜシャロンが造られ、そしてなぜ反社会的勢力の許に渡るという不幸が起こったのかについても、今も何も分からぬままとなっている。
しかし直義は全く意に介することなく、
「どんな過去を持っていたとしても構わない。袖すり合うも多生の縁、うちに来なさい」
堂々と言い切って家族に迎えたのだ。
それ以降、シャロンの生活は大きく変貌を遂げている。
特に大きいのが、学校に通うようになったことだ。当初は学力が低いのではないかと思われたが、一部の知識がないだけで地頭は非常によく、何と大学一年相当と確認されたのである。
我々の世界では編入学は高校でも大学でも一年以上就学していないと出来ないが、この世界ではそのような制度はなく、シャロンもそのまま大学一年生の扱いで大学に通い始めた。
また男にいたぶられ続けた経験からひどい男性恐怖症になっている恐れがあるため、定期的に治療を受けているが、幸い今のところ大きく生活に支障を来たすほどのことは起きていない。もっとも世の中の半分は男ゆえ、家族としては最大限の警戒をもって臨んではいるが。
そうしてシェリルを「お姉ちゃん」と慕いながら幸せに暮らしている姿は、彼女の過去を知る者たちにとっては実にほほえましく、そして泪を誘うものがある。
「シャロンさんは大変だったもんね。私の実家の津山では城跡にいっぱい咲くから……一回でいいから見に来てほしいな」
葵がそんなことを言いながら、シャロンの横に並んだ。
あれから新星経由で実家に戻った葵は、父親に叱られるどころか泣かれてしまったという。
「元気で帰って来ただけでいい、それでいい……」
そして高校を出るまでは地球で暮らし、それ以降は自由にしていいと言われたのだ。
そこで春休み中ということもあり、一同の緑ヶ丘訪問に合わせて旅行としゃれこんだのである。
それはともかく……。
桜をめでながら歩いて行くと、百枝と瑞香と宮子が現われた。
「おお、久しぶり。……おっとと、刑事殿、いや大庭刑事のご両親ですか。はじめまして、この上の植月地区の鎮守・植月神社で神職兼巫女をしています倉敷百枝です」
「これはごていねいに。大庭研究所所長の大庭直義です。いやあ、このたびはいろいろと娘が……。よかったですね、平和になりまして」
「本当に娘さんには、お礼を言っても言い切れませんよ。あのしぶとい反社どもが撲滅されるだなんて、正直一年前には想像だにしてませんでしたから」
百枝がそう語らい合うのに続いて、瑞香や宮子もあいさつをする。
ハルカも混じって、桜通の真ん中で明るく会話の花が咲いた。
「ああ、すまないすまない。いい人たちだな、親御さんたち」
一通りあいさつが済んだところで、百枝が啓一たちの方に水を向けた。
「うちの父さんに関して言えば……ま、まあいい人なんですけどね」
「……へ?まあいいや。どうよこれ、結構がんばった方だろ?」
百枝はそう言うと、親指で復興なった桜通の街並みを指差す。
事件前は反社会的勢力の巣窟で風俗街、不逞の輩が蟠踞している危険地帯だったのが、今ではそれが異世界のごとく、一般市民が行き交い憩うごく普通の商店街になっていた。
「確かに。わずか半年でこれだけ立ち直ったんですもんねえ」
「そうだろ、そうだろ。まあ運がよかったってのもあるんだけどさ」
百枝がそう言うのも無理もないことである。
騒乱で満身創痍となった桜通沿道の建物群は、捜査終了後もそのままの状態で放置されていた。
本来ならさっさと取り壊したいところだが、何せ全て私有地である。一番の大地主である橋井地所は社長や役員が逮捕されたものの、会社が消滅したわけでもないし、またそもそもが単なる所有地なので法的に没収出来るようなものでもなかった。
ところが、ここで意外な事件が起こる。国税庁の調査により橋井地所が所得隠しを行っていたことが判明し、一億円、我々の世界でいうと約十三億円もの追徴課税が行われた。
そして橋井地所がこれを金銭で納付しきれなかったため、緑ヶ丘市を管轄する秋野国税局が素早く動き、十二月に入るや否や桜通沿いや大門町の所有地を全て差し押さえてしまったのである。
「橋井地所の連中がそっちでも糞で助かったよ。何せ差し押さえでお上のもんになったんだからな、あたしら市民の手に戻るのが確実に早くなる」
実際これらの土地は、年明け早々に公売の運びとなった。本来はもっと先になるのだが、復興支援ということで大蔵省が省令を出して優先させたのである。
また差し押さえ直後から、もはや廃業は避けられないと見た風俗店やアダルトショップの経営者たちが、地元不動産会社に続々と土地や建物を売却して去って行った。この土地も並行して売り出されたのは言うまでもない。
公売は滞りなく終了、残りの土地も次々と売れて二月にはほぼ市民の手に渡った。
この間、補助金が出たこともあり売れた場所から被害建物の取り壊しが開始、公売終了後にはさらに加速して行ったという。あれだけの騒乱で傷ついた建物を放っておくと危険であるし、何より長年自分たちを苦しめ街に汚名を着せて来た者たちの元所有物、情けや容赦なぞありようもなかった。
このようなまさに僥倖と言うべきなりゆきから、桜通は一早く桎梏から解き放たれて素早く復興への道筋をつけることを得たのである。
「一部売れ残った土地があるんで、今そこがどうなるかって話になってるな。出来るなら埋まってくれた方がありがたいし。一応、どんな業種でも来ていいってみんな鷹揚に構えてるが……まあ風俗とかアダルトショップとかそういうのはもう寄りつかないな。トラウマもんだ」
「逆に分かってるからこそ余裕なんでしょう。実際、聞いた話ではそっちの業界では『緑ヶ丘は鬼門』が合言葉みたいになっちゃってますから」
「ははは、こいつあいいや。今まであたしらを苦しめて来た罰だ」
シェリルの言葉を聞いて、愉快そうに百枝が笑う。性産業自体を否定する気はないのだろうが、あれだけ街の顔に泥を塗ったのだからこれくらい言わせてもらってもばちは当たらないはずだ。
「反社なんか『下手に緑ヶ丘に行ったら警察にひねり潰される』と震えてるとか。ま、実際にひねり潰す体制を作っちゃってますから。そこのところは安心してください」
「ありがたいよ。ぶっちゃけ足一歩踏み入れただけで片っ端から射殺でいいぞ」
「そ、それはちょっと……」
余りの過激さにシェリルが苦笑するが、
「いいんだよ、これでさ。朝は商店のおばちゃんが道はいてる中を通勤通学の人が行き交って、昼は世間話しながら飯食ったりお茶したりする人がばらばらいて、夕方は奥さん方が特売品探しにやって来て、夜はサラリーマンが一杯やってふらふら……あたしはこういうのが見たかったんだ」
「倉敷さん……」
百枝の眼は、限りなく優しかった。これこそが、本来「田園都市」として建造されたこの街の繁華街にふさわしい姿であろう。
そう言ったサツキの耳に、ふと聞こえる足音があった。
「ヤシロさん!エリナさん!」
ヤシロ家の二人が、本通との交叉点で待っていたのである。
「お久しぶりです。……といっても、一週間前に会ったばかりですけども」
「そうですね。定期的に会ってますから」
「まあ確かに……もうそう会えないだろうと思ってたら、まさか翌月に自分の職場で再会するとは思わなかったですよ」
サツキは困ったような笑いを浮かべつつ言った。
この二人は今、国立アンドロイド技術研究所と国立重力学研究所の双方で客員研究員と助手を務めている。このため、旧臘から一週間に一度くらいの割合で新星に来ているのだ。
そもそものきっかけは、直義が清香の躰をメンテナンスした際、その技術力の高さにひどく驚愕し、ジェイに興味を示したことにある。
「後生畏るべしとはまさにこのことだ。これを埋もれさせるのは余りに惜しい」
シェリル、そしてサツキや啓一からジェイの話を聞き、アンドロイド技術者としてのレヴェルの高さと重力学者としての可能性を悟った直義はそう感嘆するや、粟倉とハルカへこれを伝えた。
結果直義は二人とともに緑ヶ丘へ向かい、ヤシロ宅の門をたたいたのである。
そして非常勤でいいから、研究員として働く気はないかと誘った。
その時、ジェイは自分の技術の基礎がこの世界と違いすぎると戸惑ったのだが、
「たとえ相容れないところがあろうとも、技術を高めるための刺戟となるならそれもよいものです」
そう直義に言われ、感銘を受けて承諾したのである。
さすがに転居は無理と、緑ヶ丘に在住したまま時折新星に来るという形になり、両研究所にたびたび顔を見せることになった。
その際、廊下でばったりと出会ってしまった啓一は、
「え?何でここいんの?しかもエリ……エレミィさんまで?え、推しがどうして職場の廊下に?」
驚きすぎてわけの分からない反応をしてしまい、あとで盛大に笑われてしまったそうな。
「いや、この世界に技術を伝えるのに壁が多いだろうと思っていたんですが、やってみると結構そうでもないもんです。もう、ほんとみなさんさまさまで……」
「マスターが本格的に立ち直る機会をくださったのは、本当にありがたい話です」
「何でもやってみるもんですよね……。意外とここの技術でも再現出来なくはないって分かって来たりして、こっちが驚いてます」
感慨深げに言うジェイとエリナに、啓一がさもありなんという顔をした。
「……もっとも、最初はサイン書いてくれが多くて困りましたけど。今は自重してもらってますが」
「どこで見られたのか、最初は出待ちが多かったですからね。研究所の方で注意喚起をしたら、すっぱりやめてくれたのは助かりました。同じリスナーとして態度が悪いのは気分がよくないので」
苦笑するエリナに、サツキが笑いながら肩をすくめつつ答える。
もっともサツキも啓一も、さらには他の研究員もちゃっかりとサインをもらっていたりするので、どの口が言うかというところもあった。
「研究所での仕事は、あくまでUniTuber活動とは別個ですからね。本名を出して勤めていますし、ファンの方にはやはりちょっと配慮していただかないと……。それに今は苗字が『ヤシロ』になったので、マスターに迷惑がかかりかねません」
