十九 天魔

「高級品というから期待したら……糞まずいにもほどがあるな」

 そう言うと、男は熱い煙が立ち上る葉巻を灰皿へもみ消した。

「こんなもんを棚で保存してまで吸うだなんて、葉巻吸いは馬鹿か」

 肩をすくめながら立ち上がり、外に広がる自社工場とのどかな郊外の街並みを見下ろす。

 一新興国産業株式会社本社・社長室。

 今、専務の松村徹也は、自室ではないこの部屋をほぼ独占して使っている。

 昨日……。

 連休ということで上から下まで社員が休んでいる中、松村は部屋の主たる社長・吉竹洋平によって謀議ということでここに呼ばれた。

 だが、吉竹の様子がひどくおかしい。眠れなかったのか、憔悴しきっていた。

「どうしたんですか、お加減がひどく悪いようですが」

 松村がとりあえずは心配したような声で訊ねると、吉竹は、

「悪いに決まってるだろうッ!あんな大ごけをされて気が気でいられるか!」

 急に当たるように怒鳴り返して来る。

「小川のことですか?」

「それ以外に何があるというんだ!これまでの失態続きを巻き返すつもりがあれか!?」

 なおも声を荒くする吉竹に、松村は困ったような顔となった。

「お怒りは分かりますが、看板倒れの力量しかなかったあの男が悪いんですよ」

 まるで怒りを意に介していないのが、丸分かりの口調である。

「……まあ、確かにそうとも言えるが」

 吉竹は、いかにも不満そうな声で答えた。

 確かに小川が学者としてなまくらだったのも、今回の失敗の原因ではあったろう。

 だが根本的な事態の打開を求められている状況で、場当たり的な時間稼ぎ、それも露見すればさらに窮地に追い込まれるような手法で対処させようとした松村の方が明らかに問題だ。

 そもそも普段から計画性があるのだかないのだか分からない行動を取って、まるで安定感がないくせに、根拠不明の自信に満ちあふれ反省もしないのが、これらの失敗の源ではないのか。

 本当はそこまで言い返してやりたいところなのだが、言った日には何倍にもなって返って来るのがおちだからと飲み込み、不承不承ながら同調したのだ。

「そうです、そうです。どうか落ち着いてください、取り乱して当たられても困ります」

 松村がしたり顔となり、さりげなく失礼な言い方で返して来る。

 そのどこか面白そうな視線にいらつきながら、吉竹は椅子に座り直して続けた。

「……単刀直入に訊くが、これからどうするつもりだね」

「これからとは?」

「こんな時に、すっとぼけたようなことを言うもんじゃない。実験体は逃げるわ、平沼は裏切るわ、しまいには小川も逮捕されるわでもう滅茶苦茶じゃないか。恐らく警察側にほぼ露見しているぞ」

「ああ、そういう話ですか」

 明らかに分かっていただろうに、白々しい声で答える。

「ここで一気にやるしかないでしょう、もう引き延ばせませんし」

 平然と言う松村に、吉竹は顔を青くした。

「待ちたまえ、このまま突き進む気かね!?……しばらく潜るっていう選択肢はないのか!?」

「潜る、ですか……」

「どうせ引き入れた連中は、潜伏には慣れてるだろうに」

 吉竹の言うことも、分からぬではない。

 妙な言い方だが、そもそも反社会的勢力や極左暴力集団は潜伏の達人のようなものだ。

 殊に後者は下手にちょっとでも動けば公安警察に狩られるため、時折派手な抗争で正体を現わす前者よりも、この辺に関してはやり手であると言えるかも知れぬ。

「確かにその通りではありますがね。潜伏させるだけの力も、我が社には充分ありますし」

「じゃあ、無理矢理やらないで先送りに……」

「ですが、お断りいたします」

 吉竹の言葉を、松村はすっぱりと切って捨てた。

「な、な、な……本気なのか君は!?」

「あのですね、社長。大胆さが足りませんよ、大胆さが」

「『大胆』という言葉の意味を分かっているのか!?」

「分かっていますとも。恐らくは警察に捕まるのが怖いんでしょうが、あれは既存国家の権力です。それを全部引っ繰り返せば、勝てば官軍、捕まりませんよ」

 一応、理屈自体は合っている。

 刑法でいう内乱の罪の保護対象は本来罪を罰する主体である国家の存立にあるので、その先まで進んで完全に国家を瓦解させてしまえば、革命成功で自己正当化が可能となるのだ。

「ば、馬鹿を言いたまえ!それは一気に国全体を転覆させれば、という仮定の上での話じゃないか!!そんな大きなことをいっぺんになんて、拙速にもほどがあるってものだろう!!」

 まずい方向へ話が向かい始めたのに、吉竹の顔が蒼白を通り越して紙のような色になる。

 先にも述べた通り吉竹が関与し続けているのは、計画が実行前に破綻して松村が追い込まれれば、権力の座から一気に蹴り落とせるかも知れないという期待があったからだ。

 こちらから動いて蹴落とそうとすれば、巻き込まれて自分も破滅する可能性がある。ゆえに松村自身が実行前にへまをして転ぶか、実行を引き延ばす意思を見せるか、さもなくばあきらめるかのどれかに進んで、決定的につけ込めるすきを見せることを期待しているのだ。

 それにも関わらずいくら失敗を犯しても松村はかたくなに計画をやめず、一直線に突っ走っている。もう既に武力も持ってしまっているだけに、いつ実行を宣言するかと冷や冷やし続けていた。

 そこでこの発言である。驚いておびえ出すのも当然であった。

「だ、大体だな……こないだは、裏の連中をもう一度まとめ直して使いやすくしようなどと言っていたじゃないか!あれは一体どうした!?」

「ああ、確かに言いましたね、そんなこと」

「そんなことって、そこからまずやろうという話になったんじゃないのかね!?」

「勘違いされてませんか。必要になるかも知れないのでやっておこうとは言いましたが、これをまず一番先にやらないとなどとは言った覚えはありませんよ。あくまで並行でやろうというだけです」

「じゃあ脇の話だったというのか!?一番の議題だなどと大事そうに持ち出しておいて!」

「確かにそういう扱いはしましたが……一番だからといって、即本路線だと思われましても」

「あれだけ熱のこもった議論をすれば、嫌でも本路線だと思ってしまうだろう!勘違いされたくないなら、先にきっちりと真意を言いたまえ!」

 実は平沼の自首以降行われた謀議で、反社会的勢力をまとめ直して私兵を補完する戦力に使えるよう整えて行こうという話が出ていたのである。

 いかにもまずはこれをやらねばという調子で語る松村に、

(猶予が出来た、これなら行けるかも知らん……)

 自滅へ追い込むすきが思いがけず出来るかも知れないと、少しだけ期待をしていたのだ。

 だがこれでは猶予が出来たどころか、下手すれば待ったなしではないか……。

 抗議する吉竹に対し、松村はふんと鼻で嗤うと、

「訊かれなかったから言わなかっただけですよ」

 そううそぶいてみせた。

 もはや上司に言う言葉ではないどころか、詐欺師のせりふである。

「この……ッ!!」

「それとも何ですか、すぐにやられると困ることでもおありですか?……例えばすきを狙って私を失脚させようとか、そうお考えだったわけではないですよね?」

 吉竹は思いがけぬ言葉に眼をむいた。

(見抜かれていた……!)

 このことである。

「そ、そんなこと考えているわけないだろう……!」

 必死で否定するのを面白そうな顔で見ると、松村は薄い嗤笑を浮かべた。

「まあ、そういうことにしておきましょう」

 これに、とうとう吉竹の堪忍袋の緒が切れた。

「もういい!!君とは話にならん!!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ吉竹に、松村は、

「もしかして下りるおつもりですか?共犯の一蓮托生なのに無理ですよ」

 露骨に小馬鹿にしたような声で言う。

「下りるわけじゃない!君が誠意を見せるまで裏の連中を引き上げるだけだ!その間こちらから顔を合わせるつもりもないから、そのつもりでいろ!!」

「要するにストライキですか。これは困りました、その間私はどうしてればいいんですかね。会ってくださらないのでは、意見交換や議論が一切出来ないじゃありませんか」

「勝手にしろ、私は知らん!!」

 吉竹がたたきつけるようにして言うのに、松村は肩をすくめると、

「じゃあまあ、勝手にやらせてもらいますよ。一企業の社長ともあろう方が子供みたいにすねて……馬鹿ですねえ、あなたも」

 やれやれとばかりに言った。

「くッ……この異常者めが!」

 悔しまぎれとばかりに言い返すが、もはや松村は相手にせぬ。

 そのまま何も言わずに、扉を乱暴に閉めて吉竹は出て行ってしまった。

「全く、前から頭の悪い人だとは思ってたが、あそこまでとはな」

 あの時のゆでだこのごとき吉竹の顔を思い浮かべ、松村はくつくつと愉快そうに笑う。

 実を言うと自分の失脚を狙っているのかと吉竹に訊いたのは、完全に煽りのつもりであった。犯罪集団の幹部が、頭目を蹴落とそうと肚の中で考えているのなぞよくある話である。

 そのため図星を突いていたところで何の問題もないどころか、棚ぼたであきらめさせるきっかけになるため、むしろありがたいくらいだった。

 ストライキまがいのことをすると言い出したのが多少誤算と言えば誤算であったが、松村はけろりとしたものだ。

 正直なところ、現在の吉竹は役に立っているとは言いがたい。

 最初こそ人手がほしいということで、吉竹側に残存している勢力を懐柔するのに必要だった。

 だが極左暴力集団などを率いて本格的な武装化を行い、それらをまとめる力を持つようになった今となっては、けんかするしか能のないやくざ破落戸なぞ鉄砲玉、手間をかける価値もない。

