十三 懊悩
二日後。
朝食を食べた啓一とサツキは、植月神社の境内のベンチで手持ち無沙汰に座っていた。
いつもなら気持ちのいい小春日和が、嫌に小憎らしい。
「調子悪そうだね……」
「そりゃそうよ、このところ怒濤だったもの」
そう言うサツキの手には、
「失踪者二人の拉致判明 組織的犯行か」
「連邦警察 『緑ヶ丘女性連続拉致事件』と命名」
そんな見出しの新聞があった。
「……実験の話は発表しなかったわね」
「しょうがないさ、ことが重大すぎて、おいそれと外に出せるもんじゃない」
あれから……。
シェリルは捜査拠点の警察署に戻り、捜査員をいるだけ招集してヤシロ宅での聞き込みの結果を全て報告した。本部とも通信をつないでの大がかりなものである。
本部はこの報告を受けて、この二件の拉致事件を「緑ヶ丘女性連続拉致事件」と命名し、改めて緑ヶ丘に市警との合同特別捜査本部を設置することを決定した。他の失踪事件も関連が認められ次第、順次組み入れられる予定とされている。
もっとも人体改造実験の話は伏せられているため、この措置はあくまで仮だ。実験の事実が公式発表された際には、事件名が変更されることが内定している。
「互いに大変だな……ほい、お茶」
百枝がポットを持ってひょいと現れ、横に座った。
「すみません。……倉敷さんも、げっそりしてますね」
「そりゃそうさ。頭がいまだに追いつかないからな……。しかし証拠提出となるとヤシロさんに累が及びそうだが、結局刑事殿はどう処理するつもりなんだ、あれ」
今回証拠としてデータ類はおろか、清香の元の躰も提出されることになっている。
しかしこうなると必然的にジェイが清香をアンドロイド化したことも明らかにする必要が出て来るため、せっかくのシェリルのはからいも無駄になりかねなかった。
「それ訊いてみたんですけど、アンドロイドに移したのまでなすりつけるつもりみたいですね」
「出来んのか、そんなこと?」
「出来るみたいです。いざとなったら『ぶち転がす』のもありかもと言ってましたよ。……これは首を突っ込んじゃいけない話だと本能的に思ったので、余り考えないことにしました」
「そ、そうだな、あそこなら……」
サツキの言葉に、何をするつもりか大体理解した百枝が顔を引きつらせる。
「そもそもあんな下衆な連中、ぶち転がされたところで残念でもなく当然でしょう。汚物はそれ相応に処分するのが世の理というものですし」
「うわっ……啓一さん、あんたの彼女思ったより怖いな!」
サツキがいきなり毒を吐いたのに、虚を突かれた百枝がのけぞった。
だがはは、と笑おうとして、啓一は妙なことを言われたのに気づく。
「あの、倉敷さん?『彼女』って……別に俺、サツキさんとは何にもないですよ?」
このことであった。
「……え?そうだったのか?」
「そうだったも何も、ないですって。一つ屋根の下だからっていくら何でも短絡的ですよ」
「……まあ、短絡的と言われりゃそうだけどな。仲よさそうなの見て、勝手に思ってただけだし」
「それにですよ、そもそもそんなこと有り得ませんって」
「有り得ないって……そこまで言っちゃうか?理由はどうあれ一緒に住んでるんだから、これから先好いたの惚れたのになる可能性は普通より高いだろうに。存外、啓一さんが惚れられるなんて展開になるかも知れねえぞ?」
「ありません、それこそありませんよ。元々女性に惚れられる要素なんかないんですから。それに取り立てて格好のいいようなところも見せてないし、それどころか場によっちゃ存在すら空気みたいなもんだし。これで惚れられるなんて思うのは、ちょっと不遜じゃないですかね」
「……いや、そんなむきになって否定することでもないと思うぜ」
余りに根性の入った否定ぶりにさすがに困惑したのか、百枝とサツキが眉間にしわを寄せる。
「……何で最初からそんな風に決めつけるのかしら」
そうサツキがぽつりとつぶやいた時だ。
「こんにちは」
参道から清香が顔を見せる。
「あ、先輩」
「……
あわてて手をぶんぶんと振る清香に、
「おいおい、その身振りの時点で役が壊れちまってるんだから、今さらいいんじゃねえの?」
百枝があきれたような声で突っ込んだ。
「だ、だけど誰が見てるか……」
「見てやしねえっての。ここは木が多いし、周りの家からほとんど見えないんだぜ。それに見えたって、清香さんの存在自体を知らない人の方が多いし気にしねえよ」
ぐるりと境内を指差され、清香は折れる。
「……言われてみればそれもそうね。役作るの大変すぎるから、事情知ってる人たちと会う時くらい素に戻らないともたないわ」
「大体何で無口で淡々とした性格なんて、全然違う方向にしちゃったんだよ」
「そ、そう言われても、下手にしゃべったり感情出したりするとぼろ出るんじゃないかって」
「まあまあ、しちゃったものは仕方ないですって」
サツキが横合いから二人を取りなした。
「それにしても、偽名生活が延びるなんて思わなかったわ……」
「こっちもいつ大っぴらに『先輩』って呼べるようになるのか、分からなくて困ってますよ」
実は連邦警察が人体改造実験の事実を伏せたことによって大きなあおりを受けているのが、清香たちヤシロ家の人々なのである。
「事件がないのだから被害者もいないということにしないとおかしい」
そういう理屈から清香と葵はあくまで連続拉致事件の被害者とされ、「現在も行方不明」として扱われざるを得なくなっているのだ。
このため存在の露見を厳に防ぐ必要があるからと、清香については引き続き偽名の「セレナ」で暮らすことを余儀なくされ、葵に至っては外に出ることすら許されていない。
その代わりに警察は「奈義葵捜索班」の名目で刑事や警察官を派遣し、葵の存在が露見して危険が及ぶのを防ぐとともに、重要人物であるヤシロ家の住人もそれとなく守ることを約束した。
ここまでしてくれるとなると、さすがに協力しないのは不義理というものである。
もっともそれがなくとも下手に動くと危険極まりないのはどう見ても明らかなので、こうなってしまうのも仕方のない話なのだが……。
「清香さんはぼろ出しさえしなければ外でも怪しまれないからまだいいが、葵はなあ……完全に逃亡者だから存在自体非公開だ。見舞いもなるたけするなと言われてたまらないよ」
茶を飲み干し、百枝はやれやれとばかりに肩をすくめる。
「理屈は分かるんだけどな。この手の犯罪の中でも、今回のはかなり手が込んでる上に兇悪な部類に入るから、慎重に動かざるを得ないってのは……。既に一発死刑台送りが出るの確定してるし」
種族転換禁止法によれば、今の時点で首謀者はおろか実行者の多くにも法定刑死刑のみの条項が適用されることが確実だ。一体何人ぶら下がるのか想像も出来ない。
さらに……。
「シェリルがちらりと言ってたんですが……警察では最悪の流れとして内乱の発生も想定してるって話なんですよね。今分かっている事実や疑惑をつなぐと、そういう想定が出来るって」
サツキの言うことは一見すると突飛もないようだが、一応の材料はそろっていないでもない。
まず、清香や葵を運んだ者が私兵として蓄えられたものである可能性が高かった。本格的な軍事訓練を受けたと思われる者を複数身近に置き、裏で秘密任務に従事させている時点で、単なるボディーガードや警備員として起用された存在ではないと考えられる。
そこに民間人の拉致と人体改造実験が加わって来るのだ。葵が戦闘用を意識して改造されていることを考えれば、その最終目的は戦闘能力を持った改造人間を量産することなのではあるまいか。
このようなことから綜合すると、敵は生身の兵士と改造人間の両方を使った武装組織を作ろうとしているとも考えられるのだ。
そしてこういった武装組織がまず一番に企図することといえば、大規模な武力行使によって既存権力である国家に弓引くことであろう。