エリナは現在ヤシロ家の籍に入り、苗字を得て「エリナ・ヤシロ」と名乗っている。
今は「義妹」の扱いになっているとのことだが、将来はどうなるやらとささやかれているようだ。
「……って大丈夫なのか、こんな大勢。入るのか?」
「あ、それヤシロさんとこじゃ頼めないから、うちだようち。参集殿なら確実に入るし」
啓一が首をかしげていると、百枝が顔を出して言う。
「ああ……そういえば、林野さんが一時避難してましたから」
「そそ。避難所になるか心配してたみたいだけど、結構でかいんだぜ?」
内乱の危険性が高まった頃、東郊外に避難していた瑞香が、ここに移動して来たことがあった。
その時地元民を含め三十人以上を収容し、避難所としての役目を果たしきったのである。
「まあ、あれから内装工事したりしたからさ。集まるにはきれいな方がいいだろ?」
「実際、随分きれいになりましたよね。何せ二ヶ月もお世話になったので結構汚してしまって……」
瑞香が横合いから申しわけなさそうに言った。
「別にお前や住民の人らのせいじゃないって。元からくたぶれててそろそろ工事のしどきかと思ってたんだから。……というより、お前のとこはどうなってんだ?」
「ええ、みなさんの寄附のおかげで工事が出来るだけのお金が全部集まりまして。近々社務所にご神体を遷座の上、修繕に入ろうかと」
瑞香の管理する緑ヶ丘神明社は、かつて「駆け込み宮」として異様な使われ方をされていたため、四年にして拝殿の扉ががたつき、建物自体も軋みが出て来てしまっている。
神明通の住民の生活を優先したため修繕が先送りになっていたのだが、余裕が出て来た頃に神明通をはじめとして中心部各所から「感謝」として寄附が始まったのだ。
なおこれを聞きつけ、かつて駆け込んだ清香、窮地を救われた啓一やサツキ、さらには「高徳」の計画を仕掛けたヤシロ家の二人、そして同業者の百枝も寄附を行っている。
「ほんとにもう、こんなに受け取っていいのかと……」
「いいんだよ、そもそもお前んとこ本来は総鎮守だろうが。一番格の高い神社をいつまでも情けない姿にしとくわけにゃ行かないっつの」
百枝がひらひらと手を振って言うのに、瑞香は恐縮しつつ照れくさそうに笑う。
以前は反社会的勢力との緊張からいつも気を張っている必要があった彼女だが、それがなくなったことで精神的に余裕が出来て来ているようにも見えた。
と、その時である。
本通から植月町に上がったところで、いきなり右からにゅっと何かが現われた。
「おとと……試運転の電車か。開業が迫ってるからえらい忙しいな」
眼の前に現われたのは、緑色に塗られた二輛編成の電車である。
緑ヶ丘市には、元々植月地区を起点に空港・桜通・本通方面を結ぶ電車敷設計画があったのだが、桜通を反社会的勢力に占領されたため停頓していた。
それを復興のついでに実現しようと、敷設工事が進んでいるのである。
残念ながら今日には間に合わなかったが、順調に行けば今月中に第一期区間として鏡団地〜植月町〜緑ヶ丘空港間が開業する予定だ。
「ほい、ここです。石段注意してくださいよ、初めてだとこける人多いんで!」
百枝は参道下でそう言うと、ひょいと上を指差した。
参集殿に集まった一同を待っていたのは、立食会であった。
市制記念日に関係者一同と家族が来ると聞いた百枝が、市民がこの日を狙って花見の準備に宴会の準備にと駆け回っているのを見て、せっかくだから便乗してぱっとやろうと企画したのだという。
「白桜十字詩」の話にちなんだ
「まあ細かいことはともかく……乾杯!」
実に百枝らしい音頭とともに乾杯すると、各人料理に手をつけ始める。
「しかしまあ、この街でこれだけしっかり宴会が開けるようになるとはな。仕出し業者もろくになかったとこに、新規で店開いてくれてありがたいったらない。……こういうとこを絶対に潰さないよう一生懸命使って成長させないとってんで、市民みんなでがんばってんだ」
「そりゃいいことです。どんどん経済回して行きませんとね」
「そうそう。前はかたぎの者が商売してもどうにもならないもんで、業者も店もないなんてのざらだったからさ。意地でもあんな状態に戻しちゃなんねえ」
事件前の緑ヶ丘の経済はほとんどが反社会的勢力と一新興国産業、そこにつながる不逞の企業や業者たちに掌握されていた。
このため一般人は商売がなかなか出来ない上、してもすればするだけ損をするという状態が続き、結果的に健全な発展が妨げられる状態となっていたのである。
それだけに、こうやって経済を正常化するためには力を惜しまないつもりのようだ。
「そういえば、周防通はどうなりました?あそこも荒れに荒れましたけど」
サツキが、ふと思い出したように訊ねる。
「手間かかったけど何とか復興したよ。……いやほんと、始末悪いなんてもんじゃなかったぜ」
「やっぱりそうでしたか。ライフラインが全面的に致命的な損傷受けてましたしね……」
大門周防通騒乱の現場の一つである周防通も、火のかからなかった南北両端のごく一部以外の家屋が全て取り壊され、住民による再建を待つばかりとなった。
だが、それを遅らせたのが電気やガスや水道などのライフラインの復旧工事である。電気の復旧は早かったものの、ガスや水道は都合三本の通りでペーヴメントを全部はぎ取って掘り込み隅から隅まで全部取り替えたため、一ヶ月以上にわたって道路が全く使えなくなってしまった。
また騒乱の元凶となった掘削跡を完全にふさぐ工事も、さらに再建を遅らせたという。何せ周囲を数十メートル掘る必要がある上、龍骨という基礎部分に触れるため、たとえ住民であっても余人を近づけるわけに行かなかったからだ。
このような事情からなかなか再建に着手出来ず、復興が桜通より遅れてしまったのである。
「鎮圧の際ご迷惑をかけたおわびに、マスターと私でお手伝いさせていただきました」
これは実際に現地で騒乱の鎮圧を手伝ったエリナであった。
「よかったんだぜ?不可抗力みたいなもんだし……」
「いいんですよ。せっかく技術ありますし、腐らせても仕方ありません」
こうやってどんどんと自分たちの持てる技術を提供しようという気持ちになった辺り、随分ジェイやエリナも変わったものである。
「あと残るは東郊外なんだよ。広い上に田畑がなあ……」
今回実質的な内乱の場となった東郊外の復興については、道路の修復やライフラインの復旧は何とかなったものの、家屋や田畑の被害が百ヶ所以上に渡っており、工事が間に合っていない状態だ。
住宅地より外に出れば出るほど被害が大きくなるありさまで、田畑の中には踏み荒らされたり土地がえぐれたり、ガソリンや薬品をまかれて土が全部駄目になったりと、数年単位で耕作が出来ない場所が大量に発生している。
下手をすると復興前に廃業する農家も出かねないほど厳しい状況で、補助金の支給や地産地消活動で一生懸命に支えている状態だ。
「それと龍骨出入口がいくつかぼろぼろで、欺瞞装置も新品に変えるって言ってるから……もしかしたら、近々またサツキさんや啓一さんに来てもらうことになるかもなあ」
「今度はきちんと役目を果たさせてほしいですね。こないだみたいなのはちょっと」
サツキが半年前のことを思い浮かべ、思わず苦笑する。
結局件の反重力プールに関しては、技術専門の第三研究部の研究員が出張った。
しかし次は、仕様を知っているということでまたこちらにお鉢が回ることだろう。
もっとも、今の緑ヶ丘なら喜んで行かせてもらうところだが。
「そういえば、大門町や南原はどうなってるのかしら?あの二ヶ所はその、犯罪の拠点になった場所だから……。あと公売にかかった部分も売れたのかしら?」
私兵のアジトがあった大門町、一新興国産業本社があった南原。いずれもいまだに立入禁止のままになっていると聞いている。
「そのままになっていますね。いずれは全て取り壊して土地も処分される運命ですが、手続きがややこしいんですよ。今年中にはと思いますが、もう警察の手の届かない場所まで行っちゃってますから確実なことは言えません」
答えたのはシェリルであった。
土地などの不動産をはじめ犯罪者の財産については、没収が定められているものを除きそのまま所有が認められているが、今回に関しては早々に整理されることが決定している。
「あと公売にかかった土地ですが、結局売れなかったそうです。次の公売で他の物件と一緒に売るつもりでしょうが……残念ながら、一般の個人や会社が買うとはまず思えないですね」
「そりゃそうだ、二軒三軒隣の家の地下で人体改造実験あったんだぞ。清香さんにゃ申しわけないが、気味悪がって誰も買わねえだろうと思ってたよ」
「でしょうねえ……」
「これから処分される土地だって、多分買いたいってやつはまずいないと思うぞ。兇悪犯罪者がもろに居座ってた場所なんだからぞっとしねえっての。誰が使おうと思うってんだい」
百枝が空の麦酒瓶を脇に避けながら、ため息をつくように言った。
普通の犯罪でさえ関係する土地にはけちがついて、長くその事実が亡霊となってつきまとう。
ましてや今回のように歴史に残るような犯罪となっては、それが永遠に消えることはないはずだ。
「……ただ、もしかするとだけど市が買う可能性があるんだよな。実は、犠牲者を弔うために慰霊碑を建てようって話があってさ。そんなら事件のあった場所に建てるのが一番だろうし。まだ案だからどうするのかは具体的に決まってないが」
「そういう話があるとは聞きました。四十一人も殉職していますので……もしこちらでも懇ろに弔っていただけるならありがたい話です」
シェリルがしんみりとした顔になって言う。
かなり大規模な殉職だったため、思うだに心が痛むと言っていたのだ。
「あと同じように、ヒカリさんの慰霊碑を単独で建てようって機運もあるみたいだ。ファンの人らが言い出してるんだよ。息がつまるような生活してた中で、心の支えだったからって」
ヒカリは事件後速やかに荼毘に付され、現在は新星の市営墓地に眠っている。
ファンの手によって常に香華が絶えることはなく、人気を超えた彼女の人徳を物語っていた。