 お払い箱とまでは言わないが、いてもいなくても同じという立場になりつつあったのだ。

「どうしたものかねえ」

 ポケットから一ミリのメンソール煙草を取り出して火をつけると、

「……ま、あの手のことするやつは首にするのがうちの方針だから、今度もそうしますか」

 ろくに味のしない煙を吐きながら、黒い笑みを浮かべたのだった。



 本通で謎の車両爆発火災が起きてから、三時間ほど後……。

「テロじゃない可能性があるだと?」

 ヤシロ家の居間でシェリルからの通信を受けた啓一は、意外そうに言った。

『ええ。運転手を狙った爆殺事件という線が出て来ました』

 朝と同じくエリナの内蔵通信機経由で、シェリルが重々しく語る。

 背後にざわざわという音が混じって聞き取りづらいが、部下に声をかけられる可能性があるため、小川逮捕の時にやったような方法は出来ないとのことだった。

「爆殺って……根拠があるのか?」

『被害者が被害者なんです。これがですね……何と吉竹洋平なんですよ、あの』

「ええッ!?」

 いきなり登場した名に、一同が色めき立つ。

『まず、車が吉竹の車なんです。運転席附近が丸焼けになってましたが、ナンバー・プレートがこげながらも無事だったのですぐに分かりました』

「だが、乗っていたやつが吉竹とは限らんだろ?」

『それがですね、遺体が思ったよりも形を留めていたんですよ。頭や肩や腕の一部が生焼けの状態で残されていて。後頭部がえぐられていましたが、顔は分かる状態です。今検屍に回していますが、鑑識も一目見て吉竹だとほぼ断定していますね』

「ほぼ確定なのか……。確かにそうなると、爆殺の方が合ってるかも知れないな。そこらの一般人ならともかく、やつには狙われる理由がある。しかも身内からな」

『そうです。松村の失脚を狙っていたわけですから』

 啓一が顔を歪めつつ言うのに、シェリルは静かに答える。

 吉竹は松村に与する素振りを見せつつ、肚の中では権力の座から追い落とすすきを虎視眈々と狙い続けていた。もし露見すれば、始末されるのは目に見えている。

「訊くまでもないだろうが……指示したのはやっぱり松村だってことになるのか?」

『もし爆殺としますと、そう考えざるを得ませんね。指示すれば爆弾一つ平気でしかけるような命知らずが、背後にたくさんいるわけですし』

「動機はやっぱり、吉竹が失脚を狙っていたのに気づいて粛清……ってところかしら?」

 これはサツキであった。

『それか、もしくは純粋に邪魔になったかでしょう。吉竹は反社のまとめ役ですが、私兵が充実した今となってはどれだけ役に立っているか怪しいものです。それにあれこれうるさくてうっとうしくなったとか……ともかくいろいろ理由は考えられますよ』

「あの男ならやりかねないわね、そういうくだらない理由でも」

『ですね』

 サツキが渋い顔となってため息をつくのに、シェリルは短く同意する。

『あと爆殺事件と確定したことで、事件そのものにも突っ込みどころが大量に湧いて来ました。殊に警察署のそばで起爆だなんて、テロならまだしも爆殺で取るべき手法ではないでしょう』

「それは私も思ったわ。ヤシロさんちの庭から見てたけど、警察の人たちがわっとたちまちに集まって来てたものね。犠牲者が吉竹となったら犯人は松村、みんなそう真っ先に思うだろうし……取っ捕まえてくださいって言ってるようなもんじゃない」

 サツキの言う通り、こんな真似をすれば警察にすぐに見つかる上に、下手な証拠でも出てしまえば殺人罪で縄をかけられる事態を招くことになるはずだ。

 こんなリスクを背負うくらいなら、最初から人を使って裏でこっそり葬ってしまえばいいだけの話ではないのか……。

「なあさ、今思ったんだがな。これってもしかすると……」

 二人の会話に、横合いから啓一がそう言いかけた時だ。

『……え?何ですか?どうかしましたか……』

 現場にいた刑事か警察官に声をかけられたらしく、シェリルの声が途切れる。

 それから回線自体を完全に切ったところを見ると、何やら大きな動きでもあったようだ。

 待つこと三十分ほどで再びつながり、シェリルが戻って来る。

『……聞こえていますか?すみません、回線まで切ってしまって』

「何だ、どうしたんだ?」

『……今、一新興国産業の秘書課の課長がやって来ました』

「何だと!?」

 まさかの、敵方からの人のお出ましだ。

「秘書課課長ってことは、松村の送った軍使ってとこか」

『いえ、そういう性格の人ではないですね。こちらの調べる限り、一部の技術者以外の一般社員が引き込まれている形跡はないので。どちらかというと、盗人に頼まれて連絡つなぎの文を渡しに来た通りすがりの小僧さんのようなものです』

「ただのお使いってことか」

「で、何だったのよ、用事は」

 清香がせかすのに、シェリルは途端に不機嫌な声となると、

『吉竹の「遺書」なるものを届けに来ました』

 吐き棄てるように言う。

「『遺書』……?中身は見たの?」

『ええ。連邦警察と市警宛で、自分の「罪」をつらつら告白した後に「死をもって償います」のようなことが書かれてました。「罪」の内容には一連の事件に触れるものは何もなく、言っては何ですが実にくだらないことばかり……』

「ちょっと、それってどう考えても偽物……」

『まあ、そういうことです。もし本物なら徹底的に反社のことから今回の事件のことまで書き連ねるでしょうから、ほぼ確実に松村の偽造じゃないですか。それ以前に、吉竹がそういう殊勝な輩だとは到底思えませんしね』

 嫌そうな声で言う清香に、むっつりとシェリルが答えた。

「……三文芝居だな。いや一文か」

 「自殺」を演出するにしても陳腐すぎる手法に、苦々しい声で啓一が言う。

 当然シェリルをはじめとして、誰もこんなものをまともに信じていないのは言うまでもなかった。

『私が捜査本部長ということで対応しましたが、何も知らない課長はパニックを起こしていて気の毒になりましたよ。……休日に突然来いと言われて来てみたら、社長が自殺したから「遺書」持って行けですからね』

 シェリルはそう言うと、深くため息をつく。

 無辜の一介の管理職だのに、休日に呼びつけられた挙句、やらされたのは知らず知らずの悪事の片棒かつぎだ。さすがに同情の一つもしたくなるものである。

「こいつはもうほぼ決定だな。……多分分かってると思うんで、言ってくれ」

『警察に対する、明らかな挑発ですね』

 このことであった。

 一同を横眼で見ると、大体分かっていたのかみなうなずいている。

 わざわざ警察署のそばで見せつけるように爆殺事件を起こし、わざわざ警察署に偽物と丸分かりの「遺書」を提出し自殺に見せかけようとして来たわけだ。

 何から何まで余りにも粗雑で、何から何まで余りにもわざとらしすぎる。はなから本当と思ってもらう気なぞなく、むしろ即座に嘘と気づかれることを期待すらしていると考えるのが自然だ。

 ここまで徹底的に人を食った行動に出るからには、これはもう挑発と解釈するしかない。

『……そう言っているうちに来ましたよ、挑発の証拠が。爆発物なんですがね、位置情報システム認識式人工知能時限爆弾の一種だそうです。……自動運転を勝手に起動して、GPSを使いながら設定した場所でAIを使って起爆させる代物です』

 この世界では自動車に自動運転が選択式で標準導入されているのだが、一方でこれを何らかの方法で乗っ取り、殺人などの兇悪犯罪に悪用する例が多発していた。

 この時限爆弾もその一つで、起動したが最後自動手動問わず一切の操作を受けつけなくなってしまい、運転手はそのまま設定場所で爆死する運命をたどることになるという。

『爆発物がこれということは、もう自分からわざと狙ってやったと言っているようなものです。いや、挑発だぞと喧伝しているとまで言ってもいいでしょうね』

 シェリルの言葉に、怒りを押さえ切れないのか後ろから誰かが髪をかきむしる音がした。

「……随分とまあ、なめたことしてくれやがる」

『ええ……大胆に馬鹿にしてくれたものです』

 啓一とシェリルが、互いに怒りを押さえた声で言う。

『しかもこれだけやられても、私たちは松村を逮捕出来ないんですからね……』

 実は、そうなってしまうのだ。

 まず今回の爆殺事件の捜査自体、余りにも現場の状態が凄惨すぎて難航が予想される。松村が内乱計画の方でいつどう動くか分からないのに、とてもではないが待っていられるわけがなかった。

 また拉致事件・人体改造事件・内乱計画のどれも、一時は証拠を固めたと思ったものの、精査すると次第にそれが怪しくなって来ている。

 今まで証拠として扱って来たものが、果たして実際に証拠として採用出来るかどうかが疑問であるという意見が出始めたのだ。

 ハッキングで得たファイルがあるが、清香と葵の改造実験報告書のように核心に迫る文書ほど欠損が多く断片的といううらみがある。単語や文章のつながりからこのように解読出来ると言い張っても、しょせん推測だと突き放されてしまえばそこで終わりだ。

 平沼の供述についても、本人が大雑把な情報しか知らないため肝腎なところほど抜け落ちてしまっている。松村の計画の概要を明らかにするとともに、内乱計画の捜査の端緒となるなど重大な役割を果たしはしたが、単独の証拠としては扱うには不十分と言うしかなかった。

 唯一ヒカリの証言などが採用出来そうに思われたが、

「記憶から取り出した画像や映像は証拠として採用され得るのか」

 今度はこの問題が出て来てしまったのである。

 最高裁判例を見ると、アンドロイドの記憶から取り出したものを認めているのだが、今度は、

「ヒカリを『アンドロイド』と言っていいのか」

 ここに話が来てしまうのだ。

 ヒカリはアンドロイドではなく、サイボーグである。しかも生体脳が丸々残っていたのだ。

 先の判例では、人間や獣人の記憶を同じように取り出した場合は、生体脳の特性上誤謬が生じやすいため、捜査の参考資料には出来るが証拠としないと言い切られてしまっている。

 言い方を換えれば生体脳から取り出したものは証拠にならぬと解釈出来るわけで、これに従うとヒカリの記憶から取り出した画像や映像は、直接証拠として採用出来ない可能性が出て来たのだ。