「私も最初は大げさだと思いました。でも無期刑や死刑だらけの法律を平然と破っている時点で、常識も倫理観も壊れ切ってるのは明らかですからね。それに実際のところ、人体改造犯罪の犯人は大半が権力を恐れていないそうですから……。そんな連中が戦闘用サイボーグを作ろうとした上、生身の兵士まで蓄えてるかも知れないなんてなったら、やはりこれくらい疑って当然だと思うんです」
「ああ、言えてるな。そりゃあんな人殺しよりむごい犯罪犯すんだ、権力が何ぼのもんじゃい、来るなら片っ端から蹴っ転がしてやるくらい考えるだろ。そんなぶっ壊れたのの群れが武装組織作ると解釈出来そうな動きしてるとなったら、そこまで考えちまうよなあ。だけどもしこの想定が当たってたら……多分じゃなくても未曾有の大騒ぎになるぞ」
百枝が冷汗をたらりと流しながら言うのに、
「そうね。多少私もあの子のおかげで刑法は知ってるけど、内乱予備罪や内乱陰謀罪に相当する可能性があるわ。しかも適用されたら国内初ってほどの大重罪……」
清香が険しい顔のまま首を振った。
内乱関係の罪は、我々の世界の刑法でも「内乱に関する罪」として規定されている。
だが余りに強権的な内容であるため、旧刑法の時代から検察も裁判所も嫌がり、適用検討ですら数度しかない。それはこの世界、この国でもどうやら一緒のようだ。
それが適用される事態になったなら、大騒動はもはや避けられまい。
「まだ予備や陰謀で済んでいればいいけど、そこから進んで実際の武力行使に出たら大変なことよ。規模によっては立派な反政府勢力だもの」
「ですね、下手すれば内戦じゃないですか」
「しかも犯人は、状況的に考えて一新興国産業辺りの可能性が高いんじゃないのかしら。今回の実験があったのがあいつらの勢力圏内だったもの。それ抜きにしたって、何やるか分からないような危ない連中じゃないの。技術持ちでもあるしね」
「有り得ます。警察でもそういう理由で目をつけてるって話ですから」
「やめてくれ、街乗っ取った上に国家転覆とか……冗談きつすぎるぜ」
清香とサツキが言うのに、百枝がげっそりとした顔となった。
そこで啓一が、どんどん恐ろしい方向へと話を持って行く三人を見かねて口をはさむ。
「まあまあ、三人とも……まだそうだと決まったわけじゃないじゃないですか」
「それもそうだけど、あながち嘘に聞こえないくらいに臭すぎるじゃない」
「……サツキさん、よく考えてみなよ。今分かっていることだって、まだ全体像が見えてるわけじゃない。さらに言うと犯人として一新興国産業が候補に挙がっているとはいっても、あくまで候補であってそうと決まったわけじゃないんだ」
「うッ……」
その通りだった。
清香が改造されたのは大門町、葵が改造されたのは横山地区周辺で、一新興国産業の勢力圏内かその近辺である。また二人の改造実験記録が発見されたサーバも、大門町にあると推測されていた。
これからするに少なくとも一新興国産業が限りなく真っ黒に近いのは確かであるが、確実に同社の犯行であるという直接的な証拠はまだ一切ない。
「俺もみんなと同じ見方なんで、有り得ないことと否定はしないさ。ただこれはあくまで想定、しかも最悪も最悪の場合の想定じゃないか。今は置いておくべきだ」
「……それもそうね。不安になりすぎてたみたい」
「思わず話を大きくしすぎちゃったわ……」
「うーん……ほんと疲れてんなあ、ろくな想像しやしねえ」
啓一がなだめるのに、三人は一気にしょげ返った。
もっとも、こんな風に不安の導くままただならぬ方向へと話が進んでしまうのも無理もない話である。それほどまでにこの話が衝撃的すぎる証左のようなものだ。
その姿を見ながら、啓一は一つ息をつくと、
「でもまあ、恐ろしい話なのは確かだな。何せ特撮の『悪の組織』を現実でやろうってわけじゃないか……。あれを実現するために平然とあんなおぞましい行為に手を出すなんざ、空想と現実の区別がついてないにもほどがある」
あきれたようにむっつりとした顔で言う。
だが次の瞬間、三人が急にいぶかしげな顔をしてこちらを見ているのに気づいた。
「………?ど、どうしたんですか?」
「どうしたって、啓一さん……何だかずれてない?」
「ずれてる……?」
サツキがぽかんとして言うのに、啓一は必死でさっきの自分の言葉を思い浮かべてみるが、取り立てて何かおかしいところがあるとは思えない。
「だってさっき、空想と現実の区別が云々って言ってたでしょ」
「そうだけど……」
啓一がなおも分からないという顔をして言うのに、サツキは、
「こっちじゃ空想じゃないの、現実のことなのよ」
じれたような声で言った。
「あッ……!」
この言葉に、啓一はようやくサツキの言葉の意味を悟って凝然とした。
「そうか……!この世界じゃ現実に技術があって現実に犯罪を犯せるから、この話も現実の兇悪犯罪の延長って扱いになるわけか!」
このことである。
「……このずれは世界というより、時代が違うせいね。二十一世紀初頭じゃまだ技術がなくて、人体改造自体絵空事だったわけだし。こっちじゃ現実にあることだと分かっていても、空想だって頭にしみついちゃってるからこうして不意に出ちゃうのかも」
清香が言う通り、我々の世界には人体改造技術はおろか、それに悪用されるナノマシン技術なども現実にはどこにも存在しない。
どこにあるかといえば、それは創作物の中だ。人体改造に関して言えば、平成初頭以前の『仮面ライダー』を筆頭とする特撮番組や一部のSF作品がそれに相当する。
つまり啓一にとって「現実世界で改造人間を造って国家転覆」というのは、
「空想でしか出来ないことを現実でやろうとする異常犯罪」
として認識されているわけだ。
だがこの世界には人体改造技術も関連技術も現に存在し、それを用いた兇悪犯罪が現実にいくつも起きているのである。「特殊犯」と呼ばれて警察に専門の捜査部署まで置かれるのだから、その件数も決して少なくはないのだ。
むろん創作物の中にもあるが、それはもはやSFの扱いを受けることはない。完全に空想でしか存在し得ない技術でもなく、出来ないことでも起こり得ない事件でもないからだ。
要するにサツキたちの中では内乱の話は、
「現実で起こっている兇悪犯罪をさらに獰悪にした異常犯罪」
として理解されていることになる。
両者とも「異常犯罪」として恐れているには違いないのだが、根本の認識が全く違うのだ。
「不覚だ、気づかなかった……。そうだよな、現実で存在するものを空想でしか存在しないものという認識で語ろうとすりゃ、そりゃずれもするわ。しかも、技術の存在はしっかり理解してるからねじれてるし……うっわあ、恥ずかしい」
「い、いや、仕方ないわよ。こっち来てまだ慣れてないんだから」
「そうよ。それに人体改造犯罪の話なんて、普通するもんじゃないし」
「まあ、何というか……どう考えても気づきづらい話だよ、気にすんなって」
三者三様に慰められるが、啓一は悔しげに悄然としたままである。
知識の大きな齟齬が突然眼前に現れるという、彼としては一番嫌な展開となったのだから、この反応も仕方ないといえば仕方なかった。
気まずい空気が流れるのを払拭しようとしたか、そこで百枝が話を変える。
「そいやあんたら、工事の不手際で二週間休みになってたっけ。明けたらどうすんだ?」
「とりあえず、普通にやるとは思うんですけど」
サツキが言う通り、工事が再開するのはまず確定だ。いくら事件が起こっているといっても、この工事とは何の関係もないし続けたところで危険性もないからである。
「そうか、今の状態ならそうだよな」
「そうですよ。第一、再開してくれないと来た意味が……」
「俺も困ります。役立たずの地蔵とはいえ仕事はしないと」
「……そんな風に言うことないじゃない」
自虐する啓一に、サツキはため息をついた。
「とりあえず先輩は帰らないとまずくないですか?多分待ってますよ、みなさん」
「そうね。あくまで今はメイドだし……それじゃ、また会いましょう」
そう言うと清香は、華麗にカーテシーを決めて奥宮へ続く裏道へ入って行く。
余りに板にはまった姿に一同はぽかんとした。
(もしかして割と楽しんでるんじゃないか、あの人?)