「私も賛同している一人です。看取った以上、このまま何もしないでは気が済まなくて……」
エリナが神妙な顔で言う。元々自分の憧れの人物であり「推し」でもあったのだから、それくらい考えてもおかしくなかった。
「いずれにせよ、まだまだ先が大変ですね。俺たちとしても早く済むことを祈ってますよ」
「ありがとう。お上もまだまだ荒れてるからなあ、なるたけうまく収まってほしいもんだ」
百枝が言うのは、緑ヶ丘市当局の責任問題である。
今回、市当局は三件もの不祥事を立て続けに起こしていた。しかも全て直接的にも間接的にも市を滅ぼしかねなかったという、まったくもってしゃれにならないものである。
市長は引責辞任し、復興がある程度落ち着くまで副市長が市長代理を務めることになった。
そして不祥事を起こした都市保全部は、部長と不祥事を起こした職員が自主退職に追い込まれ、他の職員も左遷されてしまったという。
現在は新市長の許で復興が進められているが、元市長や元都市保全部部長たちを相手取って市民たちが損害賠償を求める民事訴訟を起こしており、まだまだ市政の混乱は収まりそうになかった。
「あそこまでのことになったのに、よく市が訴えられなかったもんですよね……」
「話はあったみたいだぞ。だがいかんせん復興の最中だからな。人ならまだしも行政ともめると工事が滞る可能性があるし、市長も変わって妥当な処罰が行われたしってんで、妥協してやめたって話だ。でも本心から引っ込めたわけじゃねえしな……のちのち禍根が残らなけりゃいいが」
そんなことを言っていると、奥で何やらどやどやと声がする。
「こら、あの人お客さんだよ!持って行ってもらったら失礼だろ!」
「す、すみません。余りに強くおっしゃったもので、つい」
その会話に思わず啓一が、
「あ、嫌な予感がする」
思わずつぶやいた時だ。
「みなさま、どうぞお飲みものを」
果たして思い切りメイドになりきった清香が、大きめの盆に麦酒や日本酒の瓶数本とグラスを載せて現われたのである。
「……あのさ、まだメイドしてんの、清香さん」
「はい……駄目だこの先輩、早く何とかしないととは思ってるんですけど」
「既に手遅れだと思いますけどね、俺は」
百枝がじとりとした眼になるのに、サツキと啓一が首を振った。
清香は帰京後、白鳥区の自宅に戻ってアンドロイドとしての暮らしを本格的に開始している。
ただしヤシロ家での生活により、基礎的なことは自己流ではあるものの会得していたため、最初から手取り足取り教えてもらわないといけないようなことはなかった。
しかし一方で都市での一人暮らしに戻ったことで、郊外で居候だったこれまでとは勝手が違う部分が多く生じて来ているのも事実である。こればかりはもうどうしようもないので、直義や夏美、ことによってはシェリルまで手伝っての生活訓練を行う日々が続いていた。
だがこんなことになっているにも関わらず、清香はやたら明るい。
緑ヶ丘にいた頃からそうだが、どうやらアンドロイドとしての暮らしを楽しんでいるようなのだ。
そしてメイド服を着て、メイドになりきる癖まで残ってしまったのだから困る。
さすがに研究所には着て来ないが、普段着がすっかりこれになってしまい、並んで歩くとサツキや啓一が主人だと勘違いされることも少なくなかった。
もっとも形はどうあれ、本人が前向きなのはいいことなのだが……。
そんな二人の視線を放っておき、清香は料理を口にした。
「それにしてもおいしいわねえ。実際に買ってたから分かるけど、ここの野菜とか農産品や畜産品はいいものよ。東郊外で作ってるんだけど、今までほとんど外に出荷してなくて知られてないの。いずれ出荷量を増やして、名産品になってくれるといいわね。被害に遭った生産者の人たちにとっては、何よりの救済にもなるし……」
「それはあたしも思ってるんだが、とにかく風評がある程度まで収まってくれないと厳しいなあ。まだ記憶に生々しすぎるぜ」
清香のほめ言葉に、百枝は微妙な顔つきとなって言う。
事件から半年、かつての「やくざと風俗の街」のイメージは消えたものの、今度は「内乱が起きた街」のイメージがついてしまい、これはこれで障害となっていた。
「事件が事件なだけになかなか難しいかも知んねえけど、そういう風評はなるたけ早くなくなってほしいもんだよ。こっちはもうこりごりだっつの」
緑ヶ丘市は「田園都市」という触れ込みではあるが、単立の地方都市というより大都市のベッド・タウンとして機能することも想定して作られた街である。
だが桜通の風紀紊乱が全国に知られたことで街ごと忌避されてしまい、市内に仕事を持つようなことでもない限り、一般市民が越して来ることがほぼなくなるという風評被害が発生した。
それを考えるとせっかく風評被害の元を潰したのに、また別口で風評被害に遭う羽目になるなぞというのは、市当局としても市民としても勘弁願いたいところであろう。
「ま、ここを汚してった連中が天誅食らって始末されたから、いずれはどうにかなるだろうが」
「まさに天誅というか、自業自得、悪因悪果もいいとこでしたねえ」
シェリルが麦酒を飲みながら、肩をすくめて言った。
松村逮捕後、この内乱事件に関わった者や組織は全て峻烈な制裁を受けている。
まず松村自身、検察官送致後に内乱罪の罪状が追加された。国内初のことである。
先にも少し述べたが内乱罪は高等裁判所が第一審であるため、松村は秋野高等検察庁に再度送致され、ここで起訴を待つことになった。
十二月一日、秋野高等裁判所に起訴された松村は、あくまで無罪を主張し続けたという。
だが悲しいかな、弁護人はこれを弁護するだけの
いや弁護するには余りにも罪が大きすぎ、被告人のたちも悪すぎたというべきであろうか。
何せ同じ無罪を主張するのでも、ふてぶてしく傲慢な態度を取るというのではなく、子供のように泣き出すのだ。やめるよう説得しても頑として聞かないためどうにもならず、泣きやむまで何度も休廷するなど大荒れとなったという。
傍聴した市民たちもみなあきれ果て、こんな幼稚な男に振り回されたのかと虚しい思いにとらわれる者も少なくなかった。中には裁判官がよく退廷命令を出さずにこらえられたものだと、妙なところで感心したという者すらいたというからよほどのことである。
もっともシェリルによると、逮捕時の大泣き以降一貫してこのような態度で、
「恐らくこちらが松村の本性なのではないか……?」
関係者はみなそう考えているそうなのだが、もしそうなら改まらないのも当然と言えた。
それでなくとも改悛の情がない兇悪犯罪者の弁護というのは、よほど滅茶苦茶な理屈をこねないと出来ないことが多いものである。
このため、松村の弁護は本人の態度もあって完全に支離滅裂な内容に終始した。当然、そんなものに裁判官が耳を貸すことはない。
果たして年が明けた二月十三日、松村に死刑判決が下った。
まだ最高裁判所への上告が可能だったが、内乱罪抜きでも種族転換禁止法の即極刑条項に六つも引っかかっているという、もはや死刑以外の選択肢がない状態である。弁護人も過去の判例から減軽の見込みがないと判断、被告人からも諒解を得たとして上告断念を表明し、判決確定となった。
どうせ最後まであがくだろうと思っていた人々は驚き、これ以上の弁護を嫌がった弁護人が松村を言いくるめて断念させたのではないかと噂し合ったが、密室の出来事ゆえ真偽は分からぬ。
これと並行して、人体改造実験に関わった者たち五名が種族転換禁止法違反で死刑判決を受け、さらには無期懲役や無期禁錮、懲役三十年や二十年という重い判決を下される者が次々と出て来た。
平沼は「暴動前の自首に限り刑を免除する」という規定により内乱関係の罪には問われず、他の罪も数が多くはなくいくつか減軽されたが、それでも懲役十五年の判決を下されている。
我々の世界の日本と比べると随分早いが、こちらが遅いだけでこの世界ではこれが普通だ。
当然、関連組織も無事で済むはずがない。
諸悪の根源たる一新興国産業には、破壊活動防止法が適用され解散命令が出た。
同法の適用には「今後破壊活動を繰り返す恐れがある」という要件が必須であるが、完全に反社会的勢力と癒着しているどころか、それなしでは成立しない可能性のある企業ではそう見るしかない。
この命令を受け、同社は解散を決定した。法的には取り消しを求めることも可能であったが、さすがにそんなことが出来るような立場では到底ない。
さらに規定により、強制的に事業も停止され財産の整理も開始された。先に本社の土地が早々に処分されると述べたのは、このような事情からである。
解散即消滅ではないため、一新興国産業は今も法人格を有してはいる状態だ。だがもはや手足どころか頭までもがれたに等しいありさまでは、外から見る分には消滅したに等しい。
しかも市民や市当局から民事訴訟を起こされ、数百億円、すなわち我々の世界では数千億円の損害賠償を請求されているのだ。どう考えても原告が勝訴する結末しか見えないので、残っている胴体も毛から皮から臟腑に至るまで全てもぎ取られ、塵も残らず消える運命が決まったようなものだろう。
桜通を蹂躙した張本人の橋井地所は、追徴課税による差し押さえで所有していた土地を全て失った上、既に逮捕されていた社長や役員とともに法人税法違反で告発された。
こちらも、市民や市当局から損害賠償を求める訴訟を起こされている。双方ともに裁判中のためどうなるかは分からないが、最終的に待っているのは何にせよ破滅しかないのは確かだ。
平沼が社長を務めていたホソエ技研は、一新興国産業の悪事に関与したということで取引先が次々撤退、干上がって緑ヶ丘地裁に民事再生法の適用を申請している。
反社会的勢力は小さな団体は潰滅、大きな団体も大量の逮捕者を出すなど大きく勢いを殺がれた。
極左暴力集団も幹部の逮捕により基盤ががたがたになったばかりか、駄目押しに破壊活動防止法が適用されて解散命令が下り、ほぼ潰滅することが確定している。
結局、松村に関わった団体はおしなべて地獄の釜の底へ突き落とされたわけだ。