 あの時は話を聞くのに必死で考えなかったが、もしこれが認められないとなった場合、あの画像や映像ありきで話を進めていたところがあったため、証言までも証拠能力が落ちかねない。

 事件の全貌を知っていても、明らかに逮捕すべき被疑者がいるのが分かっていても、証拠の抜けや認定問題が立ちふさがって、最終決戦へ動けないわけだ。

 それを知ってのことか、さもなくばただのパフォーマンスか、

「お前ら俺を捕まえに来ないのか?それなら眼の前で事件起こしてやろうか」

 そう嗤笑せんばかりに、今度の事件を起こしたと考えられるのである。

 そのくせ自ら出向いて「遺書」を手渡すことまではしない辺り、多少は警察を恐れている証拠ではあるのだろうが、このような大胆な挑発の前では些事だ。

「……どうするよ、ここまでやられて?」

『今すぐにでも「ぶち転がし」に行きたいところですが……どのみちこの事件の捜査で動けないんですから、今まで通りやるしかありません……』

 無念なのだろう、ぎりぎりという烈しい切歯の音とともに苦しげな声が返って来る。

 捜査本部長という指揮者の立場からも、めったやたらに怒ることが出来ないのもつらいはずだ。

『……え?ああ、頼んでおいたものですね?……すみません、また後で』

 そこで部下に声をかけられたシェリルは、そのまま通信を切る。

 部屋が急に静まり返るのに、一同が一様に唇を噛んだまま暗い表情となった時だ。

「……おい、爺さん!!何やってんだ、おいこらよせ!!」

 外から、百枝がのども裂けよとばかりに叫んでいるのが聞こえて来たのである。



 ただならぬ雰囲気に、ほぼ反射的に啓一とサツキが飛び出した。

「だ、誰か止めてくれ!あたしじゃ限界がある!!」

 奥宮の方から百枝の声が聞こえる。

 藪を半分ぶち破るようにして大急ぎで抜けると、何とそこではまさに狼男という風情の狼族の老紳士が、今まさに縊死いしせんとしているのを百枝が必死で止めているところだった。

「巫女さん、止めないでください!!」

「自殺を止めるな言われて、止めないやつがあるかよ!!」

 獣人は人間より力が強く俊敏なことが多く、本気を出されてしまうと鍛えた人間でも真正面からでは止められないことがある。

 すきを突けばあるいは止め得ることもあるが、紳士はそれすらも与えないほど暴れ回り、意地でも枝から下げた縄に首を通そうとしていた。

 その時である。

「……どいて!えいッ!!」

 後ろから清香が走って来たかと思うと、何かを素早く紳士の足許へと投げつけたものだ。

 次の瞬間、ぶわっと紳士が足をすくわれ、宙に浮く。

「え、え、何だ!?」

 紳士はわたわたと空中でもがきつつ縄を持とうとするが、その縄が輪を上にしてまっすぐ上向きに引っ張られたまま、ほぼ固定されて動かない状態だ。

「今です!いなさん、ヤシロさん、あの人を押さえて!!」

 清香の鋭い声に啓一とジェイが素早く駆け寄り、浮いている紳士の躰を空中でしっかりと抱きとめると、空間を立ち泳ぎするようにしてゆっくりと降下する。

「はあ、サツキさんにやり方教わっといてよかった……」

 啓一がひとりごちて見た先には、先日ジェイが開発した簡易反重力発生装置が転がっていた。

 ぶら下がろうとするのを止めるなら重力の方向を上向きに変えてしまえばいい、そう考えた清香のとっさの機転である。

「よ、よかった……うまく行くか自信がなくて。あ、スイッチ切ってくれる?ごめんなさいね」

 後から追いついた清香が、ほっとした表情で言った。

 そのスカートの中から、ぽとりと装置が一つ落ちる。

(……待て、まさか中に挿せるようになってるのか?)

 どう考えてもそうにしか見えないが、まるで漫画やゲームに出て来るキャラのようだ。清香はメイドを一体全体何だと思っているのだろうか。

 それはともかく……。

 啓一が装置のスイッチを切って向き直ったところで、清香が紳士に駆け寄る。

「大丈夫ですか、荒っぽい止め方になってしまいましたが」

「なぜだ、なぜ邪魔をするんですか……」

 灰色の毛に覆われしわだたんだ顔をぐしゃぐしゃにしながら、紳士は言った。

「あのなあ、何度でも言うが死なせるわけに行かねえだろうがよ。第一、神社の境内で首吊り自殺とか、罰当たりにもほどがあるぜ。もっとも、どこでもやったらいけねえけど」

 百枝の余りにもっともすぎる言葉に、紳士は眼を伏せる。

「医者に診せた方がいいですかね?」

「いや、大丈夫だと思うぞ。意地でも引き止めたから、縄には鼻先も通ってねえはずだよ」

 啓一の言葉に百枝が軽く首を振って答えるのを見て、一同にほっとした雰囲気が広がる。

「ともかく、一旦境内に連れて行った方がいいわ。このままじゃ、事情も聞けないもの」

「そうだな……倉敷さん、いいですよね?」

「ああ、構わねえよ。さすがにこいつは話聞かないわけにゃいかねえ」

 サツキの言う通り、啓一はジェイと二人ではさむようにして紳士を境内へと導いた。

 逃げ出さないよう、前は百枝の他エリナとサツキ、後ろは残りの一同が固めている。

「ああ、何としても死なせてもらえないのか。私は、罪深い男だというのに……」

「何があったか知らないが、話してみなよ。思い込みかも知れないじゃないか」

「いや、巫女さん!私は咎人です、天魔を肥育してこの世に解き放ってしまったんですから!!」

 百枝がなだめるのにも、紳士は自分を責めて聞かぬ。

 こんなことは彼女も初めてらしく、ひどく困惑しているようだ。

 だが、サツキは紳士の叫びに引っかかるものを感じる。

「……天魔?」

 このことだ。ひどく不穏な単語である。

「そうです、お嬢さん!第六天魔王を、じゅんに等しい男を、私はこの街に……!!」

「待ってください、波旬って……そりゃしゃくそん(釈迦の尊称)の修行邪魔した悪魔のことじゃないですか。そんな物騒なやつを引き合いに出すほどの輩って」

 仏教の知識がある啓一が、横から入って問うた時だ。

「……松村です!あの男こそ、その名にふさわしい!」

 紳士の口から、思いもかけない名が飛び出したのである。

「松村……!?あの一新興国産業の、松村ですか!?」

「そうです、この街で松村といえば松村徹也しかいません!あの男、とうとう!!」

「………!!」

 どうやらこの紳士は、松村と以前なにがしかの密接な関係にあったようだ。

 だが、だからといって松村が今回の事件を起こしたことに対し、くびれようと思うほどの自責の念にかられる理由が分からない。

 さらに「肥育して解き放ってしまった」の言に至っては、もはや完全に理解不能だ。

 とにかく、こちらとしてもここまで来ると話を聞かねば収まらない。

「ですから、ですから死なせてください!全ては私の責任なんです!!」

「いいから落ち着けっての!!」

 死ぬ死ぬと繰り返す紳士を、とうとう百枝が怒鳴りつけた。

 こうでもしないと、話が進まない。

(……おい、これどうするよ?松村の名前が出た以上、あたしらだけで処理出来る案件じゃねえぞ)

 百枝に耳打ちで相談されて、サツキがもっともとうなずいた。

 今起きている事件の被疑者と何らかの関係がある人物とあっては、たとい犯罪者でなくともシェリルたちに回した方がよかろう。

 それでなくとも自殺願望の持ち主の話を聞くなぞ、初めてのことでどうしたらいいのか分からぬ。

 自殺願望、学術的にいう希死きし念慮ねんりょを持つ人物は、実に扱いが難しいのである。

(まいったな。刑事殿に頼みたいとこだが、今事件にかかりっきりだし……)

(一応呼んでみますか?)

 エリナがそう言って、内蔵通信機を起動する。

「すみません、お忙しいところ。ちょっと今……」

 一通り説明すると、エリナがぽかん、とした顔になった。

「え、ちょっと待ってください!?今すぐ来るって……もしもし、もしもし!?」

「ど、どうしたんですか」

 電話でいえばがちゃりと切られたようなものなのだろう、あわてるエリナにサツキが問う。

「……走って来るから待っててほしいと」

「あー……あの子、久々にやる気だわ」

「境内荒れるんだよな。でも、言ってる場合じゃないか」

 シェリルを知る面々が一様にあきれたような表情をするのに対し、つき合いの長くない啓一たちは完全に置いてきぼりであった。

「走って来るって……相当遠いぞ、ここまで」

「すぐに分かるわ」

 サツキがそう言った瞬間である。

 つむじ風がいきなり立ったかと思うと、眼の前でシェリルが片手に何やらファイルを持ったまま、髪をなびかせつつ急停止した。

 この間、わずか五分である。

「……はい?」

 啓一は、何が起こったか脳の処理が追いつかず、間抜けな声を上げる。

「お待たせしました。ことがことですから、車出すのなんか待ってられませんでして」

「……おい、どんだけの速度で走って来たんだよ?」

「そうですね……百メートル八秒フラットが最高ですので、それくらいでしょうか」

「………」

 いとも簡単にすさまじい数字を出して来たのに、完全に啓一は黙り込んだ。

 我々の世界での百メートル走の世界記録は、現在九秒五八である。

 こんな見かけ中学生くらいの娘にそれを二秒近く破る速度で走って来られたのを見て、平然としていろということ自体が無理だ。

「普段見せないけど、シェリルって運動能力すごいから」

「すごいどころじゃないだろ、これ」

 思わず啓一とサツキが話し込んでいると、

「な、何が起きたんですか……?あと、この娘さんは一体?」

 件の紳士がのけぞりなら固まっている。

「あ、し、しまった!……シェリル、この人なんだが」

「エリナさんが言っていた人ですね。失礼いたしました。……初めまして、連邦警察特殊捜査課所属の警視・大庭シェリルと申します」

 ホログラムを見せるや、紳士は腰を抜かしそうになった。

「け、刑事さんですか!?あ、あの、もしかして、私を訊問しに!?」

「待ってください。罪になるようなことは何もしていらっしゃらないのですから、訊問などすることはありません。こちらのみなさんがこういった状況に慣れないからということで、依頼を受けて代わりにお話を聞きに来たのです」