事実ヤシロ家にいる時も、演技などではなく本物のメイドとして積極的に家事をしているというのだから、あながち間違ってはいまい。
それはともかく……。
「さて、俺たちはどうしたもんかな」
啓一が、まだ呆けているサツキの方を向いて問うた。
「それなら勝手に使ってくれていいよ、境内。ちょっとあたしは町内会行って来る。地域の人ら、特に年寄りに不安が広がっててさ。これからのことを相談しようって言われてんだ」
仕方もあるまい、今の新聞報道の内容だけでも市民は不安だろう。
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ、そんじゃ」
そう言うと、百枝はそのまま境内を出て行った。
「………」
後には、ぽつんと啓一とサツキだけが残される。
「……本当に異世界転移って、罪深いよな。ヤシロさんの話聞いててつくづく思ったよ」
唐突に、啓一がぽつりと言った。
「いくら元がろくでもない世界だったとはいえ、とりあえずあの人も目標あって技術者になったんじゃないか。エリナさん助けて以降はもののはずみとはいえ、『悪』の汚名をかぶってでも同じ境遇の子助けたりしてさ。相当な使命感あったんじゃないかね」
「………」
「それがぷっつり。助ける相手がいないから使命感も糞もなくなった。それ以前に事実上一人だけしか助けられなかったんだから、残して来た九人のことを思えば苦しみは半端ないだろうさ」
「……確かに残酷よね。後味悪すぎだもの」
サツキはそう言うと、深くため息をつく。
「それに本人も言ってたが、あの人も知識的な面でこの世界との食い違いがある。この世界より自分の持ってる知識や技術の方がレヴェルが上ってタイプだが、下手に上なだけに活用の機会がないんじゃないかね」
「それは……」
「自ら縛につこうとした辺り、あの人分かってるんじゃないかな。自分の知識や技術がこの世界ではあってはならないもの、それで理不尽な扱いを受けても仕方のないものだって。あの人以外の手じゃあの技術をこの世界で再現出来ないことくらい、みんなの反応見てれば俺でも想像出来るしな。危険人物として四面楚歌に平気で追い込まれかねない環境だ、つらかろうよ」
サツキは静かに眼を伏せ、ジェイが清香を今の躰に移した時の話を思い浮かべた。
あの時は常識外れの技術に驚くしかなかったが、よく考えればあれを受け容れられる土壌も使う場所もこの世界にはない。
せっかく培った知識がこれまでも、そしてこれからも宝の持ち腐れなのは、目に見えていた。
「でも一方でその知識や技術があったからこそ、二人も人を助けられたし、陰謀を暴き出すのに貢献することも出来た。それにあっちで助けたエリナさんだって、こっち来てからUniTuberになったのきっかけで前向きでいられてるって話だからな。例えこれから知識や技術を使う機会がなくとも、救った結果が確実に出ている、それだけで心の支えになるだろうさ」
そこで啓一は、切なげな眼で拝殿の屋根を見る。
「それに対して、俺はどうかね。まあ目標については幸い尾くらいは捕まえられた感じはあるし、知識も常識も通じる部分が思ったより多かったから、最悪の事態はまだ避けられたけども……。ならお前は役に立ってるのか、って言われると疑問があるね」
「………!」
サツキはその言葉にどきりとした。このことだけは、まだ解決していない。
「い、いや、所内報の校正とか、今回のことなら『白桜十字詩』の解釈とか……」
「まあそういうところで地味に役に立ってるのは確かだけどさ、結局脇道だろ。本筋じゃ君やみんなを本質的に手伝うことは出来てないじゃないか。いわんや社会の役に立つなんて夢のまた夢だ」
「………」
この時ほど、サツキは啓一を研究所に放り込んでしまった自分の軽率さを怨んだことはなかった。
「役立たずの地蔵」というさっきの言葉が、ずんと心にのしかかる。
「他に何か魅力でもあれば別だが、人ってのはそうも簡単に行かないさ。というより……こうやって愚痴ってること自体がどうなのかねえ。創作の主人公だったとしたなら『感情移入出来ねえ』って眉しかめられるんじゃないかな。しかもさっきも言ったが空気になる素質は充分にあるってわけでね、『いる意味あんのか』くらいは言われるよ」
「………」
「ま、すねても仕方ねえや。また地蔵に戻るだけさ。は、はは……」
啓一の乾いた笑い声に、サツキは何も言えなかった。
安っぽい慰めや叱咤激励ならいくらでも出来る。だがそれで彼の深い懊悩が消えるとは、どう考えても思えなかった。
「ああ、てっぺん回るか……どこか、食べに行くかね」
「ええ……」
そう言って二人は長いこと温めていたベンチを後にする。
それを見送るようにして、拝殿の屋根の向こうを静かに雲が通り抜けて行った。
それからしばらくして、ついに休工日が明けた。
さすがにこれ以上の引き延ばしはまずいと思ったのか、建設部は、
「今回の事件とは関係のない案件ですし、警備も強化しますので」
そう言って工事を再開したのである。
だがそう言われて出て来たものの、二人の出番は全くなかった。
該当部分のパネルを全て取り外して、市外の工場に持ち込むことになったからである。
何せパネル自体が巨大な上に市が所有する反重力発生装置総がかりでも完全に相殺しきれないほどの重さとあって、この工程だけで数日間かかるという状態なのだ。
こうなってはもう重力学も何もないので、技師と一緒に指をくわえて見ているしかない。
結局座ったまま、
「……重力を操れる装置も、動かなくなれば重力に縛られる鉄くず、と。皮肉ね」
弁当を使いながら、さしものサツキも面白くなさそうな顔をして言う。
「相変わらずこれからどうするのかってのも不明だし。せめて会議に参加くらいはさせてほしいわ」
「『ディケ』のプレゼンテーションはどうなるのかね?」
「さあ……忘れられてはいないと思うけど、話に出ない辺り未定か下手すれば中止かもね」
「かーっ、せめてそれくらいはさせてくれよ」
「出来なくてもこの際仕方ないわよ。私たちの立場じゃ文句なんて言わせてもらえないわ」
もはや二人とも、不満を隠そうとしなかった。
知名度だけで引っ張っるだけ引っ張って来て満足し、あとは現場に投げて全部まかせるという馬鹿げたことをやられているのだから、むしろこうならぬ方がおかしい。
「はあ……ほんと後生だからもっと仕事らしい仕事させてよ。まるで立場がないわ」
「本当に座ってるだけの俺より、期待されてるだけましだと思うけどもなあ」
「……そうかしら」
サツキはあいまいに返事すると、ささっと弁当殻を片した。
(ほんとに、啓一さんこのままうちの研究室にいてもらっていいのかしら?)