秋野拘置所に収容された松村は、昼には部屋の隅でずっと膝を抱えて座ったままぶつぶつと小声で逆怨みを言い続け、夜にはわあわあ泣きわめくという奇行を繰り返し醜態をさらしていたという。
そして、連邦暦一六三年四月二日十二時五分。
秋野拘置所において、松村の死刑が執行された。
最後まで他人に罪をなすりつけ続け、泣き叫びながら縄に
あれだけ人々を震撼させ、街一つを潰しかけるほどの大被害をもたらした兇悪犯罪者の末路とは思えないほど、みじめで無様極まりない最期だった。
「かなり判決から執行まで早かったよな。うちの世界じゃ『判決後六ヶ月以内に執行する』って規定が一応存在するのに、十年以上塩漬けとかざらでやってたんだぞ」
「やっぱり国民感情ですよ。国家だけじゃなく、実質的に全国民を敵に回したわけですし。そりゃ早く始末しろとせっつかれますって。捕まえた私たちも、これはかなり早いだろうと予測してました」
殊にヒカリのファンには烈しい憎しみを向けられ、早期執行の嘆願書が提出されたほどである。
ただそんなことをしなくとも、法務省ははなから執行を引き伸ばす気はなかったのだが……。
「ま、いずれにせよ残念でもなく当然だわな。一日生きれば一日誰か泣く、そういう野郎だったんだから。始末されるべくして始末されただけのことだぜ」
百枝はそう言って愉快そうに笑ったが、ややあって、
「でもなあ、あの野郎がいなくなったからって全員が全員幸せになったわけじゃないんだよなあ」
ぽつりと寂しげに言った。
「特に勝田さんさ。あの松村を保護した人」
「……そういえばどうなったんですか?俺も訊こうと思ってたんですが」
「あれから入院して暮れに退院はしたんだが、そのまま周囲に何も言わず引っ越してったらしい。見た感じ立ち直りかけてたから、すっかり油断してたよ。大丈夫だと思いたいんだが……」
百枝がこのことについて知ったのは、年明けのことである。
もしもっと早く知っていたなら、何らかの相談に乗ってやれたかも知れなかったのだ。
十年以上松村に振り回されたこの老翁こそ、本当に幸せになるべきであったろうに……。
そんな無念さが、言葉のどこかににじみ出ていた。
百枝は一つ首を振ると、沈んでしまった空気を払拭するように、
「心配しても仕方ない、信じようぜ。ほら、もっと呑め呑め」
明るい声と顔でみなに酒と料理を勧める。
「あ、麦酒いただけますか」
「シェリル、お前さん結構呑むんだな。……見てるとこれいいのかって気分になるんだが」
「失礼な、私は成人してるから問題ありません。年齢の計算法は知ってるでしょう」
むすっとしながら、手にした麦酒を飲み干した。
アンドロイドも酒や煙草は二十歳からという規定だが、シェリルは三十歳なので全く問題ない。
しかしそれでも外見は中学生なので、何ともいえずちぐはぐなものがあった。
「啓一さんって呑まねえのか?」
「あ、倉敷さんは知らないですよね。俺って下戸なんですわ。麦酒一杯でぶっ倒れます」
「大変ですね……。晩酌配信しても今までおつき合いは無理だったんですか」
これは、エリナである。
「そういうことなんですよ、俺はお茶です。楽しいですけどね」
「エリナは酒あんまり呑まないふりをしてるが、結構酒豪だぞ?だからそれも売りにしたらどうかなんて言ってるんだけどね」
「マスター!そんなこと出来るほど呑んでませんよ!」
ジェイが笑いながら言うのに、エリナが思い切り抗議した。
片手になみなみと日本酒の入った枡を持ったままでは、まるで説得力がないが……。
「……勝山さん、生活が乱れすぎですよ?今回は仕方ありませんが、いつもエナジードリンクばかり飲んでいると聞いています。あれで倒れた人も随分いるんですよ、分かってますか?」
「う、うん、分かってるよ……気をつけてるから」
「いいえ、そう言う人ほど当てにならないんです。まずはきちんと睡眠を……」
こちらでは、瑞香が麦酒片手にすわった眼つきで宮子に説教をしていた。
宮子がちらちら眼で助けを求めているが、みんなさっと避けてしまう。
「あー……オタ猫、瑞香に捕まっちまったか。あいつ酔うと説教始めるんだよ」
「か、からみ酒ですか、林野さんが……見かけによらないもんですね」
「酒癖の悪さは困るわよねえ。うちの亭主は泣き上戸で、私何かいじめたかしらって気分になるの。息子までそれだから、真島の家系の遺伝なのかしら」
「ああ、お父さんとお兄さんですか……」
ハルカがげっそりとした顔をするのに、啓一が遠い眼をした。
サツキの父・
もっとも二人とも地球に行っているとあって、一番最初に話したのは同居してすぐの頃、電話越しでのことであった。同居についてどう言われるかと戦々兢々としていたら、やましいところがないと思われたのか実に好意的で、安心しつつも気が抜けた覚えがある。
実際に顔を合わせたのはこの正月に実家へあいさつに行った時で、先のような互いの心証のよさもあって料理を囲んで酒など呑みながらの平和な歓談となった。
だが一時間ほど経った頃、サツキの昔の思い出話を泪ながらに延々と語り始めたかと思うと、
「啓一君!うちの娘を連れて行かないでくれたまえ!!」
「妹よ、行くなあ!!いくら
突然とんでもないことを言い出し、おいおいと大泣きしながら迫って来たのである。
「……あれは本気で困りました。別に連れて行かない、どこにも行かないと二人で言っても聞かないんですから。結局ハルカさんがなだめてくれましたけど」
啓一が頭を抱えるのに、容易に光景が想像出来たらしく、
「ああ、薫のやつと匠君はひどいな……地球でへまやらかしてないだろうな?」
「先輩だけでも大変なのに、親子でこれはもうね。ハルカはよく相手してるわよ」
直義と夏美が深いため息をついた。
「ねえ、シャロンさん。お酒って怖いですね……」
「うん、ちょっとね。私も戸籍上成人の扱いなんだけど、あんまりたくさんはやめとこうかな……」
葵とシャロンがひそひそとそんな話をするのをよそに、直義は苦笑しながら麦酒を傾ける。
「……まあ酒癖云々は右に置いても、二人とも予想通りのこと言ったって感じだな。そりゃそうだ、そのうち連れて行かれかねないんだから」
この発言に、啓一はのどをつめかけてしまった。
「ちょ、は、博士!やめてくださいよ!」
「ですよねえ、その言い方じゃ駆け落ちするみたいじゃないですか」
夏美があきれたように言うのに、啓一はぶんぶんと手を振る。
「そういうことじゃなくてですね、俺とサツキさんは何もないんですよ。お二人ともたびたびそういうことおっしゃいますけど、ないものはないんです」
「……え、ちょっと待った。今もなのかい?」
「いやそれ、本当に……?」
直義と夏美が眼を点にして、ぽかんとしながら言った。
「本当にありませんよ、相変わらずただの居候ですって」
啓一がぽりぽりと頭をかきながら言うのに、直義と夏美は一瞬唖然とした後、
「あちゃあ……」
「うーん……」
頭が痛いと言いたげにつぶやく。
「何度も言うようだが、ほんとにそうなってもおかしくないと思うんだがなあ」
「いえ、そんなうまい話あるもんじゃありません。そもそも半回り以上年上のおじさんなりかけ、下手するとおじさんでもいい歳の男なんですし」
「あの事件の時、あれだけ颯爽と助けといて……あれは歳関係なくかっこいいと思うんだが。そのままトゥルー・エンド一直線でもいいところだぞ」
「いい加減その話は勘弁してくださいよ、かっこつけすぎたと恥ずかしくて仕方ないんですから」
本気で恥ずかしがって半面を覆いながら言うと、啓一は助けを求めるようにサツキの方を向いた。
だがそこでは、なぜかサツキが顔を赤くして固まっている。
正月の時に屠蘇を何杯もあおって平然としていた彼女が、麦酒や酎ハイを少々呑んだ程度で顔を赤くするのはいかにも面妖だ。
啓一が
「お、おいおい……」
一見すると一休みに飲んでいるように見えるが、量がいささか多い。
ほとんど酔わないはずなのにこれでは、さすがに啓一も眼をしばたたかせるしかなかった。
「うわ……本当にまだだったのか」
「みたいね。これがうちの子なら発破かけてやれるんだけど……」
二人に聞こえないようあきれた声で言うと、直義と夏美は日本酒に手を着ける。
誰かの水割りに入った丸氷が、溶けてからりと音を立てた。
立食会が終わった後、解散した一同はそれぞれ気ままに境内に座って花見かたがた話したり、新装なった桜通を再び流しに行ったりして過ごし、夕方にはそれぞれの家やホテルへ帰った。
今回は全員が同じホテルに泊まることになっている。シェリルは仕事の場合別の定宿があるのだが、非番で家族がいるため一緒の方がよかろうと考えたようだ。
夕方、桜通のレストランで清香とシェリル姉妹と一緒に夕飯を食べた啓一とサツキは、そのまま固まって街に足を踏み出す。
「どうするかね……日が随分伸びてるし、腹ごなしに歩いてもいいけど」
「あ、そうだ。ちょっと行きたいところがあるんだけど……ここ」
そう言ってサツキが空中ディスプレイで出した地図を指差した。
「あれ?中心部の北に公園なんかあったっけ?」
「市のページで見たんだけど、凍結状態だったのを復興事業で改めて整備したんですって」
「なるほどねえ、道理で施設が真新しいはずだ」
どうやら、石畳できれいに整備された緑地公園のようである。
その言葉にシャロンが興味を示し、
「あ、じゃあみんなで……むぐッ」
そう言い出した途端、思い切り清香とシェリルに口をふさがれた。
「ちょ、清香さんにお姉ちゃん、一体……」
「まあまあ、今日ははよしときましょ」
「私に野暮を言わせる気ですか。若いお巡りさんだからって」
清香とシェリルが一生懸命になって止めているのに、二人が振り返る。
「シェリル……そのねたは古すぎてシャロンにゃ分からんだろ」
「というより、一体何もめてるの?」
いぶかしげな眼で見られ、あわてて清香とシェリルは手を振った。
「あ、何でもないの、何でもないのよ。行ってらっしゃい」
「どうぞごゆっくり。以前と違って、本当に平和になりましたからね」