「いえ、訊問され糺弾されるに足るだけの罪が私にはあるのです。人として余りに重い罪が……」

「話していただかなければ、何も分かりません。失礼ながら、大変な苦しみを心に抱えていらっしゃるとお見受けいたしました。それを吐き出すだけでも、少しでも心が落ち着くはずです。どうか、その胸襟を開いてください」

 そう言い、シェリルは頼み込むようにゆっくりと頭を下げる。

 自罰意識がかなり強いと見込んでいたのだろう、今まで見たことのないほどのていねいさだった。

「場所、どうする?社務所使うか?」

「お願いします。……あと」

 百枝が言うのに、シェリルはうなずいて駆け寄ると、

「……あらかじめ、手の届かないところに物を片づけておいてください。はさみやカッターなどの刃物、鉛筆やペンなど棒状のものは特にいけません。どうしてもどかせない家具類以外、ちゃぶ台と座蒲団だけか机と椅子だけかの状態が望ましいです」

 こっそりと小さな声で指示する。

 これは、希死念慮の強い人物を扱う上で肝要だ。周囲の物を兇器として使い衝動的に自殺を図ることがあるため、話を聞く場所へいたずらに物を置いておくのは極めて危険なのである。

 百枝がうなずいて社務所へ走って行くのを見ながら、一同は老紳士を支えるようにして歩き始めた。


 ややあって……。

 一同は、例の「ご祈禱待合所」に座っていた。

 社務所内はどうしても物が多く、到底すぐにちゃぶ台と座蒲団とは行かない。それに対してここは最初から机と椅子だけしかないためちょうどいいと判断したのだ。

「まずは、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか」

かつ三蔵さんぞうといいます」

 老紳士――勝田は、口吻に生えた細いひげを揺らしながら答える。

 改めてよく見ると、歳を取っても堂々とした体躯を維持することが多い狼族の男性でありながら、その躰は異様にやせ細っていた。

「勝田さんですか、よろしくお願いいたします。……当方としては、松村と過去何らかの関係があった方が、今回の事件を松村の犯行と確信して自責の余り早まろうとした、としか聞いていません」

 シェリルが、言葉を選びながらゆっくりと話に入る。

「これで、分からないことがあります。なぜ過去の知り合いが悪事をはたらいたことで、そこまでしようとしたのかということです。今は、全く関係はないわけですよね?」

「はい……やつと関わりがあったのはもう十年以上も前、二ヶ月ほどの間のことです。それ以降は一度も顔を合わせていませんし、やつの方も私のことなぞ忘れてしまっているでしょう」

 一同の顔が、一斉に驚きに変わった。

 そんな昔に短期間関わって別れたきりというのなら、もはや他人である。そんな輩がいくら悪の道に堕ちて犯罪に手を染めようが、知ったことではないというのが普通の認識のはずだ。

 百枝辺りがその辺を突っ込もうとしたのを察知したのか、シェリルが軽く手をやって制止する。

 ここでそれをやらせると、勝田がまた不安定になる可能性があるからだ。

「分かりました。そんな昔に少し縁があったきりの人物の悪行を気にしているというのは、よくよくのことです。もしかすると当時、松村との間に何かよほどのことがあったのでしょうか」

 そこで勝田はごくりとのどを鳴らすと、思い切ったように口を開く。

「その通りです。実は私は、転移して来た松村を保護していました」

「保護を……!?」

 さすがにこれは、シェリルも意外だったようだ。

「……刑事さんの方では、把握していないのですか?」

「このようなデータは警察には残さないことになっていますし、現在松村が関わっている事件とはまるで関係ありませんので特に調べることもしていません。今、知りました」

「そうですか……」

 眼を伏せると、勝田は一つ長い息をついて話し始める。

「元々私は、新星に住んでいました。あれは、十二年前の春になりますか。自宅の隣にある公園に松村が倒れていたのを私が発見したのが、そもそもの発端はじまりでした」

 松村が転移者だというのは、自分の姿を見てひどく驚いた時点ですぐに分かった。

 啓一の場合は気を失ったまま搬送されたため、サツキ側が姿を見せるまで一つ置くことが出来たが、松村の場合はいきなりその場で意識を取り戻したため、注意なしで見てしまった形になる。

「まあ、驚くでしょう。やつの世界に獣人はいないのですから。まして私のようにぜんじゅうの狼族は、怪物の『狼男』とそっくりですからね」

 「全獣」とは全身が動物、すなわちいわゆる「ケモノ」形態の獣人のことだ。サツキのように耳と尻尾だけの場合は「半獣」となる。

「しかしですね、一方で非常に奇妙な男だとも思いました」

「どういうことですか?」

「後から担当の方にも聞かされたんですが、通常転移者は相当なパニックになり苦しむとのこと。生きながら見知らぬ世界にいきなり放り込まれて帰ることも出来ない、そのせいで周囲の人も自分の持ち物も何もかもなくしてしまうからと」

「そうですね……。こちらにも転移された方が何人かいらっしゃいますが、やはり同じ経験を」

 シェリルが啓一たちに軽く手を向けるのに、当の三人は小さくうなずいてみせた。

「ですが松村のやつは、そういう様子を一切見せなかったんですよ。最初はさすがに驚いていたようですが、説明が進むうちにだんだん面白そうな顔つきになって来ましてね。気味が悪かったですよ、最後の方なんかいやににやついて。予想外の反応だったのか、警察の方が困っていました」

 一応、説明を受けても余り衝撃を受けない、もしくは平然としている人物もいるはいる。

 だがその場合、何らかの理由で帰りたいと思わない事情があるものだ。

 一つ目は、元の世界自体が余りに過酷すぎて、帰る気が起きようがない場合。

 二つ目は、親や親族と折り合いがひどく悪かった、精神的もしくは肉体的にいじめや虐待や搾取に遭っていて孤立無援だった、貧困や借金苦にあえいでいたというように、むしろ全てなくした方が本人の救済ややり直しの機会になる場合。

 三つ目は天涯孤独であったり、知人や友人が一切いなかったり、事故などで全てをなくしてその日暮らしだったりと、なくすものがそもそもない場合。

 そして最後はものに執着がない、非常に前向きなど、そういったことを気にしない性格の場合だ。

 だが松村にいくら訊いてみても、

「そのようなことは一切ない」

 というのである。

「両親や親族や知り合いも普通にいて関係は悪くないし、大きな財産もあって非常に安定した暮らしをしていたというんです。なくすものが充分あるというのに、さして衝撃もなくにこにこにやにやですよ、何なんだこの男はと」

「確かに面妖ですね、気にしない性格だとはとても思えませんし」

 シェリルの言う通り、自分たちの知る松村といえば金と権力に執着し、そのためならば反社会的勢力と平気で手を結ぶような男だ。

 ここまで欲の皮が突っ張っているのなら、おのれの財産や持ち物にこだわるのはまず明らかなので、悩みまでするかはともかくそれなりに打撃があるはずである。

「元の世界で金を稼ぐ伎倆うでがあったわけですから、また稼ぎ直せばいいなどと前向きに思ったと解釈してみても……今度はにやついて面白がるという反応が解せませんよね」

「そうなんです。からっとしているのなら単に前向きなだけだと思うんですが、肚に一物あるという感じでしたから、何を考えているのかさっぱり」

 勝田も余りにおかしいので心配になり理由を訊ねたのだが、はぐらかされてしまった。

 こんな不気味な男を居候させるのはぞっとしなかったが、本人が保護を希望した上に断る正当な理由も見つからず、どうにもならなかったのである。

「シェリル、意見いいか。話の途中すまないが」

 そこで、急に啓一が手を挙げた。

「どうぞ、禾津さん」

「にやにやしてた理由なんだが……こう考えられないか?『いい遊び場が出来た』と思ったと。それも、好き勝手にひっかき回せるようなのが見つかったって」

 この言葉に、シェリルがいぶかしげな顔をする。

「そう簡単に好き勝手が出来るように見えますかね?」

「多分だが、『異世界』ってだけで舞い上がってたんじゃないか。ここなら邪魔者がいないとか考えてな。思い通りに行かないことがあっても、追い追い何とかすればいいくらいの考えだろう」

「いや、世界が違えば別の邪魔者がいるはずなんですが。全然現実が見えてませんね……」

 理解出来ない、そう言いたげな雰囲気でシェリルは眉をひそめた。

「じゃあ、元の世界のことを考えないのについてはどう解釈します?」

「単純にもうどうでもいいんじゃないかね。眼の前に与えられた遊び場で、好き勝手放題に遊び回る方が魅力的だっていうんでな」

「……そうなりますか。もう突っ込む気も起こりませんね」

 シェリルがあきれたように小さく首を振り、一同が頭を抱える。

 この二人の会話に、

「ううむ……」

 勝田が低い声でうなった。

 同意しているというよりも、

「あの男ならそう考えるのも分からぬでもない……」

 というような按配である。

「今の禾津さんの説に対し、何か心当たりがありそうに見えますが……」

「ありますね、やつの暮らしぶりを思い返すと。とにかくものを言うでもするでもやりたい放題でしたから。『遊び場』扱いだったと言われれば、そうかとも思えてしまうのですよ」

「……そんなにひどい生活態度だったんですか?」

「ええ、それはもう」

 とにかく松村は礼儀正しそうでいながら実際にはかなり失礼な言動も平気で行い、とがめられようが何だろうがそれを直そうとすらしない男だった、と勝田は言った。

「そもそも、こっちの礼儀作法を守ろうとしなかったですからね。例えば他人を指す時に、種族名で呼び捨てることを普通にやっていました。この世界では失礼に当たるからやめるよう言ったのに、結局最後まで直さずに……」