そう思うが、異動を上へ直訴するのはご法度だと先日電話で直接言われてしまっている。
結局どうしたらいいのか分からないまま、午後も二人並んで地蔵で終了となった。
「あの……会議などあるようですが、出なくても本当にいいんですか?いくら何でもこの分野に関わっている者として、今の惨状は看過しがたいので……」
帰り際に責任者をつかまえて訊ねてみたものの、
「お申し出はありがたいんですが、今は市域での重大事件の発生を踏まえ、行政としてこの工事自体をどうするかという話に議題が移っていまして……。こうなると完全にうちの市の問題になりますので、技師や立ち会いの方に来ていただいてもそれこそ何もしていただけないんです」
冷汗を流し流しの状態でそう答えが返って来ただけである。
サツキはこれに、苦虫を噛み潰したような顔となった。
(朝と言うことが違うじゃないの……事件と関係なかったはずでしょ)
人を振り回すのもいい加減にしろと言いたくなったが、道理はともかく先方がこうすると言う以上、外来者が何か言うのはお門違いになってしまうので引き下がるしかない。
「はあ……」
「あーあ……」
宿への帰り道で、二人は特大のため息をついた。
「この分だと、また休工有り得ると思わないか?」
「有り得るわね。そしたらいっそのことずっと休工でいいんじゃないかしら。あんな朝令暮改してるくらいなら、そっちの方がせいせいするわよ。仕事はなくなるけどね」
「まあまあ……君までやけにならないでくれよ」
吐き棄てるように言うサツキに、さしもの啓一もなだめずにはおれぬ。
サツキはそれに大きくため息をつき、何も言わずに歩き出した。
耳も尻尾も見るからに力なく垂れてしまい、顔も疲れ果てているのが痛々しい。
「しかし、シェリル見ないな。いつもならそこらからひょいと顔を出すのに」
「さすがにこの状況で単独行動は出来ないんじゃないのかしら。……というより、捜査指揮取ってるのに一人でひょこひょこ出歩いてるのがそもそもおかしいわ」
あの子にそんな常識通じないけどね、とサツキは苦笑した。
思わず啓一は周りを見回す。
噂をすれば影を地で行くシェリルだけに期待してしまったのだが、どうやらそうは問屋が卸してくれなかったらしかった。
「『出たなからくり人形』って言いたいなあ」
「駄目よ、種族差別じゃない……」
口だけは冗談めかしながら、意気消沈した声で話しながら宿へ入る。
そして自室へ到着した途端、どかっと疲れが出てそのまま寝入ってしまったのだ。
「ん……」
啓一が起きたのは、しばらく経ってからのことである。
ふらふらと外へ出てみると、サツキはまだ寝ているようだ。
(飯食うにも中途半端だし、仕方ねえな。そこらを散歩でもして来るか)
宿を出ると、てくてくととりあえず周辺を歩いてみる。
長逗留で何度も歩いてはいるが、いざ何の目的もなくというのは今回が実質的に初めてだ。
「そういや休工中も、件の事件に半ばかかりっきりの状態が続いてたもんな……」
しかし何より初めてだったのが、サツキが一緒にいないということである。
何といっても仕事では研究員と助手の関係なので常に組だし、宿でも二人で同じ場所に泊まっている以上これもまた組でいることが多くなりがちだ。
さらに彼女自身が清香を探すのに必死なのをくんで手伝おうと思ったこともあり、外出時ですら組になっていたのである。
だが肝腎の清香が見つかった以上、一緒に行動する必然性はぐんと減ったはずだ。第一恋人でもないのに逗留先でまで身を縛られて、益体もない愚痴を聞かされるのでは迷惑千万というものだろう。
「………」
とりあえず、角の自動販売機そばにある喫煙所で煙草をふかす。
彼にしては珍しく、チェリーではなくフランス煙草のゴロワーズ・カポラルであった。
「全くこれでぼさぼさの長髪にサングラス、帽子ならムッシュなのになあ」
この煙草を愛飲していた有名フォーク歌手・ムッシュかまやつ(かまやつひろし)を思い浮かべながら、代表曲の『我が良き友よ』なぞ口ずさんでみる。
「……俺も下駄ばきにしてみるか?いや、この世界観に合わないか」
はは、と仕方なさそうに笑った。
宇宙コロニーという特殊な土地、獣人にアンドロイドというファンタジーじみた種族、大きく進歩を遂げて見たことも聞いたこともない学問まで生まれている科学技術。
こういったまるで漫画アニメの中から飛び出したような存在が、実感のあるものとしてなかなか定着してくれないのも、啓一の大きな悩みである。
しかも偶然とはいえ周りは「二次元」から出て来たようななかなかの器量の女性ばかりで、年齢がサツキ以外軒並み二十代後半から三十代前半なのを除けば「それはどこの美少女ゲームだ」という状態なのだからなお実感が湧かなかった。
はた目には「女をはべらせておいて何のぜいたくを抜かすか」だろうし、周囲含めこの世界の人々にも悪い言い方になるが、さすがにここまで来ると荷が重い。
そこへ来て想像を超える兇悪犯罪の発生と発覚に関わってしまった上、生活との関係上離れられそうもないのだから、そのストレスは完全に頂点に達してしまっていた。
情けない、へたれと後ろ指差すなかれ、人にはやはりおのれの「本来の場所」があるものなのである。誰しもそれ以外の場所へ無理矢理引きずり出された時、こうならない保証はないのだ。
「まあ救いは、元の世界より政治や社会体制がかなりましだってことかね。もっとも元がひどすぎただけかも知れないがな」
ひとりごちつつ灰皿へ煙草をもみ消し、ぶらぶらと植月町の目抜き通りを歩く。
夕暮れまではまだ時間があるせいもあってか買物客で混み合うこともなく、実にのどかなものだ。
「ん……こんなとこに下へ下りる道あんのか」
左側に、桜通へ下りるらしき坂道が見えて来る。
どうやら崖に張りついた
都会たる中心部と丘陵の集落へ向かうささやかな裏道として作ったのかも知れぬが、今やそれが日常と地獄をつなぐ道になってしまったのだからまこと皮肉としか言えぬ。
「しかし倉敷さんも恐ろしい人だな、こうやって下らないといけない場所を飛び降りるのかよ……まあ、あの人ならやりかねないという妙な信頼感があるが」
本人が聞いたなら容赦なく突っ込むだろうことをつぶやいた時だ。
啓一の脳裡に魔が差した。
(このまま桜通に突撃してみようか)
このことである。
そもそも今回の事件が発覚するきっかけになったのは、ジェイが桜通を流していたことにあった。あんな治安の悪いところを豪胆だと思うが、同じ男で出来ないことはないだろう。
そう思って坂を半分降りかけたところで、啓一はすぐ右下に異様なものを見た。
黒いスーツの男たちの行進に率いられて、黒い車がゆっくりとやって来る。パレードでもあるまいに、なぜものものしい露払いがいるのかが分からなかった。
しかも不気味なことに、露払いの一団はまるで軍隊のように隊伍を組んで一糸乱れず行進しているのである。
「な、何だありゃ……?どういう連中だよ?」
やがて一団が一軒の店の前で止まり、車の中から男が現れた。
「……ん?待て、あいつ一新興国産業の正門で見なかったか?」
どうやらここは自社のパーツか何かを扱っている直営店舗らしい。男は店に入るや、いかにも愛想よさそうにあいさつなぞしているようだった。
先日のことといい、重役か何かなのだろうか。
眼をこらしていると、前から、
「あれ、どうしました?