「……って、何が何だか分からないんだけど!?ちょっと二人とも!?」
ごまかすように言うや、そろってシャロンを引きずり始める。
そして途中で一度振り返りサツキにだけ見えるように小さく片手でガッツポーズをした後、どやどやと元来た道を戻って行った。
「何だったんだ、ありゃ。無理に連れ帰ろうとしなくても……」
「……いや、今のはしょうがない、かも」
真意を悟ってサツキが少し顔を赤くするが、通りの奥を見ていた啓一は気づいていない。
シェリルたちが去った後、二人はぶらぶらと桜通を流し始める。
「いやあ、それにしても……これ本当に同じ場所か?半年前に空港から降りた後うっかり入った時のこと思い返すと、余りに普通になりすぎてて夢かと思うようじゃないか」
「まあ変な破落戸が女を寄越せとか脅して来るなんて、今じゃ絶対ないわよね。というより、カップルがちらほら歩いてるってだけでいい意味で衝撃よ」
「おお、おお、みんな青春謳歌しとるのう」
ふざけて爺むさい口調で言うのに、サツキは自分たちも見た目は似たようなものだろうと思ってまた赤くなってしまう。
「冗談はともかくとして、あんな荒れに荒れた状態で四年間だもんな。青春時代ど真ん中の人なんか、たまったもんじゃなかったろうよ。きっとみんな取り戻そうとしてんだろうな」
「それはあると思うわ。比較的年齢高めの人も普通にいるような感じがするもの」
種族により同じ年齢でも外見が異なるため分かりづらいが、確かに高校生や大学生よりも社会人、それも二十代半ばから後半程度のカップルが多いようだ。
啓一とサツキのように、三十二と二十三という凸凹な組み合わせがいるかは分からないが……。
「大体にして、街自体が四年間を取り戻しにかかってる最中だもんな……。さっきの公園もそうだが、反社のせいで凍結されてた都市計画事業の多さよ。ここなんか、道が竣功して以来一回も工事したことなかったそうじゃないか。出来たもんじゃないのは分かるが、さすがにな」
「ああ……もしかしてあの時の通行止めもそれだったのかしらねえ」
サツキが、前回ここに突入するきっかけになった通行止めのことを思い出して苦い顔になる。
「ま、ここも電車が通るっていうしな。そうなれば、もうどんどん過去のことになるさ」
そう言うと、啓一は車道の真ん中を見た。
舗装工事を行う際に既に用地が取られ、軌道の仮敷設が行われている。地面を掘り込んで枕木のみを並べた後仮蓋をかぶせてあるだけなので、あとは蓋を外して線路を敷けば終わりだ。
「いやあ……ほんとにいい商店街になるぞ、こいつは」
にこにこと笑いながら本通との交叉点を渡ると、ちょうど乗合が停留所に到着したところだった。
『本通五丁目桜通口です。この車は二系統、市民病院経由藤塚行です』
先にも述べた通り、この停留所は事件前には設置されていなかったものである。
交通局の広報によると「需要がなく将来的にも利用者が現れる見込みがなかったため」というのが主な原因というが、さりげなく「治安上問題があったため」とも書かれていた。
この記述からするに、思った通り「関わり合いになりたくなかったから」というのが本音ではないかと思われる節があるが、もう昔のことゆえ取り立てて追及することもあるまい。
買い物帰りの客やらサラリーマンやら学生やらがぞろぞろ乗降するという、繁華街にふさわしい活気に満ちた光景には、この街に平和が訪れたことを改めて感じさせるものがあった。
「こっちはこっちで、ごく普通の住宅街だなあ」
かつて「高徳」を名乗って中心部北部で活躍していた百枝曰く、その頃のこの地区は常に暗然とした空気が漂っていたという。
陽が落ちると第二次大戦末期の燈火管制のように早くからみな明かりを消し、夜に植月町から眺めた日にはまるで闇の池のようで痛々しかったとも言っていた。
しかし今では傾きかけた夕陽の中で夕飯の香りが漂い、テレビの音なぞもどこからか聞こえる。
「……うちの近所じゃ当たり前のことが、ここじゃ本当に得がたいものだったんだな」
「そうね……でも手に入って、よかった」
しんみりと夕焼けの中をゆっくりと歩いて行く二人の横を、遊びに行って来たのか子供たちがぱたぱたと通り過ぎた。これも、かつてはなかった光景なのだろう。
思いがけず幼い頃の自分を見たような気がして、啓一はふっとほほえんだ。
子供たちが出て来た児童公園を過ぎると、「北展望公園」と書かれた門柱と緩い坂が見えて来た。
公園本体はこの門から坂を上がった先、中心部と「裏」の中間あたりの高さにあるようである。
「ああ、これあそこか。『裏』に上がる管理道路の横に変な空地があったの」
「柵囲いのせいで、上から目視するしかなかったとこね。公園用地だったんだ……」
大門周防通騒乱の直前に子供を探しに行った際、いかにも迷い込んでいそうだと一緒に眼を皿にして見たことを思い出した。
管理道路の添え物のような土地なのでさして広くはないが、かなり力を入れて整備したらしく、しっかりと並木や石畳の遊歩道がそろった都市公園らしい公園となっている。
「あれ、誰もいないみたいだな。時間帯かね」
「子供たちにはさっきの小さな公園があるみたいだし、ちょっと中心部から離れてるし。いわゆる『穴場スポット』ってやつだったりして……」
そこまで言って、サツキは下を向いて少し目線をそらした。
「ま、まあ言うなればそうだよな……市庁の横が公園になったらしいから、みんなそっち行くさ」
「そうよね、普通の住宅地の中だものね、なかなか注目されないわよね、うん」
こちらも目線をそらしながら言うのに、サツキはおたおたと眼を泳がせる。
どうも最近のサツキは、とみにいろいろとおかしな言動が多いようだ。
年明け辺りから特にそうなのだが、恋愛をにおわせるような言動を多くするようになり、そのたびに恥ずかしそうに赤くなっては挙動不審になるのを繰り返すようになっている。
先にも述べた通り、サツキは異性に親切にするだけなら積極的だが、そこに恋愛を意識する要素が加わると途端に駄目になってしまうのだ。慣れないことをしては何度も自爆していると言っていい。
ここまで露骨となると、さすがに啓一もある一つの仮説を真とせざるを得なくなりつつあるが、
(……いや、それは絶対にないだろう。ご都合主義にもほどがあるってもんだ)
この考えが先に立って邪魔をしてしまっている状態だ。
そのことは、「恋仲」という誤解を否定する時のもの言いからも明らかである。
しかしやはり認めねばという気持ちもあり、ずっとどうしたものかと困惑していたのだ。
サツキもこの葛藤には多少なりとも気づいており、余りのこじらせぶりに、
(元の世界にいた頃、相当恋愛方面で劣等感植えつけられるような仕打ち受けてたのかしら……)
そう推測しているのだが、これが正鵠を射ている辺り我々の世界は実に闇が深い。
話を元に戻そう。
二人は、園内を連れ立ったままゆっくりと歩き出した。
沿道は桜並木となって満開になっているが、誰も花見に来ているような気配はない。
横の高台側から照る夕陽に伸びた影を連れながら、二人は時折他愛もない話をして進んだ。
夕暮れ時に公園や緑地を二人で歩くというのは、あれから半年の間に何度もあったことだし、今さら珍しく感じることでも何でもない。
だが、貸切状態というのはさすがに初めてだ。しばしば妙な気持ちにとらわれ、二人はそろってそのたびに桜の枝や根元に眼をそらして気分を落ち着ける始末である。
そんな時間がどれだけ続いたのか、二人は中心部を望む一番奥の広場までやって来た。
広場を囲む満開の桜を透かして、背後から照る夕陽が少しずつ落ちて来ているのが分かる。
「ここから下が見えるのね。場所がいいのかしら、大体主要な場所は見えてるわ」
「そういや『展望公園』って名前についてたもんな。最初からそのつもりなんだろう」
それにしても、植月地区ほどではないだろうがよく見える。
市庁を中心に東西南北へ広がり行く街並みは、時折官公庁や民間のビルに遮られつつも、夕陽と折りしもつき始めた街燈の白い明かりに照らされ、その姿を美しく見せていた。
「本来ならこの風景を見ながら、みんな日々穏やかな気持ちで生活する予定だったんだよな……。それが不逞の輩のためにはなからくじかれた挙句、四年もの間まるで奪われたままになってたなんてさ。ただ暮らすだけでも精神ごりごり削られて大変だったろうに」
「倉敷さんも言ってたものね、最大の損失は精神的なものだって。街自体や経済はこれからいくらでも立ち直らせられるから前を先を見るように出来るけど、人の心はね……」
実際、四年もの間反社会的勢力による極度の恐怖と圧力の中で暮らしていた市民の中には、心に深い傷を負って苦しんでいる者がかなりの数いる。
さらに、平和が訪れたことでかえって今までこらえて来たものが爆発してしまって発病した例も報告されており、これを深刻と見た厚生省が精神指定保険医の派遣を行っていた。
「死んだ家族にこの平和な光景を見せてやりたかった」
この哀切な叫びがたびたび聞かれるというだけで、その傷の深さが理解出来るだろう。
人は過去を忘れることは出来ぬ。過去を引きずるなと言うのは簡単だが、その過去に失ったものの数や大きさや質によっては、多かれ少なかれ一生つきまとって離れないのである。
「あの野郎が地獄送りになったからって、終わるもんじゃないんだよな……想像はついてたが、話を聞くと深刻すぎる。いくら市や国がフットワークよく動いても、恐らく何年もかかるだろうさ」
夕陽に沈む街の美しくもどこか憂愁に満ちた姿を眺めて、啓一は深くため息をついた。
「それと気の毒だと思ったのが、一新興国産業の元社員のことだ。反社と関わってた連中がどうなろうと知ったこっちゃないが、まるで関係のないかたぎの社員がなあ……」
一新興国産業の社員は、解散により清算に必要な要員以外全員解雇となっている。
だが多くの社員は、自分の会社がまさか長年闇社会とつるんでいた上に、あのような大それた計画を平気で企て実行するような存在だったなどとは、夢にだに思ってもいなかった。