「ああ、それを直さないのはちょっと……」

 シェリルが、露骨に嫌な顔をする。

 勝田が言う「種族名での呼び捨て」とは、他人を「あの獣人」「そのアンドロイド」などと種族名だけで指すことだ。日常生活においては相手を動物扱いしたも同然と見なされ、失礼な行為として強いひんしゅくを買う。

 このため中立的な表現として「人」を使うか、種族名を含めて指す必要がある場合は「獣人の人」「アンドロイドの方」などと人として尊重する意思を示す表現を使うのが常識だ。

 子供でも覚えられるようなものなので、それを守らないとなると眉をひそめられても仕方ない。

「しかも、言い方が少々嫌らしくて。どことなく他の種族を見下しているような……。本人はそのつもりはないのだろうと思っていたんですが、獣人とアンドロイドをまとめて『亜人』と何度も呼んだ時点で、それも怪しいだろうと思い直しましたね」

「うわあ……それは一番しゃれにならないですね。特にアンドロイド込みは」

 この話に、シェリルの顔が思い切り引きつった。

 この世界で「亜人」という言葉は、実在の種族を指す場合は侮蔑語や差別語となる。歴史的文脈の中での登場や学術用語としての使用、また芸術的表現としてのやむない使用は容認されているが、それ以外の場合は厳に忌まれる語だ。

 しかも本来の意味からすれば生物であることが前提なので、生物ではないアンドロイドを入れると揶揄や皮肉の意味もこもり、不適切を通り越して悪意のある表現以外の何ものでもなくなる。

「こんなことを言うような人ではないでしょうけど……」

 啓一もそう言われつつ、禁句中の禁句の一つとしてサツキからいの一番に教えられたほどだ。

「郷に入っては郷に従えという言葉を知らないんですかね。適応出来ないだろうと悲観していた俺ですら、そういうところは守ったってのに……合わせる気がなかったわけですか」

「要はそうでしょう。それも多分はなから……」

 勝田は、深いため息をついてみせた。

 自分が獣人、それも動物そのものの姿をしているため、余計にこたえたのだろうか。

 同じく獣人であるサツキも、その気持ちが分かるのか気の毒そうな目でその姿を見ていた。

「これだけでも困りものだったのですがね、それ以上にひどいところが山ほど……」

 特にひどかったのが、自分のミスに対する態度だったという。

 どんなに人に迷惑をかけたとしても、

「とにかく自分は悪くない、他人のせいだ」

 そう自分勝手な理屈をこねて、自分の非を全く認めようとしなかったのだ。

 そのような思考であるから、迷惑をかけた相手に対して謝るという大人として初歩の初歩のことも一切しようとしなかったという。

「私相手だったりほんのささいなことだったりすれば謝ることもありましたが、『これはすみません』と実に態度が軽い上、ほんとに申しわけ程度にすまなさそうな顔をするだけで……。とりあえず謝っておけという思考がありありと見て取れましたよ」

 この松村の行動により、勝田のみならず時に他人にまで大きな迷惑が及んだこともあった。

「余りにも多いので、一番端的なのを例に挙げましょうか。いつでしたか、毎日夜中にものをがたがたいじるようになりましてね。それが隣に響いてしまって、住んでいたアンドロイドのご夫婦が『子供が勉強に集中出来ず困っている』と抗議をしに来たんです」

 当然音を出した松村が謝ることになるのが道理だが、何と松村は、

「そちらが敏感すぎるだけではないでしょうか。それにアンドロイドなら、自動で耳をふさげると聞いたことがありますが。それはお試しにならなかったんでしょうか」

 悪びれぬ顔で言い放ったというのである。

 この言葉に、烈火のごとく夫婦が怒り出したのは言うまでもなかった。

 勝田が何とか取りなして許してもらえたのだが、当の松村は、

「ふうん、アンドロイド同士でも子供なんて出来るんですか。生物じゃないのに」

 などと、どうでもよいことをにやにやしながら言っている始末であったという。

「うわあ……失礼どころじゃないですね」

 松村の言うことには無茶があった。確かに耳をふさぐ機能は存在するが、あくまでオプションのためつけていない者の方が圧倒的に多い。

 それにアンドロイドの妊娠と出産に関しては、種族長年の悲願として壮絶な苦労の末に実現した経緯いきさつがあるため、このように小馬鹿にするのは種族自体に対する侮辱だ。

 もはやこうなると非を認めないだの謝らないだのを通り越し、相手に対する悪意すら見える。

 さすがにこの時は勝田も強くいさめたのだが、

「ちょっと強く言いすぎましたね。ご迷惑をおかけしました」

 論点がずれている上に口先だけと言わんばかりの謝罪をされ、あきれ果ててそれ以上何か言う気がなくなってしまった。

 シェリルは、もはや完全に青筋を立ててしまっている。

 私情に飲まれまいと思っても、松村の言動、なかんずく自種族であるアンドロイドに対する侮辱がひどすぎて、さしもの彼女も怒りが押さえきれなくなりつつあるようだった。

「それにしてもひどいですね……。確かデータによれば当時四十一歳のはずですが、とてもそうとは思えません。始末の悪い悪童じゃないですか」

「そうです、まさにそうです。世間を馬鹿にしているわっぱがそのまま大人になると、こうなるのだろうと思いました」

 松村が来てから、この間実に一ヶ月もない。

 その傍若無人な振る舞いに疲れ果てた勝田は、ほとんど何も注意することがなくなり、せっせと尻ぬぐいをするだけの日々を送るようになってしまった。

 しかしそんな勝田の心が、とうとう折れてしまう日が来る。

 ある時、どうやったらこんな風になってしまうのか気になった勝田は、いろいろと口実をつけて松村に生い立ちを訊ねてみた。

「……好奇心は猫をも殺す、それを実感させられるとは」

 勝田は、そこで再び深いため息をついて首を振る。

 松村の口から飛び出したのは、過去の「武勇伝」であった。

 啓一は、この単語を聞いて嫌な予感を覚える。

 普通ならともかく、この手の人物が「武勇伝」とのたまう場合、その内容は決まっている。

「もしや……昔の悪事自慢をしたんですか」

 このことである。

 過去に何らかの悪事をはたらいていた人物が、「わるだった」「やんちゃしていた」などと言ってそれらを正当化し、我が戦功を聞けとばかりに胸を張って語るというのはよくある話だ。

「そういうことです……。正直聞けば聞くほど、頭が痛くなって来ましたよ。まず、小学校のいじめからいばるんですからね。そして、いじめられっ子が悪いの一点張り」

「……こりゃもう、相当悪質なやつだ」

 しょっぱなからろくでもないのが飛んで来たとばかりに、啓一が頭を抱える。

「まあ延々とその調子でしたが、その中でもひどいを通り越して犯罪、いやそれよりはるかにおぞましい何かというべきものが……」

 それによると……。

 大学生の頃、松村はさる同好会に入っていた。

 しかし素行は大変悪く、特に人の欠点を重箱の隅をつつくようにあげつらい、それをねたにして執拗にいじくり遊ぶことを楽しみとしていたという。

「本人はあくまでおどけているつもりで、うまくコミュニケーションを取っていると思っていたようですがね。現実にはまるで嫌がらせですが」

 もっともみな穏やかで争いを好まぬ性格であったことから、心中嫌がっていても適当にあしらうことで波風を立てないように済ませていた。

 これが、松村を増長させてしまうことになる。

 何と松村はある女性会員を狙い撃ちにし、嫌味や当てこすりを頻繁に言い、時に議論を吹っかけてもてあそぶなどの精神攻撃を開始したのだ。

 その女性会員がなあなあを嫌い、唯一自分に対して反抗の意思をはっきりと見せたことから、

「生意気だから凹ませてやる」

 などと考えてやりはじめたようである。

 最初は何とかかわしていた彼女だったが、部室外でもつきまとわれるという度を越した執拗さにさすがにまいってしまい、松村を嫌って部室に来なくなってしまった。

 ここまで来るとただのストーカーなのだが、松村本人は、

「余りにかわいげがないから、いろいろ注意してやっただけなんですがね。しょせん女に男の気づかいなんて分からないんですね」

 いけしゃあしゃあと言ったという。

 会員たちは、これで松村から露骨に距離を置くようになって行った。

 それでも松村はさらに調子に乗り、今度はさらに別の会員を手にかけようとしたのである。

 だが、これが運の尽きだった。これに気づいて怒りを一気に爆発させた会員たちにより、除名処分を食らって放逐されたのである。

 ところがこれでもこりず、会員数人が自分たちの高校時代の同級生と一緒にラウンジへ集まって話をしているところへ乱入し、仕返しとばかりに散々に暴れ回った。

 今度は器物損壊などを行ったため大学側に被害届が出され、松村は停学処分を食らうことになったが、復帰後も自己正当化を続けて元いた同好会を誹謗中傷し続けていたという。

 その誹謗中傷を耳にして耐えかねた松村と同じゼミの学生が会長にその話をしたところ、たまたま聞いていた件の女性が体調を崩し、嘔吐してしまったとか……。

 獰悪にもほどがあるが、松村はその話すらも女性を嗤笑しながら話したそうである。

「全く、どいつもこいつもですよ。大学の連中もですが、あの頃は親もやたら口うるさく干渉して来て往生してましたね。大体、私は当時鬱病の気があったんです。そういう人物に寄ってたかってこういうことをやりますか……ほんとどうしようもない」

 挙句の果てには、この言い草だ。

 一字一句が突っ込み待ちをしているのかと、常識人なら疑ってしまうことだろう。

「親とはさして何もないとの話でしたが、これは違うと直感しましたね。『親子仲に問題がないから何もない』のではなく、『見捨てられたから何もない』なのではないかと。それに鬱病とは何ですか、鬱病とは。医者でなくとも、詐病だと分かりますよ」