急にシェリルの声が聞こえて来た。
「えッ、シェリル!?お前どうしたんだよ、仕事」
「してますよ、今も」
そう言ってあごを軽く向けた先を見ると、坂の入口から少し離れたところに車が止まっている。状況からして覆面パトカーであろうと思われた。
「そうか……あ、いや俺は散歩しててさ。そしたらあんなん見ちゃって、びっくりしてたんだよ」
「まさかとは思いますが、桜通に行こうとしてたんじゃありませんよね?」
と、後ろから今度はジェイが現れる。
「あ、あの、その……そうです。何か見つからないかと思って」
「ああ、止めに入れてよかった。あそこはもう、探るには危険な場所になりすぎてますからいけません。私ももう探り尽くしましたし、あとは大庭さんたちに投げるつもりでいます」
「……まあ、本来一般人が潜入捜査に等しいことやってる時点でまずいので、当然なんですが」
シェリルにじろりと睨まれ、ジェイが小さくなった。
「まあともかく、一緒に戻りませんか。いつまでもこんなところで立ち話してるのも不自然だ」
「そうですね……じゃあ、ご一緒します」
ジェイに言われるまま、啓一は元の道を戻り始める。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ、申しわけなかった」
そう謝る啓一に、シェリルは去り際、
「……余りサツキちゃんの気持ちを無下にしないであげてくださいね」
静かに言った。
驚いて振り向くが、既に車の扉を開こうとしている。
啓一は訊き返すことも出来ぬまま、ただただ発進する車を見送るばかりだった。
「何でしたら、ちょっとうちに来ませんか」
啓一がジェイにそう言われたのは、植月神社の参道下でのことであった。
「ありがたい話ですが、一応サツキさんに確認しとかないといけません。ちょっと散歩の範疇を超えるので、さすがに何か言わないと」
そう言って、サツキに電話をかけてみる。
『十分くらい前に眼を覚ましたばっかりだけど……えっ、今何してるの!?』
どうやら啓一がいないことに本気で気づいていなかったらしく、あわてた声が返って来た。
「ああ、ごめん。散歩に出てたんだよ。ぐっすり寝てたみたいだから起こすにしのびなくて」
『ごめんなさいね。で、どうするの?』
「そうなあ……まだ陽が落ちるまで時間があるから、まだ外にでもいようかと。ちょうどヤシロさんに自宅へ誘われたんで、行って来ようかと思って」
『……夕飯はどうするの?』
「いやまあ、そりゃ戻るさ」
『分かったわ。……あ、
「分かった、それじゃ」
啓一は携帯電話を消し、
「あちらは構わないそうです。まあ度を越して遠くに行くわけじゃないですしね」
肩をすくめながら言った。
「それはよかったです。心配させては気の毒ですから」
ジェイは穏やかに笑って自分も電話をかけると、そのまま宮の坂に足をかける。
(こうして見ると、すさまじい修羅場駆け抜けて来た人っての忘れそうになるな)
少なくとも事情を知らない者からしたら、何ということもない人間の青年が、だべりながらだらだら坂を歩いているようにしか見えないことだろう。
「そういえば、玄関からまともに入るの初めてでしたね。先日は帰りも裏からでしたし」
そうであった。前回来た時、話が余りに重大となったため訪問自体も秘密にした方がいいという話になり、来た時と同じように植月神社経由で戻ったのである。
あの時は行きは修羅場でどたばた、帰りはこっそりだったため、こんな気楽に訪問出来るのは何ともほっとさせられる。
「マスター、おかえりなさい」
門先まで来ると、エリナがてくてくとやって来て鍵を開いた。
「何だい、わざわざ出て来なくても中で待ってりゃよかったのに」
「ここへ来て初めてのごく普通のお客様、せっかくですからお出迎えしたいと思ったんです」
「ああ、そういやそうだ。そもそも配達以外で人が来ようがなかったからな」
ジェイがばつが悪そうに言う。
隠棲を決める前から引きこもり状態だったため、ジェイはずっと庭にすら出ず、ちょっとした買い物ですら宅配と通販で一貫して済ますなど人づき合いをなるたけ排除していた。
「高徳」の仕掛人になって百枝や瑞香とのつき合いが出来てからですら、人目をひどく嫌って接触も最低限にしていたのだから、まさに筋金入りである。
エリナも意図をくんで自分も同じようにしていたらしいが、UniTuberとしてネット経由でも人と縁を持っているだけあって、本心ではこうやって人と直に会ってつき合いたいと思っているようだ。
「あッ、禾津さん、こんにちは。今日はサツキちゃんは?」
「彼女は今日は別行動です。上司部下だからって、いつもセットじゃ気の毒ですよ。本人曰く、英田さんによろしくと」
「ふうん……。まあ、今度また来てって言っておいて。忙しいかも知れないけど」
啓一の返事に、清香は少々つまらなそうな顔をする。
「ささ、まあ入ってください」
そろって廊下を歩くと、先日も使ったリビングに通された。
エリナと清香は何やら家事の最中だったらしく、
「すみません、ちょっとうるさいですが……」
そう言いながらすぐ横の対面式の台所へ向かい、ソファーには男二人だけが座る。
「改めて見ると普通の静かな家ですよねえ……先日あんな修羅場があったなんて信じられませんよ」
「ですね……あ、そうだ。んーと、確か歳って三十二歳でしたよね?実は私も同じなんで、よければもう敬語よしちゃいませんか」
「え、まあよければ。それじゃ、さっそく訊きたいんだけども……あの妙な男、どこのどいつなんだ?普通じゃないだろ、あんなの」
エリナが運んで来た茶をすすりながら、啓一が問う。
「あれは一新興国産業の専務の松村徹也さ。時折、ああやって直営店舗を視察に来るんだよ」
「専務かよ!?まあ下手すりゃ社長に次ぐ地位だから、護衛自体はついてもおかしくないが……さすがにあれはものものしすぎるだろ」
「いやそれがね、あそこの会社って実質あの男が実権握ってるようなもんなんだよ」
この話は、アンドロイド業界でも有名な話だとジェイは言った。
そもそも一新興国産業は創業者の吉竹洋平が、自身の裏社会とのコネを駆使する形で成り上がり、いっぱしのメーカーに仕立て上げた会社である。
完全なワンマン経営を続け、周囲をイエスマンで固めてこの世の春を謳歌していたのだが、十二年前に子会社の経営を立て直すのに成功した松村を部長待遇で入れたのが運の尽きであった。
「松村は、反社に近づいてその力で子会社の反主流派を駆逐したらしい。だから同じ反社とのつながり持ちでお仲間意識があったんだろうが……」
松村の背後には、吉竹の予想以上の大きさの勢力がごろごろいたのである。
吉竹がそれに気づいたのは、松村を取締役まで昇進させてからのことであった。
しかし時既に遅く、吉竹の裏にいた勢力は既に相当数が松村側に取り込まれてしまっており、社内にも根回しがされていたため、力関係が逆転して追い出すことが出来なくなってしまったのである。
「取締役を全員味方につけりゃ、解任すら出来ないしな。無理矢理あれこれやろうとしても、自分よりバックが大きいから何も出来ない。そんなだから、あっという間に専務になられちまった」
「実質的な乗っ取りか。あえて社長にならない辺りが、小ずるくて嫌らしいな」
「ああ。突然社長になると怪しまれるのをきちんと分かってんだよ。だから吉竹をお飾り社長にして、あくまで『腹心』の扱いでいやがるって寸法さ」
「まるで滅びる寸前の王朝みたいな状況だな……」
「いやそのうちそっちと同じく、本当に社長の座を『禅譲』させられるんじゃないかね」
ジェイの言葉に、啓一は渋い顔となった。
一新興国産業の社内政治の話に興味はないし、反社会的勢力の力を借りてのし上がったような男がどうなろうと知ったことではない。
問題は、なぜぽっと出の松村がそこまで成り上がれたのかということだった。
「よほど人を籠絡するのがうまいのか、さもなくばバックについてるやつらが強いのか……どっちなんだろうな」
「まあ、どっちもじゃないかな。本人がどういう経歴のやつか分かればいいが、突き止めるのは難しいな。実際やつの過去について調べても、巧みに隠されてて分からないことだらけだ。特に子会社に入る以前のことについては、情報のかすすらも見つからない。そもそもデータ自体ないんじゃないのか、と馬鹿なことを思ってしまうほどさ」
ジェイはそう言うと少々顔をしかめて天井を見上げる。