このような社員にとって今回の事件は、無辜でありながら突如食い扶持を取り上げられた上、「市民の敵の会社にいた」として忌避され白眼視されるという理不尽をもたらすものとなったのである。
人々の冷たい視線と罪悪感に耐えかね、とても住んでいられないと引っ越した者や、人との交流を絶ち隠れるようにして暮らすようになった者も相当数いるとの話だ。
さらに職歴に大きな傷がついてしまったため、仕事の口が多いこの世界でも今のところ大半の企業が採用に難色を示し、転職も出来ない状態が続いている。
ついには、これらを苦にして自殺を図る者も現れた。殊に吉竹爆殺事件の際に何も知らず偽の「遺書」を届けた秘書課課長は、「犯罪の片棒を担いだ」と思いつめて昨年末に入水自殺し、世間に大きな衝撃を与えることになったのである。
国や各市も対策に乗り出しているものの限界があり、この先もかなり引きずることになるだろうと暗澹とした雰囲気が漂っているのが実情だ。
「あと、さらに深刻というか闇が深いのが……一新興国産業が受託生産したアンドロイドの問題ね。シェリルが『残務処理という名の取り締まり』って言ってたの」
「ああ、あれは話聞いてるだけで大変そうだな。違法アンドロイドや違法サイボーグの摘発ってもろに特殊捜査課の管轄だから、全部一気にのしかかって来ちまってるって」
この世界では既に述べた通り、法律でアンドロイドの製造や改造などに関して厳格な規定が設けられているとともに、種族転換禁止法により正当な理由なきサイボーグ化が禁じられている。
このため警察には、違法行為を行った製造者や製造受託者、注文者や共同生活者を摘発するという仕事が課せられているのだ。
実は一新興国産業も以前からずっと疑いを持たれていたのだが、裏にいる多数の反社会的勢力によってほぼ完全に隠蔽されており、摘発が出来ずに切歯扼腕するばかりだったという。
それが今回の事件によって会社や取り巻きの勢力が崩壊した結果、実態が全て明るみとなりようやく大規模な摘発が可能となったのだ。
だが判明した事件の数が確定しているものだけでも二十件近くあり、ぎりぎりの状態でさばくようなありさまになってしまっている。
この手の事件は少なくないし、数件を並行して捜査することもないではないが、さすがに数がここまで増えたことはなかった。いくら
「地道にやるしかないんだろうな。種族自体やその未来にも大きく関わることだろうし」
「そうね……それにこういう事件の被害者は一番アフター・ケアが大変なの。多くがその、余り外で言えない目的で造られたり改造されたりしてるから、社会復帰に大きな問題が……」
違法アンドロイドや違法サイボーグは、大抵が奴隷として製造や改造が行われた存在だ。
そのため最初から価値観や倫理観が崩壊を起こしていたり、サイボーグの場合自我や記憶や感情に異常を来たしていたり消去されていたり、最悪の場合は脳自体が物理的に改造されていたりと惨憺たる状態になっていることが多く、社会復帰にひどく苦労し断念する例も少なくない。
「今回の事件だって、先輩や葵ちゃんは逃げ出せたのとヤシロさんがうまくやってくれたのとで奇跡的に救われたようなものよ。ヒカリさんは肉体的限界から亡くなってしまったし、先輩より前の被害者二人は重い精神障害の状態で復帰は絶望的って……」
そこでサツキは身を震わせてぎりぎりと切歯すると、
「私、やっぱり松村を絶対に許せない。下衆な欲望のために人の人生を強制的に終わらせて、未来も将来も何もかも書き換えて奪い去って……。本当に六回死刑になればよかったんだわ。どうせ無間地獄で宇宙の寿命の何百万倍もの間責め苦に遭うんだから……!」
耳と尻尾を烈しく毛羽立たせ、拳を固めながら叫ぶように言った。
だが次の瞬間、ふらりとよろける。
「危ない!」
啓一が素早く飛び出してさっとその躰を受け止めた。
いきなり激昂したため、軽い貧血を起こしたらしい。さすがに恥ずかしがってなどおれぬ。
「……ご、ごめんなさい、大丈夫よ。改めて頭に来ちゃって……。身近にいる大事な人が、原因は違うとは言え理不尽に未来や将来を奪われて苦しんで来たのをよく知ってるから、つい」
「ああ、確かに俺がそうだからな……」
そう返して、サツキがさらりと妙な言い回しをしたのに気づく。
気が遠くなった直後に言ったこと、多少妙でもおかしくはないはずだ。
啓一は、半ば無理矢理自分にそう言い聞かせる。
「ともかくベンチに座ろう。話に夢中になりすぎて、立ちんぼだったのもよくなかった」
啓一は大急ぎでそばのベンチを勧めながら、ゆっくりと座った。
「……ごめんなさい、自分で変な話をして自分で昂奮しちゃった私がよくないの。というより、こんなきれいな夕暮れ時に、満開の桜の下であんな殺伐とした話をする人があるかしら」
自分でもあきれたと言わんばかりに、サツキは眼を伏せる。
「いや、構わないさ。祝賀ムードの立食会じゃ話せないことだったし、さっきの晩飯の時だって久々にそろったメンバーで楽しくやってたんだから、到底がっつりは話せないよ」
「確かにそれはそうなんだけど」
「事件の内容が内容だから、どのみちしないじゃ済まない。それがたまたま今だっただけの話さ」
啓一の言葉に、サツキはようやく顔を上げた。
ふと揺れた薄茶色の髪と耳から、シャンプーか何かの香りが漂う。
いくら美しい女性とはいっても、実際にはきちんと人としてのにおいもするものだ。
頭ではそう分かっているのだが、鼻腔に真っ先に入った甘美な香にその常識が一瞬消える。
(いかんいかん、ふけっちゃ失礼ってもんだ)
思わず、啓一はごまかすように人中をぽりぽりとかいた。
「そうね……とりあえず、話を変えましょ。あの……いろいろあったけど、啓一さんって普通にこっちになじんじゃったわよね」
「そうだなあ。最初の頃恐怖の余りに震えてたのが嘘みたいだ」
「しかもただなじんだだけじゃなくて、未来や将来もそれなりにつかんじゃったっていう……」
「それが一番の驚きだよ。所内報の連載小説、半年やったら何か知らないがうけまくってるし。試しに文芸誌に一本書いて送ってみたら、佳作寸前まで行ったし。元の世界にいた頃より、夢に近くなって来てるってどういうことだ?出来すぎてて逆に気持ち悪くなったぞ、おとぎ話みたいで」
「結果的にうまく行ってるのを、そんな悪い方に考えなくても……」
自分の成功に否定的な態度を取る啓一に、サツキは盆の窪に手をやって困ったような顔になる。
異世界に来た途端にうまく行くというのが、ご都合主義で余り好きではないということのようだ。
「まあ……あんまそう言うのもばちが当たると思わんでもないが。だけどな、さすがにああいう役の立ち方はぶっ飛びすぎだろう。半年経った今でも夢でも見てたんじゃないかと」
「内乱潰して、街一つ救う手伝いしちゃったんだものね」
「あれは予想出来なかった、予想出来なかったぞ……」
啓一にとって最後の最後まで残った「この世界で役に立てるか否か」という懸念は、今回の事件、なかんずく大門周防通騒乱以降のがむしゃらな活躍によって吹き飛ばされてしまった感がある。
大門周防通騒乱の大門町側で逆落としを考案して一番槍を取ったのに始まり、内乱では何度も戦闘に参加し、挙句にサツキを助けるとともに松村の精神をぽっきり折ったのだ。
これが大奮闘であり大きな貢献であることは、さすがに彼でも否定は出来ぬ。
「多分転移者の人で、来るなりあんなことした人いないんじゃない?まじめに表彰ものよ、あれは」
「いやまあ、そりゃそうかも知らんが……そんなことされようもんなら、余りの持ち上げられぶりにたまらずぶっ倒れちまうよ。実際にはそんなことあるわけないから助かったが」
あの一件の解決により、一同の中で表彰を受けたのはシェリルだけであった。さすがに何の権限もない民間人が取り締まりに活躍した事実を、明かすわけに行かなかったためである。
もっとも別に名誉がほしくてやったことではないため、みな何とも思っていないのだが……。
「もちろん有り得ないのは分かってるけど……あなたはそれくらいのことしてたわよ」
「そうは言うがね、あれはみんながいなかったら出来なかったからな?シェリルはじめとして周りがすごすぎる。あと重力学な、あれがなかったらあんな敵倒して回るような真似出来なかったよ。敵がまるで対応してなかったのも運がよかったわけだし……」
この認識だけは、いまだに啓一もまぎれもない事実として譲っていない。
特に重力学の存在は、訓練も何も受けていない彼が前線で真っ当に敵と戦えた一番の要因であるのは言うを待たないことだ。
「でも、最後のあれはあなたの力じゃないの。あれ、あなたが言ったから説得力あったのよ」
「後生だからよしてくれよ。ええかっこしいだし、いいとこだけ持ってった典型みたいで恥ずかしい、っていつも言ってるじゃないか……」
「いいえ、断乎としてよさないわ。苦悩の中世界の尊厳を守り自分の未来と将来を切り拓いて生きている人が、愉悦のままに世界の尊厳を破壊し他人の未来と将来を蹂躙した輩ののど元に、思い切り剣を突きつけて『負け』を宣告した。あの事件にふさわしい終わり方だったわ」
こちらをのぞき込むように顔を向けて、あくまでまじめな声で語るサツキに、啓一は恥ずかしさが頂点に達してしまっている。
「しかも、私のこと『虞美人』って言うんだもの……」
その瞬間、これまでないほどにサツキが顔を赤くした。
「だ、だ、だから説明したじゃないか。『四面楚歌』からの連想が走った結果だって」
「でも本人まぎれもない美女だったらしいし、項羽の妃みたいなものだし」
「いや、それは偶然のことだって……」
「それにその、『美人』ってのも後宮での位の名前じゃないかなんて言われてるし。そうなるとなおさら妃になっちゃうというか……」
これに啓一は、驚いて思わずおたついてしまう。
どこで調べたのか、そちらの「美人」の意味まで知っていたとは思わなかった。
さすがにこれは、サツキに限らず女性としては思い切った発言であろう。
(……い、いつもより積極的じゃないか?気のせいか?)