 勝田の言うことは、恐らく的を射ていると言っていい。

 殊に鬱病を騙って自分の反社会的行為を正当化しようとするなぞ、到底許されることではない。

 鬱病患者が時に理不尽または非常識な言動で他人を困らせることはよくあるが、本物の患者ならば気づけば烈しい自己嫌悪に陥りこそすれ、鼻高々に自慢するようなことはないはずだ。

 このような詐病行為は、ただでさえ差別や偏見に遭いやすい鬱病患者への侮辱である。

 これを聞いた勝田は、松村ののど笛を引っつかみたくなるほどの怒りにかられた。

 むろん、本当にやるような非常識な人物ではないが、

「あそこでやっておいた方が、のちのち世のため人のためになったのでは」

 そう本気で後から思ったほどである。

「まあ、あんな下衆の血でこの手を汚して、監獄行きにされるなぞまっぴらごめんですが……」

 刑事の前だというのに殺意を隠さず吐き棄てる辺り、その怒りの強さが理解出来ようものだ。

 斜め上を行くどころか、もはや嘘だと言ってほしいと思うほどの松村の人格破綻ぶりに、一同は完全に固まっている。シェリルまでもだ。

 みな、驚きというより怒りである。殊に女性を追いつめてトラウマを植えつけたという話があったことで、女性陣は怒りが頂点を超えて蒼白にすらなっていた。

 ややあって、ようやく啓一が、

「……サイコかこいつは」

 口角を引きつらせながらぽつり、と言う。

 むろんそちら方面の学者ではないので、本当に松村がサイコ、すなわちサイコパスであるかは断定することなぞ出来ぬ。

 しかし良心の欠如に他人への無慈悲ぶり、罪悪感もなければ責任を取る気も力もなし、しまいに自己中心的と典型を見事になぞっている以上、そう言ってしまってもある程度は許されよう。

「確かに、育ちどうこうって話ではないですね。最初から素質があったのでしょう」

 それに応じてようやくシェリルがそう言うと、勝田の手に触れゆっくりと開かせる。

 怒りの余り勝田の手のひらには狼独特の鋭い爪が食い込み、軽い出血が起きていた。

 百枝が社務所から救急箱を急いで持ち出して来たのを借り、手早く手当を行う。

「……すみません、年甲斐もなく」

「いえ、お怒りのほど、当然と思います。あれを聞いて、何とも思わない人なぞいないでしょう」

「ありがとうございます。……もうこれを聞いてしまいましたらね、何でこんな男の面倒を見なければいけないのかと馬鹿らしくなって来まして」

 ほとほと愛想をつかした勝田は、区役所に相談に出かけ職員と今後の対策を相談することになる。

 保護せずとも充分に暮らして行けると思われるから、というのが表向きの理由だが、

「こんな異常者と暮らしていたら自分がどうにかなってしまう」

 というのが本音であった。

 だが何をするか分からないという恐れから本人を連れて行くことが出来ず、相談で足踏みの状態が続いたという。

 一方松村は、勝田が自分をうとんじているのに気づいたのか、それとも単に自立したいだけだったのかは知らぬが、断りもなしに就職活動をするようになっていた。

 そして必ず面接で落ち、勝田相手に自分の態度を棚に上げ会社や面接官の悪口を言う。

 もはや松村の罵詈雑言を聞かぬ日はなくなり、心なしか食欲が落ち、抜け毛も増えた。

 このため、一新興国産業の子会社に就職すると聞いた時も、

(これでようやく厄介払いが出来る……)

 まず最初にそう思ったほどであったという。

「ですがよく考えてみれば、あんな態度の人物を雇うっていうのは通常じゃ有り得ません。やくざで有名な一新興国産業の子会社といえども、さすがにこんな男はお断りでしょう。それなのにどこを気に入られたのやら……」

 疑問を感じた勝田がどういう理由で採用されたのかを聞き出したところ、

「ああ、私が暴力団の扱いに慣れているからです」

 とんでもないことをしれっと言ってのけたというのだ。

「驚いたどころか、震えが来ましたよ。何を言ってるんだこの男はと……」

 そして呆然とする勝田の前で、そのまま松村は自分の元の世界での暮らしぶりをまたしても「武勇伝」よろしく語り始めたという。

「正直、めまいで倒れるかと思いました。多数の暴力団関係者と日常的に関係を持っていて、何度となく便宜を図ってもらったとか情報をもらったとか、そんな話を得意げに話すんですよ」

 たまりかねて最低の行為だとなじる勝田に、松村は、

「これも世渡りの一つですよ。ばれなければどうということはありません」

 そう悪びれず答えてみせたというのだから、実にあきれたものだ。

 そもそも反社会的勢力とのつながりがあったなどということを、こんな風に臆面もなく自慢出来るという神経がまるで分からない。いくら何でも破廉恥にもほどがあった。

「そうだったんですか。道理で、やたら反社と親和性が高いと思ったら……」

 シェリルが、なるほどという顔をする。

 転移する前から反社会的勢力と渡り合っていたのなら、こちらの世界でも同じ要領で成り上がって甘い汁を吸ってやろうと考えるのも当然と言えた。

「もう何も言いたくなくなりましたよ。……しまいには、へまをやって自滅してしまえとまで思っていました。すっかり心がすり減っていたのでしょうね、私も」

 果たして松村は保護されてから二ヶ月後、散々に勝田や周囲の人物の生活をかき回し、精神的苦痛を与え続けた末に出て行ったのである。

「いやもう、私も七十年以上生きて来て、あれほどまでの奸物に会ったことはありません」

 勝田はなるべく早く忘れようと努めたが、完全なトラウマとなって無理であった。

 しかも、そこからがいけない。鬱病を発症してしまった結果、

(もしかすると、あの男が人に迷惑をかけているのではないか?)

 そのような不安にとらわれ、いつの間にか松村がどうしているか知ろうと、一新興国産業や関連会社の動向を探り始めたのだ。

 その結果、松村が反社会的勢力の力を借りて子会社を立て直したことや、その業績を買われて本社に部長待遇で入ったことなどを知ることになる。

「自分でもよせばいいのに、と思ったのです。しかし、心が不安を訴えて止まらない。それで出て来る情報は、あの男がどんどん増長して闇社会に突っ込んで行っているという話ばかりです。でも、止まらなかったのです」

 心の病独特の不合理な行動に完全に囚われた勝田は、定年後はもっと松村のことにかまけるようになってしまい、ついには一新興国産業の緑ヶ丘移転の際にここへ越して来てしまった。

 そこで見たものが、さらに勝田を追い込んだのは言うまでもない。

 ついには自罰感情が顔を出してしまい、

(自分は天魔に等しい男を保護し、街一つ苦しみの底に突き落としてしまった罪深い男だ)

 先ほど自殺を図った時のような極端な思考に走るようになってしまったのだ。

 ここまで自分を追いつめている状態で、松村がとうとう人を公衆の面前で手にかけたかも知れぬということになったら、希死念慮が起こるのも仕方がないと言える。

「お嗤いください、老境にあって小童につけられた傷を引きずり続けるこの年寄りを……」

 自嘲するように、勝田は言った。余りに痛々しい言葉である。

「……嗤いなどしませんよ。それほどの傷を負わされたのですし、何より病気だったのですから。憎むべきは、間接的にあなたの人生を奪った松村徹也という男です。あなたのせいではありません」

 シェリルが、ゆっくりとなだめるような声で言った。

 心の傷は、同じ傷でも下手な肉体の傷よりはるかにたちが悪い。

 特に心痛むのが、働き盛りだっただろう五十代後半から定年後第二の人生を見つけようという七十代前半までという時期を、松村によってつけられた心の傷により実質潰してしまったことだ。

 自分で決めたことだと断ずるならいくらでも出来るが、そう突き放すには酷というものだろう。

 松村がこの無辜の紳士の十二年を奪った、そう言ってもいいはずだ。

「ありがとうございます……そう言ってくださると救われます……」

 勝田はシェリルに向けてしきりに頭を下げる。

 その眼からぱらぱらと泪が床へ落ち、やがて嗚咽となって声に現われた。

 引っ越し以外にどんな暮らし向きをしていたのか、どんな治療を受けていたのかは分からないが、こうやって一気に吐き出せたことが、この老紳士にとってどれだけの救いになったのか……。

 泣き続ける背中を、シェリルが小さな手でさすった。種族が違うとはいえ、まるで近所の子供がなついた親戚の老爺を慰めているような、そんな姿である。

 眼からこぼれ落ちる泪が床を黒く濡らす光景を、一同はやるせない表情で見つめていた。



 ひとしきり泣き濡れた勝田は、ややあってハンカチで泪をふきながら顔を上げると、

「……それにしても、ここへ来て転移者の方と三人もいっぺんに出会うことになろうとは。私はつくづく、縁が深いようです」

 感慨深げにそう言った。

 いくらか声が軽い。全て吐き出したことで、心のつかえが取れたと見えた。

「刑事さんによると、みなさんはどうやらかなり大変だったようですね」

「ええ……失ったものが大きかったのもありますが、何より前の世界の知識が多かれ少なかれ無駄になる可能性がありましたから。下手すれば、何の役にも立たない穀潰しになる可能性もあったわけで……それで生きて来た者には、つらいものです」

 三人を代表して、啓一が答える。

「そうですか……あの男に、お三方の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものです」

「え……?」

「そうじゃありませんか。そうやってみなさんが悩まれたのは、私たちの世界という異世界を尊重しようとしたからではないのですか?」

 勝田の意外な言葉に、三人は瞠目した。そんなことなぞ、考えたこともない。

「いや、待ってください。私は役に立たないとくさって隠棲を決めこんでいたんですよ。身勝手にこの世界へつらく当たって、目をそむけていたという方が正しいのでは。尊重にはほど遠い態度です」

「俺も似たようなものですよ。役に立たないんじゃないかとずっとおびえていた上、実際にうまく行かずにため息と愚痴の日々を続けている状態でしたし。それで人に迷惑もかけているんですよ」