「それより、一緒について来てる連中の方が問題だ」
「あいつら一体何者なんだ?ボディーガードにしちゃ雰囲気が異様じゃないか」
「気づいたかい。名目上はそうらしいが、私には分かる。明らかに軍事訓練受けた本職の連中だよ」
ジェイが眼を光らすのに、啓一は黙ってうなずく。紛争が日常茶飯事の世界から転移して来た人物である、見立ては確かなはずだ。
「てことは、私兵かな?」
「多分な。まああいつだけを守ってるわけじゃないにせよ、あんなもの持つこと自体異常だ」
異常ではあるが護衛以外に何をするわけでもなし、携帯しているのも兇器にならない程度の護身用の武器でしかないため、取り締まりなどしようもない。
警察としては、ただ監視対象とするより他ないのが実情だ。
「大庭さんも言ってたよ、見るからにやばい連中なのに何も出来なくて腹が立つって」
「警察にそんな権限ないからな」
「さりとて見ていたところで、何か収穫があるわけでもなし……。せめて連中をどういう意図で雇っているのかだけでも分かれば、料理のしようもあるだろうに。本当に私兵なのかどうか、それで何か起こそうと企んでるのかどうか、そこが分からなけりゃまるで話にならない」
ジェイはこめかみに手をやると、軽く眉をひそめる。
「さらに英田さんや葵さんの改造実験をやったのが一新興国産業なのか否かってことも、限りなく黒ってとこで止まってる状態だからな。まして例の内乱云々の話なんか、成立にはほど遠いよ」
「あんたも聞いてたのか。こっちはサツキさんが言ってたんだが……あくまで想定だってのに、みんな怖い想像始めちゃってな。不安がひどいとああなる、少しでも早く真相が分かってほしいもんだ」
二人は気づかなかったが、清香がこれに顔を微妙にそむけた。想像してしまった一人として気まずかったらしい。
啓一の言葉にため息をつくと、ジェイは懐からシガリロ(小さな葉巻)を取り出した。
「モンテクリストかな?『巌窟王』にちなむやつ」
「そうそう。私はこっちで初めて知ったんだがね、ちょいと高いがなかなかうまい。その分だと葉巻慣れてそうだし、何なら一本どうだい?」
「これはありがたい、ちょうだいするよ。……あ、煙が結構出ますけど二人は大丈夫ですか?」
シガリロを手に取った啓一は、カウンターのすぐ向こうにいる清香とエリナに訊ねる。
「大丈夫よ、アンドロイドは息止められるから」
「同じく。それにいつものことなので慣れてます」
「はあ……」
はたから聞くと何ごとと思うような答えを返されつつ、巻きの方向を確かめてから長い
「やっぱり葉巻はキューバだな。次はフィリピン……欧米のは当たり外れがひどくていけない」
「なかなか目が高い。フィリピンはちと手に入りづらいが、手軽に吸うならグロリアとか」
「それはこっちじゃ日本で作ってるみたいだな。やはり世界が違うせいかね」
あれこれと葉巻談義を一通りしてから、ジェイは話を戻す。
「ああそうだ、そんなことよりかなり大変な事実が明らかになってさ。実は、等身大ドールにされたのは英田さんが最初じゃなかったんだよ」
「何だって!?そりゃ本当か!?」
「そうみたいなのよ……ただでさえしゃれにならないのが、もっと大変なことに」
いつの間に湯を注いだのか、急須を二人の前に置きながら清香がため息とともに言った。
「まさか失踪者が……」
「いや、違う。この事件が起こる以前にあったことなんでね」
被害者は、借金のかたなどで風俗に落とされた女性たちらしい。
ただし清香のようにナノマシンで内側から完全に人形にしているわけではなく、外科的に人体改造して造ったものだ。
要は自発的に動けない、しゃべれないサイボーグである。
「一見怪しまれそうだが、あの世界は広い。どのメーカーも、女体を高度に再現した高級品の扱いでアンドロイド素体を利用したものを作ってる。そこに混ぜてしまえば分からないだろうさ」
たとい人形であっても、リアル感がほしいというわがままな欲求を持つ輩は一定数いるものだ。
それを実現するには、アンドロイド技術を利用するのが一番である。高くなるが確実に品質は保証されるし、本当に魂も臟腑もない純粋な「人形」なので少々後からいじったところで法律にも抵触しないという優れものだ。
つまり躰の構造がアンドロイドに近い、動かない等身大ドールというものがあるわけである。
この中にまぎれ込ませてしまえば、まずことが露見することはないという理屈だ。
「まあそれ以前に、表で流通させることがないだろうよ。拾われて解体や検査でもされたら、そこでおしまいだしな。闇で取引して闇に葬るもんさ。ただ……」
「ただ?」
「闇が表にはみ出して来たら、その例には当たらないがな」
この桜通には、下手な風俗街もはだしで逃げ出すような大きな闇が底に広がっている。
だがそれが肥大化するうちに、肝腎の押さえる蓋が耐えられず浮き上がって、中の闇が外に漏れ出して来ている節があるのだ。
そもそも犯罪に利用されたサーバが杜撰な処理をされ再利用されていたのも、高価な特注品の清香を慎重に扱わず客を取らせていたのも、きちんと統制が取れていれば有り得ないことだろう。
それに気づき始めた連邦警察が、
「桜通
そう認識を改め、管理統制が弛緩している前提で洗い直し始めた結果、奇妙な情報が入って来た。
「『やたらリアルなドールが二束三文で売られてる』っていうんだよ。余りに怪しいってんで行ってみたら、二体のドールが『処分品』として百円で売られてたらしい。しかも店主と話をしてみると、持って行ってくれるならただでもいいと言われたんだってさ」
「何だ、その突っ込みどころだらけの話は……」
いい加減という言葉で済まされない店の態度に、啓一が心底あきれたように言う。
手引書を作ってまで統制をかけているはずの一新興国産業や橋井地所が聞いたら激昂するだろうが、こんなことがある以上もはや末端には力が及んでいないと見た方がよさそうだ。
「まあ値段の話はともかく、顔も躰も余りにリアルすぎるっていうんでね。もしやと店主の言葉に従ってただで持ち帰って検査したら、生きてるのが分かったって寸法だよ」
警察としては証拠品があちらから飛び込んで来てくれて幸いというところであったが、検査の結果到底そのように喜んでいられない状態であることが分かったという。
「躰は幸い無事だったが、精神はほぼ崩壊状態、いや自我崩壊って診断でな……」
男を悦ばすためだけの「モノ」として扱われるこの
コミュニケーションを取ろうとしても全く会話にならず、名前すら聞き取れていない。
「何とかして、正気だけでも取り戻せないもんか……」
「怪しいって話だ。大体にして、人はここまで壊れるのかと驚かれたらしいからな」
「胸ッ糞悪りい……」
啓一が露骨に顔を歪め、思い切り吐き棄てた。
「摘発は?今の時点で充分行けそうだが」
「そう思うだろ?残念ながら、まだ無理だ」
「どういうことだい」
「製造元が一新興国産業じゃなくて、『ホソエ技研』って別会社なんだよな」
「えッ!?」
「おいおい、あそこはあくまでアンドロイド委託製造会社で、そんなものは作ってないぞ」
そうであった。余りに一新興国産業の周辺が性産業一色なのですっかり忘れていたが、同社自身の事業にそういったものは含まれていない。
もしやっていたなら、旧建設組合も本社および工場移転に同意することは決してなかったはずだ。
「ホソエ技研の今の社長は、一応一新興国産業の元取締役じゃあるんだが……。個人的に迎えられたってだけだってさ。一新興国産業自身は、別に出資してるわけじゃない」
ホソエ技研も本社を新星から緑ヶ丘の東郊外に移転してはいるが、これは全くの偶然で一新興国産業の移転とは何の関係もないことが分かっている。
事実、移転を最後の仕事にして引退を決めていた先代の社長は、緑ヶ丘にこだわっていなかった。
これを旧建設組合が許可したためにありがたく移転したという、ただそれだけのことである。
もっとも会社自体は、新星にあった頃に少しだけ一新興国産業と関わったことはあった。
しかしそれは同業者に紹介され、高級ドールに使われるアンドロイド素体の図面を参考として数度受け取ったという程度のもので、つながりとしては非常に弱い。
「こんなんじゃ関係を指摘されても、せいぜい公式ページに無関係を主張する注意書き載せるくらいのもんだ。社長のことを持ち出しても『たまたま社長が弊社の元役員だっただけで関係ありません』で終わりだろう。まあ言っても疑われ続けるだろうが……証拠がないから、まず累は及ばない」