そんな予感が頭をよぎったが、すぐに振り払った。
そもそも自分を例えるのに美女とうたわれる名将の妃を出されて、うれしいやら恥ずかしいやらにならない女性はいないはずである。
「美人」の知識とてあくまで知的好奇心から調べたことで、思いがけない内容に感銘を受けてしまったという程度のことだろうと思えば不思議はないはずだ。
啓一はそんなことを考えてしばらく黙り込んでいたが、大きく首を振って強制的に話を戻す。
「いやまあ、とにかくだ。何であれ、当初の不安が全部杞憂になるなり解決するなりして、しっかりこの世界に居場所があると分かったのはありがたい話だよ。しかもおまけまでついて来てさ」
「おまけ?」
「俺たちの時代やそれより前の二十世紀ねたが通じたり、古典文学や古典芸能の話がそれなりに通じちゃうってやつさ。二十三世紀だっての忘れることあるぞ」
「ああ、そういうことね」
納得したようにサツキはうなずいた。
「特にシェリル、あいつはどうなってんだ。明治大正生まれかと本気で思うようだぞ。それに歌舞伎にやたら詳しいのもさ……『忠臣蔵』ねたなんかこれまで何度聞いたか分からん」
「あの子は極端だけど、こういうのに興味を持ってる人がわりかしいるのは事実ね」
もう既に何度も出ているが、この世界では意外にも二百数十年以上前であるはずの二十一世紀はおろか、一つ前の二十世紀の社会文化風俗の話が通じる。
さらに我々の世界では既に学問対象となった古典文学や趣味人のものとなった古典芸能の話も、作品の偏りはあるがある程度まで出来てしまうのだ。
サツキによると二十一世紀以前の話が通じるのは、我々の世界でいう「昭和レトロ」ブームに似た現象が定期的に起きているうちに、だんだんと深化し定着してしまったのが原因という。
古典文学や古典芸能の知識を持つ人が多いのは、歌舞伎や落語などが大衆娯楽として見直されたのを発端に、元になったり引用されたりしている古典文学作品にも興味が向いたためとのことだ。
啓一にしてみれば驚くような話だったが、歴史的に見れば過去の文化風俗などを見直し再評価することなぞ古来ままあることなので、これもその一つと解釈すればいいのだろうか。
「何せ地球から引き離され時代も二百年以上未来に行っちまった上、失礼ながら漫画かアニメかって環境に放り出されたからなあ。今だから言えるが、まぎれもない現実の世界なのに実感が湧かないで困ってたから……こういうのに随分助けられた感じはあるな」
先にも述べたが、今置かれた環境に対して実感の湧かない状態が続くと、人はどうしてもストレスを感じて発散出来ないまま蓄積させてしまうものだ。一時期の啓一も実際にそうなってしまい、密かに苦しんでいたのである。
そういう意味ではこのように我々の抱く未来社会のイメージからすると一見奇妙な世相は、啓一にとって運よく救いとなったわけだ。
「よく考えりゃ、二十三世紀の宇宙コロニーでパンタロンで下駄鳴らしても別に問題ないわな。この歳で青春ってわけにゃいかないが……」
「いいんじゃないの、たとえ時代遅れでも。変な色眼鏡で見て合わせようと疲れてることもないわ」
思わず姿を想像したか、サツキが苦笑しながらそう言う。
「私もモガ(モダン・ガール)としゃれこんでみようかしら。売ってるし作れるし」
昭和モダンという発想に驚きつつも、まんざら似合わぬこともなかろうという気もして来た。
あの桜通や新星の街並みを、アッパッパに
遠くで真っ赤に照らされている街燈や店の光を眺めつつ、そんな想像にふけっていた時だ。
「ああ、そうだった。居場所で思い出したから、ここでもう話しちゃおうかしら」
突然話を振られてきょとんとする啓一に、サツキは思い切ったように話し出す。
「まだ公式発表してない話なんだけど、うちの研究所、今年度から時空転移の研究をすることになったのよ。正確には大昔やってたのの再開だけど」
そしてそこで一つ息を深く吸うと、
「最終的な目標は……人工での時空転移の実現、異世界への転移よ」
そう真剣な表情で言ったものだ。
「……ええッ!?」
これまで得た知識からすれば、余りにも意外すぎる話に啓一は眼をむく。
「待ってくれ、実質出来ないはずじゃないのか!?時空の裂け目を作ることは出来るが、被験者がどこ行くか分からないから実験以前に無駄な
「その通り、それが常識よ。……今まではね」
時空の裂け目というものは、時空の壁なりすき間なりを形成する素粒子が一時的に大きく動いて出来た穴と解釈することも可能だ。
その理屈にのっとると、素粒子物理学や重力学などを駆使して素粒子を動かすことで裂け目を作り出すことが出来るということになる。
「理論上物理的衝撃なんかより直接的で確実だし、何よりうまくやれば被験者を行方不明にさせず引き戻せることも分かってたから、こっちの方が実験可能と考えられるだけ絶対に有利だったのよ」
だが無情なことに、一つとして実験にすら至ったものはなかった。
しょせん机上の空論であったかとみな手を引いた結果、今では過去の研究になってしまっている。
ところがそれが、ハルカと話していた時に出たジェイの言葉で一気に逆転した。
「それ、私のいた世界では大学で研究が行われていました。こちらの言い方だと『窓映り現象』でしたか、そちらからの切り口で」
あっさりと言っているが、これを聞いたハルカはしばらく言葉が出なくなるほど驚いたという。
「窓映り現象」とは明らかにその場にはないものや風景が、窓や扉の硝子、鏡などに突如としてくっきりと映り込むという現象だ。
かつてはオカルトとして笑殺されていたが、重力学で重力と光線の関係の研究が進んだ結果、重力の局所的な異常により光線の大きな歪曲が起こったことによる現象だと結論づけられている。
しかしこの現象では明らかにこの世界ではない風景の映り込みも目撃されているため、その説明が出来ていないと批判されたのだが、学者たちには眉唾扱いされるだけで放置されていたのだ。
それがいきなり長年の課題を解く鍵として提示されたのだから、驚かぬわけもない。
「ヤシロさんによると、最初から『時空を突き抜けて異世界の風景がこちらに映っている』という仮説を立てた上で研究が進んでいたらしくて……。しかも突飛な内容じゃなくて、その発想はなかったというところを突かれたから、もう何も言えないありさま」
「じゃあそれを利用しながらもう一回研究し直せば、人工転移の実現の可能性が……?」
「そういうことね。……オカルトでうさんくさいからほっとけなんて、とんでもない話だったのよ」
今回のことに関して、ハルカはじめ学者たちはみな大いに恥じ入っていた。
オカルトと小馬鹿にする気持ちをどこかで持ち続け無視していたことで、社会を変える重大な発見への道が閉ざされるところだったのだから、慢心として大いに反省すべきであると考えたのである。
「そういう反省とせっかくもたらされた研究成果に報いるという観点から、今度は一大プロジェクトとしてやってみようって話になったのよ。ただ最初の方はヤシロさん頼みになる上、昔の研究の掘り返しと検討もしないといけないから、実現までは長く時間がかかりそうなんだけども……」
「発想をいきなり転換したんだから、そうもなるわな」
「でも正直これってかなり重要なことだから、早く実験だけでも出来るならそっちの方向に持って行きたいのよ。転移者引きつけやすい世界としては」
シェリルも言っていたが、どういうわけかこの世界、しかもこの天ノ川連邦という国は転移者を引きつけやすいという妙な特徴があった。
それはまだ奇妙で済むのだが、引きつけやすいということはそれだけ理不尽に自分の世界から引き離され、この世界で一生を暮らすことを強いられる者が多いということになるのを忘れてはならぬ。
「あちらの世界が嫌だったり割り切れたりする人以外、『帰りたい』って望む人の方がほとんどなのよ。好きでここに来たわけじゃないんだから、希望通りにさせるのが本来の姿ってもんでしょうに。それが駄目っていうんじゃ、互いにとって利するところないわ」
無理だから仕方がないのだとどれだけ言いわけしようとも、事象自体は同意なき強制移住なのだから、こんな理不尽な話はないはずだ。無理が生じて当然というものである。
転移者の方は適応を強いられた結果、あらゆる面で四苦八苦し続けなければならぬ。その負担が精神に響いた結果、心を病んでトラブルや事件を起こし、自ら破滅の道をたどる者も少なくない。
社会の方は制度を充分に整備して、どんな人物が来ても手厚い保護と補助が出来るようにしておかねばならぬ。その負担は決して軽くはないため、今はよくともいつ疲弊として現れるか知れない。
「これだけ互いに負担がかかるのに、転移者の常識や価値観がかけ離れすぎていて適応が不可能に近いくらい困難となったらかなりの負担増よ。さらにこっちからすると反社会的な人物だった日には、負担以前にこの社会にとって脅威になりかねないわ」
奇跡的にも今までそこまで危険性のある人物は来ていないとのことだが、異世界は無限にあるのだから可能性はいくらでもあるはずだ。想像するだにぞっとしない話である。
「結局、全ての問題の根源は『やって来たら何があっても帰れない』ってことにあるんだから、その元を断ってしまえば全部解決する。絶対に成功させるべき、とても大切なプロジェクトなのよ。何年かかるか分からないけど、絶対にやってみせるわ」
そう言って、サツキは真剣な眼差しで街の方を見た。
いろいろと話をしているうちに、どんどん陽は落ち薄暗くなって来る。
ふとついた街燈が、荘厳な光を放ち凛然たる彼女の姿を照らし出した。
その横顔にまぶしいものを感じ、啓一が眼をそらした時である。
「ねえ……もし、もしの話だけどね。このプロジェクトがすぐにでも実現して元の世界に帰れるようになったら、あなたはどうするつもり?」
「え……?」
突然問われて振り向いた先にあったのは、先ほどとまるで変わって穏やかな眼つきででこちらを見つめるサツキの顔だった。
あえて言うなら、
啓一は、思わず心をざわめかせた。サツキの姿に少々どきりとしたのもあるが、どう答えたものか迷ってしまったからだ。
「……正直、来たばっかりの頃なら『帰る』一択だったろうな。というよりだ、俺じゃなくても大抵の人はそう希望するって言ってただろ、さっき」
「それもそうよね」
互いに苦笑し合った後、啓一はふっと困ったような顔に戻る。
「だが、今は一択に出来ないんだよな……。いや、そりゃ帰りたいは帰りたいぞ?親や知人いるし、自分の持ち物や原稿山ほどあるし。どれも悲しませたり心配させたり放置したりは出来ないからな」
これはもう、最初から散々言っていることだ。
今では余り言わなくなっているだけで、厳然たる事実である以上気にせざるを得ない。
「だが、こっちで濃厚な人間関係出来ちまったからなあ。これを切り捨てて、はい帰ります、いなくなりますはさすがにもう出来ないよ。というよりだ、去る者日々にうとしになりつつあるあっちの世界と比べると、満足度が違いすぎて」
こちらの世界での啓一の人間関係は、自分でも信じられないほど濃厚なものだ。
女性の家に居候の時点で既にそう運命づけられたようなものなのに、つき合いの出来る人物のほとんどが多かれ少なかれ性格や人物像に癖のある者ばかりとなってはそうもなろう。