 ジェイと啓一が即座に否定した。

 自分が役に立たないことに対して自嘲し、しまいには互いに相憐れみすらした者のどこがこの世界を尊重しているというのか、そう思ったのだが……。

「役に立たないのではないかという懸念は、役に立ちたいという気持ちを持つからこそ生まれるものではありませんか?そこにあるのは今自分のいる世界へ大なり小なり貢献しようという、強い意思に他なりません。少なくとも、ほしいままに人や物の尊厳を破壊して回ることなぞ思いつきもしますまい。充分、この世界を尊重している証拠ですよ」

「確かに役に立たなければという気持ちはありますが……突き放した見方をすれば、それは結局とのころ私の自己満足、もっと言えばエゴでしかありませんよ?」

「そうですよ、結局は俺自身の居場所がほしいだけの浅ましい行いです。そのためにさんざ人を困らせてれば世話はありませんよ」

「自分勝手、エゴで大いに結構」

「………」

「それで何が悪いのですかね?人はみなどう格好をつけていようと、その言動は多かれ少なかれエゴに収束するものです。それにいろいろ迷惑をかけたと言いますが、自分だけでなく世界のためにと苦悩しもがきながら生きている人を、いたずらに責められるものではありません。その背後にある尊重の心をくみ取るべきでしょう」

 勝田の言葉に、二人は戸惑うように眼を泳がせた。

 その時、エリナがまっすぐな眼で口を開く。

「マスター、禾津さん。私は、勝田さんの意見に賛成します。私もこの世界に来てから、何の役にも立てないと悲観していたことがあります。しかし思い切ってUniTuberを始めファンの人たちと触れ合うようになったことで、この世界にある程度の貢献を出来るようになったのではないかと思っています。私の活動で、いろんな人の心に何かの感動を残せるわけですから……」

 実際にUniTuber活動で十万人もの人々を魅了しているエリナの言葉は重みがあった。

「お嬢さんは、実体験として分かっておられるのですか。……誰かの、何かの役に立ちたいと考えようとするだけで、いやさここに適応してどうにか生きて行こうと思うだけで、充分に世界そのものの尊重であると私は思うのですよ」

 勝田の眼は、先ほどと打って変わって青年たちを慈しむ老爺のそれとなっている。

「……ありがとうございます。お言葉、確かに受け取りました」

 啓一がそう言って頭を下げるのに、二人もならって頭を下げた。

 それに優しく微笑むと、勝田は、

「感謝されるほどのことではありません。……私はこの世界を公園の砂場か何かのように勘違いして、好き勝手にかき回して喜んでいる子供のような男を、本当に間近で見て知ってしまいましたからね。余計そう思うだけのことです」

 静かに、しかしどこか怒りを込めて言ってみせる。

 それからややあって、

「さて、これでお話するだけのことはしましたが……これから、どうすればいいでしょうか」

 勝田が打って変わって困ったような声で訊ねて来た。

 この問いに、シェリルは少々迷いを見せる。

 話をしているうちにすっかり落ち着いた勝田を見て、

(これならば、もう自殺なぞ図るまい……)

 そう思ってはいるのだが、やはり心配でないといえば嘘になるのだ。

「個人的には、病院の受診をお勧めいたします。やはり希死念慮が出たわけですし……」

 とりあえず、そう言うだけに留める。

「分かりました。すぐ近所に、かかりつけの病院がありますので……そちらに行こうかと思います。最悪入院も有り得るかも知れませんが、仕方がありません」

 松村が内乱を起こす可能性を考えると入院した方が安全であろうが、それは医者の判断だ。

「では、植月署から車を出してもらいます。まだ残っていると思われますので」

「ありがとうございます」

 ゆっくりと頭を下げた後、勝田はシェリルをまっすぐに見て口を開く。

「……刑事さん、どうかあの天魔を誅滅してください。おのれの上に天なきがごとく振る舞う者に、どうぞ雷霆らいていを」

「しかと、承りました」

 厳かな声で乞う勝田に、シェリルが確かな声で答えた。

「……すみません、植月署ですか。連邦警察の大庭です。保護の必要がある方がいらっしゃいますので、植月神社参道下まで車を出していただけますか」

 内蔵通信機を起動して連絡し待つこと十分ほどで、市警の警察官が境内まで上がって来る。

「それでは、失礼いたします。このたびはご迷惑をおかけし、大変申しわけありませんでした」

「いえ、構いません。どうぞ、お大事に」



 警察官とともに境内を去る勝田を見送ると、シェリルはため息をついて座り込んだ。

「……本当に罪深い男です、下衆だ下衆だとは思っていましたが、ここまでだったとは。恩を仇で返すなどという生やさしいものではありませんよ」

「あたしがいてほんとよかったぜ。あれで自殺してたら、あの人ほんとに浮かばれないなんてもんじゃなかった。ある意味で間接的に殺されるところだったんだからな……ほんとに、松村って野郎は生きてること自体が罪みたいなやつだ」

 吐き棄てるように百枝が言ったところで、シェリルの持っていたファイルがばさりと落ちる。

「おい、落ちたぞ」

「あ、いけない。とと、取れますかね……」

「俺が拾うからいい。……と、何だこれ?号外か?」

 ひょいと拾い上げてみると、ファイルの中に新聞の号外がはさまっていた。

 大きさを見るに、一枚は地方紙、残り二枚は地域紙のようである。

「そうなんですよ、緑ヶ丘で発行されている新聞の号外を資料として集めたんです。ずっと持ったままだったのでうっかり持って来てしまいました」

「地方紙はまだしも、地域紙でまで号外だって?俺のいた世界じゃそんなことするとこはなかったぞ。一般売りなしとか土日休刊とかも平気であって、そういうのとは無縁のはずなんだが」

「この街では、全国紙が普及していないんですよ。そのため地方紙はおろか、地域紙までもがその役割を肩代わりせざるを得ませんでして……全国でもかなり珍しい『地域紙の号外』なんてものがあるんです。地方紙は『緑ヶ丘日日新聞』、地域紙は『みどり新報』『桜見新聞』の二紙で、号外となるとそのどれかの出したものを手にすることになります」

 そんなことを話しながら号外を広げていると、後ろから百枝が、

「『桜見新聞』!?お前それ、うっわあ……」

 すさまじく嫌な名前を聞いたと言わんばかりの声を上げた。

「あ、ああ……倉敷さんには、軽くトラウマものでしたね……」

「トラウマってほどじゃないがな、そこらの人より嫌悪感はあるぞ」

 そう言いつつ、百枝はごみどころか糞便でも見るような眼で『桜見新聞』を見る。

「……あの、何かあるんですか?そういえば、ホテル備えつけの新聞の中にもなかった気が」

 サツキが言う通り、思い返すとこんな名前の新聞はホテルどころか、植月町のどこのコンビニや新聞販売店でも見たことがなかった。

「サツキさん、そりゃそうさ。この『桜見新聞』は、桜通の反社が関わってる新聞なんだよ」

「えッ……」

 この言葉に、二人はそろって眼をむく。さすがにそれは、予想が出来なかった。

 百枝によるとこの『桜見新聞』は、さる暴力団がしのぎとして発行しているものなのだという。

 外面は一見すると普通の新聞だが、中身は低俗なゴシップや真偽不明の薄っぺらい内容の記事が強烈な煽り口調で書かれているといった、はてカストリ週刊誌か夕刊紙かと思うような下劣さだ。

「いわゆる『赤新聞』ってやつだよ。いや待て、もっとバタ臭く『イエロー・ペーパー』って言った方がいいかな。あれは米国のもんだけど」

 当然、かたぎの市民がこんなものを読むわけがないし、購読なぞとんでもない。

 植月町をはじめ郊外では完全に追放されており、読まれているのも売っているのも中心部だけだ。

「でもなあ、積極的に読んでる連中なんて桜通周辺のやつらだけだよ。その他は、無理矢理購読するよう迫られた人ばっかりなんだ」

「そういや暴力団って、そういうことしますよね……私も聞いたことがあります」

 我々の世界でも、暴力団が高価な書籍などを買うように強要するということがある。

 さすがに新聞を購読させるというのは聞いたことがないが、市民を脅しつけることにためらいのないこの街の暴力団連中なら、それくらいの小づかい稼ぎはやりそうだ。

「実言うと『高徳』やってた時に、一番件数が多かったのがそいつの件でさ。勧誘人の動向追っ駆けて、狙われた家に対して来るから逃げろってやってたんだ」

「ああ、なるほど……」

 それならば、この強い拒否反応も納得出来る。

 何が悲しくて大仰に「白桜十字詩」まで使って、新聞勧誘から逃げろと言わなければならないのか、そう考えると実行役としてはやりきれぬというところか……。

 ともかくこんなものがあるという時点で、この街の汚染ぶりが改めて実感されるところだ。

「……しっかし、妙だな。あそこも号外出すけど、申しわけ程度の短い文と汚い写真が載ってるだけだぞ。それこそ体裁だけでも、かたぎの新聞に見せかけとこうって感じでさ。こんなにみっちり文がつまってたためしなんてないぞ」