「摘発してもとかげの尻尾切り成功ってわけか……くそ、うまいことやりやがって」
啓一は悔しそうにシガリロの灰を落とした。これでは一気に解決出来ない。
「だがやっぱり大昔でも一度縁があった以上は、関係を疑うべきだろう。かつての縁を使って利用したとしても決しておかしくない。動くか動かないか、中身があるかないかだけの違いだけで、等身大の『人形』作ってるのには変わらないわけだし」
「そりゃまあな……」
「それにこの世界じゃ、アンドロイド委託製造会社は『人形』のエキスパートとしてさまざまな副業をしてるって聞いたぞ。そういうことなら、なおさら復縁しやすくなるじゃないか」
アンドロイド委託製造会社が模擬人体製造技術を生かして副業をする例は多く存在しており、およそ「人形」とあったら伝統文化・芸術品を除いて全ての分野に参入が見られるほどだ。
「……それに副業が一般化してるなら、それを実験の隠れ蓑にも出来る。その観点から、警察は一新興国産業の副業にも注目してるそうだ。マネキン人形だって話なんだがな、いかにも臭くないか?」
「ああ、マネキンをそういう『大人向け』にしたのが等身大ドールと考えればな。あとは『ホソエ技研』名義にして出しちまえば完璧……てか」
ジェイが厳しい声で言うのに、啓一はあごをひねった。
もしそうなら、ことの流れはこうなる。
何らかの理由で人体改造技術を欲した一新興国産業は、別会社を使って欺瞞し証拠湮滅も可能な体制を整えた上で、自分たちや背後の反社会的勢力の勢力圏となっている地域で実験を開始した。
求めた技術は、直接的な外科手術による改造とナノマシンを使った内科手術による改造である。
その際選ばれたのが、前者の場合風俗落ちした女性であり、後者の場合清香だったというわけだ。
葵は前者の技術を発展させ、戦闘用など特殊用途でも改造が成功するかを調べるため試験的に改造されたものと考えられる。
「この他に被害者がいるか否かについては、分からないとしか言いようがないな。大庭さんの話だと、一新興国産業には裏で人体改造を常習的に行っている疑いがあるそうだから」
「うすうす気づいちゃいたが、やっぱりそうなのか。道理で妙に手慣れてると思ったら……。だが葵さんを死なせかけるほどの目に遭わせてるのは、一体どういうこったろうな?」
「結局のところ、慣れない技術を向こう見ずに詰め込みすぎた結果だ。改造される側にも適性がいるレヴェルになってるよ、あれは」
そう言うとジェイは空中ディスプレイを開き、何やら細かい数字の書かれた文書を示してみせた。
「いろいろな条件の人に葵さんと同等の改造を行ったと仮定して、成功率がどれだけかを計算してみたのがこれだ。はっきり言うが、うまく行く人の方が珍しい」
「確かにこりゃ人を選ぶなんてもんじゃないな……適性診断必須ってわけか」
「そうだ。だが、こんな厳しい条件だから診断自体が難しい。適性のない葵さんが選ばれたのは、診断を誤った結果だろうな」
つまり、葵は本来なら被験者となるべき存在ではなかったというわけである。
それでも今度は他の人物が改造された可能性は否定出来ないので、いずれにせよ被害者が出ることは避けられなかったはずだ。
どう転んでもどのみちこの惨劇となったのだろうと思うと、ひどく気分が悪い。
それはともかく……。
このことが、もしかすると拉致が行われたことにも関わっているかも知れないとジェイは言った。
「下手な鉄砲数撃ちゃ当たるじゃないが、適性の問題がある以上人数がいた方がいいと考えたんだろう。風俗落ちの女性も無限にいるわけじゃないからな。もっとも反社と組んでるなら借金のかたとかで人を引っ張って来れるわけだし、全く無関係の市井の女性を拉致する必然性を感じないが……」
「それさ、何で女性ばっかりなんだろな?別にこだわる必然性がないぞ」
「それは私も思ったが、いくら考えても分からないんだ。男もやらないと意味がなかろうに……。あえて言うなら今まで闇の仕事で女性ばかり改造して来て慣れてるから、実験もまずは女性でやろうとしてるってとこだろうか?」
「一応筋は通ってるが、非常に嫌な理由だな。しかも葵さんを改造した技術者の中に、明らかに人体改造を楽しんでる輩がいたらしいし……ぞっとしねえや」
二人の推測が当たっていたとしたら、一新興国産業は相当大胆不敵かつ異常である。
ジェイが言う通り反社会的勢力の手を借りることが出来る以上、風俗落ちの女を調達したのと同じ要領で闇社会を通して被験者を確保することも出来るはずだ。
それなのにわざわざ表で拉致事件なぞを起こしてことを荒立て、連邦警察に睨まれる方を選ぶという奇行に出ているわけである。
しかも女性ばかり狙う理由も、どうもはっきりしないのだ。もし単に改造し慣れているからというだけではなく、本来創作でしか許されぬ性的倒錯を現実にぶつけるためでもあるとしたならば、もはや思考回路自体がどこかおかしいと断ずるしかない。
いずれにせよ、不気味極まりない連中としか言えなかった。
「これから被害者が出る可能性は、どう見る?」
「葵さんを追う方に全力を傾けて、実験は一旦中止にするだろうな。英田さんと違って彼女は自律行動が出来るから、何を暴露されるか知れたもんじゃない。それで警察に知れれば、せっかく立てていた計画もまるでおじゃんだ。捕まえるのを優先しないでどうするんだって話だよ」
「なるほど、それならいいけどな……。葵さんがここにいる限りは、再開されないってことだし」
啓一は、いささか頼りなげなものを感じつつもそう答える。
「とりあえず、今は初期に被害に遭ってる人を探すことだと、大庭さんは言ってたな。……だがいかんせん闇社会の話だ、被害者のみならず関係者を探すだけでも一苦労じゃないのかね」
「ことがだんだん入り組んで来たな……」
啓一は小さく舌打ちをすると、短くなったシガリロを灰皿のふちに引っかけた。
こうやって自然に消えるのを待つのが、葉巻の作法である。
その時、清香がひょいと申しわけなさそうに顔を出した。
「すみません、お話中。どうもエネルギーが予想より早く切れそうなので、手早く充電して来ます」
「あれ?補助電源あるんじゃないんですか?」
「あれだけじゃ最低限の維持は出来ても、きちんとした活動は出来ないわ。こう見えて大変なのよ、機械の躰も……現実は非情よねえ」
この世界のアンドロイドは基本的に生物と同じく食事をエネルギー源とし、補助として電気を用いている。
しかし食事をしてもすぐにエネルギーにならないので、長時間起動し続け電池切れが予想される場合や不慮で切れそうな場合は、座蒲団型の急速充電器を敷いて充電すると聞いた。
だがそれを聞いて、エリナがはっとしたような顔となる。
「しまった……急速充電器のカヴァー洗ったの渡しましたか?」
「えッ?あ、もらってなかったわ」
「ああ、やっちゃいました!多分私のと一緒になってますから、取りに行かないと……」
エリナがそう言いながら、台所から飛び出して廊下を駆けて行った。
その背中とリビングを交互に見ながら困った顔をする清香に、ジェイはほほえむ。
「こちらは構いませんよ。そもそも保護してる人に、家事や雑用をさせてること自体が問題なんですから。遠慮なく行って来てください」
「分かりました、それではお言葉に甘えまして。失礼いたします」
そう言ってさっと華麗にカーテシーをして去って行った。
もう何度か見るが、本物のメイドかと勘違いするほど堂に入っている。
「……完全にはまってる。研究者に戻れるのかな」
「単に楽しんでるだけだと思ってるよ。大丈夫じゃないのかな、多分……」
「ならいいんだけど。……正直なところ、私にとってはあののりが助かってるからね。エリナもリスナーとの交流を楽しんでいるし。二人とも精神的な支えになってくれてるよ」
「そうか……」
苦笑しながら言うのに、啓一はぽそりと答えてぬるくなった茶を飲み干した。
「話は変わるけど……そういや男だけでじっくり話すのって、初めてだな」
「奇遇だね、私もそうだ。互いに周りが女性ばっかりだから」
ジェイはそう言って苦笑する。環境からもしやと思ったが、やはりそうだったようだ。