ここまでになると、はいさようならと捨て去るには余りに惜しいものがあった。
「それに、こっちって政治や社会制度がしっかりしてるんだよ。多分こっちの世界の人がうちの世界の日本来たら、やることなすことことごとく失政だらけの政治とぼろぼろに疲弊しきった社会制度に開いた口がふさがらないと思うぞ。あと首相から庶民までろくでもないのが増えちまって、もうやさぐれてることやさぐれてること……」
これについては、あえて何も語るまい。
むろんこちらの世界も到底完璧からはほど遠く、問題が山積みだ。
しかし国民生活の基礎がしっかりしているのには、太鼓判を押してよかろう。
何せ労働一つとっても三十二歳で中途採用された平の助手の啓一の手取りが、我々の世界に換算すると月三十五万円近くで賞与ありなのだ。しかも公務員だから高いのではなく、普通の企業と同じかむしろ少々安めなくらいである。
求人も各業種にいくらでもあるので、失業率はかなり低いのが実情だ。我々の世界の日本の失業率が三パーセントと聞いたハルカがいくら本当と言っても全く真に受けず、しまいにはもしや〇・三パーセントの間違いではないのかと言い始めたほどである。
別にこの世界が特別なことをしているわけではなく、そもそも必要最低限の部分からしてがたがたという我々の世界の日本がまるでお話にならないだけだ。
「かといって、うちの世界の日本がまるで嫌ってわけじゃないんだよな。山紫水明の国なのは変わらないし、好きな場所も街も山ほどある。こっちにも日本あるじゃないかといえばそうだが、元からして何かしら違うだろうしなあ。第一二十三世紀と二十一世紀って時点で、違わないとおかしいだろ。悪いがあくまで二十一世紀の人間なんだから、まず選ぶのはそっちになるさ」
ここまで言って、啓一は軽く舌打ちをする。
「うーん、優柔不断すぎるだろ、俺。いいとこ取り出来ればこんな悩まないでも済むんだろうが、さすがに虫がよすぎるってもんだしなあ」
「優柔不断じゃないし虫がよすぎもしないわよ。多分こっちに来てある程度経ってる人の中には、自分のいた世界と比べて相当迷ったり、どっちもあればって思う人もいたりすると思うわ」
サツキはそこでうんと伸びをすると、再び啓一に向き直った。
「行き来が出来るようになれば、いいとこ取りも出来るんだけど。ちょっと昔の研究を見ただけでも全く不可能ってことはないみたいだから、いつかは出来るかもね」
「そうなってくれるとありがたいがね」
「もしそうなったら、啓一さんの世界行ってみたいわ」
「ちょっと待った、そりゃまずい、いかにもまずい。うちの世界には本物の狐娘はいないんだぞ。妙な研究所や機関にとっ捕まるっての」
我々の世界の現代を舞台にした創作の場合、宇宙人など人間以外の知的生命体が出現すると、密かに怪しげな研究所や情報機関がこぞって拉致しようと追い駆け回すのが定番である。
実際にどうなるかは例がないので分からないが、少なくとも世間を揺るがす大騒動になった上、害をなさないか常に警戒されることになるのはまず避けられないはずだ。
「まあ、コスプレと思ってもらえればぎりぎり大丈夫だろうけど、それはそれで目立つからな。それにフォーマルな場に行けないし、おたくの世界でも場所によっちゃ注意されるし……」
まじめに考え出してしまった啓一に、サツキはさらに追い打ちをかけて来る。
「そんな……啓一さんのご両親に三つ指ついてごあいさつしたいのに」
「お、おいおい、それこそ待ってくれ。うちの両親は普通の夫婦だし会ってもしょうがないぞ。しかも三つ指って……友達の親にやりすぎじゃないか」
「だって、一緒に暮らしてるんだからそれくらいしないと」
サツキはおたつく啓一にくすくす笑っていたが、
「妙な勘違いされるからやめなさい。やめてください、お願いだから」
こう言われた途端、あきれたような顔になった。
「……そこまで必死に止めなくてもよくない?」
「いや、君が迷惑すると思ってさ」
「迷惑って……」
「い、いやその、普通なら絶対恋愛関係だと思われるだろう?」
「え、あ、それはそうなるかも」
「だろ?しかもこんな年上も年上、下手すりゃおじさんと言われても文句言えないような男が相手だなんて思われたら、君の方が恥ずかしいんじゃないのか?」
顔が赤くなろうとするのを払拭するかのように、啓一が手を振りながら言う。
サツキは困惑の表情になりかけたが、それを押さえつつ軽く息を吸った。
いつもなら赤面とともに撃沈してしまうところだが、余りそういう不毛なことを続けているとここに誘った意味がなくなってしまう。
行きにエールを送ってくれたシェリルと清香のためにも、そろそろぴしりと決めなければ。
「上等じゃない。むしろ思われて結構、恥ずかしくなんてないわ」
思い切って強気に出ながら一気にそう答えると、啓一が瞠目したまま固まった。
そして、そのまま油の切れたブリキ人形のようにぎりぎりと首を前に向け停止したのである。
(え、ええ!?そんなに衝撃受けるの!?)
今度はサツキの方が固まる番であった。
確かにあんな開き直りのような言い方では刺戟も強かろうが、ここまでになるとは誰が思おうか。
いきなりすぎたと後悔して頭を抱えつつも、この話題は続けられぬとサツキは自分も前を向いた。
既に陽は落ちきって、街には夜のとばりが下りている。
その中で先ほどよりもいっそう本通や桜通の明かりが明るく浮かび、遠くにはいつ点灯したのかライト・アップされた市庁や大門橋の柔らかい光も見えた。
そしてその中で満開になった桜並木がほのかに照らされ、薄桃色とも白ともつかぬ輝きを見せている。夜桜というのは、なぜかくも他に変えられぬ美しさを持つのかと改めて思わされた。
「……きれいなものね。夜景なんて見飽きたはずなのに、この街ではこれさえ半年前まで見られなかったと思うと、値千金に思えるわ」
「ああ……強盗に奪われてたのを、取り返したようなもんだ」
話が変わって落ち着いたか、啓一が静かに答える。
「こういう時は、俺たちの知ってる人らもどたばたしてるまいよ。倉敷さんは酔い覚ましに拝殿にぼんやり座ってそうだし、エリナさんたちは飯食ってさて配信か仕事かって感じで一休みだろうし、勝山さんは画面見るの疲れて伸びでもしてそうだ」
それぞれの姿を想像して、サツキは思わず小さく笑った。
ここよりも高い植月町の高台なら、多分この夜景も見ようと思わずとも眼に入ろう。
そんな時ふと幸せを感じるような、そんな暮らしが一番なのだ。
思わずほろりと来そうになって、啓一は左肩に軽く重みを感じる。
いつの間にやら、すっとサツキが身を寄せていた。
過度にしなだれかかるでもなく手をやるでもなく、ましてや媚びた視線を向けるでもなく、ただただそっと近づいた、そのようなところである。
いつもなら大騒ぎになってしまうところだが、
(……まあ、こんな時くらいは)
雰囲気を壊すまいと何も言わぬ。
つい先ほどは爆弾じみた発言に驚きが頂点に達して脳が止まったが、なぜか今はあっさりと受け容れられる気がする。
さあっ、と珍しく風が吹いて花びらが舞った。
高い枝に連なり重なるようにして、美しく光り揺れている桜の花を吸い込まれそうな気持ちで眺めていると、サツキがぽつりと口を開く。
「……この夜景みたいにそばにいるだけで、いてくれるだけでもう充分価値があるのよね」
啓一はヒカリが遺した言葉、そしてあの時サツキが言った言葉を思い返し、少しだけうつむいた。
「顔だ身長だ稼ぎだ仕事だとみんなやいのやいの言うのかも知れないけど、究極的にはしょせん附帯物よ、そんなもの。少なくとも私にとってはね。ああ、でも知り合いもそうかしらね……」
これに、啓一はひょいとサツキの顔を怪訝そうに見る。
「……そりゃさすがに、ちとばかし都合がよすぎやしないかい?」
「いや、本当のことだもの」
「しかしだな、知り合いがほとんど女性って時点でかなりの出来すぎなのに、そこまでになったらさすがにそう言わざるを得んだろ?その手のゲームじゃないんだからさ」
啓一が苦笑するのに、サツキは思わず手で半面を覆ってしまった。
単なる偶然だというのにひねくれすぎで、このままではこれ以上の進展は見込めそうにない。
だがこちらもほぞを固めている身、何としてもそちらに進ませるわけには行かぬ。
うまく行くのがゲームのようで嫌というなら、いっそそれを逆手に取って揺さぶってしまおうか。
「なら、思い切って攻略しちゃったら?少なくともグッド・エンドはきちんと見えてるのに、行かなかったら損でしょ」
啓一は一瞬絶句した後、おたおたと視線をあちこちにやり、
「な、何を言うんだ、空想と現実の区別くらいつけたまえよ」
動揺の余りか妙な口調で返して来た。
「いやあね、ついてるわよ」
「あー……」
即座に返って来た言葉に、追いつめられたかのように声を上げて悩み出す。
先ほどまで雅に聞こえていた桜の花の音も、こうなるとさあ今こそ応えてやれ思い切って応えてやれと急かしているように聞こえて来た。
啓一は困ったような顔をして桜の花と夜景を意味もなく見比べ、しばらく悩んでいたが、
(……こりゃ、覚悟決めた方がいいか)
負けたと言わんばかりに小さくはは、と笑う。
そして改めて表情を整えてサツキの方を向き、口を開いた。
「サツキさん、俺は……」
だが、その声はいきなり後ろから電燈の明かりに遮られる。
「お二人ともこんばんは……あれ?大庭警視のご友人でしたか」
驚いて振り返ると、何とそこには警察官が、懐中電燈を持って立っていた。
「え、お巡りさん!?……どうして俺たちのことを?」
「本官は、昨年お二人を桜通でお助けした者です。異動となりまして」
「ああ、あの時の……」
懐かしそうに答える警察官に、啓一は呆然としてそれだけ言う。
まさかかつて窮地を救ってもらった人物に、今度は邪魔をされるとは思わなかった。
「ここは二十一時までには閉めるので、見回っていたんですよ」
視線を落として時計に目をやると、いつの間にか二十時半を過ぎている。
「そんなに長いこと話してたのか……」
「お話のお邪魔をしてしまいましたか。ですがここは、旅行者の方が遅くまでいる場所ではありませんよ。閉まる前に出てください」
さすがに警察官でなくてもこう言われては、嫌でも出るしかなかった。
「分かりました。……サツキさん、帰ろうか」
啓一はサツキからすっと離れると立ち上がり、荷物をまとめ始める。
「あッ……」
サツキはいきなり寄せかけていた躰が消えたことでよろけかけたが、すっと啓一が手をやる。
せっかくの場を壊されたことに少々面白くないものを感じていただけに、そのさりげない優しさをサツキはうれしく思った。
警察官の先導を受けながら足を踏み出す啓一の後ろ姿を見ながら、
(結局一度じゃ恋は芽生えませんでした、とね……)
サツキは、どことなくがっかりしたような気分で自分も立つ。
だがふい、と振り返りながら、
(でもまだ時間は充分あるんだし、いいか)
そう思い直してほほえむと、啓一について歩き始めた。
満開の桜が悠然と花を咲かせる中、二人の肩越しに静かな街の灯りがまたたき続けている。
<了>
天ノ川連邦見聞録 苫澤正樹 @Masaki_Tomasawa
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