「ええ。なので、私も部下から受け取って妙だと思い続けてるんですよ」

 シェリルが盆の窪に手をやって、難しい顔をする。

 その時順番に号外を見ていた啓一が、

「……は?何だよこれ?」

 素っ頓狂な声を上げて固まった。

 手には、件の『桜見新聞』の号外がある。

「おいおい、誤植だらけじゃねえか!何ヶ所間違ってんだよ!」

 このことであった。編集が本業の啓一としては、そこに眼が行ったらしい。

「助詞を中心にえん(不要な文字)だらけ、その一方で変な空白もあるし……いくら急いだとしても、こんなのさすがに有り得ないぞ。文章も恐ろしく下手糞だしな」

 啓一は、完全に編集者の顔になってばしばしと号外をたたき始めた。

「トルツメ、トルツメ、ツメ、ツメ、ツメ……」

 ついには誤植場所を指差しながら、呪文のように校正記号を口頭で言い始める。

「き、気持ちは分かりますが……それは今関係ないと思いますよ」

 いきなりのことに引き気味になりながらシェリルが言うと、啓一はやっとこちらへ戻って来た。

「いっけね、職業病だわこりゃ。どうしても誤植を見つけると、トルだツメだ言いたくなるんだよな。しかも言ってると、いやにリズムよく、て……」

 照れながらそこまで言ったところで、啓一が一気に真顔になる。

「トルツメ……いやトルだとすると、まさか。おい、シェリル」

「え、な、何ですか?」

「この号外、コピーさせてくれないか。確か参道下の店で出来るはずだし」

「えッ、いいですけども……」

 突然頼まれ、シェリルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔となった。

 恐らく朱入れだろうが、関係ないと言われて同意したというのにどういうことなのか。

「コピーならうちの社務所にあるから、やるならやるよ。……何しようってんだい」

 百枝が怪訝そうな顔をしながら訊ねるのにも、

「いやあ、ちょっと妙な予感がするんで。お願いします」

 啓一は急いで万年筆を取り出しながら言うばかりだ。 

 百枝がコピーを持って来るや、その場で朱入れを開始する。

 そして大急ぎで終えると、今度は空中ディスプレイを出して何かを調べ始めた。

 一同が完全に置いてけぼりにされているのも構わず、ひとしきり作業を終えると、啓一はシェリルの方に向き直る。

「すまないな、ほったかしちまって。これ、俺の仮説が当たってるとすると、結構やばいぞ」

「仮説?」

「ああ。この誤植、もしかすると暗号かも知れないと思ってな」

 これに一同がざわめいた。

 さすがにそんなことなぞ、思いつくわけがない。

「ただの誤植にしちゃ、不自然なんだよ。空白なんて誤植じゃそうあるもんじゃないぞ?改行間違えてるとかじゃなけりゃまずない」

「確かに、余り聞いたことも見たこともないわね……。大昔の文献でも稀にある程度だし」

 恐らくサツキが言うのは、今の我々から見てもかなりの昔、金属活字時代のものだ。

 その頃の印刷物ですらそうあるものではないのに、二十三世紀のものにあるかというと否だろう。

「あと、誤植の配置が意図的にしか見えない。一行おきに間違えてるんだ。こんな都合よく間違えるとか、あってたまるかよ」

「うわ、本当ね。朱が入るとよく分かるわ」

 サツキが指でなぞるのを、一同がのぞき込んでうなずいた。

「それでこれが、どういう暗号だというんですか?」

「さっき、俺が言いかけたと思うが……これを校正すると『トル』と『ツメ』が連続してリズムよく続くことになる。これさ、通信手段と考えた場合、似たようなものがないか?」

 これにシェリルはしばらく考え込んだが、ややあって、

「……もしや、モールス信号ですか!?」

 はたと膝を打ってみせる。

「当たりだ。まあ正直なこと言うと、俺も語呂が似てるから程度の発想だったんだが、ほんとに『トン』と『ツー』に置き換えてみたら、文章になっちまったんだよ」

 そう言うと、啓一は号外の朱字を読み上げ始めた。

「トルトルツメツメツメ、ツメツメトルツメトル、トルトル、ツメトルツメトルツメ、トルトルトルツメ、トルトルトル、ツメトル、トルツメトルツメツメ。これをモールス信号にすると……『2ジサクラタテ』になる。一番最初は、文字だと通じないんで数字と解釈した」

 空中ディスプレイを見て確認しながら言う。変換サイトを使っていたのだ。

「『2ジサクラタテ』?『2ジ』は時刻の『二時』、『サクラ』は木の『桜』、『タテ』はそのまま足で『立て』でしょうか……って!?」

「ああ。こいつの性質を考えると、『桜』と聞いて『桜通』を連想せざるを得ない。そして、内乱計画の存在を考えると、『立て』は……分かるだろ?」

 啓一の言いたいことを理解したのか、シェリルがうなずく。

「『十四時に桜通で蜂起せよ』……こういう意味だと解釈するわけですね?」

「そういうことだ。伝達相手は場所的に暴力団関係者だろう」

 つまりこの号外には、桜通周辺の暴力団に武力行使を呼びかけ騒乱を起こすよう促す暗号が仕込まれていると言いたいわけだ。

 桜通周辺に蟠踞ばんきょしている反社会的勢力のうち、暴力団やその下部組織としてある程度組織化された破落戸集団には、一新興国産業や橋井地所の息がかかっている。

 一応会社を介した形にはなっているが、いずれも元から松村や吉竹が縁を持っていた組織ばかりだ。今までの流れからすると、今や事実上松村の手中にあると言っていい。

「恐らくだが、警察が計画阻止のために動いてるのを攪乱しようってんじゃないかね。この手の騒乱を起こせば、そっちへ目を行かせられるからな」

「理屈は分かるけど、そもそも通じるのかしらこれ?全員が気づくとは思えないし、今の感じだと読むのに編集の知識がいるような気がするんだけど」

 これはサツキだ。

 下の連中なら、少々変だと思っても読み飛ばして暗号の存在に気づかない者も多いだろう。

「全員が気づかなくても問題ありません。ある程度上の人間だけに暗号の存在と解読法だけ教えておいて、読めたら結果を下に下にと次々と伝達させて行けばいいんです。ここの暴力団は組織力が異様に高いですから、それにまかせておけばたちまちに行き渡るでしょう。読み方は文字が余計なら『トン』で空白なら『ツー』と教えておけばいいだけ、編集の知識はいりませんよ」

 シェリルが言う通り、緑ヶ丘に巣食っている暴力団は何年も街一つを占領していることもあってか、他の街のそれよりも組織ががっしりとしていることが確認されていた。

 これならば末端まで素早く周知され、すぐに蜂起に移れる態勢となることも可能だろう。

「ただ連中は極めて感情的かつ暴力的な思考で動いていますから、いざ蜂起したところでどれくらいまで統率が取れるかは怪しいものです。恐らくですが、下の方はすぐに暴徒化するのではないかと。そうなると鎮圧する側としては厄介です」

「うーん、暴徒化ね……」

 シェリルが盆の窪に手をやって言うのに、サツキがうなった。

 軍隊や武装組織のように、ある程度理性的・理知的な構造がある組織ですら軍紀の乱れで暴徒化することがあるのだ。いわんやその逆の構造の組織をや、である。

「それ、本当に『騒乱』以上でも以下でもないでしょ。そんなことして、意味あるのかしら?元軍人集団とかテロ組織とか、もう真っ正面から戦えるだけの武力があるんだから、それをぶつけて来れば早いでしょうに。こっちだって、迎え撃つ気満々なことくらい分かるでしょ」

「どうせいきなり攻めてどんぱちやるより、先に小さな騒乱を起こしてやった方がそれらしいとか思ってんじゃないのか?お手本のやり方がそうだからさ」

「ええ……」

 啓一が眉をしかめて言うのに、サツキは思わずうんざりとした顔になった。

 そうである。松村の目的は「悪の組織」の再現にあるのだから、その行動様式を手本にして動こうと考えているはずだ。

 実はあの手の組織も、出自や技術力の高さ、世界中に支部があるなどという設定を考えると、それなりの国の軍隊との戦争も可能になるほどの大規模な武力行使が可能と考えていい。

 それを日本国内のごく一部、それもヒーローやヒロインが住んでいるすぐ近くで、まだるこしく小集団での騒乱を起こして回っているのだから、まるで無駄もいいところだ。

 その無駄を現実でもやろうと思う時点で、松村の頭の中ではこれが「正道」なのだろう。

「タイミングのことも突っ込もうかと思ったけど、それもこれで説明出来ちゃいそうね」

「そうだな。お手本も何でそこでやるかなってタイミングで、『やりたいからやる』と言わんばかりにやったりするしな……」

 とうとう二人は、頭を抱えてしまった。

 これが創作ならば「様式美」と苦笑で済ませられるが、ここは現実である。

 つき合わされる身としては、いい加減にしろと言いたいところだ。

「ともかく、禾津さんの仮説は参考にする価値があると思います。やり方がアナログではありますが、裏をかくということも世の中にはあるわけですから……」

 技術の進歩により既に廃れた手法や単純すぎる手法をあえて使うことで、逆に敵方の虚を突いて出し抜くなどということはよくある。

 そういう意味でも、こういう意見に耳を傾ける必要と価値は充分にあるのだ。

「ありがたい。もし当たってるとなると、十四時までにどうにかせにゃいかんだろう。機動隊や特殊部隊って、今すぐ展開出来るようになってんのか?」

「今回は事件内容が内容ですし、出来るようにはなってます」

 現在緑ヶ丘には事件の重大性を鑑みて、かなりの数の機動隊員が動員されており、密かに特殊部隊も入って来ている。

 このためその気になれば、桜通周辺を囲い込むことくらいは朝飯前なのだが……。

「いかんせん、そうと決まったわけじゃありませんからね。どこまでみんなが信じるかです」

「ああ、それか……お前さんのとこだけじゃなく、他の部署や市警も関わってるしな」

 この件に関して言えば、彼女自身が信じても他の幹部たちが信じてくれないと無理である。

「どのみち、急すぎて事前の大規模展開は無理でしょう。ただし元よりあの周辺には最大の警戒を向けていますので、ある程度人員を増やすことは可能です」

「まあ、そこまで来ると民間人の俺が口を出せる領域じゃない。そっちの判断にまかせるさ」

「分かりました。……現場をかなり空けているので、これで失礼します」

 そう言うと、シェリルは来た時と同じように一気に走り出した。

 境内にふたたびつむじ風が舞った瞬間、既にその姿はかき消えている。

「……ねえ、啓一さん。さっきの話、正直なところどうなのかしらね」

「一応根拠はしっかりあるし、説明もつくしな。確率は高いと個人的に思う」

 不安そうなサツキをなだめるように言うと、啓一は、

「もっとも、いい方に外れてくれることを願うがな……」

 ぽつりと言った。

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