「まあそちらは流れが流れなんである程度しょうがないにしても、俺んとこが分からんのさ。保護者も女性、知り合いの刑事も女性。ここまではまだいいが、緑ヶ丘来ても親しくなる人みんな女性なんだよな。あんまり会わない人まで女性だし」
「ご不満で?」
いたずらそうな眼をむけられ、啓一は少々じとりとした眼になる。
「不満じゃないが、この……出来すぎてるというか、俺にはちとばかしもったいない交友関係じゃ」
「別にいいじゃないか。互いに迷惑かかってるわけじゃないんだし」
「分からんよ。少なくともサツキさんに関しては、一つ屋根の下ってだけで妙な仲だと勘繰られるからな。保護期間が済んだら、潔く家を出るって決めてるよ」
肩をすくめる啓一に、ジェイはいささかあきれたような顔をした。
「何でまたそんなに気にするかな。もっと気楽につき合えばいいだろう。もしそういう仲に発展したらそれはそれで……」
「そりゃ知り合いとしてならいいが、そこから先はないさ。俺自身に男性として好かれる要素がまるでないんだから、そもそも成り立つもんじゃないよ」
男としての自分に全く自信を持とうとしない啓一に、ジェイは、
「ま、私は君のところの人間関係はまだよく知らないから、余り言ってもね」
仕方ないと言いたげに話を引っ込める。
「もっとも、こんなことより困ったことがあるんだけども」
「ん……?仕事のこととか?」
「それも含めてだが……異世界転移なんぞ何であるのかとつくづく思ってて」
「何だったら聞くよ。転移者同士分かることだってあるだろうし」
そう促されて、啓一はこれまでのことと気持ちをつらつら話してみせた。
「はあ……複雑な状況でつらいことになってるとは思うが、『役に立ってない』ってのはどうかね」
一通り聞き終えたジェイは、開口一番そう言う。
「どうかねって、役に立ってないじゃないか、明らかに」
「直接研究の役には立ってないにしても、事務処理で間接的に役に立ってる気はするぞ」
「百歩譲ってそうだとしても、今回の立ち会いはどう説明したらいいんだ。事務処理もほとんどなく、検査に一回参加したきりだぞ。しかもその検査のデータも、あっちのぽかで無駄になるし」
「……その辺は運が悪かったと思うしかないな。そもそも形式上なんだから、頼んだ側もそんなに動いてもらおうとは思ってないんじゃないのか」
「まあ、そもそもがあちらさんの完全な自己満足だからな。お飾りで充分なのかも知らん」
啓一は一応そう納得したようなことを言うが、やはり釈然としない顔をしていた。
「うーん……」
ジェイはそこで考え込むような顔になると、
「真島さん側はどう思ってんだろうな」
ひじを突いて言う。
「多分、相当困ってるだろうし悩んでるだろうとは思うよ。それは想像がつくが、つくんだが……止まらないんだよ、この思いが」
実を言うと、啓一とてサツキが申しわけなく思っているらしいことはうすうす感じていた。
だから、本来は彼女に愚痴など吐いて自分のつらさを押しつけたいとは思わない。
だが、止まらない。止まらぬのだ。
「厄介なら放り出してくれて正直構わんよ。どうせいつかは出て行くんだし」
「やけを起こしちゃ駄目だ。それ聞いたら、多分真島さんもっと苦しむぞ」
ジェイは、言葉を探りつつ言う。
実を言うと転移者の保護を手厚く行う理由には、このような精神面の問題もあった。
転移者の中で、適応出来ずに精神の均衡を崩す者は非常に多い。ジェイのように世をはかなんで自殺未遂を起こしたり、実際に自殺してしまう者もいるほどだ。
啓一の場合、均衡を崩すのを越えてかなり複雑に屈折してしまっているが……逆に言うと、それほどまでに異世界転移というのは精神的に打撃を与えるものなのである。
厄介だ、うっとうしい、面倒だ、と言うのは簡単だ。俗な言い方をして「ヘラっている」と後ろ指を差すのも簡単だ。
しかし人が基本的に弱い生き物である以上、こんなことがあるのは覚悟しなければならぬ。
(どうにもこいつはややっこしいことになってるな……)
ジェイは、何とも悩ましい思いにとらわれざるを得なかった。
「それに比べて、あんたの方は相当役に立ってる気がするんだけどな、俺としては」
「えっ……」
いきなり話を自分の方に向けられ、ジェイは眼を白黒させる。
「いや待ってくれ、私のどこが役に立ってるって……」
「今回の事件だよ。英田さんや葵さんを助けられたのは、あんたのおかげじゃないか」
「それこそ待て。それは偶然だ」
「考えてみてくれ。私の知識や技術はこの世界のものより余りに進みすぎの上に違いすぎていて、受け容れられるだけの土壌がないんだぞ。役立たずになる可能性なら、こっちの方が上だ」
「いや、こっちの技術水準を上げるくらいの役には……」
「無理だ、それこそ無理だよ」
ジェイは眼を伏せて言う。
「基礎がそもそも違う、基礎は一緒でも応用の向きが違う、基礎や応用まで一緒でも進みすぎで途中の過程をすっ飛ばす羽目になる……。同じ土俵に立ってないから、誰かに教えて活用してもらおうにも、ただ『そういうものだから納得しろ』と押しつけるだけ驚かすだけになっちまうよ。英田さんの意識を移す時に使った『自己同一識』の理論なんか、説明したけど要は『魂』のことだ。こっちは大まじめでもここじゃオカルト扱いだよ」
「うッ……」
予想以上の隔絶ぶりを強調され、啓一はつまった。
だが思えば、そのことはあのシェリルが見たこともないほど驚き続けた挙句、「理解不能」とばかりに口から蒸気を漏らしていたことからも分かる。
余りにもずれがひどすぎて、最初から通じ合えないのだ。こんな状況で技術水準を上げるための役に立てようなど絵空事であろう。
「だから役立たずは私も一緒だよ。しかも君よりもある意味ひどい役立たずだ」
「………」
「私の知識は、大学院まで十年以上かけて積み上げたものだ。それが全部使えなくなってるんだ、これが役立たずじゃなくて何なんだい」
ジェイは眼を伏せて、深々とため息をつく。
「で、そこ来てあのざまだ。不可抗力とはいえ……女の子九人置き去りだ、有無を言わさず置き去りだ。こんな男が、何の役に立てると?」
「………」
啓一はもはや、何も言えなかった。
既に三年経っているというのに、転移の打撃によって生まれたジェイの心の傷は癒えていなかったのである。
「……悪かった、考えが浅かったよ。話を聞かされて、思った以上に深刻だって分かったわ」
「いや、つい自分ばかりつらそうに語ってしまったけど、君の方も深刻じゃないってことはないさ」
そう言った後、二人はほぼ同時に何かを振り払うように首を振る。
「……持ちかけた俺から言うのも何だけど、やめにしないか?傷なめ合ってるみたいになってるよ」
「ああ、同意見だ。同病相憐れんでもどうにもならん。どのみち異分子なら最後まで異分子のまま生きるしかないだろう」
「済まなかった、妙な話を持ちかけて」
「いや……男同士、それも転移者同士で話するなんてまずないだろうからな。ありがたかったよ」
無理矢理元気を作ったような顔で、ジェイは頭を下げた。
当人は気づかなかったろうが、はたから見ると実に沈痛な面持ちである。
と、その時だった。
「……あ!もう一時間半経ってら、さすがにサツキさんにどやされる」
「帰った方がいいね」
「そうだな。じゃ、ありがとう。また機会があったら」
啓一がそう言って立ち上がったところで、エリナが顔を見せる。
近くで聞いていたようだが、ジェイも啓一も不問に付した。
そのまま啓一は、ジェイとエリナに見送られて辞去して行く。
「今日は私が料理するよ。ゆっくりしていなさい」
そう言い台所へ去るジェイの背中を見ながらエリナが立ち尽くしていると、廊下の奥から気まずげな顔をした清香が現れた。
「終わったんですか、充電?」
「随分前にね。……でもほら、私の部屋って近いからここの会話が思ったより聞こえるのよ。一応戻ろうとここまで来たはいいけど、何となく出て行きづらくて結果的に立ち聞きしちゃったの。もしかしてエリナさんもそのくち?」
「え、ええ。話が重たくなってて入るに入れず……」
「そうだと思うわ。邪魔していい話題じゃないもの」
エリナが困惑したような顔をするのに、清香は盆の窪を一つかく。
そして大きなため息をつくと、
「人の価値って、意外と見えないものなのよねえ……」
ぽつりとひとりごつように言った。
夕陽の照らす中、流しの水道の音が静かに響いている。
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